147_お天道様

とあるサイトで、妙好人の生き方に共感するとも思える内容が書いてある文章を見かけた。

仏教学者の鈴木大拙さんの言葉であることと、鈴木大拙さんが妙好人研究で著名な人だからそのように感じた次第。

あらましは以下の通り(改変・要約済み)。

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戦後、学者など一部の人達が、「自由、自由」と主張したためか、日本の伝統や風習が非難の対象とされているのが一因のためか、宗教的なものを避けようとする風潮がある。

かつては、「お天道様が見ている」として、人知の及ばない神聖な存在に対する畏敬の念が存在したが、こうしたわが国の伝統を無視して、目に見える利益や効率のみを追求する風潮が続くとすれば、暗い将来しか待っていないだろう。(*1)

著名な学者であり禅や妙好人にも詳しい宗教家の鈴木大拙さんはこう述べておられる。

「人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって信用できるものになれば、それで結構だ。
真っ黒になって黙々として一日働き、時期がくれば「さよなら」で消えていく。
このような人を偉い人と自分は言いたい」と。

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以上を読んでの感想を述べたい。

1.悟れぬ人間は実利の生き物

私達は人間=肉体人間という肉体人間観に根強く縛られている。これを脱却できているのは、仏教で言えば、難行道で悟りを開いたような人だけだろう。

つまり、現代では、まずはいない。

いたとしても、社会との利害関係を極力断って、ひっそりと山奥で仙人のように暮らしているのではなかろうか。

このような有り様なので、原則として、私達はどうしても身体の五感にまつわる欲望を最大化して、自分中心の利害得失を最優先に行動するようになっている。

戦前は、あたかも強権一神教のような天皇制がとられたために、一般の人々は甚大な被害を被った。

当時の人々の間には、今度こそは、身の回りの安全と生活の保証があって、できれば安穏な生活を送りたいという切実な気持ちがあったのではないだろうか。

それゆえに、宗教というと、どうしても戦時の体制が思い起こされてしまい、いわばアレルギー反応のように、避ける傾向が出たのではないかと推測できるのだ。

肉体人間観に縛られて、それがために身の回りの利害得失に縛られている限り、戦争では散々な目に遭わされたのだから、身の安全を脅かすことは避けたいというのも無理もないことだったのではないか、と思うのである。

この世の不幸や災難などが、その多くに過去世の因縁がかかわっており、それがこの世で時間をかけて消え去るためにあらわれているととらえたり、肉体人間観を脱却して、唯物論的な利害得失計算的な生き方から離れ、与えられている神様のお命そのままに生きることこそが本望だ、と思えるような人は、まずいない。

つまり、(修行などによって悟りを開くことのない、あるいは、開くことができない)唯物論や肉体人間観にとらわれている一般的な私達は、自らの肉体と生活にまつわる唯物論的な利害得失が最大の関心事であり、これを第一義に置きがちだからだ。

このように考えてくると、再び以前のような悲惨な目に遭いたくない、戦前のような体制に回帰して同じ轍を踏みたくない、今度こそ安穏な生活を営みたいと平和を切実に願って、戦時の体制への反動としての形で、自由がある程度叫ばれたのも無理もないことだと思うのである。

2.想いと行為の主体として

「お天道様が見ている」というのは、どのように考えればいいのだろうか。

お天道様というのは、太陽のこととされますが、より深く考えれば、神様のことです。

最終的には、すべてのものは、神様に行き着きますから。

太陽を創造したのはどなたですか。

太陽も神様の化身と考えられます。

そういうことです。

で。

・畏敬~いけい~おそれ敬うこと。

つまり、自分とは異なる尊敬に値する第三者=神様が常に自分を見ているから悪いことはできない、つまり、自分のわがまま勝手な行動に対する抑止力という意味合いでとらえるのか。

それとも、自分が尊敬する第三者=神様に恥じない立派な生き方がしたい、同じように生きたいという憧憬の気持ちから自分の行動を律するという意味合いなのか。

はたまた、これら双方を含んだ意味合いなのか。

つまり、畏敬の念は、

抑止力として働くのか、

憧憬からくる同一化として働くのか、

はたまた、両方なのか、

ということです。

多分、両方でしょう。

しかし、抑止力という見方は、あくまでも信賞必罰のように罰が下るからという保身的な色合いが隠せません。

これでは、
罰が下る可能性を避けることさえできれば、
抑止力は必ずしも要らないということになってしまいます。

お天道様(=神様。以下、ここではお天道様を神様とする)は、私達のありとあらゆる想いと行動は、最大漏らさず何もかもお見通しなはずですが、これではたとえ悪事(?)がバレだって、ちょっとくらいはいいだろう、という気の緩みが生じてきてしまうのです。

なぜならば。

私達が(今生から新たに)真善美と愛に悖った、すなわち神様のみ心に悖った想いと行いをしても、その報いのうちほとんどのものは原則として世を隔てる、すなわち、来世以降に返ってくるからです。

