013_気高い3

( お断り ) 誠に勝手ながら、都合により、従来 ( 014_気高い4 ) と ( 015_気高い5 ) と分けて記載していたものを、ここに改めて ( 013_気高い3 ) としてまとめ直すこととする。
ご了承頂きたい。
従来の文章はそのままに、 ( 旧 ) というカッコ書きを頭につけて示した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

( 旧 ) 014_気高い4

前回 ( 013_気高い3 ) の続きになる。

とりあえず、これで気高いの補足の完結とする。

今回取り上げるのは、因縁因果の話。

肉体人間で言えば、部分(ミクロ)でも、まとまった全体(マクロ)でも、その本体はすべて神様なので、全体・巨視的(マクロ)として見た場合には、想いや行いが、発生したらこの世もあの世も含めて(話がややこしくなるので霊界の下層は除外する)巡るという法則のこと。

さらに、話を簡易化したいので、神様の命を分けられた個々の肉体人間同士(ミクロの視点)の因縁因果の法則の話にする。

(いつもワンパターンで悪いけど)例えば、殴るという話。

甲が乙を殴るとする。

甲が乙を、たいした理由もなく、ただ、気分や勢いという身勝手に、殴ったとする。

因縁因果の法則からすれば、甲は輪廻転生を通して、つまり、来世以降に必ず乙に殴られることになる。

しかも、こうした殴ったという記憶を消し去られた形で。

場合によっては、今生ですぐに殴り返されてしまうかもしれない。

しかし。

なぜに、こうした乙の失地回復のようなことが、法則にならなければならないのか。

乙が気が弱かったり、気が小さかったり、臆病だったり、意気地なしだったら、やられっぱなしで終わってしまうのも、アリというか、構わないんじゃないか? という疑問がわいてくる。

それを、どうして甲が殴り返されるまでに、強引に因縁因果の法則が貫かれなければならないのか?

やったら、やり返されなければならないのか?

私は五井先生の本を読むたびにいつもこうした思いが頭の中にあった。

なぜ?

そして、行き着いたのは、神様のおつくりになられたこの世(現界)には、こうした真善美に悖る事柄(以下、業想念とする)は、その存在が許されないからではないか、という仮説に行き着いた。

神様の分け命(分霊。わけみたま)だけではなくて、この世で生きていく必要から、自己保存の本能を付与されたために、業想念を起こしたら、一時期には起こされても、必ず、起こし返されるという形で清算することで、打ち消して、すべてなかった形とする。

一時的に起きることは起きても、時間をかけて、原則として輪廻転生を通して、必ず、打ち消す形で清算するようになっている。

このようになっているのは、業想念という悪いものの存在が、そもそも、神様のおつくりになられた世界のこの世には、存在を許されないためなのではないか、との考えに思い至った訳です。

この業想念とは逆に、真善美に悖らない事柄、いわゆる、良いこと(仮に、良想念とする)については、良いものが返されることになる訳だが、これは、業想念と同じようには捉えることはできない。

ならば、これはどう考えたらいいのか。

良想念は、神様のおつくりになられた世界のこの世には、当然にあっていいものであり、打ち消す形もとらないし、清算したり、消す必要はない。

良想念のように、あっていいものは、打ち消さない、清算しない、こうした形をとって消すことはしない。

いいものは、あってそのまま流れてよくても、悪いものは、必ず、清算して無くす形をとる。

神様のみ心にそぐわないものだけが、無くす形に導かれる。

因縁因果の法則としては、良想念も業想念も通すけれども、因果としてのあらわれの形は、正反対になっている。

良いものはそのまま。

悪いものは、必ず消滅に導かれる。

この悪いものは、必ず消滅に導かれるのは、悪いものを食らうことになる訳だが、再三、書いてきたように、これは巨視的(マクロ的)に見れば、悪いものが巡って返ってきただけ。

以上のように考えてくると、この世では、因縁因果の法則により、良想念と業想念とでは、個別(ミクロ)の個々の視点からみると、対応が正反対に分かれていることになる。

そうすることで、この世では、いわば、業想念だけがふるい落とされるというか、無くすための場所になっている。

だから、この世は、肉体人間が輪廻転生を通して自己保存の本能により作り出してしまった業想念を清算する、しかも、業想念の清算は、病争貧苦のように辛(つら)いことが多いので、私達の魂(霊魂魄)の修行場所になっているのではないか、と考えられる。

このように考えてくるうちに、(この世での)人生は、基本的に苦なんだな、修行なんだな、と思えるようになってきた。

まだ、完全に考えがまとまっている訳ではないが、私個人としては、仏教のこの世は「苦」だという話を読む時には、これも合わせて考えることが多い。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

