194_易行道の真髄

五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の著書「生きている念仏」(白光出版)に出ている、妙好人の宇右衛門さんの逸話(エピソード)の中に、五井先生の解釈にちょっと違和感を感じた部分があった。

それを書こうと思う。

その内容を一言で言えば、過去世の因縁の今生内での解消についての話になる。

なお、この ( おぶなより2 ) では、基本的に参考文献のまるごとの祖述(=読みやすさを考慮した改変などを一切施さない丸々の引用)は徹底的に避けてきたが、ここではあえてそのあらましを引用する(白光出版は寛容で、一般的な書籍にありがちな引用についてのうるさい制約は一切書かれていなかったので、このようにさせて頂く)。

ただし、少しでも引用文をつづめたいので、五井先生のお書きになっている丁寧でやさしい感じのする文体を、ややきつめの語調に変え、その他いくつかの極微な加筆を含めた改変を施している。

その点は、あらかじめご了承頂きたい。

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ある年の冬、宇右衛門の息子の嫁で、わがまま気ままの一家の手に負えぬ女が、宇右衛門のものの言い方が悪いと言って、庭にあった横槌を取って舅に投げつけた。

その槌は宇右衛門の額に当たって散々の血が流れた。

側にいた温厚な息子もさすがに腹を立てて、
「お前のような女房は離縁する」
と門口へ引き立てていくと、宇右衛門はびっくりして、わが子の袖を引きとめ
「この親父が悪いのだ」
と言って謝る。

息子は
「とんでもないお父さんが悪いのではない。
お父さんに手をあげるようなこんな不孝な嫁は、切りきざんでも腹の虫が納まりません。
何故お父さんは、こんなわがままな嫁をとめるのですか」
と言うと、

宇右衛門は涙を流しながら
「うちでさえ辛抱の出来ぬ嫁がよそへ嫁入って一日も辛抱できるはずがない。
この家を追い出されては、この嫁の身の置き所がなくなってしまう。
私さえ辛抱すれば大事にならず納まるのだ。
不心得な嫁を貰ったのはそちの不幸せ、私の因縁の悪いせいじゃ、何事も堪忍せよ」
とかえって息子をなだめ、お仏壇に参り、お光をあげ(←蝋燭(ろうそく)に火を灯(とも)し仏壇にお線香をあげることだと思われる)、念仏を唱えて明るい顔をしていた。

流石の嫁もこの宇右衛門の深い愛に感激して、大いに後悔して謝り、その後はうって変わった孝行な嫁となったのだ。

この話なども、まったく恐れ入ってしまう程、み仏の心に徹している。

私(←五井先生)が常に説いている、すべては過去世の因縁の消えてゆく姿、ただあるのは神仏のみ心だけなのだ、という真理そのままの生き方を、この宇右衛門さんはしている訳だ。

それがわざとらしくするのでもなく、その場、その時々の出来事を、自然に光明化してゆく、無為にして為す、という行為を宇右衛門さんはいつの間にか体得してしまっていたのである。

ー 神のみ心に波長を合わせる ー

一向専念の念仏、或いは一念の念仏とも言うのだろう、ひたすらなる念仏行もここまでくれば大したものだ。

たくさんの学説を並べ立てながら、その想念や行為に、少しもみ仏や聖者のみ心が現れていない学者よりは、はるかに人格秀でた宇右衛門さんである訳だ。

こういう生き方は宗教の極意なので、誰でも彼でもすぐに真似できるというものではないが、こういう人の行いを手本にして誠実真行の道を進んでゆくことは必要なことだ。

世には、何々の神でなければいけない、何々仏でなければ救われないなどといって、宗派争いをしている人々もいるが、実に馬鹿げたことであって、宗教の道は、自己の本心開発のために必要なのであり、宇宙心(神)のみ心を自己の心として生きてゆける道が宗教の道なのである。

要するに、常に自分の心が澄み切って神のみ心に通い合っている、ということが必要で、その神のみ心とは、自分の本心そのものである訳だ。

従って、自分の心に如何なる事情によろうと、善にとらわれようと、悪にとらわれようと、どちらにしても、曇りができた場合には、その曇りを瞬々刻々はらい浄めておかなくてはいけないのである。

それを私(←五井先生)は、(過去世の因縁の)消えてゆく姿として、神様のみ心の中で消し去って頂くようにしている訳だ。

この場合の神様は、神様のみ心の中にしているので、神様のみ心は、すべての大調和であり、大宇宙から地球に至るあらゆる部門の平和達成のみ心である。

そのみ心に合わせて、肉体人間側の私たちが、
世界人類が平和でありますように
という祈り言にのって、神のみ心に心の波長を合わせる訳だ。

すると、巧まずして、神と人との心の波長がぴったり一つに合致して、神我一体のひびきがこの宇宙に鳴りひびくことになるのである。

そこで、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という道がそのまま真の宗教の道となってくるのである。

