033_いつ

思い上がりのまずさについて考えてみたい。

肉体人間は、神様の分け与えられたお命を頂いて生かされている存在である。

自ら生きたいと思って生きているのではない。

なぜならば、肉体の心臓の拍動や肺臓の呼吸も、その他の内分泌代謝を担う身体の器官も、睡眠時にその働きが休まることはなく、無意識に働いていてくれているものだからだ。

だから、自らの意志で、いちいち命令を下して、これらの身体の器官を働かせているのではなくて私達はこうして生きている、すなわち、生かされていることになるのである。

肉体があるから、生きているのならば、その何らかの肉体に対する働きかけ、すなわち、神様のお命を頂いていることによる働きかけがなくなってしまえば、つまり、魂が抜けてしまえば、肉体は物質にかえり、身体のあらゆる器官は、その働きをやめて、物質に帰り、次第に干からびていくことになる。

これが、肉体人間の死だと考えられる。

従って、肉体人間は、神様のお命を頂いて生かされている点では、あくまでも平等だ。

ただ、その魂の輪廻転生を通した鍛えられ方や、魂の古さ、大きさ、分割や結合の違いがあるので、その肉体人間としてのあらわれは、千差万別に分かれている。

それぞれに個性を持ち、誰一人として同じ性格を持つ肉体人間がいないのは、このためだ。

つまり、神様のお命を頂いて生かされているという点では、私達の本質は変わらない、神様の子供としては、霊魂魄として霊的には、兄弟姉妹の関係にあるのである。

どんなに、過去世から溜め込んである因縁のために、憎み合い、対立し合い、反目し合うことがあっても、本質は一緒なのだ。

ひろさんは、お釈迦さんを宇宙仏、宇宙の真理がもたらしたメッセンジャー、唯一無二の仏陀だと呼んだ。

これを、私の考えに当てはめて言い換えれば、宇宙の真理とは、神様のことであり、神様がこの物質地球世界を開発して、この物質地球世界に、この世に、神様の世界である神界を映し出すために、それも、何度も何度ももの輪廻転生を繰り返しながら、派遣されてきているのが、私達肉体人間である、ということになる。

だから、お釈迦さんだろうと、ソクラテスだろうと、孔子だろうと、私達だろうと、その本質は変わらない。

ただ、各々のたくさんの輪廻転生を通した過去世を通したの魂の生き方、想いと行いの積み重ねといった研鑽の具合により、天命として神様から授けられた働きという格に違いが生じてくる。

お釈迦さんは、いくつもの過去世を通してそれなりに魂を磨き上げ、この世でお釈迦さんとして悟りを開き、たくさんの人々を教え導くことを、神様から天命として授かる、いわば、宿命づけられた人ということになる。

私なりに解釈すれば、宇宙の真理は、神様のこと。

私達は、どんなに小さな存在(?)のように思えても、それぞれに明確に違う個性を持ち、神様からそれなりの天命を授けられている者ということになるのである。

上記のように、私達が生かされていることは、唯物論で考えれば、説明ができない奇跡のような現象だ。

だから、この世に生まれてくるというのは、デキ婚だろうと何だろうと、やはり、神様の何らかの働きかけ(おそらく、守護神さんと自らの魂の働きかけ)があって、なされるものであって、奇跡のようなものである。

従って、過去世で、たくさんの真善美に悖る悪い想いと行いの業想念を溜め込んでしまった者は、これまた、たくさんの輪廻転生を通して、業想念を償いながら、天命を果たしていくことになるだろうし、お釈迦さんのような天命の人は、ああしたたくさんの人々を教え導き、しかも、後世にわたってかなりの教えや影響を及ぼすべく生まれた人であり、あのような形で、輪廻転生を卒業した、つまり、解脱をした人ということになる。

この世に生を受けること、そして、生きている=生かされていることは、実は類い稀なる奇跡の賜物であり、その私達を生かすために与えられている、周りのあらゆる環境としての、目に見えるものも、目に見えないものもまた、奇跡的に存在しているということになる。

再生技術があるではないか、と思う人がいるかもしれないが、再生をさせるにはやはり何らかの元となる材料が必要となる。

この元となる材料もすべては、あらかじめ与えられているものなのだ。

この材料の中に霊魂魄のうちの魄要素もあると思われる。

これが人間にも使われたり、動物に使われたりもするので、人間と動物の転生を混同していると思われる。

話がそれた。

ただ、私達は、何でもあること、そなわっていることに慣れてしまい、こうした奇跡的なありがたさ=有り難いことの認識を忘れ果てて、何でもあるのが当たり前だ、そなわっているのが当たり前だ、となって、ありがたさを微塵も感じなくなってしまうことになりがちである。

