196_一択 ー 世界平和の祈り ー

とある女性の穏やかでやさしそうな落ち着いた音声のナレーションで、太陽系の惑星をはじめとする宇宙を紹介する一連のユーチューブの動画( 宇宙 すずちゃんねる )を見ていたら、案の定、出てきた。

その一連の続きとして、あたかも身近に迫るかのように、大災害を取り上げながら、私達に大きな不安と恐怖を抱かせて、やたらとこれらの悪い感情を煽る内容の動画が(動画の日付は約 1 年前)。

やっぱりな。

さもありなん、と言えばそれまでだが、本当に嫌になるよ。

・・・。

ごく一般的な私達には神通力がないから、未来に起きてくることはわからない。

自分自身のことも、世界のことも。

なぜならば、悟りを開いていなければ、本当に信頼するに足る、六神通のような能力がないのが普通だからだ。

ごく一部に霊感のある人や(守護霊様などのお知らせで)直感が働いて未来がわかる場合もあるのかもしれないが、単なる霊感の場合は外れることも多く、本当に信頼するに足るとは言えない。

だから、ものの考え方を唯物論にとらわれてしまっている一般的な人は、一寸先(≒目の前)の未来がわからないことがほとんどだ。

他方、私達の肉体人間として抱く想いは、良いものも、悪いものも、原則として輪廻転生を通して巡る。

これが、原因としての因縁と、その結果としての因果の対応だ。

まあ、大まかには縁起といっても構わないだろう。

だから、大抵は世を隔てた未来のことにはなるが、良いことを享受したければ、良い想いを抱かなければならない、ということになる。

原因と結果の対応となる、因縁と因果の対応を上記のような法則に則って考えるならば、ね。

私達肉体人間は、その本体としてその本質に、真善美に悖らない愛そのものの神様の分けられたお命を、分霊(わけみたま。一般的な表記は分け御霊)、すなわち、霊魂魄として頂いている。

しかも、肉体を与えられ、この世を生きていくための必要から、わが身を守ろうとする、自己保存の本能という、本来の霊魂魄にはなかったものまでもが追加して与えられている。

だから、どうしても、自分の身を守るために自分本位の自己中心的で、利己的な想いを抱かざるを得ないようになっている。

このような利己主義的な発想にもとづいて肉体人間として抱いた想いは、自ずと他者を損なうような、神様の本来あるべき真善美に悖らず愛そのものの想いから外れていまいがちになる。

つまり、極端に言えば、良い想いを抱かずに、他人を押し退け、場合によっては他人を損失を与えてでも、自分とそのごく近しい者だけの利益だけを最大化するために、悪い想いを抱きがちになることが往々にして出てくるのである。

しかし、この世も含めて、広義の神様の世界には、こうした真善美に悖るもの、神様の愛に背くものは、本来的に存在してはならないものであるために、一時的にあらわれても、必ず消し去る、すなわち、清算するための過程があらわれてくるようになっている。

その清算が主としてあらわれてくるのがこの世で、みんながお手々つないで仲良くという調和した世界となるのはあまりなくて、不和や争いその他の、要は、病争貧苦などの不幸や災難などが多い、最悪の場合には阿鼻叫喚の地獄に近いようなものがあらわれるようになっているのである。

だから、少しでも、調和した世界、みんなが手を取り合って、幸せで平穏な世界をつくりたければ、他人のためにもなり、自分のためにもなる、神様のみ心に適う、良い想いを抱くように努めていくようにしていくしかないのだ。

私達は、その本体の霊魂魄という、神体という自由自在さを奪われ、肉体とともに自己保存の本能を与えられたために、利己的な想いを抱きがちになるという厳しい制約を課されながらも、その本体の本来あるべき、神様の分けられたお命そのままの真善美に悖らない愛そのものの想いを抱き、その想いのあらわれとしての行いをしていかなければならない、ということである。

従って、同じ神様の分けられたお命を本体として頂く他者を損なう想いや真善美に悖る悪い想いを抱くことは、輪廻転生を通して、この世に不幸や災難などといった悪いものをもたらすことにしかならないのだ。

つまり、真善美に悖らない愛そのものの神様の視点からすれば、不安や恐怖などの身を脅かす想いを抱くことは、必然的に「絶対悪」にしかならないのである。

この「絶対悪」のこの世へのあらわれを、その裁量の範囲内で、事前に浄めて消すようにして、私達個人個人をお守り下さっているのが、守護の神霊様方となっている。

このように見てくれば、
私達が過去世(=前世、前々世、・・・)で抱いた想い=因縁により、
今生の未来に起きてくること(=その過去世の想いのあらわれ=因果)
が何であるにせよ(良いことであるにせよ、悪いことであるにせよ)、
人々に不安と恐怖を抱かせ、その想いを揺さぶることが、いかに悪質なことになっているのかがわかるはずである。

