053_何気に

人の顔は実に不思議だ。

ちょっとした造作の違いで様々に印象が変わってくる。

場合によってはかなり変わる。

マンガでも、たくさんの人を書き分けるのが大変なのか、同じ型から微妙に違うものを書き分けて登場人物を書いている作品がありますね。

あまり、個性を強調した誇張表現(デフォルメ)を作り出すのも、アイデアが無尽蔵にわいてこないと難しいんだろうな。

人の顔は無尽蔵に個性的に分かれているが、それをマンガとして描くのは本当に難しそうだ。

この実物と描写の根本的な違いは何なのかな。

ただ、映像として目に映るものだけではなくて、何か雰囲気なりが微妙に影響しているのかな。

描写という抽象化以外にどんな理由があるんですかね。

ちょっとわかりませんね。

ただ、実物の人間は摩可不思議としか言いようがないな。

052_外連味

ユーチューブで、AI ではなく意図的に上がってきた動画なのかどうかはわからないが、元テレビD さっきーチャンネル というチャンネルの動画を見た。

個人的には非常に見やすい好感の持てる動画だった。

雑味が一切なく、必要不可欠な内容以外は、時間も、余分な演技も一切なく(*)、挨拶も、最後に一瞬出るマメ知識掲示板(?)みたいなものを除けば、「ありがとうございました」であっさり終了。

実に外連味(けれんみ)がなく、スッキリとしている。

すべてにわたって、簡潔にして、要点を尽くし、文句のつけようもないほどに無駄がない。

普通にありがちな未練や余韻といった類いのものが一切感じられないので、その点では、きわめて男らしい動画と言えるだろう。

とにかく、内容での真っ向勝負のまさにお手本と言うべき動画になっている。

この人は、一流大学出ではないと自ら書いてあったが、そんなのはまったく関係ないよね。

内容の可否は別にしても、一切の自己顕示欲がなく、まったく雑味を感じさせない、事務的、かつ内容一辺倒に徹しているという意味では、本当に素晴らしい動画だ。

前に、恋愛ネタのマミ先生に驚かされたけれど、その他にも、車ネタ、スピネタをはじめとして、世の中には、地の頭の良い人や話の上手い人が、結構いるんだな、とよくわかる。

しかも、こうした人達は、かつてのテレビで時々見かけた、滑舌が悪く、しゃべりがたどたどしく、語尾がはっきりせず、何を言っているのかわからずに、イライラさせられることがまったくない。

