197_信仰について2(はぐれ者)

前々回 ( 195_信仰について - おぶなより2 ) の続き。

ただし、前々回も今回も、太陽系の惑星その他(以下の白光真宏会の宇宙子波動生命物理学のことも)の話は、すべて私の個人的な推定(極端な妄想含む)なので、勘違いや間違いが多々あるかもしれない。

その点はあらかじめご了承下さい。

従って、以下に書く内容には、証拠は一切ないし、一切の証明もできない(=今流行りの言い方ならエビデンスがまったくない)ので、私の考えていることは、おそらく理解してもらうことはできないと思う。

なので、以下は、あくまでも一個人の推定(極端な妄想含む)です。

一般的な宇宙についての常識からすると、かなりブッ飛んだ内容になるので、あらかじめご承知置きのほどをお願い申し上げます。

世界平和の祈りをすすめていながらも、その道から外れた、はぐれ狼(?)みたいな異端の立場を白状するような内容になってしまうんだけどね。

以前書いたが、読んで頂く可能性のある人を騙すのは嫌だ。

世界平和の祈りを皆さんにおすすめる以上は、可能な限り真っ正直にいかなければならないと考えているから(神様を真善美に悖らない、愛そのものの存在と理解するため。それゆえ、信じてもらえなくても、間違いだらけでも、思っていること、感じていることを、そのまま率直に書いていくことにする)。

前々回述べたように、私は金星と火星、特に金星は地球とさほど変わらない惑星だと思っている。

厚いベールに包まれてはいるが、内部でそれなりの大気組成の調整ができて、順応できる算段がとれるなら、地球人類が快適に過ごせるだけの環境があると思っている(なお、空が地球のように青いのは火星のほう)。

もちろん、人格、容姿、科学技術力ともに、私達地球人類とは比べものにならないほど、はるかに進化した肉体をもった高度な人類がすでにいるとも思っている(アダムスキーの話ではありません。まったく違います)。

そうすると。

お前、何言っているんだよ、五井先生は、金星には霊体のような宇宙天使の存在(金星の長老さんだったかな?ちょっと忘れました。すみません)から教えを頂き、宇宙子波動生命物理学があり、これが完成されるようになっているとされているんじゃないのかよ、とお思いになる方がいるかもしれない。

詳しくは書かないが、宇宙子波動生命物理学というのは、そもそも存立そのものが難しいと考えられる。

なぜならば、人類に多大に貢献するであろう、革新的な新技術も、使い道によっては諸刃の剣になる可能性があるからだ(人格に問題があったり、悪意のある人間には決して使うことができない特別な制約がある技術ならば悪用の可能性は杞憂にしかならないのだが。もしもこうした悪用などの意図には関係なく誰にでも使えてしまう技術だとすると、現段階でのこの世の状況では、どうしても下記に示すような様々な問題が生じてくる可能性がある)。

もし、宇宙子波動生命物理学が万能な素晴らしい科学として完成すれば、特定の組織にこれを奪われてしまい、大変な事態になることが考えられる。

つまり、未発表となることで、結果的に日の目を見ないうちに自然消失の形にならざるを得なくなってしまう可能性がきわめて高いということです。

しかも、白光真宏会とはまったく関係のない、見たことも聞いたこともない不自然な組織からの特許申請を出されてしまうという顛末付きで(こうした点から見ても、地上天国化が果たされた暁には、既存の社会組織は全部解体して、抜本的な刷新をせざるを得なくなるのかもしれないな。なぜならば、地上天国化が成就した暁には、特許制度のような独善的・排他的な制度はなくなると考えられるからだ。従って、一部の悪意のある人間達に特許制度を盾に知的財産権を独占して特権的な利益をほしいままに享受され、悪用される心配もなくなるということ)。

小柄な元祖魔人ブウのような天下無敵の不死身な怪物といった特別な用心棒が付くか、特殊な情報の保持・保管のための防御体制が整えられていない限り、白光真宏会独自の宇宙子波動生命物理学としての情報の保全ができないと考えられる。

だから、そもそも、ノーベル賞総ざらい云々の前に、その発表すらできないままに、研究そのものが奪われてしまうのではないか、と考えられるのだ。

それに。

わかる人には、わかる話だが、そもそもノーベル賞って、本当に素晴らしいと、そんなに手放しで褒め称えてしまってもいい賞なんですか?

ノーベル賞って。

もちろん、受賞されてきた方の中には、長年、学問の研究や論文の制作に勤しみ、その生涯を捧げてきた真面目で立派な方もたくさんおられるのだろう。

でも、本当にそれだけですか?

だいぶ前に読んだ「ある日の五井先生」だったか、ネットだったか(ちょっと忘れました。すみません)では、五井先生の後継者の西園寺さんによると、宇宙子波動生命物理学は最終段階に入った云々書かれていたと思うけど、今はどうなっているんですかね?

