011_気高い

私は、前々回の ( 009_同じ - おぶなより2 ) で、一般的には、肉体人間の思考は現実化する、霊性的に考え直す・とらえ直すと、想いは輪廻転生を通して(=今生から来世以降へと世を隔てて)実現することに関して、注意すべきことを「穴モテ(あなもて)」という言葉の使用を例にとることで、ごく「軽く」考えてみた。

実は、あまり否定的(ネガティブ)なことを書いて、読まれる可能性のある方に、不安や恐れを抱かせるのが嫌で、かなり抽象的でほのめかすような書き方しかできなかったのである。

しかし、ハートカフェやパウラちゃんねるなどのコメント欄や、これら以外の男女の恋愛や結婚のあり方に関して書かれている一般的なサイトでは、相も変わらず「穴モテ」や「穴モテ」的なことを書く人がいるので、もう少し具体的に書くことにする。

本来なら書きたくはないのだが、ああしたことを軽々しく書く皆さんは、
私達肉体人間の本質が、
神様の分けられたお命(分霊。わけみたま)であること
=神様の子供であること
=神様そのものに他ならないこと、
を、あまりにも軽く見過ぎているとしか思えないからだ。

肉体人間が、
神様の分霊を本質とするということは、
肉体を本来は「気高い(けだかい)」ものであるがゆえに、
決して蔑(さげす)んではならないものであること、
そして、
そうした蔑(さげす)みが原因で、
輪廻転生を通して、
どのような厳しい結果が
もたらされるものであるか、
を、あくまでも「思考実験の範囲内」ではあるが、その可能性について考えてみることにする。

あそこで、私は以下のように書いた(改変あり)。

「穴モテ」という表現をすることは、

「女性にとって神聖な役割を果たす膣(ちつ)という器官を貶(おとし)めることになりはしないか? 」

「女性にとって神聖な役割を果たす膣という器官を冒涜(ぼうとく)することにはなりはしないか?」

と。

それは、具体的にはこうしたことだ。

以下のような可能性が考えられるということだ。

「穴モテ」という言葉は、

月経時に月経血の通り道になる役目を果たす膣という器官を、

男女の神聖な愛情の交歓としての役目を果たす膣という器官を、

そして、

神様から新たに授かる新しい命を生み出す産道としての役目を果たす膣という器官を、

結果的に蔑(さげす)み、貶(おとし)める言葉になる。(*1)

ということは、肉体人間の女性として生まれた時に、成長して愛情を育むお相手となる男性との愛情の交歓にかかわる、そしてその愛情の交歓の結晶としての妊娠と出産にかかわる、大切な器官となる膣を蔑(さげす)み、貶(おとし)めていることになるのである。

すると、どういうことになるか?

肉体人間の女性として、
愛情の交歓と妊娠と出産とにかかわる
大切な働きをする膣という器官を、
決して軽く見て蔑(さげす)んだり、
貶(けな)したりしてはならない、
ということを、

すなわち、
肉体人間としての
女性という性別に生まれついて、
その人生経験を通して、
膣という器官のありがたさ
(有り難さ=肉体人間の女性として生きていく上で、いかに膣が大切な器官となるかということ)を、
イヤというほど学習する経験を、
輪廻転生を通して
(=来世以降のいつの世かに女性という性別でこの世に生まれ変わり)、
積まなければならなくなる
可能性が出てくる、
と考えられるのである。

「膣欠損」という病気がある。

先天的に腟の形成がうまくなされず、さらに加えて、同時に子宮までもが欠損することがある病気だ。

こうして生まれついた人は、一体、どれほど自らの人生を嘆き、呪い、悲しむであろうか。

私は男なので、想像するのは容易ではないが、それでも、その苦しみ、悲しみ、嘆きは、想像するに余りある。

失望感、絶望感、虚無感・・・。

怒り、悲しみ・・・。

とても想像などしきれない。

おそらく、想像を絶するものがあると思われる。

私が見た限りでは、「穴モテ」を使っていた男性(穴モテ、非モテコミット、ルールズを書いていた男性)は、そんなことは微塵も想像できないような書きっぷりだった。(*2)

いい気になって(?)、平気でこうした言葉を使い、モテ談義を展開していたように見えた。

ハートカフェやパウラちゃんねるのコメント欄や、その他の一般的なモテ談義がされているサイトで「穴モテ」について書いていた男性達も、大同小異だった。

大差はない。

( 010_フェミさん - おぶなより2 ) で取り上げたフェミニストの女性(田嶋陽子さん。元大学教授で、元参議院議員)は、さすがに女性だけに、何となく事の本質がわかるのだろう、
「日本の男にとって、日本の女は「穴と袋」としての存在だ」
とする前に
「下劣で嫌な言い方になる」
と断りを入れていた。

