109_愛とは2

前回 ( 108_愛とは - おぶなより2 ) の続き。

私が言いたかったのは、恨み言や、捨て台詞、そして、後足で砂をかけるかのような物言いは、見苦しいし、因縁因果の巡りを考えても何一つ建設的なものはない(=悪いものしかもたらさない)のだから、やめましょうよ、ということです。

たとえ、相手が五井先生以上(?)の聖者であったとしても、五井先生であったとしても、五井先生以下(?)の聖者であったとしても、相手が宗教家として完全無欠ではなかったとしても、不平・不満は胸におさめる。

批判や非難はしない。

そして、できることならば、妙好人の人達のように、(あれほどの立派な感謝はできなくても)祈りにすがる。

世界平和の祈りがどうしてもできないのなら、南無阿弥陀仏と祈る。(*1)

近代には、仏教の浄土門の敬虔な祈り人であり、南無阿弥陀仏の祈り一念に生きた、因幡の源左さん、浅原才市さん、兵庫県の浄因寺(じゅういんじ)に銅像が立てられている宇右衛門さんといった妙好人と呼ばれる、市井に身を置いた立派な宗教信仰者の先達が、紛れもない実在の人物として存在していたのだから。

そして、千々に乱れた心を何としても鎮める。

なぜならば。

もしも、神様が、因縁因果が輪廻転生を通して、万人に公平に働きかけるようにおつくりになられたのだとすれば、納得できない宗教に入ったことも、あるいは、間違ったと思われる宗教に入ったことも、そのような過去世の因縁のためだったのだ、ということになるからです。

これとは逆に、正しい宗教に入ったにもかかわらず、その正しい宗教の道筋に従った場合に、病気の治癒までに時間がもっと必要なものだったのかもしれません。

または、正しい宗教に入りながらも、一生涯病気は治らない過去世の重い因縁だった可能性も考えられます。

こうした内容は、ちょっとやそっとの霊感があるとかの程度ではわからないのですよ。

漏尽通を駆使できて、しかも、高潔な人格者たる宗教家にしか、わからない内容のはずです。

つまり、私達のような一般的な人間には、まず絶対にわからないことなんですよ。

私達にできることは、せいぜい、今生で起きたことから、過去世であったことを、逆算して類推することしかできないんです(これさえも知らない人が多い。というか、大多数の人が知らないのではないか?)。

このように考えてくれば、あなたの過去世における真善美に悖った誤った想いと行いのために、そのように納得できない宗教に入り、あるいは、間違ったと思われる宗教に入ったことに他ならないのです。

または、正しい宗教に入りながらも、今生中に病気は治るにしても、その正しい宗教の道筋に従った場合に、いまだ治らない中途の段階にあるか、正しい宗教に入ったとしても、病気は治らないで一生涯を通す因縁だった可能性があることになります(もう一つ可能性がありますが、かなり否定的な内容なので、あなたに悪い感情を抱かせてしまう可能性があるため、触れません)。

さらには、強引な勧誘や脅迫紛いに無理矢理に入信させられたならばいざ知らず(これもおそらく、過去世の因縁)、そうでなければ、自分で選び取ったのですよ。

誰のせいでもない。

自分の責任に帰する。

つまり、過去世の因縁のためになされた宗教の選択にせよ、今生から新たに自由意思で選び取った宗教の選択にせよ、自分自身に責任があることには、何ら変わりがないことになるんですよ。

過去世における自分の想いと行いか、今生から新たになした想いと行いか、の違いの可能性はあっても、すべては、紛れもなく、自分の責任なんです。

なぜ、こんなことを言うのかというと。

部分的にせよ、連綿と欠点をあげつらい、批判を展開しているということは、自らが選び取ったことを認めていないことになるからです。

あとになってから、自分の心を見つめるうちに、五井先生が好きではないとわかったなんて、いかにもとってつけたように理由を列挙して批判しているのは、どうみても自らの正当化のための言い訳をしているようにしか読み取れないからです。

アイツが悪いから(宗教家として不完全だから)、こんなに苦しんだんだ、アイツが、アイツが、・・・。

そして、それを正当化するための、いくつもの批判の列挙(しかもわざわざ文字色を変えて批判・非難点を強調している)・・・。

これは、一体、何を意味しているかというと・・・。

つまり、他責なんです。

自らの宗教の選択の責任を、他人に転嫁している。

外罰的に他人を責めている。

自分の非は、至らないところは、慧眼ではなかった(?)のは、すべて、他人のせいだ、他人が悪い、としているんですよ。

批判や非難を部分的にでもあげつらうということは、結果的に、そのようになってしまっているんですよ。

ただの、愚痴や文句や批判では済まなくなるんです。

本当の愛を感じるのに、そして、愛を行じるのに、他人を責めますか?

