万教帰一という言葉がある(どうも生長の家の言葉みたいだ)。
しかし、こんなことは到底言えないような、どうしようもないカオスなありさまが、この世の中には広まっている。
自分達の信奉する神こそが正しい神なのだ、自分達の宗教こそが正しい宗教なのだ、と言わんばかりの頑なで閉じた体系を持つ、独善的で排他的な宗教のいかに多いことか。(*1)
唯物論の理屈で既存の宗教をまともにみれば、どう考えたって、万教帰一などとは言えたものではないとしか思えないからだ。
そうした既存の各宗教の信者さんも、肉体人間観を脱却できていない、悟りを開いた人はいないようで、肉体人間としての自我意識の延長線上に、自らの信奉する神様を祭り上げ、頑なに固執し、決して他宗に譲らない、融け合わない、道を譲らない宗教だらけのような様相を呈しているように見えるからだ。
私は、今まで、すべての創造主、すべてを造り、すべてに命を与え生かしている、大元の神様を「神様」としてきたが、「阿弥陀如来様」も同様にとらえてきた。
やれ、仏教の仏様は違う、仏教の神様は違う、キリスト教の神様は違う、などと、肉体人間のエゴイズムの延長のような我欲の張り合いのようなことをやっていては、いつまで経っても、どこまでいっても、世の中に安寧や平和なんか訪れっこないからだ。
分子生物学者の村上和雄さんは、遺伝子のとてつもない驚異的な精緻さから、(おそらく神様に相当する存在とその働きを)サムシング・グレートとしていた(ただし、村上さんは、そうした命の設計図を解読することができて、たんぱく質などの材料を揃えたところで、命そのものを造り出すことはできない、命そのものの働きを造り出すことはできない、まだまだ未解明なところがたくさんあるとされていた)が、こうした存在が、一定の邪な意図を持った宇宙人だの、何だのとといった程度の存在とは、到底思えないね。
もし、そうであるならば、あるいは、もし、巷にある各宗教の神様がこれに相当する存在なら、その概要をつまびらかにしてしかるべきでしょうよ。
しかし、到底、そうはなっていないように見える。
それにもかかわらず、ほとんどの宗教の信者さんは、各々の信奉する宗教に執着しているのではないだろうか。
私は、上記のように、仏教の「阿弥陀如来様」を「神様」同様にとらえてきたが、仏教を信奉する大多数の人はまったく違うだろう。
何が言いたいのかというと。
仏教に限らず、自らの肉体人間観の自我の延長として、そんな宗派にとらわれていることばかりしていたら、いつまでも経っても、世の中の調和は訪れませんよ、平和にはなりませんよ、ということなんですよ。
「南無阿弥陀仏」は、素晴らしい祈り言葉だとは思うけど、これは祈る当人と阿弥陀如来様との直通という意味合いが主で、当人が悟りに近いようになってきたら、周囲の人々に好影響を及ぼす形で横に広がっていくという、世界平和の祈りに比べると、やや、限定のある祈りになっている。
それでも、妙好人の因幡の源左さんのような人ならば、どのような人に対してでも、つまり、どのような宗教を信奉する人に対してでも、同じように接して、人を崇め、尊重する態度をとるだろう。
つまり、源左さんのような人ならば、相手が肉体人間である限り、すべてのあらゆる人を崇め、尊重すると思われるのである。
宗教や宗派なんか関係なしに。
つまり彼は、この世にこうして生きているのは、神様=阿弥陀如来様と、自分との関係性によるもので、ありとあらゆるものは、神様=阿弥陀如来様がお与えになり、思し召され、おはからいになるという、一律の見方をする信仰者だ、と思われるのである。
白色人種も、黄色人種も、黒色人種も、関係ない(源左さんは、白色人種の 人にも、黒色人種の人にも会わなかったと思われるが)。
ましてや、宗教や宗派にとらわれないだろう。
源左さんは、そうした対応をする人だと思われるのである。
源左さんにあるのは、ただ、神様=阿弥陀如来様と、世の中の人々と同じ肉体人間としての自分があるだけ。
この見地から、すべての人々に対していく。
つまり、世の中にあるのは、神様と神様のお造りになられたすべてのもの、中でも信仰において重きをおくのは、神様と万物の霊長となる肉体人間だけということ。
その中で、すべてをお与えになり、思し召しになり、おはからいになる神様への感謝と、祈りがあるだけ、ということ。