つまり、(今生から新たな)神様のみ心に適わない想いを抱き、これにもとづいた行いをしても、すぐにその報いが返ってこないことが圧倒的に多いために、神様の私達のありとあらゆる想いと行い=行動に対する目が行き届いていないかのような錯覚に陥ってしまうのです。

これでは、(良心=深層の神意識の咎めはそれなりにあるにせよ)実質的に「バレなければいいや」という、いい加減な気の緩んだ状態になりがちな訳です。

極端に言えば、
バレなければ罰を受けない訳だから、
バレなければ何をしても構わない、
という気持ちの緩みが生じてきて、
神様のみ心に適わない想いを抱き、その行いをしても、罪悪感を抱かないようになってしまう可能性が出てくる訳です。

さらに、これが慣れて恒常的になると、罪悪感がかなりの程度消失してしまい、慣れっこになってしまう可能性がある、ということです。

他方、憧憬からくる同一化という見方は、憧れによる自らの嗜好的な色合いも多分に含んでいるように思います。

これも、
憧れの気持ちを持てなくなる、
端的に言うと、
あまりの不幸や災難に遭ったために、
神様不信に陥る、
つまり、
神様を信じられなくなってしまう場合には、
憧憬の念は霧消してしまうことも考えられます(神様のお命を頂いていて神意識が深層にあるから、どんなに悪い因縁が多い(=いわゆる、業が深い)人間でも、憧憬の念が完全に霧消することはあり得ないのだが)。

つまり、
罰を免れる可能性を回避できることや、
不幸や災難といったことによる外部的な要因で、
畏敬の念が脅かされる恐れが出てくる、
それがすすんでしまうと、
畏敬の念が消え去る恐れさえも出てくることになるのです(これも、どんなに業が深い人間でも、神意識がある以上、憧憬の念と同様に、畏敬の念が完全に消え去ることはあり得ない)。

こうした 2 つの外部的な要因に引きずり回され、
畏敬の念が崩れ去る脆さを免れないということは、
畏敬の念が脅かされ、霧消してしまえば、
もう、神様をおそれることも、敬うことも、できなくなってしまう、ということです。

端的に言うと、
神様がバチを与える(←実際は神様の法則を違えたためにその報いを受ける)畏怖すべき存在ではなくなり、
あまりの不幸や災難で、神様を敬うことができなくなり、
これら 2 つの結果として、神様を信じることができなくなる。

つまり、
神様を求める(おそれ敬う)あり方が、

罰か当たること、すなわち、神様のみ心に適わない想いと行いをしても、これに対する報いが、輪廻転生を通すことが原則であるために、すぐには返ってこないことや、

不幸や災難に見舞われるといった、

これら 2 つの外部的な要因に左右されてしまうことがありがちなために、

神様不信に陥りやすい、
ということです。

それというのも、
これら双方ともに、
神様を求める(=おそれ敬う)あり方としては、
行為の当事者としての主体的で積極的な感じが弱いからなのです。

これは、(これも端的に言うと)神様を肉体人間としての自分とはつながりのない、外部的に完全に隔絶された別個の存在だ、と認識しているからだと思われます。

だから、
外部的な要因、
すなわち、
罰を逃れる可能性があるように見えたり、
不幸や災難に見舞われてしまえば、
神様を求める(=おそれ敬う)気持ちが揺らいでしまう、
ということになるのです。

なので。

別の視点からとらえ直します。

まずは、私達肉体人間の本質は、神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)である、つまり、神様である、とします。(*2)

つまり、神様の分けられたお命そのもの、神様の光明波動そのもの、この肉体を有機的生命体として機能させ、成り立たせている、神様の霊光のエネルギー体となる霊なる人間こそが、本当の人間であり、真実の人間に他ならない、とします。

そうなると、この肉体は、その霊なる人間である、神様の分けられたお命の容れ物であり、働き場所ということになります。

つまり、神様はそのお命を分け与えられることで、この私達の肉体となる存在に、命を与えて有機的生命体として成り立たせている、肉体としてある物質的な要素を人間として生かしている訳です。

すなわち、私達人間は、神様にその分け与えたお命の息吹を吹き込まれることで、肉体のある人間として生きているのです。

そうすると、この人間の意識の奥深くには、神意識があることになります。

そして、私達の個人個人それぞれには、先祖の悟った霊の守護霊様とその上に守護神様がついています。

仮に、とりあえず、
この 2 つ(=「分霊」と「守護の神霊様(守護霊様と守護神様)」)が肉体人間に必ずそなわっているものとすると(五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)によると肉体人間には確か 6 つか 7 つの心があるとなっていたと思いますが、ここでは簡略化して 2 つとして話をすすめます)、

肉体人間はその本質が神様となるのですから、本来的には、その主体として、真善美に悖らずに、愛と真(まこと)に満ちて生きるべきだ、ということになります。

意識の深層に神意識があるということは、いくら肉体があり、自己保存の本能を付与されていて、自らを中心とした利害得失計算に狂奔していたとしても、常にそれを見ている神様としての自分=「分霊」がいるのです。