批判しますか?

それで本当に愛を理解したと言えるのでしょうか?

私達は、肉体人間として自己保存の本能を与えられたために、どうしても自己中心的で、利己的になりやすい。

だから、いっぺんにすべての人を愛するのは無理です。

愛を施すことはできません。

従って、自らを中心に近しい人から漸次、段階的に愛を押し広げていくしかありません。

愛を押し広げることと、他人を責めることと批判することは、相反します。

相容れません。

だから、批判や非難は、愛の観点からも、ふさわしくないのです。

「愛を学ぶ」・・・ですか。

ならば、もっと言わせてもらえば。

究極の愛は、無条件です。

無償の愛です。

いかなることがあっても、愛を施すことです。

思い通りにならなかったから、
願いがかなわなかったから、
気に入らないことがあったから、
不満があったから、
「ご利益」がなかったから、

と批判したり、非難することではありません。

批判や非難をすることは、愛を施すこととは、明らかに異質です。

その点では、上記の妙好人の源左さん、才市さん、宇右衛門さんの無条件の阿弥陀如来様への思慕は、無条件の素直な思慕で、無条件の愛によく似ています。

本当に素晴らしい。

翻って。

批判や非難は、真善美に悖る想いと行いの業想念です。

ダンマパダ(法句経)にある通り、そのままでは、輪廻転生を通した悪い想いと行いの好ましからざる循環がやむことはありません。

自ら収めるか、祈りと感謝行で、浄めて消して頂くしか、その悪循環に終止符を打つ方法がないのです。

もう済んでしまったことなので、仕方がありませんが、ご一考願いたいと思います。

蛇足ですが。

今の白光真宏会の主宰者の方(西園寺昌美さん。以下、西園寺さんと略します)やその教えを批判していて、五井先生だけを信奉するかのような方(森島恒吉さん)もお見かけしましたが、西園寺さんへの道筋をつくったのは、他ならぬ五井先生でしょう。

従って、もしも何か納得できないところがあれば、これは五井先生に帰着する問題だと言わざるを得ません。(*2)

だから、すべてにわたって完全無欠な宗教の指導者を求めること自体、そもそも、無理があると思うのです。(*3)

