115_つかみ

自分の視聴履歴が悪いせいか、ユーチューブでは相も変わらず、伏せ字や思わせぶりな羊頭狗肉のタイトルをつけたものが、これでもか、これでもか、とあがってくる(試しにいくつか見たけどやはりタイトルから予想される内容と実際の内容とに著しい乖離があった。中にはあまり内容の推敲(?)もせずに性急に出したのか、事実に間違いのあるものまであった)。

しょうがねえな。

もしも、こうしたやり方で視聴数を稼ぐ味をしめてしまったら、やめることはできないんだろうな。

発信者としての品格や矜持なんてどうでもいいのか・・・。

やれやれ。

それはともかく。

やはり、ブログでも、ユーチューブなどの動画でも、作り手はパッと見で、読む人や見る人を引き込むための、いわば、「つかみ」が勝負だと思っているんだろうな。

つまり、キャッチコピーが何よりも大事だと。

限られたスペースで、読む者、見る者をひきつけて取り込むためには、これが何よりも肝要だと。

まあ、考えてみれば、こうしたつかみのやり方は、何も今に始まったことではなくて、本(書籍)にもあったな。

○○○○がわかる本、○○○がすぐにできる本、といったように。

本の表題(タイトル)が、いかにも、すぐに○○○がわかるようになりますよ、○○○ができるようになりますよ、という即物的で、入門用として安易に買わせようという物欲しげな感じのする。

単に○○○入門や、基本○○○、○○○概論といった地味目な表題では、他社を出し抜くことはできないと考えて、本来なら読み終えてから初めて本の価値が決まるにもかかわらず、とにかく、売ることが至上命題だから、考える間を与えずに、買わせてしまえ、ということなんだろうな。(*)

著者が希望しなくても、出版社側の意向でこうなっていたのかもしれないな。

派手派手しい引き込むための文句や、流行や時代に取り残される恐怖心に訴えるものや、同調圧力に訴える○○万部突破!!などの煽り文句のついた本のオビ(帯)も、もちろん、これと意図は同じだな。

結局、限られた情報で売らんかな、と考えると、このようになってしまうのは、唯物論の思考の資本主義社会では、仕方のないことなのかな。

私はこうしたことが嫌いだし、基本的に神性に適うとは思えないので、ブログなら地味目で、なるべく内容を一言に集約できるような表題をつけることにしている。

だから、読まれたことのある方は、さぞかし、つまらないと感じたことだろうな。

内容も文章表現も易しく、わかりやすすぎて、これといった読みごたえ(?)がない。

しかも、写真やイラストで、読む人を楽しませる工夫も一切ない。

こうした現代のサイトの当たり前の感覚(?)からすれば、文章の中身一辺倒にしかなっていないからだ。

でも、これが私の選び取ったやり方だから、勝手にそうさせてもらっている。

写真を使ったことがあるのは、 ( おぶなより ) での大蔵経 第一巻の外観などと缶コーヒーをこぼして汚してしまった中村さんの原始仏典(ちくま学芸文庫)を撮った 2 回分だけ(今のところ)。

読んで頂けるのも、頂けないのも、おそらくかなりの部分が過去世の因縁によるものだと個人的に勝手に考えているので、機会が与えられている限りは、神性に適った努力をしておくに越したことはないと考えているからだ。

つまり私は、現代的な標準(?)からすると、つかみに重きを置いていない、地味なやり方を選んでいる。

ただ、内容だけは、どれほど力不足でも、精一杯に書くようにしている。

来世以降のはるか彼方の自分に役立ち、ひいては、そのまたはるか先の地上天国が成った暁のほんの一欠片になれるように。

大げさに言えば、はるか彼方の先の先から見て、先取りではないが、これに資するように、逆算して今のあり方を規定している訳なの。

もちろん、様々な文章に加える装飾もその完成される世界では当たり前になっているのかもしれない。

ただ、自分にはこうしたものまで注力する才能と力がないので、文章作成だけに絞っているだけ。

で、本来なら、今生(今回の人生)の意味づけも踏まえて、やりたいことをすればよかったのかもしれないが、それはできなかったので、せめて自由裁量の余地が多いこの場を活用させてもらおう、と考えた次第。

その点では、こうした場を与えて下さっているご縁のあったはてなさんには、本当に感謝している。

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(*)一冊の本には、たとえ一言でも、一つの事実でも、これは収穫だと思えるものがあれば、御の字。

何から何まで、完璧で価値のある本なんてないよ。

ある程度、不完全でも、得るところが多ければ、大収穫だ。

それくらい、内容の濃い本を著すことは難しいのではないか。

そんなふうに思う。

蛇足だが。

本についている大げさで、煽動的な見出しの書かれているオビ(帯)も本当にあてにならないな、と思わされることがしばしばある。

例えば、とある女性が著者の A という本では、唯物論に立脚し、他の女性を著しく貶めるきわめて醜悪な批判を展開しているにもかかわらず、ご本人は魂(霊性のことだろう)を重視したいなどという、超矛盾した内容になっていた。

他者をひどく批判するようなあり方は、到底、霊性を重視するとは言えない。

アイツがだめだ、コイツがだめだ、という批判は、真善美に悖り、神様のみ心には適わない。

ましてや、きわめて醜悪な批判なら、なおさらのこと。

これが霊性に適うだと?

冗談もいい加減にして下さい。

B という本(著者は男性)は、仏教に関する新書だったが、思わせ振りなオビや、書評の割には、内容の言及の仕方が中途半端で、これまだ未完成で出したんじゃないの?ってのがあった。

言っちゃ悪いけど、やっぱりというか何というか、書評もアテにならないことがあるんだよな。

こんなことを言っては、実も蓋もないかもしれないが、2500 年前のことはあくまでも推測しかできませんよ。

追及しかけて、1、2 割程度(?)しかわからないような書き方をするくらいだったら、端からわからないと正直にお書きになればいいのに、と感じたものがありました。

ちなみに。

これとはまったく違う話になるが、仏教関係の新書を出版されている、みうらじゅんさんの仏像への凝り方は凄い。

まるで、専門の研究者、いや、それ以上なんじゃないかな。

みうらさんは、おそらく過去世で仏教にかなり深いご縁のあった方なのだろう。