そして、自分と同じように神様のお命を分けられた先輩霊である、本質が神様である、守護の神霊様(主として守護霊様)は、(私達個々が肉体人間としてこの世に生まれる前から)常に私達に寄り添って見てくれていることになります。

つまり、

自分としては、本質に神様のお命を頂く者(=神様という主体)として、良きに生きなければならないし、

守護霊様(霊的な成長を見守り、応援し、必要とあれば助けてくれる先輩霊様)のためにも、良きに生きなければならない、

ということになります。

ここでは便宜上、神様を 2 系統に分けていることになりますから、

常に自分とともにある「内なる神様」=「分霊」と、

常に自分を見守っていてくれている、この世にあらわれた先輩霊としての「外なる神様」=「守護霊様」、

という形でお天道様=神様が、

肉体のある人間にまつわる分霊という「内なる形」(=主体)と、

その人間を背後から守り、霊性を向上させるために支援する「外からの形」(=応援者)

といった形で、少なくとも 2 系統あるのです。

従って。

自分に命を与えて生かして下さっている大元の命の親に当たる神様(=主体と応援者のすべての大元)に感謝をして畏敬の念を抱き、

常に自分に寄り添って見守って下さっている神様=守護霊様(さらにはその上に立つ守護神様)(=応援者)にも感謝をして畏敬の念を抱くのは、

あるべき当然の姿ということになります。

私は、「お天道様が見ているよ」をこのように、積極的で主体的な意味にとらえ直す方がいいと思います。

つまり、外部的な視点で、肉体人間としての自分の行動を見ている神様は、(すべての元親としての神様を除くと)少なくとも 2 系統あるということです。

まとめると。

神様のお命は、
とりあえず、
以下の 3 系統に分かれていることにします。

身近なところから見ていくと、

①「肉体人間としての神様の分けられたお命としての自分」(本当の自分自身=主体)と、

②「この自分の霊的な成長を側面から支援する、同じく神様の分けられたお命の先輩霊である守護霊様(と守護神様)」( ① の霊的な成長を支援し、お守り下さる先輩霊様=応援者・守護者)と、

そして、

③「そのすべての元となる、すべてに命を分け与えて生かしている親様としての神様」(大霊というか大神様=①と②のすべての元となる大神様)を、

以上、①、②、③ の 3 つのすべてが、深くつながっている、ととらえることで、
① の自らの主体的なあり方を積極的に認識していこう、
ということです。

肉体人間観、
すなわち、
「人間=肉体人間だけだ」と
この世の普通の表層意識、
すなわち、
顕在意識で思い込んでいると、
誰も見ちゃいないさ、
誰にもわかりゃしないさ、
と気休めをしたいところですが、
そうはいかない仕組みになっている
ということです。(*3ー1)(*3ー2)

3.畏敬の念から感謝一念へ

上記のように「お天道様が見ているよ」をとらえ直した場合として、畏敬の念を考えます。

神様は、ありとあらゆるものの造物主だとします。

そうすると、自分を生かして下さっている命から、周辺環境を含めた何から何までは、すべて神様がお与え下さっていることになります。

人間は、自分では、物も命も何一つ造り出すことはできません。

厳密に言えば、あくまでも加工して仕上げることしかできません。

その加工して仕上げるための、知恵と創造力さえも、神様の分けられたお命を頂くことによって授かっているのです。

元手となる資本は、すべての元は、みんな神様のお与えによっているのです。

生命活動をするのも、思考をするのも、原材料を調達するのも、物を作るのも、それに伴って必要となる周辺の環境となっている、ありとあらゆる事物も、神様の存在がなければ、何一つ成り立たないことになります。

ありとあらゆるものは、神様のお与えによっている、と。

すべては、神様のものに他ならず、自分のものは何もない(個人的に言わせてもらえば、無我や非我の実体は、こういうこと。造物主としての神様を認めない(=否定する)から、無我や非我といった訳のわからない話になる。造物主としての神様を認めれば、こうして話がスッキリと通るでしょ?)、と。

そうなると。

これはもう、ただただ、ひたすら与えられているあらゆることに感謝するしかない、となります。

ということは、私達は神様に対して、畏敬の念を抱くのは当然ということになります。

引用文にある、目に見える利益や効率のみを追求することは、要は、唯物論です。

唯物論のつまるところは、目に見える物、カネを、自分の利害得失を最優先にして、貪ることです。

ここでは、

わが身最優先、わが利益最優先で、

上記に述べてきたような、

親様としての神様の分けられたお命を宿す主体として良きに(気高く)生きることや

常に見守って下さっている先輩霊としての守護霊様への感謝の気持ちを持つことや、

すべてをお造りになった=お与えになった親様としての神様に対する感謝が、

抜け落ちているように思います。

これが唯物論なのです。

唯物論で人間が抱く良心は、あるべき生き方としても、ちょっとした良心止まりに過ぎないものであり、自らの利害得失が絡めば、すぐに崩れ落ちかねない、脆い良心なのです。

4.偉さを昇華させよう

「人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって信用できるものになれば、それで結構だ。
真っ黒になって黙々として一日働き、時期がくれば『さよなら』で消えていく。
このような人を偉い人と自分は言いたい」