何となく事の本質がわかるとは、意識の深層に神意識があるために、無意識ながらも神様から授けられた、女性としての存在と意義が理解できているということ。

すなわち、肉体人間の女性としてこの世を受けたということは、神様から分けられたお命を授かり、そのお命を大切に育(はぐく)み、この世に送り出すという、その前段階の生理からはじまって、負担も大きく大変なお役目ではあるけれど、
「神聖な役割」を
「神様から授けられていること」
が、(結婚の有無にかかわらず)無意識にわかっているということである。

だから、肉体人間の女性として神様から授かった、この大事な「お役目」を果たしていく上で、肝心要(かんじんかなめ)となる役割を担う「膣」という器官は、大切な器官に他ならないのであり、絶対に蔑(さげす)んだり、貶(けな)してはならないことも、無意識ながらもわかっているということ。

しかし、
これは深層意識の神意識からかすかに、
無意識的にわかる程度にしか過ぎず、
あんな表現(「穴と袋」)をするのは、
すなわち、
本来ならば、
神聖な月経血の通り道となり、(*3)
神聖な愛情の交歓の場ともなり、
産道としての神聖な役割をも果たす
「膣」を単なる「穴」と表現し、
同じく本来ならば、
神聖なる妊娠の働きを司る
「子宮」を単なる「袋」と表現することは、
つまり、
肉体人間の女性を
「穴と袋としての存在」と
貶(おとし)めた表現をすることは、
間違いなく、
神様の分霊を頂く肉体人間としては、
愚かきわまる、
絶対に禁忌すべき行為
となるのである。

彼女は女性だけに、それを何となく感じとれていただけ、ということだろう。

だから彼女は、
「下劣で嫌な言い方になる」
と断りを入れた。

つまり、彼女の深層の神意識では、肉体人間ならば、男性はもちろんのこと、ましてや、当事者となる女性としては、あのような「穴と袋」などという、肉体人間、中でも、神様がその分けられたお命=分霊=霊なる人間を肉体に宿らせるためにおつくりになられた、男性とともに有性生殖の一翼を担う、大切な働きをする肉体人間としての女性の尊厳を著しく貶(おとし)める表現をすることなど、絶対にしてはならないことだ、とわかっていることに他ならないのだ。

これと同じように、

女性が性交渉(セックス)をした相手の男性を蔑(さげす)み、「粗チン」と他の人に話せば、
その女性は、(過去世の因縁でない限り)来世以降のいつの世かに、「粗チン」と呼ばれるような生殖器をそなえた男性として生まれつく可能性が出てくるだけではなくて、
(そのように生まれついた場合には)
男性として生きていく上で、様々な劣等感(コンプレックス)を抱かされ、悩まされる経験を積まなければならなくなる可能性が出てくることになり、

「ブス」、「ゲソ」、「キモメン」と、異性を蔑称(べっしょう)した者は、
(過去世の因縁でない限り)来世以降のいつの世かに、そのような容姿を持った者として生まれつく可能性が出てくるだけではなくて、
(そのように生まれついた場合には)
そのような容姿を持って生まれついた者としての様々な悩みや苦しみを味わう可能性が出てくる、

ことになる。

つまり、こういうこと。

私達肉体人間は、その本質が神様の分けられたお命=分霊(わけみたま)という、真善美に悖(もと)らない、愛に満ちた存在である。

霊なる人間としては、その本質は神様に他ならないのだ。

神体としての(神界での)姿も
それぞれに個性を持ちながらも、
男性ならば眉目秀麗、
女性ならば容姿端麗、
となっているはずである。

従って、
肉体をまとい、
自己保存の本能を与えられたために、
どんなに利己主義に傾きやすい性向があったとしても(ましてや、利己主義に振り回され、狂奔していたらなおさらのこと)、
その本質(=神様の分けられたお命=分霊)に反する、
あるいは、
相応しくない想いと行いをしてしまったら、
これはすべてなかったものとして
清算(=こうした行いを今生でしてしまったら、来世以降のいつの世にかの償い、つまり、輪廻転生を通しての償い)
をしなければならなくなるのである。

魄要素(ぱくようそ)としての肉体それ自体も、神様によって私達各々に固有に与えられた大切なものに他ならないのだ。

決して
粗末にしたり、
傷つけたり、
蔑(さげす)んではならない
ものとなるのである。

従って。

想いと行いの相手方がある場合ならば、
輪廻転生を通して、
(不可抗力によって)否応なしに
主客転倒して
そっくりそのまま逆の立場に置かれる
(=そのように生まれつく、あるいは、そのようにして対峙する境遇になり、
この世で巡り会う)ことになり、
あたかも罰を受けるような形で、
自らが過去世において
相手に対して行ってしまった、
真善美に悖った想いと行いの償いを
しなければならなくなるのである。(*4)

しかも、
その原因となる過去世の記憶は
消された状態となるために、
いわば、
身に覚えのない罪を償わされるような
不条理な形(=厳しい形)で、
なのだ。

神様の分けられたお命を、
(普通の動物とは異なり)霊魂魄の霊として直接に頂いているということは、
肉体をまとって神体から自由を著しく制限されることにはなっても、
その想いと行いには、
相変わらず厳しい神様の子供としての
「気高さ」が求められる。