たとえ、神様にかかわることとして、真善美に悖らない、完全円満な神様の道を求めていくことだとしても。

こうして、迷いに迷い、さまよいにさまよいながらも、自分なりに折り合いをつけて、できる限り、理に適ったやり方を選びとる。

そして、試行錯誤しながら、やっていく。

これしかないと思うんです。

舵取りをするのは、自分しかいないんですよ。

誰かに任せて、すべてにおんぶに抱っこではなくて、自ら考えながら選び取る。

踏み外した道も、また戻す。

自分の理性(おそらく神性につながっている)だけを頼りに、他者を責めないようにやっていくんです。

~~~~~

(*1)五井先生をかなり強く否定しながらの世界平和の祈りは、業想念を抱く分、無理があると思うので。

世界平和の祈りは、神様から五井先生に授けられた祈り言葉のはずです。

五井先生とは、切っても切れない関係にある。

(著作だけからしかわかりませんが)五井先生のような、おそらく、飾らない、明けっぴろげな、わかりやすい人だからこそ、あのように誰にでもわかりやすく、平易な祈り言葉が授けられたと考えられるからです。

あのような、五井昌久という人だからこそ、神様から授けられた祈り言葉。

つまり、神様が、神様と人間との仲立ちをする宗教家としての「五井昌久」という人にふさわしい祈り言葉として、お与えになった祈り言葉が「世界平和の祈り」だ、ということになる。

従って、人物としての「五井昌久」という人と、祈り言葉の「世界平和の祈り」は、密接不可分。

切り離しは不可能だと考えられるのですよ。

私達の恣意や都合で、宗教家の「五井昌久」という人と、祈り言葉の「世界平和の祈り」を切り離す、ということは、神様のおはからいを反故にすることになる、と考えられるからです(まあ、このように考えてくると、谷口雅春さんの様々な言行は、はなはだ困ったものになるのだが。やはり、谷口雅春さんにも、神様からそれなりの教えを授けられるだけの、過去世の功績があるために、 1 つの教え授けられたとしか考えようがないな)。

神様のおはからいを無視するかのような、そして、(下記に述べるような守護の神霊さんへの感謝を外すという)神様への感謝を度外視したかのような、「五井先生」と「世界平和の祈り」の切り離しは認められない、認めるべきではない、と考えられるのです。

その五井先生に「不愉快」とまで表現するほどの好ましくない感情を抱き( 1 回、人名につける敬称の氏を抜かして呼び捨てにしていますね。ミスだと思いますが。私も呼び捨てのつもりではないのですが、誤解を受けるのは嫌なので今回の文章を一部手直ししました)ながら「世界平和の祈り」をするのは、さすがに無理があると思うので、祈りの本質が変わらない南無阿弥陀仏に切り替えるべきではないかと個人的には考えます。

従って、どうしても「世界平和の祈り」をしたければ、まずは、あなたの五井先生に対する好ましくない感情を何とかする必要がある。

嫌な記憶がある、とお書きになっているように、ちょっと思い起こしただけでも嫌悪感がわくような状態は、つまりは、真善美に悖る悪い想いと行いの業想念が、浄められずに残っている、ということです。

従って、今後も縁があれば、何かの折に触れて、この業想念が顔を出す。

わいてくる。

いくら、守護の神霊さんのお浄めによって、こうした業想念を浄めて頂く仕組みになっているとしても、五井先生と一致協力して、個々の人々のこうした業想念の浄めに当たられている、守護の神霊さんの方々は、果たして、あなたのこのような状態をどのようにお考えになると思われますか?

あまり好ましく思われないのではないか、と思うのですが。

ならば、守護の神霊さんへの感謝行はなくせばいいとお考えになったとしても、これでは、守護の神霊さんを私達に遣わした神様への感謝を抜かすということになってしまいます。

これでは、神様への感謝が抜けている分、南無阿弥陀仏の祈り一念の信仰より明らかに劣ることになります。

従って、世界平和の祈りをするならば、守護の神霊さんへの感謝行は、ともに行うことが必須ですよ。

そこで、どうしても、まずは五井先生を否定するという乱れる想いを浄める必要があります。

ここで一番頼りにすべき信仰が、世界平和の祈りと本質が同じである、宇右衛門さんのような妙好人の人達が行じた南無阿弥陀仏の祈り一念の信仰、言ってみれば、「神様ありがとうございます」の一念信仰(*1ー1)なのです。

人様を責めることもない、
人様を裁くこともない、
自分にあらわれてくるものはすべて、
み仏の思し召し。
南無阿弥陀仏

何があっても、
み仏の思し召し。
南無阿弥陀仏

良いものも、
悪いものも、
すべては、み仏の思し召し。
南無阿弥陀仏

何があっても、
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏

を究極とする信仰です。

この信仰で、まずはみ仏(阿弥陀如来様)におすがりして、乱れる想いを浄めて頂く必要があると思います。

(*1ー1)ここに書いた一念信仰は、私が勝手に作った造語です。

南無阿弥陀仏の祈り一念の信仰と世界平和の祈り一念の信仰の、実質的な意味合いを抽出させると、「神様ありがとうございます」に行き着く。

ここに着目して、このように勝手に名づけて書いています。

従って、法華経の「一念信解(いちねんしんげ)」のことではありません。

ちなみに、「一念信解」もいろいろと話を難しくしていますが、その実質は「世界平和の祈り」そのままですね。

変わらない。

難しい理屈を、ああだこうだ言っているけれども、想いは 1 つです。

内容をいちいち細かく分けて考えながら、祈り言葉を言っていたら、気が散って集中できませんよ。

だから、平易で簡素な祈り言葉が一番。

なぜならば。

おそらく、世界平和の祈りの本義は、宇宙万般にわたって鳴り響く意味を持つ祈りだ、と考えられるからです。

宇宙万般にわたる、生きとし生けるものを含めた、ありとあらゆるものの調和と安穏を願う祈りだ、と。

(*2)もう少し詳しく書くと。

仮に、五井先生だけが正しく、西園寺さんが間違っている、とします。