曲解かもしれないが、私はこの文章には、他人から羨望されることへの渇望を感じる。

「偉い」というのが、明らかに他人目線を意識しているように感じるのですよ。

この「偉い」を含んだ一連の文章には、「他人に認められたい」という潜在意識からの根強い渇いた欲望が、はからずもあらわれてしまっているように読み取れるのです。

一見、偉さの評価軸を自分に移したように見えながら、その実、他人から評価を得ることへの未練が感じられてしまう文章なのです。

無論、「他人に認められたい」という渇望は、悟りを開いていない人には、誰にでも大なり小なりあるもので、当然と言えば、当然なんですが。

「偉さ」というのは、自分で評価するものではなくて、他人に任せておけばいいものです。

さらに言えば、そんなことは気にしない方がもっといい。

あくまでも、

想い(行為の前段階には想いがあるから)と行為の主体として、
神様からお命を頂いて生きている者として良きに(気高く)生きたい、
すなわち、自らの深層の神意識という良心に沿って良きに生きたい、

そして、

すべてを与えて下さって生かして下さっている親様としての神様と、

(その親様が私達肉体人間のために遣わした)常に人間を見守って下さっている先輩霊としての神様(主として守護霊様)に、

双方に恥じないように感謝しながら生きていくことができればいい。

どうしても、
「他人からの「偉い」という評価が得たいという執着」
すなわち、
「他人に認められたいという執着」
がなくすことができなければ(普通はできないから)、
評価は後からついてくる、
ととらえればいい。(*4)

