156_愛とは3

間が空いたが、( 109_愛とは2 - おぶなより2 ) の続き。

実質的に、( 109_愛とは2 - おぶなより2 ) の内容を若干改変して、増補を施した内容になる。

・・・。

前略。

蛇足ですが。

今の白光真宏会の主宰者の方(西園寺昌美さん。以下、西園寺さんとします)やその教えを批判していて、五井先生だけを信奉する、森島恒吉さんという方をネットでお見かけしましたが、西園寺さんへの道筋をつくったのは、他ならぬ五井先生でしょう。

従って、もしも何か納得できないところがあれば、これは五井先生に帰着する問題だと言わざるを得ません。(*1)

だから、すべてにわたって完全無欠な宗教の指導者を求めること自体、そもそも、無理があると思うのです。(*2)

たとえ、神様にかかわることとして、真善美に悖らない、完全円満な神様の道を求めていくことだとしても。

こうして、迷いに迷い、さまよいにさまよいながらも、自分なりに折り合いをつけて、できる限り、理に適ったやり方を選びとる。

そして、試行錯誤しながら、やっていく。

これしかないと思うんです。

舵取りをするのは、自分しかいないんですよ。

誰かに任せて、すべてにおんぶに抱っこではなくて、自ら考えながら選び取る。

踏み外した道も、また戻す。

自分の理性(おそらく神性につながっている)だけを頼りに、他者を責めないようにやっていくんです。

~~~~~

(*1)もう少し詳しく書くと。

仮に、森島さんのお書きになっているように、五井先生だけが正しく、後継者の西園寺さんが間違っている、とします。

五井先生亡きあと、他の側近の方々で協議の上で、西園寺さんを選んだのならともかく、五井先生の著作を読んだ限り(あまり出ていなかった。そもそも五井先生の当時の本自体がそんなになかったから)、間違いなく五井先生が直接に西園寺さんを後継者に指名しているように読み取れた(どうしてそのように解釈できたかについての詳しい理由づけは省く)。

ということは、五井先生だけが正しくて、西園寺さんが間違っているとは言えない。

なぜならば、西園寺さんが間違いだというならば、そうした間違った人を後継者に指名したのは、他ならぬ五井先生だからですよ。

五井先生在世当時の、五井先生の存在は、おそらく白光真宏会においては絶対的なものであったと考えられます(威張るなどの悪い意味ではなく、信頼感などの良い意味の権威において)。

ということは、現在の白光真宏会が間違ったものであるというならば、他ならぬ五井先生が現在の主催者として西園寺さんを指名したために、その結果として白光真宏会が間違った形に導かれたことになります。

従って、五井先生の西園寺さんを会の主催者に任命した責任は、絶対に免れないという結論になってしまうのです。

五井先生が、西園寺さんを後継者に指名しなければ、白光真宏会は(少なくとも)間違った方向には向かわなかった(可能性がある)、ということになるのですから。

この世にあらわれてくることの大半は、過去世の因縁がかかわっているものとすると、五井先生も決して完全無欠という訳ではなくて、そうした人を選んでしまうという、好ましくない過去世の因縁があったということにもなってしまうのですよ。

従って、西園寺さんを否定するということは、西園寺さんを否定するだけでは済まなくなってくるんです。

そうしなければ筋が通らない。

在世当時、絶対的な権威があり、信者さんからの絶大な信頼を得ていたであろう五井先生も、西園寺さんが間違っていたら、あるいは、西園寺さんが道を踏み外し出したら、無傷では済まなくなってくるということです。

つまり、西園寺さんを否定することは、どうしたって、五井先生を否定することにつながざるを得ないんですよ。

さらには、五井先生だけを、絶対不可侵、完全な神性視をすることさえも、できなくなってくるのです。

なぜか?

それは、西園寺さんが間違っている、あるいは、西園寺さんがいずれ道を踏み外し始めることを、五井先生がそういった未来を予見する力がなかった、そのような未来を見通す神通力がなかったことを意味していることにもなってしまうからです。

このように見てくると、あくまでも西園寺さんが間違っていると仮定した場合(あくまでも仮定ですよ)には、五井先生の不完全さは、後継者指名という唯物論的な矛盾だけではなくて、唯心論的な可能性としては、少なくとも  2 つあることになってきます。

西園寺さんという間違った、あるいは、いずれ道を踏み外してしまう人を後継者に選んでしまうという、好ましくない過去世の因縁があった可能性と、

西園寺さんを後継者に選べば、いずれそのような事態が起きてくることを予見する力、そうした神通力がなかった可能性、

の 2 つです。

森島さんのお書きになっているような、

五井先生だけは絶対に正しくて
