174_ひそやかに

ブログやユーチューブをも含めたネットの様相は、相も変わらずだね。

何がって、いかにも、といった物欲しげな釣り見出しが、そこにかしこに溢れ返っているように見えるところが、さ。

見る者を、何としてでも引き込んでやるぞ!と爪を研いでいるさまが想像できるような思わせ振りな釣り見出しが、いかに数多くあることか。(*1)

特にユーチューブに多い。

自分の視聴履歴の内容が悪いために、こうした見出しばかりが出てくるのかもしれないが、ユーチューブを視聴するたびに、必ずと言っていいほど、伏せ字や煽り見出しが出てくるんだからね。

強いて良く言えば、短いプレゼン(プレゼンテーション)大会のるつぼと言えないこともない。

しかし、やはり、刺激的なチラリズムの伏せ字とあからさまな煽動は、どう考えても品があるとは言えない。

簡単に言ってしまうと、煽動的な内容を含む物欲しげな釣り見出しは、人間に本来あるべき、実直さや誠実さを少しも感じることができないのだ。

見る者をよく言えば引き込む、悪く言えば、思うがままに引きずり回してやろうという意図が見えてしまうからだ。

そうした動画の中には、仏教の教えを、一言で言えば何になるか、と散々焦らすようなものまであった。

仮にも、宗教、中でも、神性(仏性)を重視すべき宗教(今回の話は仏教)の内容を説こうというのに、○○という伏せ字の釣り見出しを用い、肝心の話の中身に入っても、あろうことか、焦らしに焦らす。

そもそも、こんなやり方が、真善美に悖り、神仏のみ心に適うはずもないことが、なぜわからないのか、はなはだ疑問を感じざるを得ない。

見る者を
興味本意に駆り立て、
さらには
焦らしに焦らす、

こんなやり方が、
あなたにとっての
宗教(今回の場合は仏教)の講義の仕方なんですか?

こんなやり方が、
宗教を説く者としての
あるべき姿勢なんですか?

こんなやり方をしてまで
視聴者をひきつける、
あなたは本当にこれでいいんですか?

と訊かずにはいられないほどに。

宗教とは、神仏とそのお命を分け与えられた人間との関係を解き明かす元の教えのはずだ。

その人間の根本的なあり方や内容を説こうとしているに、こうしたやり方を躊躇なく用いている(ように見える)。

本当に理解に苦しむよ。

繰り返しますが、宗教の話をするということは、人間のあるべき姿や生き方に深くかかわる元の教えについて話をするということに他ならないんですよ。

よほど話芸が達者な人ならば、脅したりすかしたりも交えて(?)、芝居のような起伏の激しい面白い話ができるのかもしれない(?)けれど、そうでなければ、ありきたりにわかりやすく、理解しやすい話をするのが順当なのではありませんか。

そうなると、当然、話をするすに当たっても、それなりに高潔な姿勢、気高い姿勢が求められることになるはずです。

それなのに、視聴者を釣るような伏せ字の見出しを使い、内容をもったいつけてなかなか明かさないで、視聴者を引きずりまわす。

これは、一体全体、どうしたお考えにもとづく行動なのですか?

仮にも、宗教家や、宗教の講義をする立場にある人ならば、功利に走る唯物論者と明確に一線を画した矜持を持ち合わせるべきなんじゃないの?

いくら仏教に関して幅広い知識を持っていて造詣が深くても、肝心要の人間としての、想いと行いの大切さを忘れていやしませんか?

どんなに知識があっても、知識の習得のための勉学に勤しんでいても、これでは「画竜点睛を欠く」になっていやしませんか?

と言いたくなるくらいに。

という次第で、唯物論ではない、人間の根本の教え、元の教えたる宗教を扱うはずの動画でさえ、こうしたものがあるんですよ。

スピリチュアルといった精神世界を扱う動画にも、こうした○○といった物欲しげな伏せ字を使い、煽動的な表現を用いた釣り見出しを使っているものが、ずいぶんあります(中には無造作というほどに伏せ字を乱発しているものがありましたよ。もう本当に唯物論者よりも物欲しげと言わざるを得ないくらいに。こんな姿勢でいながら神様、神様、あるいは、宇宙、宇宙、はたまた、魂、魂って言ったって、そりゃあなた・・・)。

改めて言うと。

宗教や精神世界を取り扱うならば、その内容が神様のみ心に適うものかどうか、がまずは問題になるはずですよ。

つまり、私達人間の普段からしている、想いと行い、すなわち、その具体的なあらわれとしての、一挙手一投足と話し言葉と書き言葉が重要な意味を持ってくるんです。

それなのに、人をひきつけるためにチラリズムよろしく、煽動的な伏せ字を使い、読む者・見る者を焦らしに焦らす。

これは、いかがなものか?