肉体人間として
神様の分けられたお命を
直接に頂いているということは、

普通の動物にはそなわっていない
神様の分けられたお命を
直接に頂いているからこその
知恵と創造力を特別に授かっている
ということだけではなくて、

肉体人間としてのそのあり方にも、
他の一般的な動物とは異なり、
気高く尊いものが求められてくる、

ということなのだ。

肉体人間の想いと行いとして、
真善美に悖り、
神様(の子供)として
相応しくない想いと行いをしてしまったら、

その在世当時の記憶は消された上で、
来世以降に償うという形で、
肉体人間としてのあり方を、
その本質である
神様の分けられたお命=分霊
を映した形に相応しいものとするために、

すなわち、
霊魂魄についた
そのような神様(の子供)として
相応しくない想いと行いを
為(な)したためについてしまった
魂の汚れを浄めるために

そのために必要となる
霊魂魄に染み込むような
様々な肉体上の厳しい体験を積むことを
余儀なくされることになるのである。

何と厳しく恐ろしい仕組みなのだろう。

輪廻転生というのは。

しかし、こうした仕組みを、自らの神様(仏様)としての本質をあらわすために、救いとって下さるためのおはからいだ、何とありがたいことか、のように素直に感謝することのできる敬虔な信仰者がいた。

それが、仏教の浄土門に見られる妙好人と呼ばれる、源左さん、才市さん、宇右衛門さんといった人達なのである。

彼らが、自らに起きてくる不幸や災難を、ありがたく感謝していたのは、このように考えられるのだ。

彼らにとっては、輪廻転生という仕組みは、決して厳しく恐ろしいものではなく、み仏が罪悪深重の凡夫である自分達を救いとって下さるためのありがたいおはからいだ、み仏のありがたいご慈悲をあらわすものなのだ、と認識していたことになる。

これは、このような愚かで至らない罪悪深重の凡夫(源左さんは泥凡夫とまで言っていた)である自分達でさえも、み仏は決して見捨てることはなさらずに、み仏の子供として救いとろうと、過去世の悪い因縁(業想念)をこのような今生の現在のような形で、消し去って下さっている(=過去世の真善美に悖る想いと行いについての償いを、今現在のこのような形で償うようにして下さっている)のだ、ああ、なんとありがたいことか、という意味合いである。(*5)

以上、

あくまでも「思考実験の範囲内」ではあるが、

「穴モテ」について、

その言葉を使うことが、
霊的にどのような意味を持つことになるのか、

そして、

それが輪廻転生を通して、
私達の人生にどのような形となってあらわれる(=反映される)可能性があるのか、

について考えてみた。

これを読まれて、どのようにお感じになるかは、読まれた方(の過去世からの因縁因果)次第だが、
「穴モテ」、
「穴と袋」、
「粗チン」、
「ブス」、
「ゲソ」、
「キモメン」、
といった言葉を、決して使わないように、切にお願いしたい。(*6)

(追記1)
このように具体的に書けば、私が ( おぶなより ) で、ゴブチ(私が勝手に作った造語)としておいた、傲慢や侮蔑や嘲笑(冷笑含む)をあらわす言葉や表現を使わないように懇願していたこと、そして、「バカ」、「アホ」、「グズ」などの言葉を使わないように書いていた意味も、ある程度はご理解して頂けるはずである。

今回は、「穴モテ」という言葉を用いることに関して、あくまでも「思考実験の範囲内」ではあるが、輪廻転生を通して起きてくることの可能性も含めて、肉体人間としての想いと行いについて考えてみた訳だが、残念なことに、本来ならば気高くあるべき男女の愛情の交歓と生殖としての性交(=セックス)という行為の本質を踏みにじる、肉体人間の想いと行いの悪質な事例が、これ以外にも実際の現実の行いが存在するのである。

その典型的な一例となるのが、今生で何も報いらしきものが来ないからと、たくさんの女性を選り好んで、やりたい放題にセックスをしまくり、遊んだ挙げ句に相手の女性を用済みとして捨て去る、いわゆる「ヤリ捨て」と言われるきわめて悪質な蛮行だ。

五股も六股もするイケメンの話(女性談)があるが、ああした行いがそれに当たる。

そうして、上澄みをかすめとるように、若い美人を、恋人(彼女)や配偶者として選びとるヤリチン男性のような行動も、どれだけ道に外れたものかもわかるはずだ。

せっかくの過去世のいくつもの輪廻転生で、ようやく築き上げてきたはずの容姿(イケメン)も社会的な適応能力も、こんなこと(性欲や制服欲)のためだけに使ってしまう。

今生で(今のところ)何も報いがありはしないからと。

たかをくくっているんだな。

だから、傲慢になっているんだ。

しかし、霊性の観点からは、愚かさきわまるとしか、いいようがない。

何が狩りか。

こんなものは人間が生きていく上でやむを得ず食料調達をするための狩りとは異質だ。

子孫を残すためだとしても、相手が複数以上で、見境がなければ、言い訳にもならない。

見境のない、貞操観念の崩壊したヤリマンの女性も同様だ。

肉体人間の本質が神様の分けられたお命である限り、男女の愛情の交歓としての行為(=セックス)と、人類の世代の引き継ぎのための生殖しての行為(=セックス)には、それなりの神聖な意味が求められてくることになるからだ。