実に洗練(?)されている。

最近は、まったくといっていいほどテレビを見ないからわからないけど、これじゃあテレビ出演者はかなわないんじゃないかな。

外国人さんにしても、日本滞在 2、3 年ぐらいで、かなり聞きやすく話せるユーチューバーさんが何人もいる。

かつての外国人訛(なま)りのあったテレビ出演者と比べると、優れているような気がするな。

時代の移り変わりは本当に早いですね。

マスコミとしての特質というか制約は残しつつも、かなり多様化が進むと、このようになるんですね。

かつては、書籍や雑誌を読んでやっと探り当てた内容が、動画の中にあっさり入っていることもしばしば。

いやあ、便利になりました。

~~~~~

・外連味~けれんみ~俗受けをねらったやり方。はったりやごまかし。
(用例)外連味がない。

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(*)さっきーさんは、意識的にそうしているのかどうかはわからないが、私にはそう見える。

他のユーチューバーさんは、必ず余韻を残したり、表情一つをとっても演技が入るように見えて仕方がない。

その点、さっきーさんは、こうした無駄(?)を徹頭徹尾排除して、視聴者の側に立った実利一辺倒の、ものすごく良心的な動画を作っているように見えるのだ。

動画の始めの導入部(イントロ)もやたらに長いと、私は短気なせいか、イライラしてしまう。

デーブ大久保さんが動画で言っていたが、少なくともイントロは本当にあのくらい(デーブ大久保さんの動画くらい)短い方が、私には見やすくて助かる。

あれもやはり、視聴者側に配慮した良心的な作りと言えるだろう。

051_一端

以前のもの ( 039_望み3 - おぶなより2 ) に書き足したのがかなり長かったので、改めて別に再度書くことにする(改変あり)。

女性特有の「私は美しい」という強い思い込みについて。

(前略)

・・・まあ、そういう意味合いで言えば、男性側にも責任の一端(いったん)はあるのかもしれない。

女性固有の美しさに惹かれてにせよ、女性の体を求める下心からにせよ、女性をチヤホヤする男性が一定数存在する限り、女性に自分こそは特別だ、選ばれし者だ、もちろん、自分は女性として男性を選ぶ権利が当然のようにあるのだ、と勝手に思い込ませてしまうからね。(*1)

そんなこんなも含めて、日本では、最近は特に優しくおとなしい男性が多いせいか(?)、女性ばかりが、チヤホヤされやすいと思われてならないですね。

このような、いわば、絶対的な要因と自らのやや真善美から外れる業想念的な要因、男性に比べての多めな自らを中心とした独特な世界観も相まって、「私は美しい」と思う傾向が、かなり強くある。

男女ともに、悟りを開けていない以上は、誰しもがナルシストである部分はあるけれど、その度合いが男性と女性とでは、著(いちじる)しく異なっていると考えられる所以(ゆえん)だ。

従って、基本はあくまでも A だが、B が女性の場合には、かなり強く押し出されている。(*2)

そう考えられる。

女性が克己心(こっきしん)が足りないために、現実を見据えることができて、婚活などで最適解がすぐに出せるはずなのにそうはしない、のように書いたのは、この捉え方なら、A という絶対理性にもとづく判断を、B という肉体にまつわる業想念が抑え込んでいる、くもらせている、わかっていながらに見て見ぬ振りをしている、ということだ。

~~~~~

(*1)選ぶ権利は男性、女性ともにあるよ。

女性にそうした権利がないと言っているのではない。

ただ、上記のような理由により、女性は自分達だけが一方的に男性を選べて当たり前だ、という思い込みや態度が不適切だ、と言いたいのである。

もしも、気に入らない男性ならば、選ばないのは当たり前だ。

今は自由だからね。

距離を置くことも致し方ない。

しかし、そこには人としての最低限の敬意は払うべきだ。

たとえ、好みの男性ではなくても、バカにしたり、失礼きわまる態度をとるのは絶対に避けるべきである。

どうしても嫌なお相手なら、毅然(きぜん)として一線を画して、矜持(きょうじ)を保つような気高い(けだかい)振る舞いをすることだ。

つけ入らせる隙(すき)を絶対に見せないようにすればいい。

しかし、それ以外のお相手に対して、奢(おご)らせて当たり前、エスコートまがいの細かな気配りをさせて当たり前、のように、互いに尊重し、譲り合い、協力し合う姿勢がまったく見られないのは、一体、どういう訳なのか。

外国人の男がどうのこうのなんてどうでもいい。(*1ー1)

関係ない。

ここは日本だ。

私達は日本人だ。

私達はあくまでも神性を元に考えるべきである。

日本は神の国だとは、こういうことだ。

神様が肉体人間を男性と女性に分けて世代を引き継がせていく形(=有性生殖)をとっているのだから、片方だけを一方的に召し使いのように奉仕させるのは、間違っているとしか思えない。

私達肉体人間は動物的な側面を持っていても、動物そのものではない。

明らかに、動物とは違う。

あくまでも、神様のお命を直接に頂いて生きている、気高く、尊い存在だからだ。

ここが、普通の動物とは根本的に違う。

神様ならば、どのようにお考えになるかを、僭越ながら、想像させて頂くとすると。

あなた方は、みんな私の命を分け与えた、私の子供です。

あなた方は、みなその本質においては私の子供の兄弟姉妹に他なりません。

男女一対の夫婦として、子孫を残し、寿命が有限の肉体人間としての世代を引き継ぎ、この世を、この地球をより良きものにしていくためには、夫婦となる者同士は、お互いに尊重し合い、協力し合い、奉仕し合っていかなくてはなりません。

このように、おっしゃっられるのではないだろうか。

神様が、わが子としての肉体人間としての男女を見た時に、両者の関係として、一方的な支配従属関係や、かたよった奉仕関係を望まれているとは、到底、考えることはできないのだ。

