133_あるがまま3 ー 知恵と智慧 ー

少し前の ( 130_あるがまま2 ー ありがとうの意味 ー - おぶなより2 ) の続き。

これまで肉体人間(以下、人間または人と略)は、神様の分けられたお命である分霊を本質としているところから、結果として、神様から知恵と創造力を授かり万物の霊長となっているとしばしば書いてきた。

ただ、この知恵を、智慧も含めて、カッコ書きなどで混同した形で書いてきたので、ここで分けておこうと思う。

国語辞典で見ると、知恵と智慧は「ちえ」の項目に一緒に出ている。

智慧」が常用漢字表にない漢字となっているだけで、書かれている意味は同じだ。

その意味は、以下の通り。

物事を考え、判断し、処理する能力。知能。
(用例)知恵をしぼる。入れ知恵。

( おぶなより ) でも、ひろさちやさんの「釈迦」(春秋社)という本を、ひしみー001 のように通し番号をつけて扱ってきたが、そこであったように、智慧の方は、上記の国語辞典の意味とは、意味合いが違ってくると思われるのだ。

個人的な考えも含めて、この一般的な知恵(智慧)に加えて、2つの意味を記しておきたいと思う。

1.仏教としての知恵

ひろさんは、仏教には、戒学・定学・慧学の 3 つが揃うことが重要だという。

苦行だけでは絶対悟れないこと、禅定がテクニックだけではダメであること、そうして、戒学と定学を守り修めれば、悟りの智慧が得られるかのように読み取れる感じだ。

ひろさんは、禅定は戒律と智慧によって補完されなければならないとしている。

さらに、ひろさんは、(仏教の)戒律を守り、(仏教の戒律を守ることによってその人間の想いと行いが)人間らしい生き方(人間のあるべき生き方という意味だろう)になった人が禅定をすれば、本物の智慧が得られる、とする。

ひろさんは、こうして得られた本物の智慧は、私達の普段用いている損得の知恵ではない、という。

悪知恵でもなければ、下種(げす)の後知恵のように事後的にようやく妙案が出てくる類いのものではない、ともいう。

本物の智慧であり、悟りの智慧だという。

これは要するに、こういうことだろう。

仏教の修行をきちんと修めて、悟りを開いた境涯から、わき出てくる、というか、自ずと滲み出てくる知恵は、悟りを得ていない人の知恵とは、明確に一線を画した、素晴らしい知恵である、と言いたいのだろう。

悟りを得ていない段階のごく一般的に得られる知恵とは、次元が異なる、上等なものだ、ということだろう。

私的に言い換えさせてもらうなら、一般的に得られる知恵は、人間=肉体人間という肉体人間観にもとづいた、五感を満足させるための自己中心的な利害得失計算の大半が知恵に当たるということになる。

悟りを得た境涯から出てくる知恵は、これとは根本的に異なる上等な知恵ということだろう。

まあ、さしづめ、この 1. の知恵 は、下記の 2. の知恵 の内の大半を、仏教の修行によってもたらされた悟りの境地から得ることができるもの、と言って差し支えないだろう。

2.神性にもとづく知恵

だいたい、1. と似通った意味合いになるが、ちょっととらえ方が異なるので記しておく。

神様の知恵(≒智慧としていいだろう)は、実は、神界→霊界→幽界→現界(この世)と流れてきている。

この神様の知恵を、流れてくるそのままにこの世であらわせば、人のためにもなり、自分のためにもなり、みんなのためにもなる、そうして、神様の世界そのままの、協調と調和と幸福をもたらす知恵となるはずである。

ところが、霊界の下層と幽界、特に幽界には、人間が神様から肉体人間となるために付与された自己保存の本能によって、自己中心的な神様の世界にはそぐわない真善美に悖る想いと行いを輪廻転生を通して積み重ねた業想念がたくさんたくさん溜まっているために、神様の知恵が遮(さえぎ)られ、そのままではこの世には届かなくなっている。

つまり、人間の過去世で溜め込んだたくさんの業想念に遮られて、神様の素晴らしい知恵は、この世でそのままあらわすことはきわめて難しくなっている。

だから、修行や祈りなどによって、この神様の知恵を遮っている業想念を、浄めて無くしていくことができれば、神様の素晴らしい知恵がこの世にまで通ってきて、あらわれてくることになる。

従って、この 2. の知恵も私達が一般的に用いている意味合いとは根本的に異なる、上質な知恵ということになる。

そして、神様の世界から流れてくる神様の光そのままの想いや行いを、一挙手一投足そのままにあらわせるようになれば、理想的で完成形ということになる。

あらゆる行いが、神様のみ心に適(かな)うように、当意即妙になされるようになるように。

老子のいうところの無為自然のように。

とらえ方のアプローチこそ異なるが、1. と 2. は、ほぼ同じように考えていいと思うのだが、「仏教」という形式のとらわれを放すことができない限りは、やはり、2. の方がやや範囲が広く上位になるように、個人的には思う。

というように知恵を、そして、特に 2. を智慧としてとらえると。

世間を渡るため、自分の利害得失をはかるため、(少し高尚に)人様のために尽くしたり、人様の心を慮(おもんぱかっ)た心遣いをすることを知恵とすれば、
自分のためになり、みんなのためにもなり、すべての者に調和と幸福をもたらす絶対的な知恵が、智慧ということになるだろう。