もしも、こうした波動の科学で、病気でも何でも簡単に治せてしまうような、万能科学が完成されることになれば、今の社会の仕組みは、根底から変わることになる。

現に、白光真宏会とはまったくの無関係と思われる人の本でも、そうした内容の波動本が世間にはありますからね(江本勝さんの本じゃないですよ。 F さんという人の本です)。

しかし、仮にそのような状態(波動に関する科学技術により病気の治療と治癒)が可能になったとして、性善説で世界のみんなが協力的に動いて、理想的な社会がすぐに出来上がると思いますか?

残念ですが、私にはとてもそうは思えません(理由は省略)。

病気治しだけに限ってみても、仮に、世界のみんなが性善説で協力的に動いてくれるとしても、大変な混乱が予想されます。

なぜならば、すでに構築されているたくさんの社会制度にもとづく複雑な利害関係があり、これを一度にご破算にして、再構築するのは、大変な作業になると考えられるからです。

物の流れの面でも、お金の流れの面でも。

ご破算にせずに、今の仕組みを流用するにしても、やはり、再構築は不可避であり、大混乱は免れないと予想されます。

平和裡にコトがすすめば、それに越したことはないですが、果たして平和裡にコトがすすみますかね?

今仮定したのは、あくまでも性善説です。そうでないと考えた場合、つまり、現在の社会体制と医療制度が、そのまま続く、しかも旧来の医療関係者の人々に拒まれる場合が出てくれば、新しい治療法を部分的に導入するだけでも、さらに想像できないほどの大変な混乱と難儀が予想されます。

といったことをはじめとして、つらつらと考えてくると、・・・。

もう、宇宙子波動生命物理学を考えるのはやめよう。

もしも現時点で発表されていないとすれば、それが上記の私が考えたような事情(=何者かが完成された研究を奪いに来る可能性があること)のためなのかどうかはわからないが、それにしてもあまりにも時間がかかりすぎ。

なぜならば、五井先生ご存命の時に、 20 年先、 30 年先ではあまりに先のことで待ちきれない、とされていた(ある日の五井先生かネットより)からですよ。

五井先生がお亡くなりになられたのが、1980 年だから、今年でもう 43 年にもなるんです。

明らかに長すぎです。

いくら五井先生を信じるにしても、これではまるで狼少年みたいだと言われても仕方がないのではありませんか?

だって、中には病気で苦しんでいてそのうちに寿命が尽きてしまった方もおられるかもしれないし、そうでなくてもそうした科学により世界が平和になることを心待ちにしていた方が、たくさんいたと考えられるからです。

そうしたことに思いを巡らすと、長い時間がかかりすぎていることは、残念に思えてなりません。

だから・・・。

もう、宇宙子波動生命物理学を考えるのはやめてしまおう。

五井先生や白光真宏会に対して否定的な想い=業想念を抱かないためにも。

いずれ発表されることになるならそれでよし、発表されなくても、それでよし。

すべては神様のみ心次第と考えて執着しない。

ただただ、信仰として正しいと思われる道を目指し、あとのすべての成り行きは、神様の思し召し(おはからい)にお任せするしかない、と個人的に考えた訳なの。

神様は善なる存在であり、真善美に悖らず愛そのものの存在ととらえる限り、肉体人間の本質を神様の分けられたお命ととらえる、つまり、肉体人間の本質は霊なる人間=霊魂魄であるととらえる限り、世界平和の祈りは、間違いなく理に適っている。

そして、私達が肉体人間として抱いた想いは、原則として輪廻転生という生まれ変わりを通して巡るととらえる限り、その中で抱いてしまった真善美に悖り、愛に悖る、誤った想いに対する運命の修正という救済、いわばわずかな神様のお目こぼしは、守護の神霊様のお救いしかない、ととらえるならば、先の神様の存在の整合とも併せて考えると、信仰としてはこれしかない(つまり、引き寄せのように必然的に後々のツケ払いを伴わずに、因縁因果を超えていく方法はこれしかない)。

結果のいかんにかかわらず、どうせ信仰をするのなら、自分の良心に問うてみて、正しいものを奉じたい。

たとえ望むような結果が得られずとも、悔いのない信仰を選びたい。

既存の他の一般的な宗教に比べたら、理詰めで考える限り、はるかにいいものに思える。

このように考えて、世界平和の祈りをすすめてきた訳です。

何言ってるんだ、コイツは、と思われるでしょうね。

でも、霊感もほとんどなく、神様に何か教えて頂けるような特別なご縁のまったくない私が、理屈だけでたどり着いた結論は、上記のようにしかなりませんでした。

信仰をするならば、世の中の理が因縁因果に縛られているとするならば、世界人類の平和に一番適しているやり方がこれしかないと考えられるならば、世界平和の祈り一念の行き方しかない、と考えた訳です。

