058_非推奨

私は、以前、 ( おぶなより ) で、非モテコミットに関して一つの異論を書いた ( 132_非モテコミット異論 - おぶなより ) 。

ちょっと記憶が定かではないのだが、大部分の人の非モテコミットに関しての話の内容は、男性のその行動に否定的だったね。

確か、モテる(=要はセックスが可能な彼女の獲得という意味合いだろう)には、非モテコミットのような言動は絶対にダメだよ、たとえ脈があっても、女性が冷めてしまい、愛想を尽かされてしまうよ、というような内容だったと記憶している。

それを見て、私はこれは幸いだ、こうした女性は、世の中のあらゆることに対して、ありがたさを微塵も感じず、自分の体裁やマウントばかりしか頭にない女性である可能性がきわめて高いので、別れるに越したことはない、と感じて、これにもとづいた内容を書いたように記憶している。

それと、彼女として、確保したいばかりに、女性に対して過剰なサービスをするお相手の男性が、女性からすると、カッコ悪く見えるのかもしれない。

だから、彼女に尽くしたくても、やり過ぎはダメなんだよね。それに、女性はお姫様扱いされることが大好きなくせに、男のそうした彼女確保の焦り(?)を感じると、とたんに冷めて態度を豹変させる。

本当に、わがままだし、身勝手なんだよな。

焦りを感じさせるほどに、尽くし過ぎる男性にも、確かに問題があるけどね。

私には、レディファーストの一種とされる、これ見よがしの椅子引き、道路側歩き、がまったく理解できない。

俺はこんなに君を大切にしてるよ、俺はこんなに君のことを思ってるよ、と、なぜ、健康体の人間(=女性)が軽々とできることまで、わざわざ男性がしてやらなければならないの?

ケガをしていたり、体に痛いところや、つらいところ、動かないところがあれば、サッと手を貸してあげるのは当たり前。

人として当然だし、相手が老若男女であることを問わない。

しかし。

これ見よがしの椅子引きや道路側歩きは、健康体の人間に対しては、明らかにサービスが過剰ですよ。

もっと言ってしまえば、なぜ、女性として生まれただけで大切にされなければならない特権があるの?

ああした過剰とも言えるサービスは、霊性が開発されて、その上で、何気なく、さりげなく、自然に、無意識にパッと出るものならいいですけどね。

そうでないなら、やはり、過剰だと思わざるを得ませんよ。

なぜならば。

神様が人類を男性と女性にお分けになった。

そして、寿命に限りのある肉体人間として、互いにその特長を生かしながら、協力し合う形で、子孫を残し、世代を引き継がされるようにされた。

このように素直に考えれば、男女の関係は、基本的に一対一であり、一方的な支配従属関係や一方的な奉仕関係を望んでおられるとは、到底、考えることはできないんですよ。

同じ神様のお命を分け与えられて、それぞれ個々の魂の輪廻転生の都合上、たまたま、男性と女性とに別れている。

誰しもが、その本質は同じ神様の分け命であり、神様の子供であり、兄弟姉妹。

ならば、特徴や役割は異なっても、お互いに尊重し合い、協力し合い、奉仕し合うのは、当たり前じゃないですか。

それなのに、なぜ、一方的な支配従属関係や、一方的な奉仕関係を成立させなければならないんです?

おかしいじゃないですか。

世間一般では、こうした基本的なことをまったく無視しているかのように、ゴタゴタ論争し合っている(?)けれど、こうした論争は、私には、ただただ、業想念を増やすだけにしか思えないんですよ。

親子にしてもそうです。

確かに、子供は親に限りなく恩があります。

この世に肉体人間として生まれてくること自体が、実はたぐいまれなことだから、生んでもらったというだけでも大きな恩がある(仏教にもこの話がある)。

そして、育ててもらうことはかけがえのないこと。

しかし、だからといって、親が子供を強権支配して絶対服従させるのは間違っています。

子供を授かったという言葉にあるように、子供が生まれることは、神様から新たな命をお預かりしたことでもあるからです。

いわば、神様から子供の魂の成長を託されたんですよ。

ならば、やはりそれなりに尊重して、大事に育てていかなければならなくなりますね。

実際のこの世には、過去世から積み重ねられた様々な悪い因縁のために、毒親がいたり、育児放棄があったりしますが、基本は上記のようになるはずです。

自らの肉体の五感にまつわる欲望を最大化することばかりに気をとられ、世の中の当たり前と思われがちなことに、感謝やありがたさを感じることなく、批判、非難、論争している。

残念なことに、健康でも何でも、失われてみないと、その本当のありがたさに気づかないことが多い。

失われてみてはじめて、ああ、あれは何てありがたいことだったんだ、と後悔することの方が、圧倒的に多いんですよ。

病気になったり、災難に遭うことで、はじめて、身に染みて、失われてしまった、当たり前のようにあったことのありがたさが、わかるようになることが多いんです。

だから、自分の命からはじまって、様々な奇跡的な組み合わせの下に、今の境遇があるのだということに思いを馳(は)せ、普段からの想いをできる限り、感謝に振り向けるようにしていく。

当たり前を当たり前と思わず、あらゆることに、故意ではなく、無心に感謝を抱(いだ)けるように精進(=霊性の開発)をしていく。

この先達とも言うべき敬虔な宗教の信仰者が、浄土門妙好人と呼ばれる、源左さん、才市さん、宇右衛門さんなんですけどね。

不幸・災難・艱難辛苦よ、わが身に来たれ、と魂の学習という、厳しい試練が大好きな変わった人(?)もいるのかもしれませんが、やはり、おすすめしたくはないですね。