西園寺さんは正しくない
という半ば強引に断定する内容は、

唯物論的に辻褄が合わないというだけではなくて、

唯心論的にも 2 つの好ましくない可能性が

考えられてしまう訳です。

すべては、偶然、行き当たりばったりの唯物論ならば、無理に認めることもできなくはないのかもしれません(やはり、無理でしょうけど)。

しかし、輪廻転生を通した因縁因果と霊性を主体とするはずの、神様の道を考えると思われる唯心論で、こうした 2 つの可能性までもが考えられてしまうのです。

従って、唯物論と唯心論の両面からしても、森島さんのお書きになっていること、

すなわち、

「五井先生だけは正しく絶対の存在だ、
しかし、
後継者の西園寺さんは正しくない、
だから、
教えが変質してしまったのだ」

とは言えないことになります。

従って、五井先生だけは絶対に正しくて、西園寺さんが間違っているという、首尾一貫しない、チグハグしたことは言えない。

五井先生が、西園寺さんを後継者として選んだからには。

繰り返しになりますが、まずは唯物論の理屈で考えると、西園寺さんが間違っている、その西園寺さんが主催者となっている白光真宏会が間違っていると言うならば、その大元である原因を作った五井先生も間違っていると言わざるを得なくなってきます。

森島さんがお書きになっている内容を、(曲解になるかもしれませんが)私の独断と偏見で、強引にまとめて、煎じ詰めると以下のようになります。

「完全無欠の絶対的な開祖であるはずの五井先生が、後継者に西園寺さんを指名するという間違った決断(判断)をしている」

絶対に正しいはずの五井先生が、あろうことか間違った人を後継者に選ぶのですか?

絶対に正しいはずの五井先生が、あろうことか間違った判断をするのですか?

おかしいじゃありませんか。

筋が通りません(唯物論的に)。

もっと、簡単に言えば、五井先生という正しい人が、西園寺さんという間違った人を後継者に選んだ、すなわち、誤った選択をした、ということになります。

つまり、森島さんのお書きになっている理屈の展開は、唯物論的に見ただけでも、完全に自家撞着に陥っているのです。

だから、五井先生だけが絶対に正しくて、西園寺さんが間違っている、とは言えません。

あくまでも西園寺さんを否定的に見るならば、五井先生もそれなりに足りないところがあったと解釈せざるを得なくなってくるんですよ。

唯物論でも、唯心論でも。

私の書き方が煩瑣で、かなりしつこく、ぐちゃぐちゃと書いてしまいましたが、(あくまでも仮に西園寺さんが間違っているとした場合には)こうした疑問や矛盾が生じることに気づいてしまった以上は、書くことは仕方がないんですよ。

あくまでも仮定の話ではありますが、これらの問題は、私ごときが気づかなくても、いずれ誰かが気づく可能性があります。

いや、というよりむしろ、西園寺さんが新しい教えを出し始めた時期(いつだかわかりません。すみません)のもうすでに前から気づいていても、誰も何も言い出せなかった、言いたくても言えなかった可能性のほうが高いように思われます。

宗教という教えの根幹にかかわるとても繊細な問題だから。

それとも、こうして私の書いていることが、論理破綻しているのでしょうか?

・・・。

もしも、万が一、森島さんが西園寺さんについて書かれていることが当たっているとするならば、非常に残念なことですが、やはり、五井先生が西園寺さんを後継者に選んだ以上、これも五井先生の限界のうちの 1 つ(他については省く)となってしまいます。

おそらく、西園寺さんについていく判断をした信者さんにも、表には出さずとも、内心はそれなりに葛藤があったと思われます。

私は、物事に対する理解力がきわめて乏しい者なので、西園寺さんの新しい教えにはわからないところがあります。

 西園寺さんの「我即神也」を読んだことがあるのですが、何となく文章の感じが五井先生に似ているなあ、とは思いました。

ただ、正直、内容があまりよくわからなかったので、自分のようないつも想いが乱れているような至らない者は、まずは、とにかく基本中の基本の、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行だと考え、その後は霊性の開発も進まないこともあり、以降は西園寺さんのご本は読んでいません。

あとは、森島さんが西園寺さんについてネットでお書きになっている内容しか知りません(それも結構文章量が多かったので、見落としたり、忘れている部分があるかもしれない)。

白光真宏会の会員の皆様は、私とは比較にならないほど優秀な人がほとんどでしょうから、おそらく、西園寺さんの新しい教えも理解できるのでしょう。

しかし、それにしても、森島さんがあそこまで疑義を呈しているということは、やはり、会員の皆様といいえども、それなりにひっかかる面があるのではないか、と考えられるのです。