この祈りには、何々神も何々仏もいらない。

ただ常に自分を守って下さっている守護の神霊への感謝があるのみなのだ。

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以上の内容のうち、今回は、宇右衛門さんの息子さんの始末に負えない困り者のお嫁さんが、心変わりをして孝行なお嫁さんへと変貌を遂げた(とはいっても、元々、肉体人間は誰しもが神仏の子なのだから、変貌というよりは、神仏の子としての本質をあらわすように変わった、とする方が適当だろう)になった部分について触れたい。

五井先生は、舅の宇右衛門さんの深い愛に感激したから嫁が激変したのだ、と書いている(ように見える)が、これについての話だ。

確かに、深い愛に心打たれた側面はそれなりにあるだろうが、私は(必須で不可欠の)違う側面があると考えている。

それは、宇右衛門さんと息子さんのお嫁さんとの間にあった、表向きの顕在意識では決してわからない、過去世の因縁が解消されたために、あのように見事にお嫁さんの態度が変わったと考えられることだ。

目には見えない当人同士の顕在意識では決してわからない(唯物論者の人は特にそうだね)過去世の因縁が、宇右衛門さんの素晴らしい信仰態度で見事に解消された(もちろん、南無阿弥陀仏の唱名念仏によるみ仏の救いがある)。

それと同時に、宇右衛門さんの息子さんのお嫁さんに対して残っていたかなり悪い因縁が解消されたから、信じられないほどに、お嫁さんの態度が 180 度変わったのだ、と。

それまでは、宇右衛門さんの南無阿弥陀仏祈り一念の敬虔な信仰により、宇右衛門さんの息子さんのお嫁さんに対する悪い因縁(=つまり、過去世においては、この正反対に、宇右衛門さんがこのお嫁さんに対して大変な困り者だったという因縁)が、次々と解消されていって、最後に残っていたかなり悪い因縁のあらわれとなる、横槌の件を見事に乗り越えたことによって、あたかも臨界点を越えたような形で、宇右衛門さんと息子さんのお嫁さんとの間にあった悪い因縁が完全に消え去って、宇右衛門さんも息子さんのお嫁さんも双方ともに、めでたく神様(み仏)の子供としてこの世に再生を果たした、と。

だから、あのような信じられないようなお嫁さんの劇的な変化がもたらされた、と考えられるのだ。

過去世の悪い因縁が完全に解消されたことで、あたかもスイッチが「パチン」と切り替わったように、お嫁さんの態度も見事に 180 度切り替わった。

お嫁さんの深層の神意識か、

お嫁さんの守護の神霊さんがチェックされているのか、

単に因縁因果の法則が作用したのか、

これらのうち、いくつの要因が当てはまるのか、または、すべて当てはまるのかはわからないが、このように考えた方(ほう)が、あのお嫁さんの態度の激変ぶりが納得しやすいと感じた(再度書くが南無阿弥陀仏の唱名念仏によるみ仏の救いがある)。

以上、まあ、あくまでも、私個人の感想です。

もちろん、五井先生は悪い因縁の解消は当然の前提として、あえて省いた(=書いていない)のだろうけど、あの文面だけでは、精神的な側面が強調され過ぎる嫌いがあるように読み取れたのでね。

だから、あれ?と思い、違和感を感じたと書いた。

因縁の解消は、唯物論の理屈による説得も、感情に訴えた働きかけも、まったく通用しないほどに厳しい。

今回取り上げた宇右衛門さんと息子さんのお嫁さんの話を見ると、過去世からの因縁の壁がいかに厚く、説得や説教や、ましてや、批判や非難などがまったく通用しないほどの厳しいものであるか、がわかる。

キツイ言い方になるが、守護の神霊さんのお浄めで事前に救って下さる以外の悪い因縁は、身をもってのあがないを経なければ解消されない、と思われるのだ。

今生で果たすべき(=今生にあらわれてきた)、過去世からの悪い因縁は、それを甘んじて( (できれば宇右衛門さんのように)悪い想いを抱(いだ)かず)受け切るか、または、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行によるお浄めなどで消して頂けるものならば、消して頂く以外には、逃れる術はない(強引な先伸ばしの方法については省く)、と。

