048_渡り

世の中は建前だらけだ。

おそらく、本音をモロにぶつけ合っていたら、争いが絶えず、世の中の秩序は保たれず、ガタガタになってしまうだろう。

まあ、保守的で村社会的な自制心の強く働く日本では、これはあり得ないと思うけどね。

真実を知りたい。

これは私達肉体人間が、自然に抱く感情だ。

騙されるのは嫌だ。

もちろん、騙すのはもっと嫌だ。

私達の本質は肉体人間そのものではなく、神様の分けられたお命。

神様の分けられたお命があるからこそ、肉体人間として生きていることができる。

ということは、私達肉体人間は、真善美に悖らない完全円満さをその本質に持っていることになる。

肉体を与えられ、自己保存の本能を追加付与され、たくさんの輪廻転生を通して、どんなに真善美に悖る想いと行いの業想念を積み重ねてしまっていても、虚偽(インチキ)は本質的に受け入れられないものなのだ。

虚偽を使い、受け入れるのが当たり前(?)であるかのように見える、因業人間やサイコパスは、業想念が深く、厚すぎて、こうした感覚を著しく曇らされているだけだ。

ウソも、騙しも、詐欺も、私達がこうしたインチキに嫌悪感を抱(いだ)くのは、神様の分けられたお命を本質としているからこそなのだ。

だから、人間は本当のことが知りたい、真実が知りたい、となるのだが、残念なことに、自己保存の本能のような自らの保身を第一義として、その近しい者だけの利益を最大化させるようになりがちなこの世、特に大半を唯物論の思考に染め上げられてしまっている、多かれ少なかれ競争を余儀なくされるこの世では、どうしても、建前やウソはつかないでは生きてはいかれない。

真っ正直に、バカ正直に生きてばかりいたら、孤高にはなれるかもしれないが、完全に孤立してしまう。

この厳しいジレンマをいかに克服していくのかが、肉体人間として私達に課せられた修行となり、様々な喜怒哀楽や艱難辛苦を経て、その神性を徐々にあらわしていくようになっているのだろう。

しかし・・・。