それぞれの持ち味や個性をいかしながら、協力し合うことを望まれているはずである。

ということは。

男性、女性ともに、お互いに奉仕し合い、協力し合っていくことこそが、あるべき形であり、これこそが当たり前じゃないか。

女性の人達が、なぜ、このことに気づかないのか、このことがわからないのか、本当に不可解で、不可解で、不可解で、しょうがないね。

考えてもみてほしい。

椅子を引く。

道路側を歩く。

こうした、これ見よがしで、わざとらしい行為が、霊性が開発され、ごく自然になされる行動の一環ならまだいい。

まだ、救いがある。

しかし、わざわざ、意図的にこうしたことをする。

私は男だからなのかもしれないが、こんなのは、カッコよくも何ともない、としか思えないね。

「何だ、あれは?」としか思えない。

体が辛(つら)そうで困っているお年寄りに、ごく自然に手を差しのべる。

お手伝いをして差し上げる。

これならわかるよ。

しかし、若くて(若くなくても)健康でピンピンしている女性に対して、なぜ、わざわざこれ見よがしに大事にする素振りをするのか?

私に言わせれば、こんなのは不必要だ。

明らかな身の危険があり、守ってあげなければならない極端なケースは別だろう。

しかし、そうでもないごく一般的なケースに、これ見よがしに奉仕する。

健康体の人間に対して。

私には不可解でしょうがない。

「女性にお姫様気分を味わわせること」
と、
「この世を感謝一念で生き、男女ともに気高く、お互いに奉仕し合うこと」

どちらが大切なことなんですかね?

確かに女性は生理・妊娠・出産・幼少期の子育てと大変だ。

しかし、だからといって、それだけで男が固有に担わされる様々な重責を、すべてなぎ倒す理由としてしまっても、果たしていいものですかね?

本当にわからない。

身体が健康で丈夫ならば、こうしたことは自らやるべきことではないの?

力仕事やどうしても男手(おとこで)が必要な時(しかも、常軌を逸しない範囲で、やむを得ない事情あり、という条件つき)に、助けを求めて、協力してもらえばいいだけの話ではないの?

自分でできることは自分でする。

足りないところを補い合い、協力し合えばいいだけの話ではないの?

なぜそれができないの?

なぜそれがわからないの?