五井先生亡きあと、他の側近の方々で協議の上で、西園寺さんを選んだのならともかく、五井先生の著作を読んだ限り(あまり出ていなかった。そもそも本自体がそんなになかったから)、間違いなく五井先生が西園寺さんを後継に指名しているように読めた。

ということは、五井先生だけが正しくて、西園寺さんが間違っているとは言えなくなる。

西園寺さんが間違いだというならば、そうした間違った人を後継者に指名したのは、他ならぬ五井先生なんですよ。

五井先生在世当時の五井先生の存在は、おそらく白光真宏会においては絶対なものであったと考えられます(威張るなどの悪い意味ではなく、信頼感などの良い意味の権威において)。

ということは、現在の白光真宏会が間違ったものであるというならば、その間違った形に導いた西園寺さんを選んだ五井先生の責任は、絶対に免れないということになります。

この世にあらわれてくることの大半は、過去世の因縁がかかわっているものとすると、五井先生も完全無欠ではなく、そうした人を選ぶ過去世の因縁があったということになります。

従って、西園寺さんを否定するということは、西園寺さんを否定するだけではなくて、五井先生をも否定するということになるんですよ。

五井先生だけを、絶対不可侵、神性視することはできなくなるんです。

五井先生だけは絶対だ、しかし、後継者の西園寺さんは正しくない、だから、教えが変質してしまったのだ、とは言えなくなってくるんです。

従って、五井先生だけは正しくて、西園寺さんは間違っているという、首尾一貫しない、チグハグしたことは言えない。

五井先生が、西園寺さんを選んだからには。

おそらく、西園寺さんについていく判断をなされた信者の方々にも、表には出さずとも、内心はそれなりに葛藤があったと思われます。

なぜならば、私達肉体人間の本質は神様であり、神性であり、真善美の判断能力を元々授かっているからです。

それならば、残された私達は、どうすればいいのか?

あとは、

現在の白光真宏会の状態と、

五井先生がその著作の中で、世界平和の祈りと守護霊、守護神への感謝行、そして、当たり前の生活をすれば、あとは何もいらない、と述べられていることと、

五井先生が、仏教の浄土門の市井の中の、南無阿弥陀仏の祈り一念に生きた、敬虔な信徒と言うべき、妙好人と呼ばれた、因幡の源左さん、浅原才市さん、宇右衛門さんを、きわめて高く評価していたこと、

をどのようにとらえるか、ですね。

これは私達自身で、よくよく考えて、各自で選びとるべき問題だと考えます。

続きを書きたいのですが、長くなりましたので、内容の重複も含めて、( 156_愛とは3 - おぶなより2 ) に譲ることにします。

(*3)これも何回も書いてきたことなのですが。

今の完成され尽くした詰んでしまっている世の中をたった一人の偉大な人物(?)だけで変えるのは無理です。

変えることができるのは、人格的に秀でているだけではなくて、それなりの絶対不可侵の力も兼ね備え、かつ、天涯孤独である必要があります。

しかも、小柄な元祖魔人ブウのように、絶対の力を持ち、不死身でなければならないのです。

そして、当然のことながら、信徒となる者も、同様に絶対不可侵となるだけの身の安全性を保証できなければなりません。

つまり、実現の可能性はありません。

そのように可能性のないことに加え、完全無欠な超能力と人格の完成者となっている人は、おそらく今のこの世にはいないと思います。

お釈迦さんでさえも、完成され尽くして詰んでしまっている今の世の中を変えることは不可能だと思います(毀誉褒貶の話もあるが、いかんせん、約 2500 年も前の過去の人物の話であり、そもそもが開祖という何かと話(特に美談や神話)をつくられやすい立場の人なので、本当のところはわからない部分が多い(だから、史実の解釈が諸説に分かれていたり、後世のあまたの仏典の創作があると言える)。ただ、 45 年間も自らの人生を人様に捧げ尽くしたという実績(=お釈迦さんの寡黙な人間としての生きざま)だけでも、この人のあり方、人となりを十分に雄弁に物語っていると思う)。

火宅の世を離れ、山奥で修行している、俗世とかかわらない人も、やはり、どんなに神通力を備えていても、上記の要件を満たすことはできないと思います。

だから、そもそもからして、完全無欠な宗教の指導者を求めること自体に無理があるんです。

過去のもろもろの聖者と言われた宗教の指導者といった方達も、完全無欠という訳ではなくて、何らかの問題があった可能性が考えられるのです。

従って、ある程度、宗教の指導者に完全無欠さを求めることはあきらめる。

そして、自らに与えられている神性を頼りに、できるだけ、いいと思われる道を選び取り、試行錯誤しながらも、進んでいくしかない。

そして、ある程度の確かな信頼を置けると判断したら、すべてを託する。

親鸞さんが法然さんを信頼して地獄に落ちても構わないと言ったように、精一杯、自らの神性を頼りにしながら、ある程度信頼を置ける信仰を、地道にやっていくしかありません。

乱暴に言わせてもらえば、完全無欠の教祖なんか求めていたら、信仰なんかできない。

だからといって、享楽三昧、放蕩三昧、愛人多数のようなおかしな人までいいというのとは全然違いますよ。

優れた人格を持ち、優れた力を持ち、人のために尽くし、汚ない言葉を使わず、批判や非難をせずに、抑制の利いた言動をするなどは当たり前。

ただ、その上で、何から何まで完璧だというのは無理ではないか、ということ。

わずかな欠点に目をつぶり、無理矢理完璧な教祖として祭り上げようとしたら、明らかな欺瞞になってしまいますよ。

なので、さしあたりは、この世に生を受ける以上、どのような人であっても、完全無欠とはならない、という意味合いです。

一次情報さえ明らかにならず、唯物論に深刻にからめとられている世の中では、真実なんか簡単にはわからない。

今はまだ、世の中の霊性の水準がその程度だと理解せざるを得ない。

お釈迦さんが法(ダルマ)を頼りとせよ、としたように、自らの神性を頼りにしていくんです。

神様と神様のおつくりになられたであろう、因果律の公正さを信じながら。

このように考えます。

