ネットの「愛を学ぶ」と題された女性が書いていると思われるブログ(ニフティのココログ)で、その人が五井先生(日本の宗教家五井昌久さんのこと)の教えを引き継いだ、白光真宏会を退会した話を読んだ。
実質的には五井先生を否定している内容ながら、部分的には認めるという何とも歯切れの悪い内容だった。
確かに、一か八かではないが、全肯定か全否定か、というのはあまりにも、話が極端に過ぎるだろう。
これでは、何も話ができなくなってしまうからだ。
実は、私も五井先生に関して気になることを、それなりに ( 065_お断り - おぶなより )ですでに書いている。
やはり、気になるところは書かない訳にはいかなかったのだ。
わかっていながらに、黙認しておく(=隠しておく)のは、不誠実になってしまうからだ。
話を戻すと。
この人は、入会して世界平和の祈りで子供の頃からちっとも治らなかった病気が、別の民間療法( バッチのフラワー療法 )で治った、心底救われて愛を感じられるようになったとのこと。
それなら、それでいいのだが、恨み節(?)ではないだろうが、五井先生を部分的に認めながら、結果としては、批判するかのような内容(私の指摘した内容も入っていた)になっていた。
勢いついでに、いくつか余分に批判しているようにも読めた。
誠に失礼ながら、私には、この人の書いている内容は、五井先生を否定していると読める。(*1)
そのすべてのよってきたるところは、病気が治ったという「ご利益」に集約されると解釈できる。
実は、私も病気では苦しんできていて、それもたった一つだけではないのだ。あろうことか、何と複数以上なのだよ。
数ヶ月前、長いこと苦しみ、もう一生治らないと思ってあきらめていた病気のうちの一つが、不思議に自然治癒した。
今は別の病気がかなりきているので、本来ならば大感謝しなければならないのだが、今の病気がかなり心配であまり感謝できずにいる。
さらに、他にもいろいろな不調があり何とも言えないのだ。
本当に罰当たりだとわかってはいるのだが、やはり、心配や辛さが先に立ってしまうのだ。
その自然治癒した病気に関しては、専門家のお医者さんも、なぜだかわからないとおっしゃっていた。
考えられるのは、過去世の因縁により、今の時期に自然治癒する定めだったのか、もしくは、世界平和の祈りのご利益があったからか、ぐらいしか考えられない。
正直なところ、その理由は、まったくわからない。
しかし、私は一時ブランクがあったとはいえ、病気が治らなくても、治ると思わなくても、世界平和の祈りをやめなかった。
ご利益がなくても、病気が治らないとあきらめていても、決して世界平和の祈りをやめなかったのだ。(*2)
その他にも、世界平和の祈りをやめたくなるような自分以外の身内の不幸もいくつもあった。
しかし、やはり、唯心論のような形をとりながら、他者を責め裁きまくる、その実質が唯物論のような宗教には、どうしても救いを求める気がしなかったのである。
神様を語りながら、敵を認め、他者を責め裁くような宗教は、個人的には信頼を置くことはできない。
本当は、仏教の浄土門の敬虔な祈り人である、妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さんのように、いかなる不幸・災難があろうとも、ひたすら、南無阿弥陀仏の祈りとともに、阿弥陀如来様(神様)への感謝一念となるのが理想ではあるが、私はとてもあんな偉い人達のようにはなれない。
どうしても、不平、不満や人様を責め裁く業想念にまみれてしまう。
ご利益はない(実は気がつかないだけでたくさんあったのかもしれない)が、業想念にまみれ、迷いに迷いながらも、地に足をつける安心感のある信仰や生き方が、他になかったのである。
理屈の上では、一番納得しやすい、スッと入っていける教えが、世界平和の祈りだったのだ。
私もこの人のように、恨み言を言ったり、批判しようとすれば、できないことはない。
繰り返すが、自分だけではない、身内のそれなりの苦しみや不幸があったからだ。
自分自身のことだけならば、想いと行いもダメな自分のことだから、納得できない点があっても、ご利益がなくても、まだ我慢ができる。
しかし、自分以外の近しい者については、こうはならないからだ。
つまり、自分自身の病気の治癒という「ご利益」がなくても(あったとしても不遜にもわからなかったとしても)、信仰をやめなかったのである。
五井先生のどの本だか忘れてしまったが、輪廻転生を通した神様から分け与えられたお命は永遠だから、一生苦しんだっていい(?)かのような話があった(ちょっと正確には思い出せないが、大体こんな感じだったと思う)。
ほとんどの人が、肉体人間としては、今現在のこの世のこの人生=今生は、後生大事だし、これしかないと思うのが普通だから、そんな、ちょっとご無体な、厳し過ぎるよ、と感じたことを覚えている。
それくらい、永遠の生命=神様のお命をそのままに、想いと行いをこの世にあらわすことが大事だ、という話だったと思う。
私は、とてもではないが、妙好人の人達のようには偉くなれないし、この神様の生命そのままに、この世で生きることの大切な意義もわからなかったが、とにかく、世界平和の祈りにすがるのをやめなかった人間だ。
その人は、もしも、これを読まれて、どうお思いになるかはわからないが、こうした信仰者もいるのだということをここに記(しる)しておきたい。
まあ、これ(この人はココログ)以外にも五井先生に否定的な話を、はてなさんのブログや、その他にもいくつか見かけたが、それでもなお、私のような信仰者もいる、ということです。
なお、手前味噌になるが、個人的な今の世界平和の祈りの現状などについての感想を、すでに書いている ( 104_諦観 - おぶなより ) 。
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(*1)この人は地上天国化が望めなくなって残念のようにお書きになっていたが、それならばそれ以上の余計なことはお書きにならなければよいのです。
批判や非難は、所詮は唯物論の産物。真善美に悖る業想念だからです。
残念なことに、これまで地上にあらわれた聖者と言われる方達も、おそらく完全無欠な方はおられなかったのではないかと個人的には考えています。
伝記などの自宗の装飾化や美化などの問題や、他宗の批判や非難の問題もありますからね。
ならば、自らにそなわっている、善なる直感を、自らにそなわる真善美に悖るか否かを判断する力を信じて、できる限り理に適った教えを選びとるしかないのが実情だ、と考えます。
そのように考えた時に、世界平和の祈りが理に適っていると考えられるのです。
各肉体人間が、神様の分け命である分霊を本質としているものならば、いかなる紆余曲折があって、いかなる時間がかかろうとも、最終的には人類の調和と共存がはかられることが、最も合理的だと考えられるからです。
肉体人間の本質が、決して神様の分け命でない、あるいは、神様が真善美に悖る悪魔的な存在である、または、神様が力のない不完全な存在である、というのならば、この限りではないですけどね。
つまるところは、神様をどのように捉えるか、という神様観(という言葉があるのかどうかわからないが)によることになります。
なぜならば、神様のあり方いかんによって、つくられる肉体人間の内容が決まるからです。
(*2)なお、私は個人的な判断で、白光真宏会には入っていない。
あくまでも、個人的に世界平和の祈りをしているだけである。
なお、この人は、消えてゆく姿は雑過ぎるとお書きになっていたが、私流に消えてゆく姿を解釈させてもらうと、私達があまたの過去世で作った因縁の、この世での時間をかけて、解消されてゆく、清算されてゆく姿だ、と解釈できる。