よって、私達肉体人間は、ライオンやお猿さんのような、その本質を魂魄だけとする、ただの動物とは同列に扱うことはできず、その性行動を欲望の捌け口のように軽んじて、デタラメの限りを尽くすことは許されていない、ということになる。

つまり、神様の分けられたお命を本質とした肉体人間としての性行動には、男女それぞれに、神様の子供としての気高いあり方が求められてくる、ということなのだ。

よって、
男女の放縦・奔放な性行動はダメだし、
さらには、
男性だからこれくらいはいいだろう、
女性だからこれくらいはいいだろう、
という放埒な性行動に対する
免罪符もない、
ということになるのである。

従って。

今生の行状と、過去世の因縁との兼ね合いにもよるが、
こうした
「身勝手なセックスのヤリ捨て」

「野放図なセックスのヤリまくり」
といった行い(もちろん、男女の性別は問わない)が、自らの来世以降に向けてどのような影響があるか、報いをもたらすかは、私が書いたことをヒントに、ご自分でよく考えてみることだ。

パウラちゃんねるの「ハハッ(笑)」とされているものは、紛(まぎ)れもなく嘲笑だよ。

私のブログは超場末のサイトだから、パウラちゃんねるの作者さんの目にとまることはあり得ないのだろう。

前にも嘲笑について注意すべきことを書いたことがあるのだが、まったく変わらなかった。

それどころか、パウラ以外にももう 1 人の美少女キャラクターまで登場させて、嘲笑を 2 倍にまでしていた。

パウラちゃんねるの作者さんが、私のブログを見るはずもないだろうが、それにしても、やんわりとした警
告 ( 009_同じ - おぶなより2 ) を書いたすぐ後に、よりによってあれとはな・・・。

まるで、私のことを嘲笑(あざわら)っているかのような成り行きだな。

どうにもならないね。

もしも万が一、私のブログを見た上で、あてつけるかのように、ああした(嘲笑する美少女を 1 人から 2 人に増やした)のなら、本当にどうしようもない。

もう、行き着くところまで、行き着くしかないのだろう。

ああして、嘲笑をすることで、コメントをする人にまで、「ハハッ(笑)」と嘲笑を真似する人がいたからな。

つまり、「ハハッ(笑)」とパウラに笑わせることは、嘲笑といった霊性上、輪廻転生上、絶対に忌避しなければならない行為を、あの動画を見る人達に広めてしまっていることになるんだ。

「嘲笑」が輪廻転生上どれだけ重い意味を持ってくるのかは、ジナ・サーミナラ著の「転生の秘密」(たま出版)を読めばわかる。

実は、エドガー・ケイシーについては、信頼性に疑問符がつくところが多々あるのだが、霊性面の参考になる点はそれなりにある。

しかし、私は本当はこれを皆さんには読んでほしくないのだ。自分がこれを読んだ時には、それまでの自らの言行を省みて、大ショックを受けたからだ。

愕然としたんだよ。

だから、強いておすすめはしない。

読まなくても、わかってほしいのだよ。

ちなみに。

あれを読むとわかることは、
たかが言葉一つじゃないか、
たかが笑い一つじゃないか、
たかが仕草一つじゃないか、
とは決して言えなくなるということ。

その言葉や笑いや仕草に込められている想いが悪ければ、輪廻転生上は思いもよらない、とんでもなく重い報いが返ってくることがわかるのである。

輪廻転生?

生まれ変わり?

そんなもん、知らん。

仮に、輪廻転生があったとしても、来世なんか、その時になってみなきゃ、わかりっこないじゃないか。

今わかりっこないんだから、関係ないさ。

報いがあるものだとしても、そんなものは後で受ければいい(?)。

今はその時(来世)ではないのだから、今のこのチャンスをほしいままに貪(むさぼ)るだけだ。

と考えるのは、各人の自由(というか、各人の過去世からの因縁因果次第)だ。

読まれる方のご判断に任せるしかない。

そりゃそうか・・・。

非常に残念なことではあるが、今生(今回の人生)で、凄まじく厳しく重い病気などの報いが、間髪を容(い)れずにすぐに来て、辛酸を嘗(な)めることがなければ、圧倒的大多数の人はこうした意味合いを、身をもって真から実感することができないからだ。

こうしたことの理解ができる人は、それなりの過去世の経験を積んで来た人か、神性に適った霊的な修行を積んで来た人か、今生で散々に苦労を重ねた人(こうした人は他人の苦しみをわがものとして慮(おもんぱか)る気持ちを抱ける場合がある)か、身近で大事な家族に重い病気などを患っている人でないと、おそらくなかなかピンとはこないだろうと思われるからだ。

