125_基準

世の中には様々な議論をしている話題がたくさんありますね。

その中でも、こと恋愛や、その延長としての結婚した夫婦などの男女関係の話題に限っては、一つの形を基準にして考えれば、何もわざわざ話を難しくして、ああだこうだ言わなくてもいいように思うんですよ。

なぜならば、ほとんどの話が唯物論を基本に据えた話をしいるので、話の内容も唯物論の範疇を出ていない、それなりのものにしかならない(つまり話が論争ばかりしていておさまることがない)からです。

一般的に、
人間または人と称される肉体人間は、
神様のお命を本質として生きている、
別の言い方をすれば、
神様に生かされている
存在、です。

その本質は、
あくまでも
肉体を生かしている命そのもの、
=霊なる人間
=神様の分けられたお命
=神様、です。

肉体人間を、
雄(オス)と雌(メス)、
すなわち、
男性と女性の2つの性に分けて、
その寿命を数十年と限り、
有性生殖の形で引き継いでいく
形になっているのであれば、
そのあり方は、
以下のようになるはずです。

男女一対で、
お互いに神様の命が
根底にあることを踏まえて
尊重し合って生きていく、

すなわち、

互いに、

愛し合い、
慈しみ合い、
助け合い、
支え合い、
感謝し合う、

そして、

いかなる艱難辛苦があろうとも、
硬い絆で結ばれて離れない。

そうやって、ともに人生をまっとうしていく。(*1)

肉体人間としての寿命が尽きるまで、
神様の命をまっとうしていく。

子供(子孫)を授かれば、
これは神様から
新たな命をお預かりしたものとして、
大切に育てていく。(*2)

そうして、

次世代にたすきを渡していく。
人類としての命を引き継いでいく。
人類の命脈を保っていく。

まあ、実際のこの世は、火宅の世と呼ばれるように、たくさんの人々の過去世の、これまたたくさんの因縁、特に真善美に悖る悪い因縁の清算をしなければならないために、毒親がいたり、暴力や放蕩三昧の息子や娘がいたり、経済的な状況が入り組んだりして、一筋縄ではいかないことが多々あります。

しかし、
基本は上記のように、

男女一対、
互いに尊重し合い、
互いに愛し合い、
互いに協力し合いながら、
神様から新たに授かる命も
子供(子孫)として大切に育てていく。

これが、基本になるはずです。

そうなると、
浮気、
不倫、
婚外恋愛、
略奪愛や、
何股もすること、
配偶者を裏切る托卵、
その他諸々のこの基本に反する
「恋愛やセックスにかかわる
すべてのこと」、
すなわち、
人間が神様の分けられたお命を
本質としていることに
反するところの、
この基本を外した
肉体人間としての想いや行いは、
明らかに間違っている、
ということになります。

神性を基準に判定する限り、
これらの行為は
すべて間違っている
と言わざるを得なくなるのです。(*3)

肉体人間は、動物的な側面を持っていても、動物そのものではありません。

遺伝子を引き継いでいっても、遺伝子そのものではありません。

ですから、動物や遺伝子の利己的な側面を肉体人間に援用して、その神性を放棄させよう、浮気や不倫や何股などを正当化させようとする理屈は、根底から間違っているということになるのです。(*4)

従って、唯物論で様々な根拠をあげつらって、ああだこうだといわなくても、この基本を元にして、つまり、基準にして考えれば、ことの良し悪しは簡単に判別できると思うんですよ。

だから、これらに関した内容で、ちまたの長々と唯物論の議論をたたかわせているような文章を見かけると、どうしてこのように、素直で簡潔なものの見方をしないのかなあ、といつも思ってしまうんですよ。

まあ、唯物論一辺倒で、神様を信じない、霊性を重んじない、霊性を考えないから、やむを得ないのかもしれないですけれど。

こうした男女にかかわる問題だけではなく、神様のお命を本質としている、肉体人間同士のかかわり合いすべてにおいての基本は、お互いをそれなりに尊重し合う、ということになります。