さらに言えば、私達肉体人間の想いが、神様のみ心に適わない誤った想いの償いとしての病争貧苦などの不幸や災難が私達の運命としてあらわれてくるだけではなくて、想いを揺さぶられたたくさんの人々の誤った想いの集積として堆積すると、それが災難、最悪の場合には天変地異などとなってあらわれてきてしまう、と考えられるのだ。

従って、私達は、個人個人でも想いを乱さないようにして、さらには、たくさんの人々の乱れた想いを抱かせないようにすべきだとしか思えない。

だから、私は、巷間のやたらに不安や恐怖を煽る、または、煽りまくる内容の動画などを発信する人の動機を、その真意を、どうしても懐疑的に見ざるを得ないのだ。

万が一、視聴数稼ぎの気安い気持ちでやっているとすれば、軽率の謗りを免れないと言わざるを得ない。

見方によっては、なぜにこのような世の人々に不安を掻き立てて、脅す内容ばかりを発信し続けるのか、その背景が読めてしまうとも言えるのですがね。

もしも、不安な未来が予想されるなら、私達がなすべきことは、ただ一つ。

普段から抱く想いを、良いものにしていくように、あらゆる形を整えていくしかないことになる。

唯物論で考えられる最低限必要な準備も含めて、普段から世界平和の祈り一念の生活に近づけるような努力をしながら、あとは守護の神霊様方のおはからいにお任せするしかない。

不安や恐怖を煽られて、周章狼狽して想いを乱すことは、避けるべきことなのである。

ただただ、黙々と、できる限りの世界平和の祈りをして、過去世で抱いた悪い想いの清算も含めて、守護の神霊様方のおはからいに委ねるしかない。

そのためにも、皆様には、世界平和の祈りをして頂きたいのである。

今の話を、輪廻転生が当然あるものとした前提の上で、たとえをお金に変えてもう一度繰り返すと。

私達が主としてこの世で抱いた想いは原則として輪廻転生を通して巡る。

良い想いを抱けば、いわば貯金が増えるようなもので、原則として来世以降にはなるが、良い想いの報いを受けるための、いわば種を蒔くという形で、貯金を増やしていくことになる。

そうして得ることのできた貯金を使うには、それなりの対価の見返りなどを享受できることがほとんどだから、良い想いを抱いたという種を蒔いた収穫としての良い報いを享受して、良い想いをすることになるのである。

これに反して、悪い想いを抱くことは、いわば借金をするようなもので、その借金を返済(=抱いた悪い想いを解消)するためには、大変な負担や苦痛(=真善美と愛に悖る悪い想いにより作った悪い因縁の解消=この世での病争貧苦などを受けるという形での償い)を伴うことになる。

従って、自ら悪い想いを抱く、そして、他人に悪い想いを抱かせるということは、自ら借金を背負い、他人にも借金を背負わせることになってしまう。

つまり、自ら悪い想いを抱く、そして、他人に悪い想いを抱かせることは、自分にも、他人にも、不幸や災難をもたらすことになってしまうのである。

私達が肉体人間として抱く想い、すなわち、良い想いと悪い想いが、輪廻転生を通して巡るというのは、こうした内容を指しているのである。

しかも、この個人個人の貯金と借金の集積は、この世の流れとなって結実されてあらわれてくると考えられるのだ。

繰り返します。

私達が肉体人間として抱く想いは、原則として世を隔てる。

しかし、さんざん世の人々の不安や恐怖を煽ったために、その不安や恐怖のあらわれとしての不幸や災難が、もしも、前倒しになって今生であらわれてきたらどうするつもりなのですか?

世の人々の不安や恐怖を煽り、社会に不穏な土壌を醸成していくことは、来世以降をも含めて、その不安や恐怖といった想いを、不幸や災難などの形として、この世に具現化させるための「仕込み」をしていることに他ならないと考えられるのですよ。

それが過度になってくると、世を隔てずに、今生で実現しないとも限らないのではありませんか?