本当に不可解です。

これは仮説だが、日本人の男性に元々過剰なレディファーストの習慣がないのは、このような神性の発想が無意識に根づいているからではないだろうか。

気が利(き)かない。

女性特有の心理に疎(うと)い。

この根っこにあるのは、お互いにできることは自分でして、補い合えることは補い合うべきだと、自然にわかっているからではないだろうか。

過度な封建制やマザコンは論外としても、日本人の特に男性には、脈々とこうした発想が無意識に受け継がれてきている。

他にも日本人特有の霊性の高さが反映されているものがあると思われるのだが、今回は省く。

(*2)神様の分け命を頂いていることから、誰しもがそなえている判断力を A として、「自分は美しい」と思い込む自己肯定感を B としてある。

A は B よりも上位にある。優先順位で言えば、間違いなく A が上だ。A がすべての元であり、はじまりであり、あらゆる判別に優先される。

なぜならば、これこそが、私達肉体人間が、神様の分け命である分霊(わけみたま)を本質とすることに他ならないからだ。

だから、B は、第 2 の優先順位となる。

実は、B は、女性だけの専売特許という訳ではなくて、男性にもある。

ただし、その程度の差が、男女で著しく異なっているだけ。

~~~~~

(*1ー1)海外の人(特に女性)が言う海外特有の安全性の話(襲われる危険があるので、夜道を女性 1 人で歩けない)も絡んで、こうした騎士的な態度が尊重される側面はあるかもしれない。

治安という点では、女性だけに限らず、男性でも窃盗など日本とは比較にならないぐらい、海外では注意を払わなければならず、油断ができない事情もある。

しかし、本来ならば、こうした治安が悪い状態が常態となっていることの方が、おかしいのである。

人間は普通の動物とは違う。

あくまでも、神様の分けられたお命である、分霊を本質としている存在であり、地球さんなら地球さんのあらゆる生きとし生けるものを、取りまとめて調和させていくお役目を授かっているはずの存在なのである。

そのように、本来は気高く生きなければならないはずの人間を、調和・共存をはかるどころか、ただ生きるために食物をはじめとした物質は他の人間から奪えばいい、性欲を満たしたければ、ただ異性(女性)を襲えばいい、ということが人間の本来のあるべき姿であるはずがないではないか。

それに、別段、日本だけが犯罪が皆無な訳でもないし、日本を絶賛する海外の方が、まったくと言っていいほどに知らない日本固有の深刻な問題が、いくつもある。

ただ、これについては書きたくないので、書かない。(*1ー2)

治安の良さも、街の清潔さも、社会の秩序正しさも、様々な要因が(摩訶不思議に)複雑に絡み合って、ここ最近とみにまとまり、高められてきた印象がある(*1ー3)。

日本を大絶賛する海外の方は、おそらく、日本が今現在の状況に至るまでのこうした経緯を知らない。

そうした意味では、日本に生まれたこと、そして今の時代に生まれたことは、それなりにかなりありがたい意味があることは、確かにある。

また、外国人さんは、一時的にはかなり外見で見映えはする時期があるかもしれないが、それだけがすべてではないですよ。

日本人には、霊性が落ちてしまったかもしれないが、日本人なりの固有の良さがあるんです(今は多少変わりつつある過渡期に差しかかっている可能性が出てきているのかも知れないが)。

これについても、書きたくないので、書かない。

~~~~~

(*1ー2)あえてほんの一例をあげると。

日本に好感を持って下さっている海外の方には申し訳ないが、表面的なお付き合いだけではない、日本に根を下ろして暮らしていくには大変な問題がいろいろある。

個人の価値観にも依(よ)る問題であるが、子供を大学に進ませ、卒業させることすら、今や容易ではない状況からしても、長い目で見た場合に、家庭を持ち、家族を持ち、日本で暮らせる、即、天国、安心して優雅(?)な暮らしができる、即ハッピーとはならないからだ。

(*1ー3)街のきれいさの例としては、ゴミのポイ捨て、タバコの吸い殻のポイ捨て、唾(ツバ)の吐き捨てなどが、ほとんどなくなったのは、おそらくここふた昔くらいである。(*1ー4)(*1ー5)

オウム真理教事件に関係したゴミ箱の撤去などもかなり影響していると思われる。

フードコートのテーブルや椅子、床、そしてトイレが、相当きれいになったのも、ここ数年くらいだと感じる(以前は、前の人の食べ残しカスや、こぼれた液体などで、テーブルや場合によっては椅子や床などが、結構汚れたままのことが多かった。私は何回かこうした状態に出くわしてから、ポケットウェットティッシュとポケットティッシュ、そしてビニールも持参して、事後に片付けてきれいにしてから帰るようにしていた(備え付けのフキンが薄いばかりでなく、ビショビショだったり汚れたままのことも多かったので)。