私的に言わせてもらうならば、霊性を尊重する、重んじる、ということは、肉体人間がそなえている、神様の分けられたお命=神性を尊重する、大切にしていく、という意味合いになります。

~~~~~

(*1)とは言うものの、世間での男女の実際の組み合わせには、非常に残念なことながら、いわゆるセックスや性器の相性に見られる繊細で難しい問題が生じてしまい、相思相愛の男女一対の組になりさえすれば、必ずしもすべてが上手くいくとは限らない場合がある(これも、根本的には、過去世の因縁に起因すると思われる)ので、さらに話が難しい。

しかし、人類の最終的な地上天国化へ向けての仕上げの段階では、こうした不一致も、自ずと克服されるような形に、次第に進化・収斂(しゅうれん)していくものと思われる。

(*2)子供は授かり物(子供の場合にはこの物という漢字はふさわしくないと思うのだが)。

これは、子供は天(=神様)からの授かり物、という意味ですね。

セックス(現代なら人工受精も含む)による受精にはじまって、無事出産するにいたるまで、当たり前のようでいて、実は奇跡的な巡り合わせの連続であること。

そして、受精後に、胎児が育っていくこともまた、何らかの不思議な力の働きかけがないとあり得ないこと。

だから、
奇跡的な受精から
受精卵の着床をはじめとして
無事出産に至るまでの
すべての過程が
=有り難い
=当たり前のようでいてよく考えれば実は奇跡的な巡り合わせの連続
に他ならないんですね。

私達の自らの命も、世界にただ一つの不思議なありがたいもの。

従って、

子供が生まれるということは、
そうした類いまれな
奇跡的な巡り合わせの連続で
生まれてきた自分と
同じようにかけがえのない命を
また一つ新たに神様からお預りする
という意味がある

と考えられるんですよ。

従って。

子供は
神様から新たな大切な命を
与えられた(=授かった)ことになるのだから、
しかも(原則として)自分達夫婦に
託された命なるのだから、
ありがたく大切に
育てていかなければならない、
ということになります。

(*3)今回は、人間が神様のお命である分霊(わけみたま)が本質であることから、いわば演繹的に、男女の出会ってから結婚に至るまでの過程とそれ以降の過程においての、恋愛やセックスにかかわるすべてのことをどのように判定して、考えるべきかを書き出してみた。

しかし、こんなことを、何もわざわざここで宗教のズブの素人の私ごときが書き出すまでもなく、こんなことは誰しもが当たり前のこととして、無意識にわかっているはずのことなのだ。

なぜならば、私達人間が神様の分霊である神性を本質としているものである限り、誰もの心の奥底には神意識があり、こうしたことはすべて自動的に瞬時に(業想念が深い深い場合は無意識下で)判定がなされている、と考えられるからだ。

みんなわかっているんですよ。

誰しもが、すべてのことを。

わかっていなければ、おかしいんです。

私ごときがこんな偉そうなことをゴタゴタと書くまでもなく、誰しもがわかっているんですよ。

皆さんはすべてわかっているのです。

人から言われて、どうのこうの、という話じゃないんですよ。

もっと乱暴なことを言わせてもらえば。

生まれてから社会慣習や道徳を含めた一切の教育を受けられない、かなり劣悪な環境で苦しんできた人以外で、そこそこに生きてきた人ならば、肉体人間ならば誰にでもわかるはずのことなのです。

極端なことを言えば、聖書も仏典も必要ないんです。

ある程度の人としての判断力が発揮できるように生きてきた人ならば、自らの神性に問うだけでいいんですよ。

聖書や仏典の研究に携わるような特別な天命を授けられた人ならば別なのかもしれませんが、そうでない人は自ら霊性の開発だけをすればいいんです。

上記に私がいろいろ書いたことだって、やれ聖書のどこの文言がこうだ、やれ、仏典のどこの文言がこうだ、仏教のどの教えがこうだ、とかそんなことをいちいち参照したり、調べたり、思い出したりしなくても、自然にわかるはずのものなのです。

皆さんは、すべてありとあらゆることの判定がお出来になるからですよ。

わからないかのように感じるのは、過去世からの業想念がそれなりに深いために、感覚が鈍らされているだけです。

全部、何から何まで、あらゆるすべての(神性にもとづく)万事のことの判定は、ご自身で出来るんですよ。