来世以降も今生も、悪い想いは世の中に不幸や災難として具現化させるべきではないはずですよ。

だから、肉体人間として厳しい制約はあるけれども、できる限り良い想いを抱き、過去世のものも含めて、すでに抱いてしまった悪い想いも守護の神霊様の裁量の範囲内で、この世にあらわれる前に浄めて消して頂けるものがあるならば、そうして頂くに越したことはないのです。

そのために、世界平和の祈りをして頂きたいのですよ。

(追記1)
俺の視聴履歴が悪いせいなのだろうが、それにしても、近頃のユーチューブに自動で上がってくる動画のタイトルが、不穏や不安や恐怖を抱かせるものがあまりにも多過ぎる。

俺は小心者で人間がまったくできていないので、こうした不穏・不安・恐怖の感情を煽りまくる、きわめて悪質な画像やタイトルを見ると、嫌悪感を抱くことを通り越して、正直、ブチ切れそうになることもしばしば。

というのは、
「あなたは、そんな恐ろしい未来を望んでいるのですか?
そんな恐ろしい未来を望んでいないなら、今すぐにでもそうした発信はおやめなさい。
対処のしようがない不安や恐怖を人々の想いに植えつけることが、果たしてどのような意味を持つことになるのか。
それを理解しながら、そうした不安や恐怖を煽る行為をしていることは、大変重い意味を持つのですよ。
あなたには、その自覚がおありですか?」
と言いたくなってしまうからだ。

俺みたいな極度の小心者にとって、たたでさえじわじわと締めつけられてくる恐怖劇場のようなこの世を、さらにその悪化を焚き付けて加速させようとするなんて、何やってんだよ、と言いたくなってしまうのだ。

仮に俺がとらえたように、神様の目的が地上天国化であるとすれば、世界平和の祈りの一つもせずに、業想念ばかりを作る、すなわち、病争貧苦のような運命ばかりを作るばかりか、さらにもっとこの世を悪化させようとしているなんて勘弁してくれよ、と思ってしまうのだ。

不安や恐怖を煽る人達は、自分には関係ない、自分だけは身の安泰が保証されていると思っているのかもしれないし、自分の身に感じる不安や恐怖を吐き出して、世の中の他人に何とかしてもらおうと思っているのかもしれない。

しかし、想いの主体は不安と恐怖を煽るのは他ならぬあなたで、これを輪廻転生を通して受けとるのも他ならないあなたなのだよ。

決して他人事なんかじゃないんだ。

しかも、他人へのはた迷惑きわまりない不幸や災難を撒き散らしながら。

他人に不幸や災難をもたらすということは、真善美に悖ることになるのだから、当然にあなた方のしていることは「罪深く重い」ことに他ならないんだよ。

輪廻転生を通して、否応なしにその罪の責めを負わざるを得ないことになるんだ。

何でそれがわからないかなあ、と不思議で仕方ないね。

とにかく。

こうした私達の想いに不安と恐怖を抱かせる煽りタイトルや動画の内容を次々に否応なしに見せつけられてしまうと、消えてゆく姿(=過去世の因縁のこの世で時間をかけて解消されていく姿)、と突き放して見ることが本当に容易ではないんだ。

このように私達の想いを「不安騒擾」させて掻き乱す、きわめて悪質な動画のタイトルや内容が、この世の浄めによって過去世から溜まっていた業(悪い因縁)が押し出されて解消されるためにこの世に浮き出てきたものならまだしも救いがあるのだが、残念ながら俺には六神通のような神通力がないので、こうしたあちこちで不安や恐怖を煽る言動が起きてくることがどういう現象なのか(過去世の因縁のあらわれ=過去世の因縁が解消されていくためにあらわれてきたものなのか、それとも、今現在新たにあらわれてきたものなのか)の判断がつかないんだ。

だから、とにかく、できるだけ世界平和の祈りをして、神様におすがりするより他にやりようがないな。

恐ろしい世界を、あたかも招来しかねないような脅し文句が、そこかしこに溢れ返る、末法の世。

世界平和の祈りただ一筋しかないな。

世界平和の祈りただ一筋しかない。

(追記2)
俺が、人々に不安や恐怖などの悪い想いを抱かせることを避けるように書いているのは、因縁因果の法則の意味だけじゃないんだ。

人々の想いを不安や恐怖で掻き乱すことは、輪廻転生を通して世の中に悪いものをもたらす可能性があるのはもちろんだが、これが特定の意図の下に悪用される危険があることに気づいていない人が多過ぎるような気がしてならないんだよ。

つまり、世の中の人々の想いを操作するといった悪用の可能性だ。

なぜ、俺が冒頭で、「やっぱりな」と書いたのかは、皆さん各自で考えてくれ。

俺はこれ以上言及したくないからここまでに止める。

ただ一つ、言いたいのは、悪い予見や予言は、一切相手にしてほしくない、ということだけだ。

乱れた想いは、世界平和の祈りをすることによって、神様におすがりをして、極力平定していくしかない。