五井先生には絶対に間違いはないはずだ、だけど、西園寺さんが新しく出してきた教えが今一つよくわからない部分がある、というように。

なぜならば、私達肉体人間の本質は神様であり、神性であり、真善美の判断能力を元々授かっているからです。

五井先生一筋のように読み取れる森島さんが、あれほどまでに反発しているのに、他のすべての会員の方々の心の中の迷いが皆無であったとは思えないからです。

そうなってくると、残された私達は、どうすればいいのか?

あとは、

白光真宏会の現在の状態と、

五井先生がその著作の中で、世界平和の祈りと守護霊、守護神への感謝行、そして、当たり前の生活をすれば、あとは何もいらない、と述べられていることと、

五井先生が、仏教の浄土門の市井の中の、南無阿弥陀仏の祈り一念に生きた、敬虔な信徒と言うべき、妙好人と呼ばれた、因幡の源左さん、浅原才市さん、宇右衛門さんを、きわめて高く評価していたこと、

をどのようにとらえるか、ですね。

さらには、

現在の白光真宏会の会員の皆様が、妙好人の人達(以下、宇右衛門さんで代表させる)のような境地を、本当に実現、あるいは、凌駕できているのかどうか。

宇右衛門さんの境地は、すごいと思う。

肉体をまとい、自己保存の本能を付与され、数々の輪廻転生を通して、積み重ねてしまった真善美に悖る想いと行いのために、神様の子供(仏教ならみ仏の子供)としては到底至らないはずの、罪悪深重の凡夫である普通の人が、神様の子供(み仏の子供)としてのあり方をこの世で見事にあらわしたと言えるからです。

輪廻転生なら、過去世からの悪い因縁をすべて清算し終えた、上がり、完成といった状態に見えるからです。

もし、印などで神様の光をおろすことで、一足飛びにこうした境地になることができるのかも知れませんが、実態はどうなのでしょうか。

宇右衛門さんの境地は、難行道をきわめた人でさえも、ちょっとやそっとの並大抵の修行では到達できない境地に思えます( 194_易行道の真髄 - おぶなより2 )。

白光真宏会の会員の皆様が、これをクリアできた上でさらに様々な行をしているのならいいのですが、実態はどうなのでしょうか。

これが部外者にはわからないのです。

会員の皆様が、宇右衛門さんの境地を凌駕しているのなら、まったく問題はないことになりますけれど。

以上を前提にして、これは私達自身で、よくよく考えて、各自で選びとるべき問題だと考えます。

続きを書きたいのですが、長くなりましたので、内容の重複も含めて、( 愛とは3 )に譲ることにします。

~ ここから、少し続きを書きます。なお、次項  の (*2) は、 ( 109_愛とは2 - おぶなより2  ) とほぼ同じです。~

西園寺さんを批判された方(森島恒吉さん)が述べられていました(ネット上の森島さんの法話集の日付は、1999 年頃)が、それによると、現在の白光真宏会では、五井先生の教えの根幹である、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行にはあまり重きが置かれていないようにされてしまい、あたかも、旧来の教え扱いとなっているようです。

五井先生も、自らの教えを、南無阿弥陀仏祈り一念の教えを、多少広めた形で、現代に適したように拡張されたようにお書きになっていました。

世界平和の祈り一念の信仰生活は、大まかに言えば、浄土門南無阿弥陀仏一念の信仰と本質が同じで、祈りの内容が還相まで広がって(現界から神界まで往相で昇り、神界から現界まで還相で戻って来て光明を広めるということ)いる分、祈りの内容が進んでいる、言い換えれば、より一層現代に適したものとなっていると理解できます ( 022_推奨易行道 - おぶなより )。

つまり、世界がひろがり、人口が増えるに従って、教えもそれに伴い、拡張された形になったと解釈できる訳です(←文明の発達により国外への交通網が拡充され、地球全体としての交通網が整備されたことで、世界の認識が広がり、信仰も国単位から地球(世界)単位に拡張されたという意味)。

しかし、時代状況に合わせて拡張されたとはいえ、その本質は、私達自らは、神様(阿弥陀如来様)からよって来る者である、だから、神様にかえり、すべてをおまかせする(=絶対他力)ことこそが、良き生き方につながるという発想が、その根底に据えられていることでは間違いなく共通している。

そして、常に、常に、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来様をお呼びして、何気なくありがたい、ありがたい、と感謝していることと、
私達の霊魂魄としての成長を支えるために、私達個々に神様がお遣わしになった守護の神霊さんに感謝することも、ひいては、神様に感謝を捧げることになるから、