~~~~~

(追記)
人は誰しも、自らの選んでしまった納得できない道を批判して、今現在の自分を正当化したい。

正当化したがる。

誰だって、自分の好ましくない歴史を滅却して、今現在の自分を正当化したい。

しかし、それは紛れもなく自分が過去に選び取った道。

消し去ることはできないんです。

その選択を滅却しようとすればするほど、自らを正当化しようとすればするほど、批判や非難がつのっていくようにならざるを得なくなる。

しかも、批判や非難は、輪廻転生を通して、決して良いものをもたらさない業想念。

何一つ良いものが返ってこないんですよ。

だから、納得できなくても、愚痴りたくても、収めることができれば、収めるべきなのです。

でも、まだこれでは、打算的ですよね。

ならば。

あなたが「愛を学」んだのは、あくまでも、この世でのご利益があったからではありませんか。

すべてをおつくりなった神様の愛ならば、おそらく究極の愛です。

神様は愛そのものの存在のはずです。

すべてのものを愛することができるのは、おそらく、神様だけです。

従って、神様はより好ましいものを愛でることはあっても、選別はなさらないはずです。

そうした愛を見習わなければならないはずの私達が、どうして、批判や非難をしなければならないのか。

すべてを愛するというのは、ただ、ただ、無条件にすべてに愛を注ぐこと。

愛の本質は、ここにこそあるのではないですか。

何が言いたいのかというと。

愛は、神様の愛は、必ずしも、現世(この世)のご利益に左右されるものではない、ということです。

上記の妙好人の人達は、いかなることがあっても、たとえ、この世で自らに不利益をもたらすものであっても、苦しみをもたらすものであっても、仏の道を外れた自分達を矯正して、み仏(源左さんは親様と呼んでいた)の子供として救いとって下さるためのみ仏のおはからいである、すべてはそうしたみ仏(阿弥陀如来様)の愛のあらわれ=ご慈悲なのだ、と感謝していたのですよ。