話を戻すと。

よく考えてほしい。

いくら世の一般的な女性や婚活女性を悪く言っても、霊性上は、何一つ良いことなどない。

世界平和の祈りをすることと、彼女達の天命がまっとうされるように祈ること。

これ以外にして差し上げるべきことはないのである。

それだけではない。

パウラちゃんねるなどを批判する行為も同様だ。

批判も非難も説教も、ほとんどすべてが真善美に悖る想いと行いの業想念だ。

口汚く罵(ののし)れば、罵るほど、悪い想いと行いは深くなる。

いわば、あがなうべき罪は重くなる。

批判、怒り、怨(うら)み(恨み)。

ダンマパダ(法句経)にある通り、これらの業想念は、争いでは鎮(しず)まることはないのである。

つまり、論駁はダメだ(=当事者を含めて世の中の因縁因果を悪くすることにしかならない)、ということ。(*7)

これらは、過去世の因縁としてのあらわれとしてのものではない限り、すべて、輪廻転生を通して、なかったものとして、各自がその人生を通して償わなければならなくなるのである。

それも、これも、すべては上述したように、私達肉体人間が、真善美に悖らない完全円満な神様の分霊を本質としているところから来ている。

ライオンやお猿さんといった動物では、おそらく、ここまで、気高く、高潔な姿は要求されない。(*8)

これが、私達肉体人間が、普通の動物が魂魄(こんぱく)を与えられているだけなのとは異なり、さらに霊(れい)として神様のお命を直接頂いているからこその宿命だと考えられるのだ。

霊魂魄(れいこんぱく)、と。

従って、
神様の子供としての本質を違(たが)えてしまった想いと行いは、
すなわち、
神様として相応しくない想いと行いは、
すべて、輪廻転生という時間をかけて、矯正される定めにある
ことになる。(*9)