引き寄せで今生を元にした夢を強引にかなえても、いずれいつかはそのツケは回ってくる。

ツケを伴わない自由自在な想いをかなえるためには、霊性それ自体が、悟りを開くほどに開発されていなければならない、と考えられるからです。

となると、いまだ悟りを開くにはほど遠い、私達一般人に向けての穏当な結論としては、世界平和の祈り一念の行き方しかない、と考えた訳です。

世界平和の祈りは、何も白光真宏会に属さなくても、個人的にされている方が、巷にはそれなりにおられるようだし、白光真宏会に属さないからといって、世界平和の祈りの効果がなくなるとは思えない(しかも今の白光真宏会では、世界平和の祈りにはあまり重きが置かれないような状態になっているようだ。正確にはわからないけど)。

それは、霊感や波動を関知する能力がある巷におられる、そうした方々の話を見てもわかる。

つまり、世界平和の祈りは、私達が過去世をも含めて抱いてきた想いの世界の幽界を浄める効果が間違いなくあるということ。

私達の想いの集大成、つまり、私達、個人個人の過去世からの想いの集大成の総和が、この世のありように反映されるとするならば、私達肉体人間の抱いた想いの世界である幽界の浄めは、絶対にやった方がいい。

デジタル媒体全盛の今からすると、ちょっと古いたとえになるが、五井先生の本に出ていた、フィルム撮影した映画の上映話に例えると、原則としていずれ上映される完成されたフィルムが幽界に既に出来上がっていて、これが世を隔てて、この世に上映=あらわれてくることになる。

(原則として)過去世の想いを元にに作られて完成されているフィルムなら今生に、過去世も含めて今生までに作られたフィルムなら来世以降に、という形で上映がなされていく。

このフィルムの上映前に、そのフィルムの中で、主として悪い因縁としての部分を、その裁量の範囲内で編集(修正)して、助けて下さるのが、守護の神霊様方となっている。 だから、守護の神霊様方の事前のお救いはひとまず置いておいても、まずは想いを発する主体となる私達が、想いを出来る限り良いものとなるように整え、なるべく良いフィルムを作っておくことに越したことはない、ということになるのだ。

この世を滅ぼしたいという狂人ではない限り、この理は納得できるはずだ。

否、そうしなければ、この世のありようは好転させられない。

もちろん、世界平和の祈りをしなくても、世のため人のためを想い、良い想いを発して祈っておられる方々もたくさんおられることだろう。

しかし、肉体人間で構成された社会が、否、神様がおつくりになられた、ありとあらゆるものを調和させる祈りは、世界平和の祈りを置いて他にはない、と考えられるのだ。

まあ、言葉という表現内容からしても、「言葉は神なりき」や「言霊」といったものがあるからね。

これらの観点からしても、世界平和の祈りは、隙がない(まっとうの「まっと」に「完」という字をあてている以外は)。

それゆえ、世界平和の祈りをすすめている訳です。

(追記1)
今の時代は、本当にキツイと思う。

どう考えても不自然なことや、おかしなことが罷り通るようになってしまっているように見えるからだ。

神様は大難を少難で済ませて下さっている(悪いことがいっぺんに行かずじわじわとなっていることが救いと考えられるから)のかもしれないが、あまりにもおかしなことばかりが起きると、なかなか実感することは難しい。

この世が、あたかも、真綿で首を絞められていく恐怖劇場ではないか、というように思えてしまうことがあるからだ。

特に私のような極度の小心者は、どうしても不安や恐怖にさいなまれることになってしまう。

まあ、どのような行く末になるのかはわからないが、とにかく少しでもよくなるための努力だけはしておくべきだと考えます。

こうやって生かして頂いていることの神様への感謝も、そして、そのためのありとあらゆる周辺環境への恵みに対する神様への感謝も鑑みると。

五井先生のどの本だかは忘れてしまったが、
「神様、私達肉体人間では何事もなし得ません。
どうかよろしくお願い致します」
と世界平和の祈りとともに、置かれた立場でできる限り悪い想いを抱かないようにしながら、やっていくしかないでしょうね。

(追記2)
念のために、五井先生の提唱された世界平和の祈りの祈り言葉一式を挙げておく。また、特殊な漢字の読み方もあるので、読み仮名も併せて挙げておく。

世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます

なお、読み方は以下の通り。

せかいへいわのいのり

せかいじんるいがへいわでありますように
にっぽんがへいわでありますように
わたくしたちのてんめいがまっとうされますように
しゅごれいさまありがとうございます
しゃごじんさまありがとうございます