よって。

この文章は、「偉い」を抜かせば、もっと良かったのになあ、と思います。

その点が、ちょっと残念。

妙好人因幡の源左さんや、浅原才市さんや、宇右衛門さんは、こうした執着はなかった素晴らしい宗教の達人だと思いますよ。

彼らは、威張るだの、偉いだのに対する渇望は、おそらく微塵もなかったでしょう。

ただただ、み仏(=神様)のふところに素直に飛び込み、ひたすらに感謝一念で過ごした、素晴らしい宗教の達人であり、信仰者のお手本だったと思います。

~~~~~

(*1)お天道様~おてんとさま~太陽。おひさま。おてんとうさま。
(用例)お天道様をまともに見られない。お天道様と米の飯はついてまわる。

(*2)「わけみたま」というと、通常は、「分け御霊」と書くようなのだが、私は五井先生の著作に従って、ずっと「分霊」と書いてきている。

(*3ー1)このように考えてくると、輪廻転生を通した私達の魂(人間の場合は霊魂魄)としての成績表は、以下のようになるだろう。

まず、たくさんの過去世を通した想いと行いが通信簿として記録される。

その成績の判定、すなわち、真善美に悖るか否かは、神様の分けられたお命を頂いているから、電光石火以上(?)に瞬時の判定がなされ、
中でも、真善美に悖るものは、守護の神霊様が浄めて救って下さっていくもの以外は、想いの体である幽体にすべて記録されることになり、
これが原則として、
世を隔てて(=生まれ変わりを経て=輪廻転生を通して)この世にあらわれてくることになる。

そうして、その成績表と守護の神霊様のお導きに従って、その人(その霊魂魄)に沿った様々なたくさんの人生が何世にもわたって展開されていく。

だから、今生で親ガチャなどといい、たまたま(顕在意識ではわからなくても、過去世の因縁によるから、本質はたまたまではなく、必然なのだが)いい境遇に生まれついているからといって、誰も自分を咎めない、裁かないからといって、デタラメの限りは尽くせないことになってくる。

まあ、これをどう考えるかは、読まれた人(の過去世からの因縁因果)次第になるけどね。

ついでだから、親ガチャ否定論(?)も書いておく(なお、親ガチャ否定については、後出の ー ( 205_地道な運命好転の方法2(具体的な方法) - おぶなより2 ) ー にも記してある)。

巷には、容姿のいい子供を授かりたいがために、イケメンを狙うような女性の話や、親ガチャがよくなければ、救いがない(?)かのように書いている本がある。

しかし、この人達の発想は唯物論なので、この世に生まれてくる人間が、それぞれの魂(霊魂魄)の輪廻転生を通した生き方を反映したありようになってくること、
すなわち、
私達がこの世での過去世の(真善美と愛に悖る、主として悪い)因縁を解消するために、それなりに相応しい両親の下に生まれてくるようになること(良い例としては、例えば過去世において多大な恩を受けたことに対する、恩返しなどのケースなどもある)や、
裕福な家庭に生まれついたからと言って必ずしも順風満帆で幸福になることができるとは限らず、表向きはわからない家庭内や親戚内で不幸やゴタゴタなどが起きてくる可能性があることなどは、
まったく度外視した、あくまでも物事の上っ面をとらえた話にしか過ぎないのだ。

だから、
裕福な家庭に生まれついたから、
眉目秀麗な美男や、容姿端麗な美女に生まれついたから、
あるいは、
特定の才能が突出して生まれついたからといって、
それらのすべてがそろって高水準とは限らないケースがたくさん出てくるのである。

まず、今生の生得的な才能や境遇や、成長するに従っての運命の展開に影響を及ぼすのは、その人(その霊魂魄)、その人(その霊魂魄)の、過去世の何世にもわたる生き方(=何世にもわたる人生において織り成してきた、たくさんの想いと行い。これが今生の運命に影響を及ぼす原因=因縁となる)が、今生のかなりの部分を決定することになる。

少なくとも、
お釈迦さん(仏陀)のような、
過去世から来世以降にわたって、
すべてのことを直覚的に、
一瞬にしてサッと見通せるような神通力がない場合は、
すなわち、
その人(霊魂魄)、その人(霊魂魄)が、
どのような過去世の
何世にもわたる変遷をたどって
現在(=今生)のようなありようになっているのか、
そして、
その人(霊魂魄)、その人(霊魂魄)が、
今生から来世以降に向けて、
どのような人生が展開されていくのかを、
一瞬にして見通すことのできるほどの
完璧な神通力がなければ、
こうしたことは私達一般人には
わからないのである。

だから、自らの過去世の因縁もわからないような、ごく普通の私達にできることは、可能な限り、今生と来世以降に向けてその抱く想い(と行い)を、真善美に悖らず、愛に満ちた、すなわち、神様のみ心に適ったような想い(と行い)をしていくことしかない。

過去世を度外視して、今生にあらわれたものだけから、人間の神性を無視して、唯物論の思考から自分優位に利己的で身勝手に立ち回ることばかりしていたら、今生と来世以降に向けて自らの運命を悪くすることにしかならないのである。

その両親の下に生まれてくる子供の立場からすると、自ら清算すべき過去世の因縁を果たすべき両親の下に生まれてくるということになる。

つまり、ガチャのような偶然(実は、ガチャも偶然ではない)ではなく、両親と、生まれてくる子供のそれぞれの過去世の因縁から、必然的に親子としてこの世で生まれあわせることになってくるのだ(親子だけでなく、兄弟姉妹、親類縁者、友人知人、果ては、恋人から配偶者までも)。

つまり、親ガチャという話は、私達の魂の永続性や輪廻転生を度外視した、この世にあらわれた表面上のことしか見ていない唯物論にしか過ぎないのである。

これの意味するところは、今生の生得的な条件をはじめとして、様々なありようには、唯物論の理屈では決してわからない、目には見えない過去世の因縁がその背景にある、ということなのだ。

つまり、唯物論で物事の分析をして話をしている巷の人達は、魂(霊魂魄)を否定し、従って魂の永続性と輪廻転生を否定することになるから、目に見える形で、今生にあらわれているところから、ああだこうだと理屈を展開しているので、その今生のありようの実質的な背景となっている、過去世をまったく度外視した形でお話をされているのである。

ちなみに。

私は、
「天上界(あの世?)からこの世を眺めていて、僕(私)は、あの夫婦の子として生まれたいかのような話」は、
広い意味では、深層の神意識に通じるものだろうと別途書いた(要は肉体人間観的な発想ではなく、意識の深層の神意識の発想ならそうなるだろう、という話。ただ、私達ほとんどのすべての人は悟りを開いていないのだから、肉体人間観的な意識、すなわち、顕在意識下の状態でこの世の病争貧苦の厳しい修行を綺麗事のように言うのはおかしいだろう、と言いたい訳)ことがあるが、正直に言わせてもらえば、あの話は嫌いだ。