結論として。

輪廻転生を通して悪いものしかもたらさないものである以上、業想念は避けるに越したことはない。

そして。

こうして、業想念を意識的に避けるだけではなくて、ごく自然に、当たり前に、業想念を起こさないような状態になるように(なるまでに)、霊性の開発をお願いしたい。

~~~~~

(*1)これは、男女のセックスという行為が、世間一般的には、愛情のあらわれと確認という意味合いや生殖に結びつくその前段階としての行為としての意味合いとされている認識や、単なる快楽追求一辺倒という認識とはまったく異なる認識という意味合いである。

つまり、あくまでも神様の分けられたお命を頂く・本質とする、肉体人間の男女が愛し合う、その愛の絆を深めるための、神聖な行為という意味で書いている。

だから、セックスという行為を排泄行為などと軽々しくとらえるのは、きわめて不適切なとらえ方であり、本来的にはしてはならない相応しくない表現(言葉遣い)ということになる。

(*2)まあ、男女を含め、これがモテ談義をする人達によくある感覚なのだろう。

1 回でも「穴モテ」という言葉を使ってしまうと、「ヤリチン」や「ヤリマン」と同様に、こうした言葉を使うことへの抵抗感が取り払われてしまい、いずれは常用することになってしまうものと思われる。

逆に言うと、これらの言葉を使い慣れず、使う機会がある度にかなりの抵抗感を抱く人は、霊性の高い人だとも言える。

(*3)既存の一般的な宗教観とは、著しく異なるかもしれないが、ここではあえて月経血を神聖なものとしてとらえる(理由は省く)。

(*4)ここではない、別項でも書いたのだが、
想いと行いの主体としての自分とその相手方となる他人は、
自他共にすべては神様の分けられたお命を宿す神様という親様の子供としての兄妹姉妹である、同胞である、
そして、
親様の神様をも含めて、すべては一体のもの、
すべては神様、ととらえれば、
自分のしたことが自分に返ってくる、
自らの想いと行いが自分に返ってくる、
ということになる。

いわゆる、
神様の分けられたお命を
個々のミクロ的な視点からとらえるか、
それとも、
神様のお命すべて、
すなわち、
親様としての神様も、
神様の分けられたお命を(一般的な動物とは異なり)直接に頂いている神様の子供としての私達も、
すべてを神様として、
全体としてのマクロ的な視点からとらえるか、
の違いになる (この説明だけではわかりにくい場合には、( 189_引き寄せ4(ミクロとマクロ) - おぶなより2 ) の (*2) を参照されたい)。

(*5)私達肉体人間は、神様の分けられたお命を本質としている。

いわゆる、神様の分霊(わけみたま)だ。

ここでは、浄土門妙好人の人達の話に合わせて、神様の分霊をみ仏の分けられたお命、み仏の子供とする。

どちらも、神仏の分けられたお命で同じ。

私達肉体人間の本質は、み仏の子供だ。真善美に悖らない完全円満なみ仏の子供。

ただし、肉体人間となるに当たって、自己保存の本能が与えられたために、数多くの輪廻転生を通して、真善美に悖るみ仏の子供としては相応しくない想いと行いを重ねるようになってきてしまう。

そのようにして、いわゆる、罪悪深重の凡夫になってしまうという訳。

そうして、過去世でなしてしまったみ仏の子供としてふさわしくない想いと行いである業想念によって、み仏の子供=魂についた汚れを、み仏が祓(はら)い浄めることによって、み仏の子供としてのあるべき道を違(たが)えてしまった状態を正して下さる。

つまり、み仏の子供として、ふさわしい人間となるように、過去世の悪い因縁を果たさせる(=過去世で行ってしまった業想念の償いをさせる)ことによって、魂を祓い浄めて、きれいにして磨いて下さる。

これが、み仏が、罪悪深重の凡夫としてのいたらないみ仏の子供としての自分達を救いとって下さる、という意味合い。

み仏は、私達を過去世の悪い因縁によって、業想念にまみれた罪悪深重の凡夫として堕落したまま捨て置かずに、ちゃんと過去世の因縁を果たさせることによって、み仏の子供として救い上げて下さる、という意味合いである。

(*6)他にも、隠語としての「公衆便所」や「肉便器」、 ( おぶなより ) で何回か書いた KI さんの造語と思われる「ユル股ビッチ」なども、決して使わないように、切にお願いしたい(もちろん、「ビッチ」も)。

しかし、・・・。

隠語としての「公衆便所」も、
「肉便器」も、
「ユル股ビッチ」も、
神様の分けられたお命を本質とする肉体人間としては、絶対に言ってはならない、使ってはならない、最低・最悪の言葉だ。

肉体人間の女性としてこの世に生を受けた場合に、膣がいかに大切な器官となるかということがわかれば、また、その膣をそなえる女性の本質が神様につながっていることがわかれば、こういった、とんでもない侮蔑表現は、絶対にできないものとなるはずだからだ。

人間の本質とは何か、霊性とは何か、輪廻転生という仕組みとは何か、をよく理解しておらず、唯物論に染め上げられてしまっていると、こんな禁句とすべき言葉をいとも簡単に使ってしまう人達がいる。

やっぱり、世界平和の祈りの同士が増えて欲しいですね。

それ以外は、おそらくどうにもならないから(私がこうして書いていることは、微力過ぎて影響力がまったくないし、そもそも説教は過去世の因縁で効果がある特別な場合を除いて、霊的に無効だから)。

今の世の中の状況が、すべての人々の過去世からの因縁因果の総決算としてあるものだとすれば、その何十億分の一の、さらにその何億分の一でも、個人の因縁因果を地道に少しでも改善していくしか道はないから。

たとえ、可能性がほとんどないと思われたとしても、やっていくしか道はない。

(*7)論駁~ろんばく~相手から加えられた意見や説の誤りを指摘して言い返すこと。
(用例)論駁を加える。

(*8)私が動物行動を引き合いに出して、神性を否定するかのような説を忌み嫌っているのは、こうした理由による。

一言で言えば、神性の否定に他ならないからだ。

(*9)今回の事例に限らず、こうした仕組みの概略は、( 162_原理 - おぶなより2 ) に書いてある。

ご参照頂ければ幸いである。

( 162_原理 - おぶなより2 ) その他も、
( 001_はじめに2 - おぶなより2 ) に書いたように、老若男女を問わず誰にでも、それこそ、子供にも理解できるように、やさしく懇切丁寧に書いたつもりなので、それなりに内容をご理解頂けるものと思う。

お読みになられたことのある方ならおわかりだと思うが、 ( おぶなより ) とは異なり、この ( おぶなより2 ) では、徹底的に参考文献の引用と祖述を避けている。

特に表現をそのまま用いることは避けて、自分なりの考えでやさしく理解し直したものや、言い換えたものに極力直すようにして書いてきた。

つまり、参考文献の部分的な引用や祖述を、あえて徹底的に避けるようにしてきた。

そのために、学術的に高度なことを好む人や難解な言い回しや論理展開が大好きな人には、平易な書き方が過ぎるので、かなりもの足りなく感じられたことと思う。

しかし、たとえブログを読んで頂く可能性が限りなくゼロに近くても、その可能性が絶無ではない限り、誰にでも文章の内容が理解できることを最優先にして書いてきたつもりでいる。

それゆえに、内容の平易さとは引き換えにという訳ではないが、文章がかなりクドクドとしたものとなり、部分的に重複するものもあったりして、明瞭・明快なものにはできなかったが、この点はご了承頂きたい。

本当は、夏目漱石さんみたいな文章を書ければ、理想的なんだけどね。

短くて、明快で、なおかつ、深みのある文章。

しかし、残念なことに、私には学識という点からも、才能という点からも、何十世(何千世?)を費やしても、こうした文章を書くことは望めそうもない。

夏目漱石さんは、「我輩は猫である」の自伝的(?)な小説(つまり、ご自身を苦沙弥先生に見立てることで、飼い猫の視点から、ご自身のことを、一人の人間としてさめた目で厳しく批評的に見ていたと考えることができるから)にあるように、癇癪持ちというか、気難しい点があったようだけど、才能は素晴らしいからね。

しょうがないな。

