124_あるがまま ー 平等とは ー

肉体人間(以下、人間または人と略す)は皆、老若男女問わず、誰しもが、かかわる相手の容姿に点数をつけて、評価している。

半ば反射的に、無意識に判定を行ってしまっている。

どんなにルッキズムが好ましくないように思えても、愚かしいように思えても、この判定を行ってしまっているのだ。

それはなぜか。

やはり、人間が神様の分霊を本質としている、人間の本質は霊なる人間である、つまり、神様であるからではないだろうか。

神様と言えば、真善美に悖らない完全円満さを思いつく。

であるならば、その主体として為すところの、想いも、行いも、姿も、創作するものも、すべてにおいて美しいととらえられるものが好ましいと感じられるようにできている。

つまり、肉体をまとっていても、人間は、神様としての霊なる人間と本質的には何ら変わらない傾向を持っていると考えられるのである。

端的に言うと、神様が神様を、神様が本来的に作り出したものを求めている、ということになる。

だから、私達は、あらゆる点において、美しいものを好む、美しいものと親和性が高いとも言える訳だ。

人間の外見ならば、基本的に、男性ならば眉目秀麗な男性を、女性ならば容姿端麗な女性を、自然に、半ば無意識に求めてしまう傾向があるとも言える。

男女ともに、美しさを感じ取れる相手(特に異性)を眺めていると、心地よい幸福感を感じとることができるのは、こうした理由によるものであると考えられる。

外面で、満足度が至らなければ、その人の想いや行いが、同じ神様の分霊をそなえた他の人に対して、愛に満ちていることを美しいと感じる、と言えるだろう。

だから、人間を評価する時には、外面ばかりでなくて、その人の性格や自らを高める努力する姿勢と、本質的には同胞である、できるだけ多くの人に愛を施して、かつ、尽くす姿勢を、評価の項目に入れることになる。

要は、ありとあらゆる面において、美しく愛に満ちているものを、好ましく思うようになっているのだろう。

人間というものは。

それが人として、神様の分霊を本質とする者の性(さが)である、と。

となると、自分さえよければいい、自分と利害の共通する近しい者だけがよければいい、という想いや行いは、本質的には、こうした愛と美しさに反するものと言える。

いくら神様が地球さんの開発の便宜上、人間に自己保存の本能をそなえさせたものとしても。

我欲、そして我欲にもとづく執着の我執のかなりの部分がこれに当てはまる。

従って、この人間によって構成される世界が、いかにその総和として、総体として真善美に悖らずに愛に満ちているか、いかにこれに近づいていけるかが、私達人間の最終的な目標になってくると考えられる。

ということは、人間で言えば、あるがまま、すなわち、その人のたくさんの過去世の因縁を反映した外観や内面をそなえた人間を、そのまま短絡的に、無条件に、すべてを認めて「よい」と評価することはできないことになる。

あくまでも、基本的には、神性という源流に近いもの、これから派生しているものが、「よい」ものであると考えられるからだ。

従って、今現在のあるがままの人間を認めるためには、そのあるがままとなっているところの、その成り立ちと理由を理解する必要がある。

人間の本質があくまでも神性であることを踏まえた上で、たくさんの過去世の生き方を反映した結果が、今現在のあるがままの状態の人間にあらわれていることを理解する。

そうして、改めてその人間自体に価値があることを認めなければ、人間が真に平等であることを理解することはできない。

私的なあるがままに対する理解です。

つまり、外面などの形式的なあるがままをとらえて、それだけで人間を評価する限り、人間は平等であると真に理解することはできないということです。