ハッキリ言って大嫌いだ。

あの話を書いているほとんどすべての人は、いいことづくめのお花畑的なフワフワした、あたかも夢物語のようにしか書いていないからだ。

ああした彼ら(彼女ら)の書き方では、この世に生を受けることが、あまりにも、幸せせ一杯、楽観的でお花畑満開の、フワフワした夢物語にしか思えないのである。

この世で、避けることのできない病争貧苦、中でも、不可抗力の病気(それも複数以上)で苦しみ、つらい思いを味わってきた(現在進行形)身(=私)からすれば、そんな甘いフワフワの、お花畑の夢物語ばかりがあってたまるか、と思うからだ。

「冗談じゃない。自分の(今生での不摂生などの)落ち度がないのに、何でこんな目に遭わなければならないんだよ。誰が好き好んでこんな病気になんかなるものか。それも複数以上なんて一体なんなんだよ。ふざけるのもいい加減にしてくれ」という経験をさせられるからだ。

この世で否応なしに受ける病争貧苦などの修行は、そんな魂の修行を綺麗事のように美化した、生易しいものじゃないんだよ。

経験しなきゃわかんないんだろうけどね。

まあ、中には、過去世の想いと行いが、人々や世の中にたくさん尽くして、かなり良いものであったために(=つまり、過去世の因縁がかなり良いために)、
あたかもご褒美のような恵まれた人生を送ることになる人や、
順風満帆な人生を送ることになる人や、
平穏無事な人生を送ることになる人も、
それなりにいるだろう。

しかし、大半の人は、この世で果たすべき(=解消すべき)、過去世の悪い因縁を果たす(=解消する)ために、この世に生を受けることになるはずだ。

つまり、この世に生を受けた以上は、病争貧苦の何かしらを味わうことで、肉体とともに自己保存の本能を与えられたために利己的に行動せざるを得なくなるという、厳しい制約を課されながらも、その本体の霊身(霊魂魄)に相応しい、真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適った立派な想いと行いができるように、魂(霊魂魄)を立派に磨き上げていくための修行が、この世に生を受けること、すなわち、肉体人間としての人生の基本だと考えられるからだ。

だから、あたかも夢物語のように、
「僕(私)は、ただ好きなパパとママのところに行くんだ(行くのよ)」
といわんばかりの、あのようなお花畑一辺倒的な、過去世の果たすべき悪い因縁をまるっきり度外視しているとも取られかねない、ああした書き方のフワフワ夢物語は好きになれないのである。

この世に生まれてくるのは、楽しむためのようにしている話もあるが、これに対してもまったく同様なことが言える。

それなりのこの世で果たすべき(=解消すべき)、厳しい病争貧苦などの過去世の悪い因縁を持って生まれてくる場合には、そんな生易しい、言っては悪いが、おためごかしのような話を真に受ける訳にいかないからだ。

厳しい運命を受け入れざるを得ない場合には、確かに不可抗力のまわりの状況は変えることはできないから、心の持ちようをはじめとして、自分を変えれば、多少なりとも、それなりに対処できる場合もある。

しかし、生得的なといった生まれつきの厳しい条件や、かなり厳しい果たすべき過去世の悪い因縁を、見事に解消して、素直な感謝で難なく乗り越えて行ける人は、下記に示す(=悟りを開いた人(=お釈迦さん)か、これに近いほどまでにかなり霊性が開発された人(=妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さん))のように、きわめて限られているからだ。

つまり、この世に生を受けることは、人間=肉体人間という肉体人間観に縛られ、唯物論の思考にからめとられてしまっている、私達ほとんどすべての者にとっては、
「あのお父さんとお母さんがよさそうだから、じゃあ、あそこに生まれよう」
といった、そんな安易な、自由自在に無条件に出生先を選べるような、お花畑の夢物語のみたいな甘いもんじゃないよ、と言いたいのだ。

悟りを開いた人(=お釈迦さん)や、
悟りを開いた人にかなり近いほど、身の回りに起きてくる、ありとあらゆることに素直に感謝できるほどまでに霊性が開発された人(=妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さん)ならいざ知らず、
そうではない一般的な私達は、
この世で起きてくる病争貧苦といった不幸や災難を、
神様に対する素直な感謝で受け止めることのできない人がほとんどだ、
と考えられるためだ。

だから、この世に生を受け、生きてゆくことは、あくまでも基本的に霊魂魄を立派なものに磨き上げていくための修行だと思うのである。

最終的には、肉体人間が、神様の分けられたお命という霊身=霊魂魄を、この世にそのまま映し出したような素晴らしい肉体人間としてのあり方を目指すように、何度もの輪廻転生を通して漸次段階的に精進を重ねていきながら。

従って。

ただでさえ、思うがままにならない(=この自由自在への希求の元はやはり神体から来ていると思われる)、厳しい浮き世で、まわりの条件(=過去世の因縁)を度外視したかのような、そんな楽観的で身勝手な理想ばかりが罷り通るとは思えないのだ。

だから私は、こうした過去世の果たすべき因縁をまったく感じさせないような、ああした書き方をしている人達には、
「お花畑話のようにとられかねない、そんな書き方ばかりしているのは、ちょっと能天気に過ぎるんじゃないですか」
とさえ、言いたくなってしまうのだ。

お釈迦さんにまつわる、この世は苦だということを示唆するかのような、四門出遊の話があるが、人生は苦だ、ということは、そういうことなのだ。

霊身(霊魂魄)としての命は、神様の分けられたお命に他ならないのだから永遠なのに、
肉体人間としての命は、大体においてわずか数十年に限られていまい、20 才をピークとして次第に衰え、最終的には肉体人間としての死を免れないこと、
そして、過去世を通して、たくさんの真善美に悖り、愛に悖った、神様のみ心に適わない想いと行いを清算するために、この世で病争貧苦のような肉体を伴った魂に染み込むような経験をすることが、
私達の一般的な定めだと思われるのである。

それでも、こうした厳しさをすべて乗り越え、すべては阿弥陀如来様(神様)のありがたいおはからいである・思し召しである・お救いである、と自らの身の回りに起きてくる、良いことも、悪いことも含めて、ありとあらゆることに、素直に感謝を捧げることのできた、きわめて信仰心の篤い宗教信仰者の先達が、因幡の源左さん、浅原才市さん、宇右衛門さんといった、妙好人と呼ばれた人達なのである。