失われてみて、失われたものの、真の得難さ、有り難さを、はじめて身に沁みて痛感するようになることが多い。

私達はありがたいことが何でも習慣として慣れきってしまうとどうしてもこのようになりがちなのである。

健康をはじめとして、ある程度恵まれた環境に生まれついてしまうと、世の中の有り様に疑問を抱いたり、謙虚になることはむしろ稀だと言えるだろう。

お釈迦さんが、内省的な人であったのも、幼少期に、母親の愛情が最も必要とされる時期に、それが得られなかったのが響いているのかもしれない。

いくら生みの母親の妹が母親がわりになっていても、やはり、寂しさが影を落としている面もあったのかもしれない。

もちろん、天命として、人の道を説くためでもあったのだろうけど。

話を戻すと。

世の人の不幸や災難にある程度思いをいたすことはできても、わがことのように、わが身のようになるのは、中々難しいと思われるのだ。

そんな時、そんな魂の状態で、そんな霊性の水準で、不幸などに見舞われて、改めて普段当然としてあることのありがたさを再認識させられることの方が多いだろう。

世の中の人並みよりも秀でた力を持った人の身勝手さ、傲慢さを目の当たりにすると、こうした感想を持たざるを得なくなる。

肉体人間として自己保存の本能を与えられ、たくさんの輪廻転生を通して、悪い想いと行いの業想念を溜め込んでしまったら、こうした霊魂魄(以下、魂と略)の汚れを浄めてなくすためには、魂を浄めて鍛えるためには、不幸などの修行は必須になってくるということなんだろうね。

生半可なことでは、肉体人間としての魂は、立派にはならない。人格者として磨かれるためには、それなりの苦労はやむを得ず伴うものだ、と。

だから、今ある環境や境遇に何一つ感謝することなく、つまり、ありがたさを感じることなく、ワガママばかり言っていたり、恵まれた境遇にあぐらをかいて好き勝手ばかりしていれば、原則として来世以降に、魂を浄めるために、神様の分け命を頂いている肉体人間としてふさわしくないこうした行為は、すべてもれなく償わなければならなくなる。

女の人は、自分に男の人の選択権があると思っているように見受けられる。

はてなさんのブログに、戦地で慰安婦さん達に群がる明日の命をも知れない厳しい境遇に置かれた兵隊さん達のことと、アイドルの握手会に群がるファンの男の人達のこととの共通点を指摘している話があった。

現代なら、マッチングアプリで女性ばかりがやたらにいいねがもらえるのも、女性であるということで注目を集めやすいことは、残念ながら確かなことだ(本当の意味でモテているのではなく、体目的でモテているか否かは別にしても)。

ましてや、女性は誰しもがその深層心理で「私は美しい」という信念を持っている。

そこに、上記のような女性に男性が惹きつけられやすい、女性絶対優位の非対称で不公平な現実を目(ま)の当たりにすれば、女性が、男性が密に群がるアリのように、魅力ある女性に集まってくることが当たり前のように考え、従って、自分にもそれなりに男性が集まってきてしかるべきだし、選り好みをして選べる権利がある、と思い込むのも無理がないないことなのかも知れない。

マミ先生によると、女性は幼少時から蝶よ花よと大切に育てられた(毒親は除くだろう)名残があるために、大人になってもなお、大切に扱われたいという願望があるとのこと。

だったら、なおさらだね。

自分たちに選択権がある、男性を選ぶ決定権があると、思い込むのは。

しかし、神様がそのお命を分けて、しかも、有限の命を持つ肉体人間の人類として、男性と女性に分けて、世代を引き継がせていく形になっているということは、こうした女性の一方的な選択権を是認しているものとは、到底、思えないんですよ。

男性から求められるセックスの受け身としての存在として、妊娠・出産する性(さが)として、選択権を持つ、すなわち、あなたにセックスさせてあげる、結婚してあなたの子供を産んであげる、決めるのはあくまでも女性としての私、とすること。(*)

こうした男性の選択権を持つ、決定権を持つ、と自らの権威(?)を振りかざすように、選べるとばかり思うのは、間違っていると考えられるんですよ。

神様は、自らのお命を分け与えた男性と女性が、ともに尊重し合い、協力し合って、人類の存続をすることを望まれているはずだからですよ。

男性から女性を一方的に支配従属関係に置くことも、女性から男性を一方的な支配従属関係に置くことも、双方ともに、ダメです。

男女の性別は分かれていても、本質が同じ神様の分け命なのだから、互いに尊重して、協力し合う形があるべき形のはずです。

従って、何かにつけて、いちいち、こうした協力・協調関係をぶち壊そうとする言説、しかも、言っている本人だけでなく、人類全体の霊性の水準を下げることにしかならないツイフェミさん達のような言説には、何とも言いようがないんですね。

