054_簡潔に

宗教を国語辞典で引いてみると。

・宗教~しゅうきょう~神仏など、超人間的・絶対的なものを信仰して、安心や幸福を得ようとすること。また、そのための教えや行事。
(用例)宗教家。

となっている。

五井先生の本に、「神と人間」(白光出版)があるけれど、宗教は神様と人間との関係を考えるものですね。

神様がすべての始まり、出発点だとすると、要は、「大元の教え」あるいは「元の教え」ということができるでしょうね。

私は素人ながら、チラッと仏教の経典や聖書をかじったりしたけれど、どうもそんな大袈裟なことはいらないんじゃないかなあ、と思っているんですよ。

だから、今私がする話は、簡潔で身勝手な話になるんですけどね。

私達肉体人間の本質が神様の分けられたお命である、神様に分け与えられたお命によって、この肉体が生きている、もっと言えば、生かされている、とすれば、私達には元々、神様の性質である神性(仏教なら仏性)が、そなわっていることになります。

だから、過去世の因縁が特別に深くて良くないと思われる因業人間やサイコパスなどの、まともな性癖を持つ人間としては足かせとなる重い因縁を背負っている者などを除いては、皆、誰しもが善悪の判断、正邪の判断を自然にできるんですよ。

地頭の良さをはじめとして、学歴や、知能指数などには関係なしに。

神様の分けられたお命の力がなかったら、こうした判断力がないばかりでなく(?)、高度な考える力や創造する力はないはずですよ。

だから、誰しもにそなわっている、こうした判断能力を元にして、これに照らし合わせてあらゆることを考えていけばいいのではありませんか。

神様としての本質に適合する、適う(かなう)ことと、適合しない、適わないことは、誰もがわかるのだから、こうした肉体人間として抱く(いだく)想いと行為が、この世も(あの世も)原則として輪廻転生という時空間を隔てながら巡っていく。

これを踏まえて、あらゆることを逆算していけば、どのようにすれば良いかの、おおよその見当はついてくる。

だから、あまり、史実をきわめよう、真実を知りたいと、過去の歴史にこだわりすぎたり、やたらに、難しい概念、しかも、実生活にあまり反映されない概念や理論にこだわるのは、それほど必要ではないような気がするんですよ。

だって、せっかく肉体人間としてこの世に生を受けて、過去世の因縁により各人各様の能力のあらわれは千差万別にしても、肉体人間として、神様のお力をそれなりに与えられているのですから。

だから、学問的な探求心や法悦感に浸る逸話もいいかもしれないけれど、やはり、大事なのは、この世にいる間は、肉体人間としての想いと行いだから、伝説や理論構築もほどほどにしておいた方がいいように思うんですけどねえ。

仏教の経典や聖書とそれらの参考書をかじっての個人的な感想です。