私の文章を読んでいて、お気づきの方もいるかもしれないが、今までに輪廻転生の仕組みにしろ、そんな甘いもんじゃないよ、といった厳しい修行口調のような書き方をしてきた。

これは、私自身が、まったく人間ができていない、一般的な人に比べても霊性がかなり低いことのあらわれなんですよ。

いまだ、病気などで、つらい想いを味わわされた(いまだ現在進行形)ことへの恨み(過去世の記憶が消されていて、原因となる過去世の因縁がわからないから、ただただ苦しむだけだとどうしても神様を逆恨みしている状態になる)が残っているから、神様は厳しい、厳し過ぎる、というとらえ方(かた)になってしまっているから。

輪廻転生の仕組みや因縁因果の法則を、厳しい形でとらえるということは、神様が私達に与えられたこうした仕組みや法則を、厳しい掟のようにとらえているから。

これが、源左さんや才市さんや宇右衛門さんクラスになると、こうした仕組みや法則さえも、神様が人間に愛情を施すために与えたありがたい仕組みや法則だと、感謝さえもできるほどの立派な境地になる。

彼らは、阿弥陀如来様(神様)は、愛だ、愛そのものなのだ、本当にありがたい存在なのだ、と心底わかっているからこそ、唯物論で普通に幸福とされている身の回りのあらゆることに感謝できることはもちろんのこと、唯物論では到底幸福とは言えない病争貧苦などの不幸や災難にまで、感謝をすることができていたと解釈できるからだ。

従って、彼らのような境地に至るまでには、(本人の過去世の因縁と心がけにもよるが)それなりの大変な信仰生活の経験が必要になると思われる。

それでも、難行道と比べれば、はるかに現実味があり、想いも乱し難く、取り組みやすい信仰が、易行道だと言える。

(*3ー2)ちょっと、うろ覚えになり、大体の話になってしまい申し訳ないのだが、五井先生の本にこんな話があった。

たくさんの人々を導き、それなりに精進すべき高い地位に生まれついたお坊さんの話だ。

彼は、そうした境遇に生まれつきながら、役目を果たすどころか、私利私欲に走り、放蕩三昧に明け暮れ、ちっとも高い地位に生まれついた僧侶としての本来のお役目を果たさないままの人生を送ってしまったらしい。

そんな彼が、後の世に、遮二無二修行生活に明け暮れる、修行者として生まれ変わってきたとのこと。

彼の無意識では、自分は(過去世の因縁も踏まえた上で、神様から授けられたであろう)しかるべき地位に生まれつきながら、ちっともそれを活かさず、人生を浪費して(神様を裏切る形になって)しまった強い自覚があったとのこと。

だから、生まれ変わってきた時に、自分の過去世における人生の浪費を少しでも取り戻したくて、無意識で自らを厳しい修行生活に追い込むような形の人生を送ることになった、といった話だった。

自分の表層意識でも、なぜこんな、無闇な修行生活に明け暮れる生き方をするのかはわからない、厳しい修行生活に明け暮れずにはいられない、といった彼のあり方の背景には、このような前世の間違った生き方に対する取り戻しといった動機が背景にあるという感じの。

神様から与えられた貴重な人生、
すなわち、
神様から与えられた貴重な天命を、
神様から与えられた貴重な肉体人間として生きていける命を、
神様から与えられた貴重な肉体を、
精進をしながら世の人々を導くはずの貴重な機会を、
ただただ、
無駄に浪費してしまったことへの痛恨の後悔の念があるという感じの。

これは、しかるべき神様から与えられたお役目(=天命)を果たさなかった当時の、神様のみ心にそぐわない散々な堕落した人生を送っていた中でも、常にそれを見ていた、神様の分けられたお命という神意識があって、それでこのような無意識的に、自分を責めて厳しい修行生活に明け暮れる、あたかも贖罪のような人生を送る羽目になった話だったように記憶している。

だから、自分の顕在意識(この世での普通の表層意識)では、好き勝手でデタラメな人生を送っていたとしても、常にそれを見ている本当の自分=神意識がある、というような話だったように記憶している(もちろん、守護霊様と守護神様にはすべてが筒抜けになっている。私達の肉体人間として抱いた想いと行いは、すべて想いの体である潜在意識である記録体?である幽体に細大洩らさず何もかもが記録されてしまうから、この世の顕在意識ではどう思おうと(忘れてしまうからかまわないだろうとか、実際に想念・行為を忘れ果てていても)、(神様の目から見れば・真実の世界から見れば)一切のごまかしがきかないということ)。

きわめておおざっぱに言うと、肉体人間には、ごく普通に私達が意識と思い込んでいる表層意識である顕在意識と、それより深くにある通常状態では意識できない潜在意識があり、この潜在意識には(今生に限って言えば)生まれてから、この世を去るまでのありとあらゆる事柄が最大漏らさず記録されていて(ということは、過去世のたくさんの事柄も記録されていて)、その事柄の正邪は神様のお命を頂いているところから、瞬時に判定されていてわかっている、と考えられますね。

(*4)ここでは便宜上、評価は後からついてくると思えばいいとしました。

しかし、評価がされないことも十分にあり得ます。

だから、これくらいの気持ちでいいという意味合いになります。

仮に、評価がされなくてもいいんです。

自分の良心にたずねてみて、間違いないと確信できれば、今生での評価がされなくても構わない。

もっと言えば、来世以降も評価されなくても構わない。

絶対評価を下すのは自分の良心だけ。

この世的な評価は、今生の評価も、輪廻転生を通した来世以降の評価も、みんな度外視。

無論、真善美に悖らず、愛と真に満ちた想いと行いをすれば、それは、輪廻転生を通して、来世以降にそれなりのものは返ってくるでしょう。

でも、気にしないようにするんです。

そんなことは。

たずねるのは自分の良心だけでいい。

これが本来のあるべき形だと思います。

自分の突き詰めた絶対の良心との対話は、神様との対話に他ならないからです。

間違いなく、真善美に悖らない神様のみ心に適うと思うことができれば、この世的な=現世利益的な評価は度外視してもいい。

今生でも、来世以降でも、関係ない。(*4ー1)

強いて求める報いとすれば、自らがおし頂いている神様=神様の分霊である意識の深層にある神意識に認められること。

この絶対基準さえ満たすことができれば、あとは全部捨象して構わない。

なぜならば。

神様はあらゆるものをお与えすることしかなさらないからです。

神様の罰やお怒り(?)や攻撃(?)のように見えるものは、あくまでも、神様の定めた法則を違えてしまったために起きてくること。

そのように考えます。