両者はともに神仏への感謝ということでは通底している。

つまり、南無阿弥陀仏祈り一念の信仰と、世界平和の祈り一念の信仰は、間違いなく、本質は同じなんです。

これらの信仰を突き詰めて言わせてもらえば、

「(このように至らない罪悪深重の凡夫の私(わたくし)でさえも)神様と一つにならせて下さい」

「こうして生きていられる自らにそなわった力も、ありとあらゆるまわりの環境も、すべては神様のお与えです、ありがとうございます」

という内容を一つにまとめて、

「神様ありがとうございます」

だけが、すべて、ということになります。

これが、南無阿弥陀仏祈り一念の信仰と世界平和の祈り一念の信仰の要(かなめ)だと思います。

以上のように考えてきた時に、

現在の白光真宏会の教えや行事が、南無阿弥陀仏祈り一念の信仰や世界平和の祈り一念の信仰と、本質的に通底しているのかどうか、

さらには、発展形となっているのかどうか、

は皆様ご自身で、ご判断するべきだと、個人的には考えます。

(*2)これも何回も書いてきたことなのですが。

今の完成され尽くした詰んでしまっている世の中をたった一人の偉大な人物(?)だけで変えるのは無理です。

変えることができるのは、人格的に秀でているだけではなくて、それなりの絶対不可侵の力も兼ね備え、かつ、天涯孤独である必要があります。

しかも、小柄な元祖魔人ブウのように、絶対の力を持ち、不死身でなければならないのです。

そして、当然のことながら、信徒となる者も、同様に絶対不可侵となるだけの身の安全性を保証できなければなりません。

つまり、実現の可能性はまったくありません。

そのように可能性のないことに加え、完全無欠な超能力と人格の完成者となっている人は、おそらく今のこの世にはいないと思います。

いたとしても、元祖魔人ブウのように、超絶・隔絶した絶対不可侵の力を持っていなければ、仮に表舞台に出ることができたとしても、そのまま表舞台に出続けていることはできない。

お釈迦さんでさえも、完成され尽くして詰んでしまっている今の世の中を変えることは不可能だと思います(毀誉褒貶の話もあるが、いかんせん、約 2500 年も前の過去の人物の話であり、そもそもが開祖という何かと話(特に美談や神話)をつくられやすい立場の人なので、本当のところはわからない部分が多い(だから、史実の解釈が諸説に分かれていたり、後世のあまたの仏典の創作があると言える)。ただ、 45 年間も自らの人生を人様(他人の敬称)に捧げ尽くしたという実績だけでも、この人のあり方、人となりを十分に雄弁に物語っていると思う)。

お釈迦さん在世当時と、現代では、時代状況が著しく異なっているからです。

火宅の世を離れ、山奥で修行している、俗世とかかわらない人も、やはり、どんなに神通力を備えていても、上記の要件を満たすことはできないと思います。

だから、そもそもからして、完全無欠な宗教の指導者を求めること自体に無理があるんです。

過去のもろもろの聖者と言われた宗教の指導者といった方達も、完全無欠という訳ではなくて、何らかの問題があった可能性が考えられるのです。

従って、ある程度、宗教の指導者に完全無欠さを求めることはあきらめる。

そして、自らに与えられている神性を頼りに、できるだけ、いいと思われる道を選び取り、試行錯誤しながらも、進んでいくしかない。

そして、ある程度の確かな信頼を置けると判断したら、すべてを託する。

親鸞さんが法然さんを信頼して地獄に落ちても構わないと言ったように、精一杯、自らの神性を頼りにしながら、ある程度信頼を置ける信仰を、地道にやっていくしかありません。

乱暴に言わせてもらえば、完全無欠の完璧な教祖なんか求めていたら、信仰なんかできない。

だからといって、享楽三昧、放蕩三昧、愛人多数のようなおかしな人までいいというのとは全然違いますよ。

優れた人格を持ち、優れた力を持ち、人のために尽くし、汚ない言葉を使わず、批判や非難をせずに、抑制の利いた言動をするなどは当たり前。

ただ、その上で、何から何まで完璧だというのは無理ではないか、ということ。

わずかな欠点に目をつぶり、無理矢理完璧な教祖として祭り上げようとしたら、明らかな欺瞞になってしまいますよ。

なので、さしあたりは、この世に生を受ける以上、どのような人であっても、完全無欠とはならない、という意味合いです。

一次情報さえ明らかにならず、唯物論に深刻にからめとられている世の中では、真実なんか簡単にはわからない。

今はまだ、世の中の霊性の水準がその程度だと理解せざるを得ない。

お釈迦さんが法(ダルマ)を頼りとせよ、としたように、自らの神性を頼りにしていくんです。

神様と神様のおつくりになられたであろう、因果律の公正さを信じながら。

このように考えます。