少ししてから、これをしないでもきれいになるようになってきた。

だから、本当にきれいになったのはここ最近(数年?)なのではないか。

なお、ゴミは捨てることができるゴミ箱が見つかればそこへ捨てた。

しかし、可燃物や不燃物などの該当するゴミ箱が見つからない場合には、やむを得ずゴミの持ち帰りをしていた。

ただし、当たり前だが、完璧とまではいかない。

ユーチューブにあがっている典型的な日本バンザイ動画(?)によくあるような、あんな手放しでほめまくるまでには至っていない。

それなりに行儀の悪い人はまだいるからだ。

落書きもある。

街の浄化は、いろいろな事情が絡み合って、少しずつ少しずつ改善されてきた。

引き続き、皆様の想いが浄化され続けることを願う。

~~~~~

(*1ー4)タバコの吸い殻のポイ捨てがほとんどなくなってきたのは、2002年11月から東京都千代田区から始まった歩きたばこ禁止条例により違反者に対しての過料徴収が広がったことが大きいはずだ。

ポイ捨てもそうだし、以前は通勤時の歩きタバコ副流煙もかなりあった。

私はタバコを吸わないのだが、近しい者に愛煙家がおり、彼らにとってはここ十数年くらいで、どんどん片身が狭くなり、喫煙が容易ではなくなってきている経緯を見てきた。

こうしたこともあって、タバコのポイ捨てがかなり減ったと思われる。

だから、いろいろな摩訶不思議な成り行きと日本人の独自の国民性とが相まって、街の浄化が進んできたと思われるのだ。

(*1ー5)地面への唾(ツバ)の吐き捨ては、個人的に避けて頂くことを強く願う。

ペッと地面(や床)に唾を吐くことは、大地である、地球さんに、唾を吐きかけていることに他ならないからだ。

天に唾すると同じように、地に唾するのもダメなのである。

すべてのありとあらゆるものに感謝すべきことに思いを巡らせば、地に向けて唾を吐くことが、いかに罰当たりで不遜な行為かがわかるようになるからだ。

歩いて、寝て、をはじめとして、私達人間生活のありとあらゆる基盤を提供して下さっている地球さんに唾を吐くことになり、ひいては、すべての創造主の神様に対して唾を吐くことになることに他ならないからだ。

詳しくは書かないが、個人的な経験も踏まえて言うと、大地(や床に)向けての唾の吐き捨てをする行為に対する報いは、かなり重いものとして返ってくると感じるんですよ。

もちろん、他人に対して唾を吐きかけるのも論外中の論外ですよ。

たとえ、その他人が、どのような過去世の因縁によりこの世に悪くあらわれていようとも、その肉体人間としての本質が神様の分けられたお命である以上は、絶対にしてはならない行為となるからです。

なぜならば、過去世の因縁として、今生で起こされたものでない限り、他人に唾することは、神様の分けられたお命を本質とする者=主体としても為(な)してはならない行為であり、唾を吐かれる客体としてもあってはならないことになるからです。

神様の分けられたお命を本質とする以上は、肉体人間は本来気高くあらねばならない所以です。

050_渡り3

極端なことを言えば、世の中を真に思い通りに良くすることができるのは、悪の心を取り除いた元祖魔人ブウ(界王神達を吸収していない元々の小柄な魔人ブウ)のような者しかいないとしたが、実はこれだけでは足りない。

彼(?)のような生物(?)は架空の存在であり、そもそも調達(?)すること自体が不可能だ。

そして、仮に調達(?)できたとしても、言うことを聞いてもらえず、協力してくれるかどうかはわからないし、協力してくれるとしても、この世でのすべて想いと行いを矯正すべく、その償いをさせるに当たって必要となる想いと行いの点数簿となる成績表、つまり、あらゆる人に対しての閻魔帳が必要となる(過去世までさかのぼるとキリがなくなるのでとりあえずは今生のみとしても)。

次に、因縁因果の清算が済んだ後に、社会の再構築をするための青写真も必須となる。

加えて、そのために必要な人員の適材適所の配置などやらなければならないことには枚挙にいとまがない。

つまり、実質的には、世直しやその後の社会の再構築の実現の可能性がまったくない、ということ。

じゃあ、どうすればいいのか?

そこで、神様という存在の可能性を 3 つに分けて考えて前に ( おぶなより ) で書いた。

まあ、私としては、神様を信じる以上、祈り一念でやっていくしか、やりようがない、と考える訳です。

これでダメなら仕方ないな、と思いますね。

ましてや、唯物論でのその場限りの場当たり的な善悪の判断で、やいのやいのやっているだけでは、まったくお話にならないですよ。

まあ、世の中をよくよく見ると一縷の望みはないことはないので、あまり否定的なことは書かない方がよさそうだ。