このように考えてくると、やれ、どの神様でなければダメだ、どの仏様でなければダメだ、自らの信奉する宗教に固執して、強硬に自らの宗教を押し出していくことが、いかに調和を乱すか、と思えてならないんですよ。
とは言うものの。
仮に、おかしな神様だな、おかしなご託宣だな、おかしな教えだな、と思える宗教があったとしても、批判や非難をしてしまったら、これはこれで、真善美と愛に悖る、神様のみ心には適わない想い=業想念になってしまい、輪廻転生を通して、この世に不幸や災難などの悪いものしかもたらさないことになってしまう。
だから、あくまでも懐の広い善なる神様を信じて、そのおはからいに委ねるべく、世の中の人々の調和と安寧を願って、ひたすら世界平和の祈りをするしかない。
世界平和の祈り以外で、最もこうした信仰の仕方に近いのが、源左さんのような信仰のあり方に思える訳です。
だから、あえて、仏教だの、宗派だのという枠をこえて、神様として同一の存在と思える存在を、わざわざ、西方極楽浄土の阿弥陀如来様として区別して特別視をせずに、神様と阿弥陀如来様を、あたかも混同したような形で書いてきた訳です。
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(*1)まあ、こうした独善的で排他的な宗教を信じることになってしまうのも、やはり、その人、その人の過去世の因縁によるものと考えられる。
よりによって、何であのような宗教に入ってしまうのか、と今生の唯物論の理屈だけでは到底説明しきれないような背景=過去世の因縁=原因が、その人、その人なりの過去世において肉体人間としてこの世に生きていた時の想いと行いにある、ということなのだ。
だから、唯物論の理屈だけでは到底説明しきれない、納得し難い様々なおかしなことの背景は、過去世の因縁を原因として起きてくる、としか解釈しょうがない、ということである。
善なる神様が造物主であり、すべてのものを造り出し、それなりの命を与えていて、理に適った法則を設ける存在であると解釈する限り、このように考えなければ、辻褄が合わなくなるからだ。
だから、消去法的に考えると、「輪廻転生などない」とするならば、神様という存在は、あえてカオスのような不公平・不平等・不均衡きわまる、 私達にただ 1 回きりの肉体人間としての人生を与える意地悪か、悪意を持って、この世に不公平・不平等・不均衡を造り出す存在と解釈できることになってしまうのである。
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(追記1)
まあ、上記では神様をきわめて広くとらえた訳だけれど。
五井先生によると、確か神様は、一即多神で、すべてのものに命を与え、大宇宙の進行を司るような法則の神様と、それから様々に別れて様々な働きをするいろいろな神様に分かれていた。
確か、大まかには、宇宙神という、大宇宙の進行を司るような法則の神様と、人類などの守護にあたる守護神や守護霊などの救済の神様に大別されていた。
ただ、こうしたことを細かく考えたり、何々の神様だと名前を覚えたりするよりも、とりあえず、宇宙神というか大神様という法則の神様から、私達に遣わされ、私達をお守り下さる、守護神様と守護霊様に感謝をすればいいというような話だった。
「神様」と呼んだとしても、宇宙神という大神様には、よほどのことがない限り、届くものではないから、救済の神様である、守護の神霊様を意識すればよい、と。
ただ、こうしたことを、これ以上、私達が細々考える必要はなくて、とりあえずは、神様は大別して法則の神様と救済の神様とに分かれていて、私達としては、私達専属に宇宙神である大神様から遣わされた守護神様と守護霊様に感謝をすればよい、といった話だったと記憶している。
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(追記2)
ユーチューブのお陰で、五井先生の直に話されている音声を聞くことができるようになったので、五井先生の本を探したり、読み返すことがかなり減って、だいぶ楽になった。
ありがたいことです。
ただ、五井先生のお話とは違うことだが、ユーチューブも、かつてのテレビほどの内容の硬直さがなくて、自由で多彩なのはいいのだが。
残念ながら、かつてのテレビと大して変わらないことや、むしろテレビよりも見苦しい点がある。
大して変わらないのは、ここぞというところでの CM の強引なねじ込み。