~~~~~

(追記)
人は誰しも、自らの選んでしまった納得できない道を批判して、今現在の自分を正当化したい。

正当化したがる。

誰だって、自分の好ましくない歴史を滅却して、今現在の自分を正当化したい。

しかし、それは紛れもなく自分が過去に選び取った道。

消し去ることはできないんです。

その選択を滅却しようとすればするほど、自らを正当化しようとすればするほど、批判や非難がつのっていくようにならざるを得なくなる。

しかも、批判や非難は、輪廻転生を通して、決して良いものをもたらさない業想念。

何一つ良いものが返ってこないんですよ。

だから、納得できなくても、愚痴りたくても、収めることができれば、収めるべきなのです。

でも、まだこれでは、打算的ですよね。

ならば。

あなたが「愛を学」んだのは、あくまでも、この世でのご利益があったからではありませんか。

すべてをおつくりなった神様の愛ならば、おそらく究極の愛です。

神様は愛そのものの存在のはずです。

すべてのものを愛することができるのは、おそらく、神様だけです。

従って、神様はより好ましいものを愛(め)でることはあっても、選別はなさらないはずです。

そうした愛を見習わなければならないはずの私達が、どうして、批判や非難をしなければならないのか。

すべてを愛するというのは、ただ、ただ、無条件にすべてに愛を注ぐこと。

愛の本質は、ここにこそあるのではないですか。

何が言いたいのかというと。

愛は、神様の愛は(ということは、神様の分けられたお命を本質とする私達の愛も)、必ずしも、現世(この世)のご利益に左右されるものではない、ということです。

上記の妙好人の人達は、いかなることがあっても、たとえ、この世で自らに不利益をもたらすものであっても、苦しみをもたらすものであっても、仏の道を外れた自分達を正して、み仏(源左さんは親様と呼んでいた)の子供として救いとって下さるためのみ仏のおはからいである、すべてはそうしたみ仏(阿弥陀如来様)の愛のあらわれ=ご慈悲なのだ、と感謝していたのですよ。

ここには、神様(阿弥陀如来様)は、私達を愛して下さっている、ゆえに、私達のためになることしかなさらない、という、神様(阿弥陀如来様)に対する絶対の信頼を置いていることがわかる。(*)

本当に立派な信仰者だ。

しかも、恨み言や不平不満を一切言わないどころか、思い上がったり、傲慢な姿勢が微塵も見られない。

本当に凄い。

もちろん、批判や非難などはもっての外だ、と考えられるんですよ。

このように考えてくると、批判や非難は、完全に愛の道を踏み外している、神様の道を踏み外していると、考えざるを得なくなるのです。

~~~~~

(*)神様(阿弥陀如来様)に絶対の信頼を置いているということは、神様(阿弥陀如来様)が私達に施す「愛」を微塵も疑っていない、信じきっている、ことだとも解釈できる。

信仰における「全託」とはこのような境涯を指しているものと思われる。