049_渡り2

いくら私達の本質が神性で、すべてに真っ正直に生きたい、従って、何事すべて真実を知りたいと思っても、これを望むことはできない。

世の中の大半は自己保身その他が相まって、簡単には本当のことがわからないようになってしまっているからだ。

だから、世の中は建前だらけだ、と書いた。

私は数年前に、KS さんや、 SM さんといった方達のブログから、世の中をかなり深く俯瞰する視座を教わった。

SM さんのブログに紹介されていた、太田さん(思想家の太田竜さん)や鬼塚さん(鬼塚英昭さん)の本もしかり(鬼塚さんに関しては工作員だの何のという、KD さんという人もいたが、彼女には表舞台に立つ人の意味(固有の限界)が理解できていないようだ(ちなみに、KS さん、SM さん、KD さん、みんなはてなさん以外のそれぞれに異なるブログサービスを利用していた)。(*)

しかし、そのようにして世の中の有り様を深く俯瞰するきっかけが得られても、それにおんぶに抱っこという訳にはいかず、どうしても自分なりの再検討は必要になる。

まあ、そのようにして、どうにかこうにか一般的な建前とは異なる世の中の仕組みの本質をある程度理解できるようになったとしても、これに何の意義があるのか、と思うと空しくなってしまうのですよ。

極端なことを言えば、世の中を真に思い通りに良くすること(=世直し)ができるのは、悪の心を取り除いた元祖魔人ブウ(界王神達を吸収していない元々の小柄な魔人ブウ)のような者しかいない。

不死身で、何者にも侵すことのできない絶対的な力があり、天涯孤独で、良きことを実行するためには一切の執着を持たずに済み、何事にも冷徹にことを遂行することができる者でなければ、この任に当たることはできないのだ。

天涯孤独であるということは、身の回りにその身の安全を脅かされる関係者が一人もいないゆえに、心置きなく、後顧の憂いなく、世直しに邁進できるということでもある。

周囲に大切な人がいたら、思う存分腕を振るうことはできなくなってしまうからだ。

だから、天涯孤独であることと、やむなく関係者がいたら、その身の安全を保証することは絶対の要件になるのである。

これが実現できない限り、肉体人間個人が正しいと思う主張をして、これに対する賛同者を募り、それで世の中が良くできるなど、到底無理だとしか思えないのだ。

そんな生易しいやり方が通用するほど、世の中が楽天的にできてはいないと思われるからだ。

民主主義は、もちろんありがたい。

一般的な人々にとっては、封建主義や絶対主義よりは、はるかにマシだ。

しかし、その民主主義もやり方によっては、実質的に絶対主義のようにしてしまうことが可能な、非常に脆さきわまる制度なのだ。

所詮、肉体人間観に縛られた唯物論の思考を大半とする社会では、自己保身の制約を免れることは、できないからである。

だから、この世の矛盾や不都合でおかしなところをどんなにあげつらっても、批判しても、まったくと言っていいほどに意味がないことがわかってしまい、空しくなってしまうのである。

KS さんにしろ、SM さんにしろ、少し考えればこんなことは簡単にわかるはずだ。

だから、彼らが批判をやめない(今はまったく彼らのブログを見なくなってしまったので、どうなっているかはわからない。無論、KD さんのブログも)のは、気持ちはある程度理解できるものの、もしも彼らが本当にそうした甘い見通しを持っているとしたら、不可解としか言いようがない。

ちょっと考えれば、わからないはずがないからである。

強者が弱者をねじ伏せる。

あからさまではなくても、実質がこのようになっている世の中を変えることはできるのか。

自己保身に縛られ、唯物論の思考に染め上げられてしまっている人間には、まず不可能である。

今まで既得権益にどっぷり漬かってきた人が、批判されたから、良心の呵責に耐えかねて、ハイそうですかお説ごもっとも、と自らの権益を簡単に手放すことなどするだろうか。

するはずがない。

唯物論の思考では、誰だって自分の身の安泰が保証され、より良き暮らしができることを望むからである。

世のため人のためと自らを省みず、尽くすような生き方をしている人達は、おそらくかなりの少数派だ。しかも、こうした人達でさえ、別の目的を持った階層に巧妙に取り込まれ、結果として初志貫徹できないような仕組みになっている。

純粋に清く生ききろうとすれば、それこそ、初期仏教の出家修行者のようにならければならない。

従って、唯物論の思考で、生き方で、世の中を見ていく限り、もう、とっくの昔に詰んでしまっているとしか思えないのである。

弱肉強食。

強者必勝、弱者必敗。

世の中を唯物論の思考で見ていく、生きていく限り、この本質は揺るがない。