~~~~~

・気高い~けだかい~おかしがたい気品がある。上品である。
(用例)気高い心。

・蔑む~さげすむ~人を劣った者と見なしてばかにする。軽蔑する。見下す。
(用例)人に蔑まれる。

・貶める~おとしめる~劣ったものとして扱う。見下げる。さげすむ。
(用例)人を貶めるような態度をとる。

・冒涜~ぼうとく~神聖なものや清らかなもの、また尊厳などをおかしけがすこと。
(用例)神を冒涜する。

・交歓~こうかん~たがいにうちとけて楽しむこと。
(用例)交歓会。日米両国の選手が交歓する。

・貶す~けなす~何かと欠点を挙げて悪く言う。
(用例)人の作品を貶す。

・微塵~みじん~①細かいちり。
②砕けて細かくなること。微細なもの。
(用例)粉微塵。こっぱ微塵。
③ごくわずかな分量・程度。
ここでは、③の意。

・眉目秀麗~びもくしゅうれい~顔かたちが整って美しいこと。また、そのさま。
(用例)眉目秀麗な青年。

・端麗~たんれい~姿や形がきちんと整っていて美しいこと。また、そのさま。

・相応しい~ふさわしい~(二つのものの関係が)釣り合っている。似合っている。
(用例)会長に相応しい人。年齢に相応しい格好。

・敬虔~けいけん~敬(うやま)い慎むさま。特に、神仏を深く敬い仕(つか)えるさま。
(用例)敬虔な信者。

・仕える~つかえる~①(主君・主人・親など)目上の人のそばにいてその用をする。
②役所につとめる。
(用例)宮中に仕える。
ここでは、①の意。

・肝心要~かんじんかなめ~最も重要なこと。また、そのさま。
(用例)肝心要の本人が来ない。

・禁忌~きんき~①習俗や宗教上、ある月日・方角・言葉・行為などを忌み避けたり禁じたりすること。タブー。
②病状を悪化させるとして避ける薬の調合や治療法。
ここでは、①に準じる意味合いで用いた。

・狂奔~きょうほん~(正気を失ったように駆け回る意から)ある目的のために遮二無二努力すること。

・遮二無二~しゃにむに~他のことを何も考えず、がむしゃらにするさま。
(用例)遮二無二働く。

・主客~しゅかく~①主人と客。
②主となるものと従となるもの。主体と客体。
③主観と客観。
④主語と客語。主格と賓格(ひんかく)。

・主客転倒~しゅかくてんとう~主と従の位置関係が逆になること。ものの順序・立場・軽重などが逆になること。

・軽重~けいちょう~軽いことと重いこと。つまらないことと重要なこと。
(用例)軽重をわきまえる。鼎(かなえ)の軽重を問う。

・鼎の軽重を問う~君主の力量を疑って、これを滅ぼし天下を取ろうとする。転じて、その人の権威・実力を疑い軽視する。

・対峙~たいじ~①高い山などが向かい合ってそびえること。
②人や軍勢がにらみ合ったまま動かないこと。
(用例)両軍が対峙する。
ここでは、②の意。
(追記2)まあ、この文脈では、対峙はやや大袈裟に感じられるかもしれないが、過去世の因縁因果により、否応なしに巡り会うことになるので、ただの対面よりは強い意味合いが含まれている。
とはいえ、対決よりは世を隔てて即時的と感じられない分、やや意味合いが弱めかなと思ったので、あえて対峙を使わせてもらった。

・蛮行~ばんこう~野蛮で乱暴なふるまい。
(用例)蛮行に及ぶ。

・野蛮~やばん~①文化が開けていないさま。未開。
②無教養・無作法で、乱暴なさま。
(用例)野蛮なふるまい。
ここでは、①の意。

・放縦~ほうじゅう~勝手気ままなこと。また、そのさま。わがまま。
(用例)放縦な生活。

・奔放~ほんぽう~常識や習慣にとらわれないで思うままにふるまうこと。また、そのさま。
(用例)自由奔放な生活。

・野放図~のほうず~①気ままで勝手なこと。しまりがなくてだらしのないこと。また、そのさま。
(用例)野放図に育つ。
②きりのないこと。また、そのさま。
(用例)野放図に広がる。
ここでは、②の意。