見苦しいのは、客(=視聴者)引き一辺倒で、詐欺見出しや、脅し見出し、○○などの伏せ字見出し、大変なことになりましただの、もうやめるだの、もう最後だの、もうお別れだの、という、実際に視聴してみると、そんな大げさなことがない(=見出しから想像される内容と動画の内容に明らかな齟齬がある)のにもかかわらず、視聴者を「一体、何があったんだ」「どうかしたのか?」と心配させ何とか引き込もうとする、これ見よがしな思わせ振りな見出しが氾濫していることだ。
動画の中身を充実させることだけでは我慢ができないのか、こうした手法に打って出るものが大量に氾濫している、つまり、そうした業想念だらけの見出しがわが物顔で闊歩している状況には、ちょっとウンザリしている(私の視聴履歴が悪いせいなのかもしれないが、これはとりあえず考えない)。(*2)
なぜなら、ユーチューブのアプリを開く度に、こうした刺激ばかりを伴う、物欲しげな見出しが出てきて踊っているからだ。
少なくとも、こうした見出しが踊りまくっている状況では、視せられる側の人間の心が平穏になることはなく、常に心に波風を立たせられるような刺激を与えられてばかりいることになるからだ。
これらの手法は、視る人に何とか強い刺激を与えることで、視聴者を驚かせ、不安にさせ、心配させる、といったやり方に他ならないからだ。
信義誠実の原則や、真摯さを貫く、真っ向ひた押しの地道なやり方は、もはや望めないのか、とさえ思えるほど。
大変苦労して、動画を作成された方々には申し訳ないが、せっかく良い動画を作っても、こうした見出しを用いることは、視る人の想いを乱す、決して良いとは言えないやり方になるんですよ。
これがずっと続いていくと思うと、何とも言えない気持ちになりますね。
それと。
ユーチューブには、相も変わらず、被害が自分や自分の近しい人間達に及ぶと考えたら、到底容認できない凄惨で酷い内容の予言を上げる人達がいる。
宇宙人やら、火星の記憶があると称する者やら、かつての予言が当たったとされる人や、未来から来たと自称する者やら、こうした有害な(なぜ有害なのかは ( 208_予言について - おぶなより2 ) に書いた)脅し見出しが、見たくもないのに、わらわら、わらわらと湧いてくる。
肉体人間として、天下ってきた私達の想い(過去世からの分も含めて)を乱すことが、この世を悪くすることを踏まえると、これらの動画を上げることは、まさに、「不安騒擾の罪」そのもの。
もはや、嫌悪感さえ抱くレベルだよ。
本当にどうしようもないな。
最悪ですよ。
それでも、私達には、ただただ、ひたすら、世界平和の祈りをするしか残されていないけどね。
こうした私達に不安騒擾の想いを抱かせ、掻き乱し、波立たせる動画に、批判をしようが、何をしようが、想いを乱すことにしかならないのだから。
今回も批判めいたことを書いてしまったが、とにかく、世界平和の祈りをできる限りして下さるようにお願いしたい。
ただ、それだけです。
また繰り返します。
私達肉体人間の本質(本体)は、この肉体を有機的な生命として成り立たせている、神様の分けられたお命そのものの霊魂魄、すなわち、神様の分霊(わけみたま)である。
つまり、真実の人間とは、動物のようにこの世にあらわれている五感に感じることのできる肉体人間ではなくて、神様の分けられたお命そのものであり、この肉体を生かしている、命そのもの、神様の光明波動そのもの、神様の光そのもの、霊なる人間こそが本当の人間なのである。
従って、私達肉体人間の本質が神様の分けられたお命そのものである以上、私達肉体人間は、神様のいわば子供に相当する訳であり、その本体の命も、神様同様に永遠である。
そして、この世に神様の子供としての肉体人間として、この世に天下った私達は、そのおよそ数十年という限られた寿命の肉体を通して、輪廻転生という生まれ変わりを繰り返す。
しかし、こうしたことを心身ともに、完全に感得できているのは、悟りを開いたような人しかおらず、どんなに理屈の上で何となくわかっているようでいても、悟りを開けない以上、私達は、人間とは、この目に見える、皮膚で触れる、つまり、五感で認識することのできる、動物のようにこの世にあらわれている肉体人間こそが、真実の人間だと思っているのだ。
このような肉体人間観に縛られている以上、自分の定命を、心安らかに、穏やかに受け入れることのできる人は、ほとんどいないのである。