と問いただしているんですよ、今回の内容は。

唯物論一辺倒で功利的なことばかりしているならともかく、

少なくとも宗教や精神世界を取り扱う、その基本というか、そもそもの前提が、なっていないんじゃありませんか?

と言っているんです。

こんな世相(?)なので、私はお釈迦さんを見習いたい。

そう、他でもない、仏教の開祖様だ。

見習うというのはおこがましいので、爪の垢を煎じて飲むくらいかな。

それも、何百兆分の 1 くらいの。

では、何を見習うべきか?

それはお釈迦さんの不言実行とも言える「寡黙な生きざま」だ。

ことをいちいちひけらかさないあり方だ。

悟りを開いてから、ご自身の寿命が尽きるまでの 45 年間もの長きにわたっての人生を、人々に捧げ尽くしたその生き方だ。

お釈迦さんご自身が、人々のために尽くす生き方をされていても、決してこれを声高に主張されることがない。

叫ぶなんて、もっての他だ。

こうした意味では、お釈迦さんの生きざまは、きわめて寡黙だと言えるからだ。

お弟子さんや経典の作者さんは、お釈迦さんを絶賛して祭り上げる、華美な装飾がお好きなのかもしれないが、そうした装飾を、すべて削ぎ落とした生き方にこそ、お釈迦さんの人間としての真価がある、と思うからだ。

お釈迦さんの(創作されたであろう脚色満載の)生誕話からわかるように、世間一般的には、超人的で、派手で華やかな演出に注目が集まることの方が多いだろう。

しかし、本当に神様のみ心に沿うのは、地道で寡黙な人としてのあり方にこそあると思うのだ。

お釈迦さんは、
俺様は、(救いを求めてくる人に黙って尽くす)こんな偉い生き方をしているんたぞ、
とか、
俺様は、こんなすごい神通力を持っているんだぞ、
などとひけらかすことは決してしなかった。

ここが、威張ったり、自慢したり、ちょっとした霊感をすぐにひけらかす、ちまたによくありがちな人達との決定的な違いだ。(*2)

雲泥万里の差があるんですよ。

玄奘三蔵さんについても同様なことが言える。

お釈迦さん、玄奘三蔵さん。

彼らのような生きざまこそ、まさに宗教家の鑑だ。

素晴らしいお手本だ(現代では実行不可能だろうけど)。

彼らのような生き方こそ、まさに本物の「宗教家」と呼ぶに相応しい。

もちろん、彼らだって家庭を捨てたり(妻子を捨てて出家したお釈迦さん)、当時の法律を破ったり(出国すれば死刑となるのを承知の上で、経典を求めてインドに向けて旅立った玄奘三蔵さん)などと、その他に様々な紆余曲折があり、その生涯のすべてにわたって完全無欠だったという訳ではない。

しかし、それぞれの完成形といった生き方にたどり着いた後の彼らの生きざまには、表立ってはわからずとも、芯となる刮目すべきところがあるのはまぎれもない事実だし、その後の彼らはその生きざまを終生にわたって変えることはなかった。

寿命が尽きるまでずっと。

人救いに生きたお釈迦さん。

経典の入手と、その翻訳と編纂にすべてを捧げ尽くした玄奘三蔵さん。

そうした生き方を声高に主張する訳でもない。

自慢する訳でもない。

ただただ、ひたすら、黙って人様のために尽くす(お釈迦さん)、経典の入手と翻訳のためにその生涯をかけるという形で、人様のために自らの心血を注ぐ生き方をする(玄奘三蔵さん)。

ここにこそ、彼らの本当の偉さがあると思う。

そうした彼らなので、到底、真似することなど及びもつかないのはもちろんではあるが、生き方や人としてのあり方を参考にすることだけならできる。

たとえ、とるに足らない、比較にすらならない、ほんの些細な事柄でも。

だから、自分には大したことは何も書けないが、せめて上記のような釣り見出しの行き方の逆を行くことを続けていきたい。

つまり、ああした下品で煽動的なやり方で、読者を無理矢理ひきつけて、取り込む(=アクセスさせる)やり方はしたくない。

すなわち、

見出しを決めて
文章を書くに当たって

見出しには

読者に対する
虚偽(詐欺・はったり・誇張)もない。
もちろん、煽動もない。

ただただ、
ありのままに、
信義誠実の原則に
できる限り沿うような
なるべく地味で簡素な見出しをつける。

その上で

見出しと文章の内容を、
できる限り
違えないようにする。

それが、ブログを書くための心構えにもなっている。(*3)

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( 追記 1 )
普段から、アホ、バカ、グズといった言葉の多用や、ゴブチ(傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む))といった意味をあらわす言葉の多用、すなわち、真善美に悖る想いと行いの業想念を避けるように散々書いておきながら、今回は人様を批判するという、言い訳のできないきわめて矛盾した行動を取ったことを、ここにお詫び致します。