自らを中心とするエゴにもとづく、唯物論の利害得失計算を退けて、ご自身の心に真摯にたずねていけば、ありとあらゆることは、わかるのです。

私達がかなりの窮地に陥った時に、なぜ、反射的に「神様!」と呼ぶ(叫ぶ)のか。

私達自身が神様と繋がっていることが、わかっているからこそではありませんか?

だから、私達が自らの心に真摯にたずねていけば、すべてのことはわかるはずなんですよ。

ただし、過去世からの業想念がかなりあるために、わからなくなっている場合が、多々あるんですよね。

どうしても。

(特別な人を除いては)矯正という肉体を伴った魂の学習の場となるこの世に、それなりの経験を踏む必要があるから、私達は肉体人間として、わざわざこの世に生まれてくる訳で。

このように考えてくると、輪廻転生の上がりをより早めるためには、霊性の開発が不可欠になってくるんですよ。

動物的な本能のままに生きて何が悪い。

自分勝手に生きて何が悪い。

このように言う人は、そのままでいたら、人類がどうなるかを考えればいいんですよ。

人類が滅びたって知ったことか。

他人様にとって、この世が阿鼻叫喚の地獄のようになろうが、どうなろうが知ったことか。

自分さえ、自分に近しい大切な人さえ、いい思いさえできれば、あとはどうなろうと知ったことか。

一般的な民衆は、せいぜいおこぼれ程度でいい。

これで本当にいいんですか?

という訳で、神性から見て、これらのことがどのような判定をなされ、輪廻転生にどのように影響を及ぼすことになってくる可能性があることになるのかは、皆様ご自身でよくお考えになって下さい。

(*4)逆に言うと、人間は動物でしかない、同列の存在だとすると、どうなるか?

動物も人間も神様から命を与えられて生かされている。

ただし、

動物の本質は、
魂魄であるのに対して、

人間の本質は
神様のお命を直接に頂いている
霊魂魄

である。

人間は、霊として神霊の神様のお命を
直接頂いている分、動物とは異なる。

それゆえに、人間は、
神様から知恵と創造力を授けられ、
動物とは明らかに一線を画した存在
になっているのである。

いわゆる、万物の霊長たる所以だ。

そして何よりも、
神様の子供である以上は、
人間は、本来的に
気高く生きていかなければならない
はずなのだ。

従って、人間は、
同胞の仲間である人類だけではなく、
動物をも含めた、
与えられたあらゆる地球環境を生かして、
すべてを立派に
取りまとめていかなければならない
使命があるはずである。

そのようにして、
気高く生きていくべき人間を、
動物や遺伝子の
利己的な行動と同列に扱うことの、
一体どこが正しいと言えるんだ?

上記のように、
人間には
知恵と創造力がそなわっている分、
利己的に生きようとすれば、
動物よりはるかにエゴに徹して、
下等に成り下がることが可能だ。

言い方は悪いが、
動物よりも悪知恵が働く分、
はるかに下等に生きることが
できてしまうんだよ。

つまり、
動物よりもできることがはるかに多い分、
やろうと思えば
数限りなく悪いことができてしまう
ことになるんだよ。

従って、
人間を動物と同列に扱うことは、
人間を動物以下に貶(おとし)める可能性がある
ことになってしまうんだ。

私達人間は、
神様からこんな悪事を働くことを期待されて、
こんな愚かしい動物以下の生き方を期待されて、
この世に遣わされているとでも言うのか?

神様は、
そんなことのために、
そのお命を、
私達にわざわざお与えになって、
生かしていると言うのか?

違うだろ?

違うに決まっているじゃないか。

だから、動物行動や遺伝子行動の利己的な働きを人間に援用することは、どうしたって間違っているんだよ。

俺は、動物や遺伝子の利己的な行動を援用して人間の神性を貶めようとはしゃいでいる(?)かのように見える人達の文章を読んでいると・・・。

動物行動や遺伝子のありよう、特に、それらの利己的なありようから、人間のありよう全般を、被せて解明しようなどという発想そのもの自体が、人間の神性を貶める、根本的に間違っている発想としか思えないんだよ。

下衆の勘ぐりを言わせてもらえば、端(はな)っから、浮気や不倫などを肯定させたい、浮気や不倫などに免罪符を与えたい、といったきわめて邪(よこしま)な動機があるからこそ、動物や遺伝子の利己的な行動を持ってきた話をしているのではないか、とさえ邪推をしてしまうんだ。