つまり、誰だって生きている以上、(肉体人間として)死にたくないのが、当たり前なのだ。
だから、自殺したいとか、ノイローゼになっているとか、かなりの高齢でもう人生は十分に満喫したなど、よほどの事情がない限り、この肉体人間としての生命が失われることは、恐怖にしかならないのである。
こうした肉体人間観では、肉体人間の死を、単なるあの世への移行、すなわち、あの世への誕生であり、この世での寿命のまっとうという、一つの霊的な進化の段階を進んだことだとは、到底、思えないのである。
以上のような私達、肉体人間観を持つ者が世の中のほとんどすべてを占めている状況下で、人々の不安と恐怖を煽りまくり、天変地異を暗示するような絶望的な予言をしたりすることは、明らかに真善美と愛に悖る、神様のみ心には適わない、「絶対悪」にしかならないのである。
メメントモリではないが、今肉体人間として生きていることの短く儚い貴重な意味を噛みしめ、真剣に命を正しく生かすような生き方をするために、身を引き締めることくらいしか、残された人生の意味がなくなってしまうのだ。
しかし、こんな形で、一日一日、一瞬一瞬を、真剣に生きて、どんなに寿命が短くてもかまわないという人はいない。
だから、精神世界(スピリチュアル)を説こうが、宗教的な指導者だろうが、悟りを開いて、肉体人間の死を何事もなく受け入れるような境涯に至っていない者は、このような不安と恐怖を煽るような予言や言説をしてはならないのである。
彼ら(彼女ら)が、お釈迦さんとは言わずとも、少なくとも、妙好人の因幡の源左さんや、浅原才市さんや、宇右衛門さんのように、この世的に、良いことも、悪いことも、ありとあらゆることが、神様のおはからい、思し召し、お救いなのだ、ああ、ありがたい、ありがたい、ありがとうございます、と素直に感謝できるほどの境涯に至っている人達なのか?
まことに失礼ながら、とてもそのようには思えないのである。
私は、かりそめにも、世の人々を正しく導くべくして、それなりの霊的な力をそなえて生まれてきた立場の人ならば、最低でも妙好人の彼らを超えるほどの高潔な人格者でなければならない、と勝手に思っている(厳し過ぎるかもしれないが)。
それにもかかわらず、物欲しげでお世辞にも上品とは言えない見出しを使う動画を平気で上げるばかりか、視る人を脅して、不安や恐怖に陥れることを、ごく当たり前のようにしている人達が、本当に霊的な指導者に相応しいとは思えないのである。
まあ、これを望むのは厳し過ぎる理想論にしても。
過去世の因縁もあって、せっかくこの世に特別な能力を授かって生まれてきたのだから、悪い予言などはやめて、その特別な力を祈りなどの良い方向に活かしてほしいのですよ。
とにかく、最低限の警告に止めるだけならいざしらず、人々の不安と恐怖を煽るのは、「明らかに悪いこと」言わざるを得ません。
よって。
私は、
「あなた方は、それほどまでに、この世の不幸や、災難や、阿鼻叫喚の天変地異などに見舞われる地獄絵図を望んでいるのか」
「もし、そうでなければ、今すぐにそうした発信をおやめなさい」
「そして、結果のいかんにかかわらず、今からでもできる限りの世界平和の祈りをしなさい」
と言いたいのです。
とにかく。
できることは、唯一、世界平和の祈りをお願いするしかありません。
世界平和の祈りをお願い致します。
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(*2)「詐欺めいた」というのは、動画の見出しから、ごく自然に推定される内容と、実際の動画の内容に齟齬があるから。
しかも、その齟齬がごく自然な流れの齟齬ではなくて、明らかに一見の人を惹きつけ、何とか動画を視させようといった意図から、見出しがつけられているものがその大半を占めているからだ。
このような状態では、看板に偽りありになってしまっていると言われても仕方がないことになる。
こうしたことは、一般的にサムネ詐欺とも言われているようだが、私がくどいほど何回も書いてきたのは、こうしたことなんですよ。
もっとも、こうした行き方は、今のところ、ごく普通にありふれたユーチューブのあり方でもあるし、個人の行き方だから、とやかく言うべきではないかもしれないけどね。
ただ、神性ということを考えると、やはり、こうした齟齬のあるあり方は、好ましくないと言わざるを得ないんですよ。