申し訳ございません。

なお、○○という伏せ字表現は、実質的に煽動に含まれます。

・煽動~せんどう~そそのかしたり、あおったりして人の心を動かして、ある行動を起こすように仕向けること。アジテーション
(用例)大衆を煽動する。

例えば、○○と伏せ字にすることは、これは何だろうと人をひきつける。

興味を持たせて、引き込もうとする意図がある訳です。

しかも、その内容が他人の醜聞や噂話や隠しているであろう秘密、そして、これまで世には知られていなかった話などといった、人の知りたがる興味本意な気持ちにつけこんで誘い込もうとするんですね。

霊性が開発されて、かなり霊性の高い人(かなりの人格者や人格者かつ六神通などの力をそなえている人)ならまずは引っ掛からないはずですが、こうした人自体が、そもそもにして、ほとんどいないと思われます。(*4)

霊性が開発されていない、こうした一般的な私達の心の隙につけこんで、何とかアクセスを稼ごう、文章を読ませよう、または、動画を視聴させようと企んでいる訳です。

また、何回も書いてきましたけど、読者や視聴者に、不安や恐れを抱かせる、その本質が脅しに通じるものも、煽動の一種になりますよ。

しかも、悪質なものになるんです。

残念なことに、こうした脅しに通じる不安や恐れを煽る表現と○○といった伏せ字を併用したあわせ技も、いまだに頻繁に見かける( 2022 年 11 月末現在 )。

それも、これでもかっていうくらいに。(*5)

さらには、人の耳目を集めるために、故意に間違いをしているのではないか?というものまであるんですよ。

小学生でもまずしないような、常用される平易な漢字の読み間違いがあったりする。(*6)

要は、人の耳目をひきつけるという目的のためには、手段を選ばない態度があらわれている訳なんですよ。

どんな手を使ってでも、ひきつけることができさえすればそれでいい、と。

従って、ひきつける相手を、どんなにないがしろにしようと構わない、ともとれることになるんですよ。

このような行為が、果たして神様(み仏)のみ心に適うものかどうか。

これは読まれた方のご判断に委ねることにします。

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(*1)ちょっと言い過ぎかな?

よく言えば、すなわち、かなり好意的に見れば、コマーシャリズム(商業主義)の変形ととれなくもないから。

でも、やっぱり、目的(アクセスを稼ぐ・ブログを読ませる・動画を視聴させる)のためには、手段を問わない姿勢が露骨であることには、何ら変わりがないですよ。

従って、神仏を扱う宗教や、宇宙(これはすべての創造主を神様とすれば、神様のことですね)を扱うスピリチュアルを扱うブログや動画で、こうした手段に訴えるのは、果たしていかなる意味を持つのか。

それがわからずに、無意識のようにこうした釣りをやりまくるのは、一体、何をしているのか。

一考の余地はあると思いますよ。

(*2)拙稿 ( 007_拡張 - おぶなより2 ) 参照。

ああしたお釈迦さんの態度から読み取れることは、宗教の指導者たる者は、一般の人が持っていない霊感などの超能力はやたらにひけらかすものではない、ひけらかしてはならない、ということ。

こうした超能力などは、宗教の指導に当たるなら、あくまでも、その本人の人格の向上、霊性の開発のために、必要不可欠となった場合のみに限る、ということだ。

無茶苦茶に厳しい言い方をすれば、ちょっとした霊感や奇跡に振り回されているような程度では、本当の信仰の入り口にも来ていない、ということだ。

(*3)拙稿 ( 110_心構え - おぶなより2 ) 参照。

(*4)人格者でなくても、ある程度の霊感を持ち、こうした人の関心をひこうと企む、ブログや動画の作者の下心を感知できる人も当然ながらいるでしょうね。

こうした人なら、作者の罠にかかるのは、その人の気分次第といったところになるのかな。

つまり、ブログを読まなくても、動画を見なくても、それらの中身は直感的にすぐにわかるから、あえて罠にかかるか、かからないかは、気分次第ということ。

魂の潔癖さを確保したい、霊性を下げる真似はしたくない人なら、文章や動画の中身が伴わなければ、一瞬でスルーするでしょうね。

まあ、そもそも、人格者で霊性のかなり高い人には、波動の類友の法則(?)で、こうしたものに触れる機会も少なくなっているでしょうね。

(*5)誰しもが、その意識の深層には神意識があるから、こうした煽動的な見出しや伏せ字の使いはじめには、引っ掛かり(=躊躇)があったと思うのだが、注目を浴びたい、アクセスを稼ぎたいという誘惑の前では、忘れ去られてしまうみたいだね。

