186_引き寄せ2(今生を元にした願望と天命の一部分の相違)

前回 ( 182_引き寄せ(はじめに) - おぶなより2 ) の続き。

前回、引き寄せを使うのは、まともな努力とは違った抜け道(?)のような望みを叶えるやり方であり、しかも、通常の地道な努力とは比べものにならないほどの効果が得られる可能性があることと、好転反応という予想だにしない好ましくない(?)副作用があることに触れた。

今まで私の文章をお読みになられたことのある方ならおわかりだと思うが、通常の輪廻転生ですら、そのたくさんの過去世から、現世(今生)、そして、来世以降へわたる因縁因果の特定ですら容易ではない。

例えば、今、過去世の因縁のあらわれとは別に、今生で新たに起こした想いと行いの来世以降への反映は、まったくと言っていいほどにわからないことが原則なのだ。

つまり、たとえ、輪廻転生を肯定して、来世以降(特に近い来世)にとらぬ狸の皮算用よろしく、わかりやすい効果を期待しても、そう簡単にはいかない、と考えられるのだ。

こうした効果は、あくまでも神様の視点から見た、輪廻転生を通したその人その人(魂の分割と結合むで含めたその霊魂魄その霊魂魄)の悠久の時を通した、長い長い期間を通して果たされる、この世での肉体人間としての生命を、幾度も幾度も紡いで出来上がる「天命」の中のほんの一部に対応する(無理にでも対比させるとすれば)ものにしか過ぎない。

しかも、その内容は明らかに異質だ、と考えざるを得ないのだ。

ましてや、こうした願望を今生のみに限って考えるならば、なおさらのこと。

肉体人間が人間そのものではない、肉体人間の本質となる神様の分けられたおのである分霊である、霊魂魄がたくさんの輪廻転生を通してようやく果たされる天命の一部にしかならない神様の視点から見た望みと、

輪廻転生を前提にはせずに、人間は肉体人間にしか過ぎないと考え、この今生の今現在の人生の中での短期的で、しかも唯物論的な利害得失計算にもとづく成就させたい望みとでは、

その本質が違ったものになるのは、当然と考えられるからだ。

要するに、神様のみ心は、私達には思いもつかない、はかりしれないほどに深い深いものである、と考えられるということ。

従って、今、今生での想いと行いが、来世以降のどの時点で、どこの国籍で、どのような年代にあらわれてくるのかは、まったくわからないのである。

神様のみ心に適った想いと行いは、それは確かにそれなりによいものを来世以降にもたらすことになるだろう。

しかし、神様の視点から見れば、私達の狭い狭い視点である、輪廻転生の一時点からの唯物論的な計算づくの効果を期待することは、あまり有意義には思えないのだ。

どうせいくらあがいても、すべては神様のみ心のままにしかならない(?)のであれば、良き想いと行いには、いつのことになるのかはわからないが、とりあえず、良き想いと行いをしておく。

これくらいの(悪く言えば気楽な)気構えでいいのではないか、と思われるのだ。

すぐの効果を期待するのは、肉体人間観に縛られ、輪廻転生を真から肯定できない(理由は既述)私達のほとんどすべての人には、やむを得ないところではあるが、これをあまりやりすぎると、思うようにならないことが多過ぎて、却ってやけになり、想いを乱す可能性が高くなると考えられるからだ。

私達にとって、良心に適った精進努力は、神様のみ心に適ったものではあるが、短絡的な視点であまり物欲しげになりすぎない方がいい、と。

話を戻すと。

たくさんの過去世を読み取る、六神通の中の宿命通でさえも、悟りを開いたような特別な人か、過去世からの因縁因果により、今生でそれなりの部分的に宿命通をそなえた、それなりの霊感を持つ人にしか、わからないことなのである。

ましてや、来世以降ともなると、悟りを開いた人(今、ほとんどいないだろう)か、これに匹敵する人か、過去世の因縁により、たまたま、その読み取り能力を限定的に授けられた人にしかわからないだろう。

このように考えてくると、まともな努力でさえ、来世以降にどのような実を結ぶのかわからないのが普通だから、ましてや、飛び道具(?)の引き寄せには、果実として実を結ぶ目標に意味不明(?)な副作用としての好転反応がもたらされることも、無理もないことだと思われるのだ。

しかも、想いと行いの大半が、世を隔てるという、輪廻転生を通すということを、私達は知らない。

今生で起きてくることのかなりの部分が、実は過去世の想いと行いという因縁のあらわれとしてのものであり、今現在、頭の中を駆け巡っている想いでさえも、過去世のものがかなりの部分を占める、ということは、わからないのである。

以上のような、私達の想いと行いの輪廻転生を通しての循環の概要を見る時、引き寄せのような世を隔てない、すなわち、今生で世を隔てずに、大きな願い(?)を、しかも、自分の今生での(唯物論での自我欲望の)思惑通りに叶えようとすることが、いかに強引で、無理がある手法であることか、がわかるはずである。