本当に立派だ。

しかも、恨み言や不平不満を一切言わないどころか、思い上がったり、傲慢な姿勢が微塵も見られない。

本当に凄い。

もちろん、批判や非難などはもっての外だ、と考えられるんですよ。

このように考えてくると、批判や非難は、完全に愛の道を踏み外している、神様の道を踏み外していると、考えざるを得なくなるのです。

**********

つまり、こういうことなんです。

神様が私達、肉体人間に施して下さるのは、愛しかない。

すべてのありとあらゆる元をつくり、お与え下さっているのは、神様である。

神様としか考えられない。

その愛は、具体的には、以下のような形にあらわれている。

肉体を生かす、命そのものの神霊も、神様から分け与えられた神様のお命そのものであり、

肉体をはじめとする、魂魄要素を構成するあらゆるものも、神様がお与えになったものであり、

そうした私達、肉体人間を生かしていくための、(守護の神霊さんをも含めた)ありとあらゆる環境は神様がお与えになったものである。

すなわち、あらゆるものは、神様が愛をもって施しているものである。

私達ができることは、こうした神様から与えられているあらゆる要素を生かして(=神様のお命を分け与えられているから一般的な動物や植物とは異なり、知恵と創造力がある)、創意工夫を施し、生きていくこと。

そして、なぜ、こうして生かされているかに、つまり、神様のみ心に思いを馳(は)せて、生きていくことになるんです。

だから、まずは、あらゆることに感謝一念を基底に据えて、生きていくこと。

これが私達の生き方の基本になるはずです。

これを成し遂げることができていた、立派な信仰者の先達が、妙好人、中でも、源左さん、才市さん、宇右衛門さんだと言える訳です。

この世の物質世界、肉体世界を生きていく都合上、自己保存の本能が神霊に追加されて付与されたために、これを克服しながら神様のみ心に沿って生きていくのは、大変な修行にはなるけれど、輪廻転生を通して、魂(霊魂魄)を立派に磨き上げて、そうした神様のみ心に沿えるような、神霊そのものをあらわした肉体人間に近づけるように努力して生きていく。

おそらく、これが神様が私達、肉体人間に望まれていることだと、考えられるのです。

そうした、神様がお望みになると考えられる、人間像が完成に近づけるようになってくれば、同時並行という形で地球環境も開発され、素晴らしいものとして、整えられていく(おそらく、それを支えるために守護の神霊さんが力を尽くされることになる)。

つまり、神様の世界をこの物質の地球世界に映し出す、地上天国化の成就に向けて近づいていく、と考えられるのです。

輪廻転生、すなわち、過去世も、今生も、来世以降も、すべてはこうした観点からとらえていくべきだ、ということになるんです。

~~~~~

・敬虔~けいけん~敬(うやま)いつつしむさま。特に、神仏を深く敬い仕(つか)えるさま。
(用例)敬虔な信者。

・市井~しせい~人の集まり住んでいる所。まち。世間。俗世間。
(用例)市井の人(=庶民)。市井の徒(=市中のならず者)。
(参考)昔、井戸のある場所に人が集まり、市をつくったところから出た語。

・紛れ~まぎれ~まぎれること。
(用例)どさくさまぎれ。

・紛れもない~まぎれもない~他のものとまぎれることがない。確かだ。
(用例)紛れもない事実。

・千々~ちぢ~①数が大変多いこと。また、そのさま。
(用例)千々の情け。
②さまざま。いろいろ。
(用例)千々に心が乱れる。
ここでは、②の意。

・鎮める~しずめる~①乱れや騒動をおさめる。鎮定する。
(用例)内乱を鎮める。
②痛みなどをやわらげる。鎮静する。
(用例)傷の痛みを鎮める薬。
③神の霊を祭って鎮座させる。
(用例)神の御霊(みたま)を鎮める。
ここでは、①の意。

・連綿~れんめん~長く続いて絶えまないさま。
(用例)窮状を連綿と訴える。

・毀誉褒貶~きよほうへん~(「毀」はそしる、「誉」「褒」はほめる、「貶」はけなす意)ほめたりけなしたりする世間の評価。

・人様~ひとさま~他人を敬っていう語。他人の敬称。
(用例)人様に迷惑をかける。