その点で、「さすがだな」と思うのは、白光真宏会の上げている五井先生のお話の動画や他の方々の上げている五井先生のお話の動画には、こうした見出しと中身の齟齬は見られない。
誰に何を言われなくても、ごく自然に、神様のみ心に適った、こうした齟齬のない正直な見出しが、動画につけられているように見える。
たとえ地味でも、決して客引きのような物欲しげなことや、人々の心を波立たせるような真似はしない、という姿勢がごく自然なあり方として、(おそらく誰に言われずとも当たり前のこととして)無意識に身についている。
これは、やはり、五井先生の教えや人徳の賜物だと思うのですよ。
五井先生の教えをそれなりに正しく奉じている、肉体人間としての本来の神様の子供に見合ったあり方をそれなりに正しく理解した人々は、ごく普通のあり方として、信義誠実の原則を外したことは、決してしない。
つまり、一般的にありがちなコマーシャリズム的な物欲しげな態度が微塵もみられない、清廉さを感じるのですよ。
なるほどな、と。
あと、申し訳ないけど一つだけ。
五井先生の動画の内容とタイトルに、確かに齟齬はないのだけれど、タイトルが総花的になり、やや長過ぎると思われる方がおられます。
誠実な方で、内容を逐一網羅しようと律儀にお考えになったのかもしれませんが、やはりパソコンやスマートフォンの画面には制約があるので、できれば一文か、二文程度に絞られた方がいいような気がします。
網羅しきれない内容は、それぞれ動画と動画を視聴する人の過去世の因縁にお任せということにして、もう少し短くされた方がいいかなあ、と。
生意気言ってすみません。
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(追記3)
私は上記で、五井先生の教えを汲んだり、理解した人は、ユーチューブなどで、物欲しげな釣り見出しなどを用いない、とした。
だが、非常に残念なことだが、ごく最近、ユーチューブで、五井先生の世界平和の祈りを扱いながら、こうした釣り見出しに通じる○○といった伏せ字を使った見出しを出しているものを見つけてしまった(白光真宏会の信者さんや個人的に五井先生の教えを宗教として信じている人ではなく、純粋に世界平和の祈りの波動の良さを取り上げている人のようだ)。
五井先生の真っ正直なあり方や、本来、五井先生の教えを奉じる人であるなら外すことはないと思っていた、信義誠実な行き方を違えた、釣り見出しを使う人が出てきたのは、何とも残念としか言いようがない。
興味本意の客寄せ見出しや思わせ振りな釣り見出しは、見る人の想いを乱す、波立たせるものだ。
極端に言えば、アクセスさえ稼げばいいんだ、動画の再生回数さえ稼げばいいんだ、アクセスや動画再生という目的のためには、手段は問わないという巷に溢れる唯物論的なやり方と何ら変わるところがないからですよ。
「波動」で言えば、整った澄んできれいな波動ではなく、物欲しげで乱れた波動になるのではありませんか?
想いが澄みきっていないのは、波動も澄みきっていないのと違いますか?
ごく普通の唯物論しか信じない、昨今のハッタリ釣り見出しや伏せ字だらけの人なら、わからなくもない。
しかし、やはり、肉体人間の「想い」を重要視する、五井先生の「世界平和の祈り」をすすめるあり方としては、このような物欲しげなやり方は、神様のみ心には適わず、およそ相応しくない、不適切だと言わざるを得ない(肉体人間の抱く想いがどれほど重要なのかは、五井先生の教義の「人間と真実の生き方」を読めばわかる)。
どう考えても誠実なやり方とは思えない。
私がブログの表題に伏せ文字を絶対に使わないできたのは、五井先生の教えから想像されるであろう、信義誠実のあり方を踏まえてのことです。
どんなにアクセスが少なかろうとも、たとえアクセスが絶無になろうとも、こうした神様のみ心に適わない、読者の心を波立たせるやり方はしない、と一寸の虫にも五分の魂ではないが、最低限の矜持として伏せ文字を使わずに、文章内容との齟齬を生じさせないようする見出しの付け方は守るべき事だと思ってきたからです(上記のように、白光真宏会の信者さんや五井先生の教えを宗教として信じている人なら、私のようにわざわざこうした意識を持たなくても、伏せ字を使った釣り見出しは用いない、つまり、自然にこうした行いはしない、と思われる)。
まさか、今頃になってこうした見出しの動画に出くわすなんてね。
何てこった。
本当に残念。
残念としか言いようがない。