・間髪(かんぱつ)を容(い)れず~(毛一本ほどの隙間もつくらない意)ほとんど間をおかずに。すぐに。
(用例)間髪を容れず言い返す。

・辛酸~しんさん~つらく苦しいこと。苦い思い。

・辛酸を嘗める~つらく苦しい経験をする。

・祖述~そじゅつ~先人の考えを受け継ぎ、それをもとにして述べること。
(用例)師の説を祖述する。

・重複~ちょうふく~同じ物事が重なること。重なり合うこと。重複(じゅうふく)。
(用例)重複を避ける。重複した表現。

・癇癪~かんしゃく~気みじかで、少しのことにも激怒しやすい性質。また、その怒り。
(用例)癇癪を起こす。

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(追記1)
今回の内容を見て頂ければ、
肉体人間のこの世で作った原因となる因縁と、
その結果としてこの世にあらわれる因果は、
ほとんどの場合、
肉体人間のこの世への生まれ変わりがある、
この世への輪廻転生がある、
ということを前提としている
のがおわかりのことと思う。

つまり、
今生で過去世の因縁(=過去世での想いと行い)にかかわりなく、
新たに起こした想いと行いが、
今生の中で完結されることよりも、
その大半が、
過去世から今生、
今生から来世以降、
と世を隔てて、
因縁と因果が対応している、
ということである。

しかも、生まれ変わりという、
輪廻転生を経ると
原則として
それまでの過去世の記憶が消されてしまうために、
私達のような一般的な肉体人間は、
納得できない因果を
多々味わうようになっているのである。

そのように考えないと、
この世のデタラメ・無茶苦茶きわまる有り様、
不平等・不均衡は、
到底納得などできないようになっていることがわかるはずである。

ゆえに、
もしこの文章を読まれた方ならば、
納得できなくても(=生まれ変わりや輪廻転生が感得できないから)、
普段からの一挙手一投足をはじめとして、
言葉にも細心の注意を払うことの意味がおわかりになったはずである。

まあ、どのように私の文章を解釈し、
どう対処するかは、
お読みになられた方の
過去世からの因縁因果に依るのであるが。

私が今回書いたことは、
私達肉体人間は、
その本質(本体)が神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)であり、
神様の子供に他ならないのであるから、
その本質=分霊を映した肉体も
これに相応しいものでなければならない、
ということを大前提として、
これを傷つけるような、
言葉や行いをして、
損なうような言動をしてしまった場合には、
そのあるべきではない言動の意味合いを、
輪廻転生という時空間をこえて、
肉体を通じた様々な苦しみを伴う経験を味わうことで、
(過去世の記憶が消されているから、顕在意識ではわからなくても)身を持って想い知らされる、
その神様の子供としては相応しくない言動の意味合いを、
否応なしに学習させられることになる、
という話である。

だから、私達肉体人間は、
本来、神様の本質をあらわすべく、
気高く、尊い存在でなければならない、
という結論になる訳。

従って、
どんなに見た目が動物と同じような形に見えたとしても、
私達肉体人間は、
本来的には、
神様のお命を分け与えられた神性
=霊魂魄を本質(本体)とする以上は、
神様と同じように、
気高く、
高潔で、
愛に満ちた存在
となるように生きていくのが
本来の姿であり、あるべき姿、
という結論になる。

そうして、
神様によって、私達肉体人間が
他の動物と一緒にこの地球上にあらわされたということは、
神性をその本質とする以上、
肉体人間だけではなくて、
その他のすべての
ありとあらゆる動物や植物を取りまとめて、
調和させる役割も担わされている、
と考えられることになるのである。

神様の分けられたお命
=霊を
動物の魂魄に加えて授かるということは、
一般的な動機や植物とは異なる、
神様ならではの、
知恵と創造力を特別に授かっていることに他ならないのだから、
肉体人間以外の、
神様のお与えになった、
ありとあらゆるものを取りまとめて、
調和をさせるべく、
整える役割を果たせる存在は唯一無二の適任者ともなってくると考えられるからだ。

なお、肉体人間という言葉は、聞き慣れない言い方に思われ、面食らう方がおられるかもしれない。

普通(=唯物論的な思考に染め上げられてしまっている一般的な考え方で)は、「人間」という言い方をするのが習わしだからだ。

このように
普通言われる「人間」を
わざわざ肉体人間というのは、
宗教的には、本当の人間とは、
この肉体を有機的生命体として成り立たせている、
この肉体に各種の力と命を与え、
有機的な生物として成り立たせているもの
=霊魂魄こそが、本当の人間である、
という立場で考えているからである。

動物のように
この世にあらわれている、
いわば、
五感に感じることのできる生命体を、
本当の人間とする限り、
これでは動物と同じように、
自己保存の本能のままに、
そのほとんどが自己中心的な、
弱肉強食が蔓延る生き方を是認することになってしまい、
神様の分けられたお命を授かっている神様の子供として、
相応しい姿をあらわしているものとは言えなくなる。

従って、私達肉体人間は、
あくまでも神様の分けられたお命を授かる、
神様の子供として、
気高く、
高潔で、
愛に満ちた姿を、
この世にあらわさなければならない特別な存在
=万物の霊長となるのである。

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(追記2)
つい最近( 2024 年 04月 17日 )、このブログ ( おぶなより2 ) につけてあるふりがなを撤廃することを書いたのだが、とりあえず、今回の文章だけは内容の理解も鑑みて、ふりがなをそのままにさせて頂く。

ご了承下さい。