( 旧 ) 015_気高い5

前回 ( 014_気高い4 ) の続きになる。

前言撤回で申し訳ないのだが、やはり、もう1つ加えることにする。

多少前に書いたことと重なる部分もあるのだが、一応、南無阿弥陀仏一念の浄土門や世界平和の祈りといった易行道の信仰にかかわる考え方になるので、補足をしておきたい。

前々回 ( 013_気高い3 ) に、この世で起きてくることの大方、約 8 割方が過去世の因縁を反映したものであろうことを書いた。

そして、とりあえずは、 残りの 2 割方をこの世で良い努力するなりして足し増しする(真善美に悖ることをしてしまうと反対に借金のように償うものが増えてしまうことになるが)、あるいは、悪い因縁を守護の神霊さんのお浄めやお救いで、修正していくようになっているらしいとも書いた。

妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さんの場合は、この世で起きてくること、特に悪いこともみ仏が自分を救いとって下さるためのおはからいであると捉え、ありがたく感謝していると書いた。

易行道の信仰をする場合に考えるのは、この世で起きてくること、特に、悪いことのすべてを妙好人の人達のように、自らの過去世の悪い因縁の因果としてのあらわれとして、考えるべきなのか、どうか、ということになると思う。

妙好人の人達のように、幼子のようにきわめて素直に仏様(神様)を信じることができる霊性の高い人ならばいいのかもしれないが、いくら易行道を始めようと思ったところで、現代人、特にありとあらゆる面で、唯物論の思考に染まってきた現代人が、いきなり、すべての悪いことを感謝で受け入れるのは、まず、できないと思う。

納得し難いだろうし、もしかしたら、起きてくることが、過去世の因縁のあらわれではなくて、今生新たに起きたものであるかもしれない可能性さえもある。

そんな中で、妙好人の人達のように悪いことを感謝で受け入れることは、かなり難しい。

というか、ほとんど不可能だと思う。

この世で起きてくることの大半が過去世の因縁を原因とするものだから、我慢ではなく感謝(我慢だと業想念を溜めることになってしまうから)して受け入れよ・・・。

やっぱ、無理だと思うわ、これ。

とはいえ、不可抗力で受け入れざるを得ない不幸があれば、これは嫌が応でも受け入れなければならないし・・・。

とつらつら考えてくると、結論めいて思い当たるのは・・・。

基本的に肉体人間の輪廻転生を通した各人生で溜め込んできた真善美に悖ることの償い分、すなわち、病争貧苦のあらわれは、今生なら今生で、その本人がその今生で与えられた性格や許容量(?)から、まかない切れる(?)というか、耐え切れる分量を守護の神霊さんが考えた上で配分して、今生なら今生なりで押し潰されて自殺することのないくらいに、調整しているのではないか、ということだった。

その今生までの過去世で、溜め込んできた業想念を一気に清算するのには、業想念が多過ぎて(?)無理があるので、いくつかの輪廻転生を通した人生に分けるようにするのではないか? ということだった。

この世に生まれ出るのも、生きていくの(呼吸や拍動や内分泌代謝といった生命活動の維持)も、寿命が尽きるのも、すべては神様の不思議な力の働きかけだと考えられるので、この寿命が尽きるのを、肉体人間の自由意志で勝手に断ち切ってしまうこと、すなわち、自殺は神様のみ心には適(かな)わない、良くないことと考えられるからだ。

だから、なるべくそこまでには至らないように、按配(あんばい)を考慮されるのではないか、と思い至った訳です。

確か、五井先生の本にも勝手に自殺したら、地獄に行ってしまうとも書いてあったし。

とは言うものの、実際には死にたくなるような気持ちも(個人的にだが)知っているし、物凄く苦しんでいる人も見たことがある。

だから、どうなんだろう・・・。

正直なところ、よくわからない。

多分、そのように按配を考慮されながら、耐え切れる分量を考慮されて、お守り頂いているとは思うのだけれど・・・。

だから、この世で起きてくる嫌なことや悪いことは、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行とともに、なるべく受け入れるように努めていくしかないのかなあ、というのが現時点での結論です。

ダンマパダ(法句経)だけなら、怨み(恨み)や怒りを収めるということになるんだけど、お釈迦さんの在世当時のような厳しい自力修行は現代では無理があるから、やっぱり、南無阿弥陀仏の念仏行や世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行という支援は、あったほうがいい、一番無理がないと思うんですけどね。

一応、これも「気高い 」の補足として、つけ加えておきます。