~~~~~

(*4ー1)以前、 ( 110_心構え - おぶなより2 ) で、ブログを書くことに関して以下のように書いた。

「アクセスがなくても気高く行けばいいじゃないか。

もっと言えば、今生報われなくたって、いいじゃないか。

努力は来世以降に引き継がれ、遠い先にはなるが、いずれそれなりに何らかの形で実を結ぶことには変わりはないのだから(=神性に適った努力は輪廻転生を通して蓄積されて、後々の世に必ずそれなりに反映されることになるのだから)」

今回は、もう一歩踏み込んで、この(あらゆる場面に応用できる)文章作成する能力を身につけるという成果というか果実さえも、度外視しましょう、という話にしている。

私達人間の本質は、神様の分けられたお命である、すなわち、本質は神様なのだから、神様と同じように、自然に振る舞えることがより高い理想だと考えられたからだ。

無為自然

無為にして為せ(むいにしてなせ)。

こうして、神様のように、真善美に悖らない想いと行いがごく自然にできるようになった暁には、かつては自分のためにしているように思えたことが、自然とみんなのためにもなっているような形になる。

こうした形がより深い理想形になるだろうと考えられるからです。

言い換えると。

ブログにたくさんのアクセスがほしい、
また、人々から高く評価されたい、

そして、

(ブログその他で)そうした文章作成の工程を、輪廻転生を通して努力した成果を積み上げて精進していき、あらゆる場面に応用の利く、文章作成の力をつけたい、

といった段階では、まだまだ、(来世以降も含めて)この世にあらわれる成果が、常に視野のどこかしらに入っている状態な訳です。

つまり、輪廻転生を通してのこの世にあらわれる成果を気にしていて、これを度外視するまでには至っておらず、いまだ克己心とのせめぎあいの段階をこえてはいない。

そうではなくて、
努力は継続しつつも、
神様の光が流れてくるままに、
神様の分けられたお命で生かされているそのままに、
成果も何もかも度外視した形で、
神様のみ心に適った、
無心の努力を続けることができるようになれればいい。

もう、
今生も、来世以降も、
成果も何も考えずに、
神様のみ心に適った、
最終的に世のため人のためにつながるであろう、
ごく自然な無心の努力を続けていければいい。

それが理想ということです。

なぜ、理想なのか?

それは、私達が肉体を持ちながらも、神様の子供である、すなわち、本質は神様なのだから、当然に神様(親様)のように振る舞うべきだからです。

神様は、私達個人個人に、その分けられたお命をはじめとして、霊的な進化のために守護の神霊様(守護霊様と守護神様)をつけてご支援・お守りして下さるだけではなくて、その周辺に必要となる、ありとあらゆる環境を、何の対価も求めずに、すべて提供して下さっている。

すなわち、神様は、ありとあらゆるものを、無償の愛を持って施して下さっている。

つまり、私達が無償で世のため人のためになることに通じることに精進することは、神様と同じように、世のため人のために、無償で奉仕をすることにつながる、

親様の神様になぞらえて考えれば、無償の愛を施しているのと同じ形になるからです。

親様となる神様のように振る舞うのは、悟りを開けない私達には、容易ではない、というか、ほとんど不可能ではありますが、理想としては目指すべき姿だ、ということになるからです。

神様のみ心に適った努力を無心で重ねることができるようになれば、少しはこうした理想の形に近づけていける、という訳です。

だから、無為自然の形で、神様のみ心に適った行いや精進に努めていくことは理想となる訳です。