SEO 対策は、こうした誘惑に大義名分を与える最たるもので、マーケティングに則った半ば常識と化しているのが現状だから。

(*6)とあるバーチャルYouTuber(バーチャルユーチューバー)の動画の中には、こんな通常は考えられないような簡単な読み間違いを何回も何回もするなんて、そもそも、この動画の製作者は本当に日本人なのか?と疑いたくなるものまであるんですよ。

こんなひどい、子供でもしないような程度の低い間違いを、何回も何回も繰り返すから、本当に聞き苦しいったらありゃしない。

視聴者をバカにして、あえてやっているならともかく、こうした間違いを平然と放置するのは、視聴者に対する敬意と誠意がないと言われても仕方がない。

他のサイトの切り貼りで、本当に専門的なことがわかっていれば、絶対に間違えないはずの内容間違いもあったが、それだけではなくて、その他にどう考えても単純な漢字の読み間違いでしかないものがあったんですよ。

こんな状態だから、動画自体の内容が仮にそこそこであったとしても、その内容を台無しにして余りあると言わざるを得ない。

視聴者をバカにして、ナメきっていると言われても、申し開きができないほどに、あまりにもその言い間違いの程度内容ひどいからだ。

万が一、故意にやっているとしても、こうしたおかしなやり方は絶対に避けるべきである。

  ( 110_心構え - おぶなより2  ) を読んで頂くとおわかりになると思うが、あのようなひどい言い間違いの態度を続けて改めないということは、製作者としての自らの神性を汚し、相対する視聴者の神性をないがしろにしていることを意味することになるんですよ。

本当に理解に苦しみますね。

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( 追記 2 )
生きざまというと、通常は、激しい生き方や低めの生き方を指すことが多いのかもしれないが、ここではあえて、寡黙な観点からその静かな深さを強調したくて強引に使わせてもらった。

こと宗教に関しては、自分の崇(あが)める教祖を祭り上げようとするきらいがどうしてもあるように感じられたので、あえて忘れがちでありながらも、もっとも大事と思われる視点として、人間の想いと行いをあげた。

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( 追記 3 )
はじめはこの文章の表題(タイトル)を「 逆張り 」としていた。

しかし、これはこれで、いびつな自己主張の形となり、反動形成のような側面もあると言わざるを得ないことに気がづいたので、表題を変えることにした。

本来ならば、文章の中身を素直に予想できる、あるいは、文章の中身を集約している・表しているという意味合いで、「 自然体 」とでもすべきところだとは思うのだが、現況(=ブログや動画の見出し(タイトル)のつけ方)が、あまりにも読者や視聴者の引き込み一辺倒的なきらいが強い(例えば、煽動的な文言とともに◯◯といった伏せ字を併用したり、肝心の動画内容とは関係ないサムネイル詐欺をしたりなど)ので、地味にという意味合いを込めて、表題を「 ひそやかに 」に変えた。

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・煽る~あおる~①うちわなどで風をおこして、または、風が強く吹いて火勢を強める。
(用例)強風に煽られて火が広がる。
②風が物を揺り動かす。
(用例)風で戸が煽られる。
③おだてたりして、そそのかす。けしかける。
(用例)危機感を煽る。
④物事に勢いをつける。
(用例)彼の健脚に煽られて急ぐ。
⑤自分の有利になるように株などをむやみに売買して相場を狂わす。
(用例)相場を煽る。
⑥あぶみで障泥(あおり)を蹴って馬を急がせる。
ここでは、③の意。

・躊躇~ちゅうちょ~ためらうこと。決心がつかず迷うこと。
(用例)躊躇なく引き受ける。

・生きざま~生きていくありさま。特に、その人独自の生き方。生きよう。
(用例)愚直なまでの生きざまを貫く。
(参考)死にざまから類推してできた語。最初は低い生き方の評価に用いたが、高い評価の意味でも用いられるようになった。

・寡黙~かもく~口数が少ないこと。また、そのさま。
(用例)寡黙な人。

・華美~かび~はなやかで美しいさま。また、派手で贅沢ななさま。
(用例)華美を極める。華美な服装。

・画竜点睛~がりょうてんせい~(睛は瞳の意)物事を完成させるために大事な最後の仕上げ。
中国の故事。昔、梁(りょう)の張僧繇(ちょうそうよう)という絵の名人が金陵の安楽寺の壁に竜を描いてその瞳を描き入れると、たちまち雷電が壁を破り、竜は雲に乗って天に昇ったという話による。

・画竜点睛を欠く~全体的にはよくできているのに、大事な一点が不十分であること。

・刮目~かつもく~(刮はこする意)十分注意してよく見ること。
(用例)刮目に値(あたい)する。

・編纂~へんさん~一定の方針のもとに、集めた材料を整理して書物をつくること。
(用例)市史の編纂。