~~~~~

(*)私からすると、鬼塚さんの本は、かなりの大部で、難解きわまりなく、読むのに非常に苦心惨憺させられた(太田さんの本は内容はかなり難しいのだが、読みやすさは段違いにいい)。

中々、本題に入ってくれないことも多く、お世辞にも読みやすい本とは言えない。

少なくとも、読者の読みやすさを考慮して書いていないことだけは確かだ。

内容が内容だけに、諸事情のために、故意にわかりにくく書いていたのかもしれないし、わかりやすくは書けなかったのかもしれない。

実際のところは不明だ。

これは鬼塚さんしかわからないことだ。

とにかく、読みにくかった。

鬼塚さんの本をスラスラと読めて、その内容を漏らさず簡潔にまとめ、言外に鬼塚さんの言わんとする内容まで読み取ることのできる人は、かなり頭脳明晰であり、優秀な人と言えるだろう。

048_渡り

世の中は建前だらけだ。

おそらく、本音をモロにぶつけ合っていたら、争いが絶えず、世の中の秩序は保たれず、ガタガタになってしまうだろう。

まあ、保守的で村社会的な自制心の強く働く日本では、これはあり得ないと思うけどね。

真実を知りたい。

これは私達肉体人間が、自然に抱く感情だ。

騙されるのは嫌だ。

もちろん、騙すのはもっと嫌だ。

私達の本質は肉体人間そのものではなく、神様の分けられたお命。

神様の分けられたお命があるからこそ、肉体人間として生きていることができる。

ということは、私達肉体人間は、真善美に悖らない完全円満さをその本質に持っていることになる。

肉体を与えられ、自己保存の本能を追加付与され、たくさんの輪廻転生を通して、どんなに真善美に悖る想いと行いの業想念を積み重ねてしまっていても、虚偽(インチキ)は本質的に受け入れられないものなのだ。

虚偽を使い、受け入れるのが当たり前(?)であるかのように見える、因業人間やサイコパスは、業想念が深く、厚すぎて、こうした感覚を著しく曇らされているだけだ。

ウソも、騙しも、詐欺も、私達がこうしたインチキに嫌悪感を抱(いだ)くのは、神様の分けられたお命を本質としているからこそなのだ。

だから、人間は本当のことが知りたい、真実が知りたい、となるのだが、残念なことに、自己保存の本能のような自らの保身を第一義として、その近しい者だけの利益を最大化させるようになりがちなこの世、特に大半を唯物論の思考に染め上げられてしまっている、多かれ少なかれ競争を余儀なくされるこの世では、どうしても、建前やウソはつかないでは生きてはいかれない。

真っ正直に、バカ正直に生きてばかりいたら、孤高にはなれるかもしれないが、完全に孤立してしまう。

この厳しいジレンマをいかに克服していくのかが、肉体人間として私達に課せられた修行となり、様々な喜怒哀楽や艱難辛苦を経て、その神性を徐々にあらわしていくようになっているのだろう。

しかし・・・。

047_感謝

前回 ( 046_矛盾 - おぶなより2 ) の GG佐藤さんの話で思い出したんだけど。

硬球を扱った経験のある人ならわかると思うけど、速い球と強い打球は本当に怖いんですよ。

無茶苦茶怖い。

上手く捕れずに、体に当てるとものすごく痛いし、まるで鉄の球みたいなものだから。

速い球は、本当に多少浮き上がるような錯覚を覚えるし、ワンバン捕るのも容易じゃない。

グローブがあっても、軟球とは痛さがまるっきり違う。

完全に別物。

シューと音を立てるように向かってくる球や、地を這うようにものすごいスピードでくるゴロは本当に怖い。

芝や土のグランドだとイレギュラーがあるし、かといって人工芝の打球の速さは半端じゃない。

大体 135 km から 140 kmくらいの速さの球で、セカンドでキャッチャーからの送球を受けてみても、大袈裟にいうとキーンという感じで糸をひくように球が飛んでくる。

130 km 台でもかなり速いですよ。

だから、プロ野球でやっている人達は、本当に雲の上のような人達なんだな、と思う。

硬球は使い古したり、濡れたりすると滑るし、痛いし、やっている人は本当にすごいと思う。

それを踏まえると、あの GG佐藤さんの話は、松阪選手やズレータ選手や涌井選手が、いかにすごかったか、というシリアスな話になるんだけど、GG佐藤さんの話術にかかると、明るく笑い飛ばせてしまえるんですね。

久しぶりにたくさん笑わせて頂いてありがたかったです。