端(はた)から見ていると、あの人達は、常に不穏な想いを抱き、怒り、恨み、憤りと(本人は無意識だろうが)他人に認められたいという渇いた承認欲求といった悪い想いと乱れた想いにとりつかれている。

あのような状態が、過去世の因縁としてのあらわれではない限り、あの人達の来世以降は、悪い想いと行いの償いを強いられることになって、大変な修行を余儀なくされることになると考えられるのですよ。

ただ、運よく(?)活動をやめることができたとしても、それまでの(過去世の因縁のあらわれではない)悪い想いと行いの償いは、来世以降にもれなくしなければならないことには変わりないんだけどね。

中でも、女の人は、利に聡(さと)く、利己主義的な傾向を強く持ち、男のようにいつまでも見果てぬロマンに縛られずに、超現実的だから、輪廻転生を通して来世以降に記憶は持ち越されないからわからないとはいえ、大変な修行を余儀なくされると理解すれば、つまり、大損なんだよ、大変なことになるんだよ、と理解することができれば、すぐさま、今生での悪い想い、すなわち、怒り、恨み、憤りなどをやめると思えるのだが、まあ、これも多分ないんだろうね。

まあ、極力かかわらないようにして、祈って差し上げるしかないのですが、何とも・・・。

こうした人達が、霊性に目覚めるのは、輪廻転生の仕組みを知って謙虚になるのは、果たしていつのことになるのだろうか。

まあ、思い上がりというか、普段あることのありがたさにまったく思いを致さすに、外罰的に他人のアラを探して、何かにつけてケチをつけまくり、怒りに燃えまくっている(?)人達に神様の祈りの光が届くように願うばかりである。

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(*)このように、女性が男性の選択権、決定権を持つといくら考えたところで、ほとんどの女性は恋愛にも結婚にも受け身なことが多い。

特定の男性に好意があっても、敬意があっても、あくまでも、匂わせレベルで男性に気づいてもらおうとする場合が多い。

ましてや、結婚となると、実は男性が結婚すると決めなければ、まず話はまとまらない。

つまり、結婚に関しては、男性に決定権があるのだ。

結婚の最終的な決定権は、実は男性が握っている。

だから、昨今の女性のマスコミやネットでわかる有り様(実態)を知り、恋愛や結婚、特に結婚に前向きになれない男性が増えているのではないだろうか。

特に結婚向きな地道な男性は、ヤリモクのように女性を手慣れて扱うことができず、女性の「私に気づいて」という気持ちも、まず、察することはできないだろう。

女性も女性で、ヤリモクやチャラい男性に簡単に遊ばれてしまうことが、そうした地道な生き方をしたい男性の心をいかに傷つけまくっているかを全然わかっていない。

おそらく、こうした地道な男性は、そんなヤリモクやチャラい男性のように、ハーレム状態を望んだり、手当たり次第に遊びまくることは考えていないだろう。

男性ならば、誰しもが女性にモテたいのは普通だが、そうした地道で堅実な生き方をしたい男性は、ハーレムもどきの遊びまくりは考えていないと思うのだ。

ただ、信じ合える女性と巡り合って、家庭を築き、ともに苦労をしながらでも人生を歩み、子孫を残したいだけなのではないだろうか。

ヤリモクやチャラい男性に遊ばれることを軽く考えている女性は、こうした彼らの気持ちをまったくといっていいほどわかっていない。

そうした地道な結婚向きな男性の、信じ合える女性と人生をともに歩みたいという、ささやかな希望を、淡い夢を、ズタズタに切り裂いているであろうことを、まったくといっていいほどにわかっていないのである。

その上に、そんな女性達に容姿その他様々な要求を突き付けられ、面接官気取りをされてしまったら、彼らにしてみれば、それはもう、やっていられない、耐えられないでしょうよ。

ハートカフェのコメント欄にあるような男性達の怨嗟のような感情が裏読みできるものを見ると、私はそのように思えて仕方がない。

だから、霊性上からもそうなのだが、婚活スパルタ教師のような女性が、30才まで処女なんて気持ちが悪いなどという発言は、こうした地道で堅実な生き方を望む男性達の言外の気持ちが、まったくといっていいほどわかっていない困った発言に思えるのですよ(私はこの女性の動画は、この発言以降一切見ていない)。