そのような考えの下(もと)に、今回の内容を書いた。

(追記)
いやあ、本当に宇右衛門さんは立派だし、偉いよ。

凄い。

どんなに信心深い人でも、あんな酷いことをされたら、間違いなく信仰心なんか吹き飛んでしまうだろうに、何事もなかったかのように、受け入れ、難なくやり過ごす。

悟りを開いた人でさえ、本当にこのようにできるか?と思えるほどの境地ですね。

過去世の悪い因縁をあがないとして、甘んじて受け入れるだけでも(過去世の記憶がないから身に覚えがないためにあたかも無実の罪のように思えてしまうから)大変なことなのに、阿弥陀如来様(神様)の(過去世で悪い想いと行いをした)自分を改めて今生の今、救いとって下さるための思し召し・おはからいとして素直な感謝までできるのだから。

何年(何十年?一生?何生?)という厳しい難行道の修行をしなくても、南無阿弥陀仏祈り一念の絶対他力の行き方だけで、これほどまでの境地に到達することができる。

易行道の真髄がよくわかる話です。

信仰の目標到達点は何か?と考えると、知識でもなく、理論でもない、普段の何気ない一挙手一投足からはじまって、ありとあらゆる想いと行いが、神様(み仏)のみ心に適うようになることになる。

そうして、人のためにもなり、自分のためにもなる、世を調和させるための神様(み仏)の子供としての愛を及ぼす想いと行いを、当たり前のようにごく自然に行えるようにしていくことが目標となる。

どんなにたくさんの知識があっても、どんなに理屈をこねることができても、いざ事に当たって肝心の人間としての想いと行いが、他人を傷つけ、世を乱すものであっては何にもならない。

まあ、過去世の誤った悪い想いと行いを、いきなり皆無にすることは到底できない(=今生での過去世の悪い因縁のあらわれとしての想いと行いをいきなり完璧に正すことはできない)ので、常に、世界平和の祈りなり、南無阿弥陀仏の唱名なりで、自らの想いと行いを神様(み仏)に帰一させるようにしながら、漸次段階的に精進するようにしていく。

そのために、もっとも入りやすく、修練の方法がやりやすいのが、易行道と言える。

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・真髄~しんずい~(精神と骨髄の意から)物事の本質。根本。その道の奥義。
(用例)芸の真髄をきわめる。

・奥義~おうぎ~学術・芸能・武術などの最も大事な事柄。その道の真髄。極意。奥義(おくぎ)。
(用例)仏法の奥義。奥義をきわめる。

・まるごと~そっくりそのまま。全部。
(用例)ノートをまるごと写す。まるごと飲み込む。

・つづめる~①縮める。短くする。
②内容を要約する。簡単にする。
(用例)つづめて言えば。
③節約する。
(用例)経費をつづめる。
ここでは、①の意。

・祖述~そじゅつ~先人の考えを受け継ぎ、それを元にして述べること。
(用例)師の説を祖述する。

・横槌~よこづち~藁(わら)などを打つための、丸木に柄をつけた槌。頭部の側面で打つところからこのように言われる。 

・槌~つち~物を叩くのに用いる柄のついた工具。金づち・木づちなど。ハンマー。
なお、鎚は金属製、槌と椎は木製。

・温厚~おんこう~おだやかで情け深いこと。また、そのさま。
(用例)温厚な人柄。

・舅~しゅうと~夫または妻の父。←→姑(しゅうとめ)

・姑~しゅうと~「しゅうとめ」の略。

・側~そば~近くの所。付近。かたわら。わき。
(用例)側にいる人。
なお、側は片寄った所の意。傍は人のそば近くに仕える意。

・門口~かどぐち~門または家の出入り口。また、その付近。

・流石~さすが~①予想・期待や世間の評判通りであることに感心する意を表す。
(用例)流石に金メダリストだ。
②予想・評判を認めながら、やはりそうもいかないと否定する意を表す。
(用例)強気の彼もさすがに言い出しにくそうだ。
③「さすがの・・・も」の形で実力のある者が、その評価通りにならなかった意を表す。
(用例)流石の彼もお手上げだ。
ここでは、③の意。

・無為~むい~①自然のままで人為の加わっていないこと。
(用例)無為自然
②何もしないでいること。
(用例)無為に日を過ごす。無為無策
③(仏教語)生滅変化しないもの。←→有為。
ここでは、①の意。

・唱名~しょうみょう~(仏教語)仏の名号を唱えること。

・名号~みょうごう~(仏教語)仏・菩薩(ぼさつ)の名。特に、阿弥陀仏の称。また、「南無阿弥陀仏」の六字。

・術~すべ~方法。仕方。
(用例)なす術を知らなかった。

・あがなう~贖う~罪や過ちを償うために、金品を差し出す。償いをする。罪滅ぼしをする。
(用例)「犯した罪を」贖う。