065_話

はてなさんのトップページ( Hatena Blog. )を見ると、最下段に以下のように書いてある。

書き残そう、あなたの人生の物語

なので、自分の経験が特異かどうかはわからないが、記(しる)しておこうと思う。

私は自分から女性に好意を持ったのは、高校生までで終わっている。

それ以降は、無意識で女性に強烈にひきつけられたことは今のところはない。

女性から見れば、ひきつけられた、脈ありのように振る舞っていても、テストというか、本心では強いひきつけはなかったことが大半だったように思う。

ああ、この女性は自分の魅力テストをしているな、と思われる女性に対して、こちらからも脈あり擬態を演じて、これを返してこっちもテストしてみる、という感じ。

まあ、本格的な恋愛には決して発展することのない空しいゲームですよ、決してお付き合いに発展することのない。

ただの刹那的恋愛光線が、ちょこちょこっと交錯して終わり。

そんな感じでしたね。

真剣味のまったくない空しいゲームです。

女性の魅力テストというのは、適当な男を見繕(つくろ)って、カマをかけ(=脈あり詐欺を仕掛け)、その男からどの程度の反応を引き出せるかによって、自らの魅力を量(はか)ろう、確認しよう、とするものを指します。

なお、魅力テストというのは、私が今ここで便宜的に、勝手に作り上げた概念です。

私が別のブログで書いた他人の形を借りた事実は、実は自分の経験でした。

女性の恋愛至上主義は、かなりインチキ(=自らのオンナとしての魅力度を量るテスト)が含まれており、大半は本命に備えての自らのオンナとしての価値を再認識するための価値至上主義ではないか、という疑いの話や、彼氏(思われる男性)と同伴しながら、脈あり光線を送ってくる女性の話は、実は自分のことでした。

こんな脈あり詐欺(?)でも、いろいろと経験を重ねて来ると、ある程度女性心理が読めるようになってきます。

女性の好意の表現は、本当に回りくどい。

用意周到に網を張って、何とかターゲットを引き込もうと誘導するような形をとるものが大半(*)なので、鈍感(すいません)な男性には、なかなかというか、ほとんどわからないと思われるものが多いんですよ。

いわば、男の方から誘いをかけるように仕向ける形をとるものが大半なんです。

まあ、世の中には超イケメンや超モテ男がいて、女性から告白される場合もそれなりにあるとは思いますが、そこまでいかない場合には、大体、女性は受け身ですね。

あるいは、マミ先生の言われているように、女性は好きな男性をそれなりにあがめるから、自分から告白するようなはしたないマネはできない(=軽い女だと思われくない、嫌われたくない)という場合もあるのかも知れないけれど。

こんな風に脈ありに見えた女性でも、少しするとアッサリと結婚したりするから、本当に女性には、一途な愛というか純愛は望めないな、と思いましたね。

男はもろいですからね。心変わりされるたびに、ガツン、ガツンとかなり傷つく。

あれは一体何だったんだ、やっぱりただのテストだったのか?

そんなのばっかり見てくると、女性不信にもなりますよ。

軽いな、と。

~~~~~

(*)いわゆる、私の気持ちに気づいて、というもの。

しかし、本当に自分本位というか勝手なんだよな。

傷つくのは男も女も同じなの。

女の人は、かなりしたたかだし、図々しいし、強いよ。

男より強い。

精神力でね。

なのに、何で自分達ばかりが傷つくことを避けるの?

何でそんな特権があるの?

男だって傷つくんですよ。

そんな男側から言わせてもらうなら、わかりにくい、回りくどいことなんかしてないで、告白までいかなくとも、もっと意思表示をはっきりさせなさいよ、ずるいよ、あなた達は、と思ってしまうね。

064_切替

愚痴は業想念だから本来なら書いてはいけないのかもしれないけど。

はてなマークが新しくなったとかで、表示がかなり変わった。

セキュリティの問題だか何だか知らないが、私のような超場末の、超細流のブログにはちょっとひどい仕打ち(違うのか?)のように感じたな。

なぜならば、過去にはてなユーザーさんから頂いていたはてなマークがすべて見れなくなってしまったから。

マークをタップしても、クリックしても、ウンともスンとも言わずに(?)、灰色のまま。

まったくの無反応。

はてなマークを頂かなかった文章に限り、灰色のはてなマークが反応する。

最近の文章で気づいて、ダッシュボードのお知らせから、過去のいくつかの文章を確かめたら、みんな同じようになっていた。(*)

あるのは、無反応な灰色のマークが 1 つポツンとあるだけ。

もちろん、タップしても、クリックしても、無反応。

不具合の記載には、アプリがダメならブラウザからやるように書いてあったが、ブラウザからクリックしても、タップしても、まったくダメ。

まったく、埒(らち)があかない。

おそらく、はてなスターマークがついたページは、みんな灰色のマークがあるだけで、スターの内訳を見ることもできないし、開くこともできない。

本当に残念としか言いようがない。

つまり、私が過去に頂いていたはてなマークの 1500 個以上は、一切合切、すべてが見れなくなってしまった訳だ。

いくら、評価は気にしないようにしていても、やはり、人様からそれなりに評価されれば、うれしくないと言えば、ウソになる。

やはり、うれしかったよ。

ありがたいとも思いましたよ。

こんな私の文章を評価して下さって。

その記録が、みんな一斉に見れなくなったのは、正直、寂しさを禁じ得ない。

ほんのわずかながらあった、ありがたいおほめの言葉をみんな消されてしまった形になっているから。

いい思い出だったけど、できるだけ未練を残さないように、世界平和の祈りとともに、忘れるように努(つと)めるしかないな。

他のブログサービスを使ったことがないので比較はできないが、はてなさんはユーザーインターフェースがよく変わるね。

多分、予告なしの後だしジャンケンで、あとから変更点のご報告なのかな、今回のはてなマークの件のように。

よくわからないけど。

まあ、これも自分の過去世からの悪い因縁の今生での消えてゆく姿(=清算されてゆく姿)と思って、気を取り直してやっていこう。

~~~~~

(*)このブログではなくて、もう一つの方のブログ。

今書いているこのブログでは、はてなマークをつけて頂いたことは 1 回もない。

別の一般的なブログランキングの上位常連の方や、グルメ関係でたくさんのアクセスのある多彩な記事を書いていた方から頂いた貴重なはてなスターマークもあったのに、それらのすべてがまったく見れなくなってしまい、私としては大事な記念品だと思っていだけに、とても残念だ。

063_非推奨

私は、以前、別のブログで、非モテコミットに関して異論を書いた。

ちょっと記憶が定かではないのだが、大部分の人の非モテコミットに関しての話の内容は、男性のその行動に否定的だったね。

確か、モテる(=要はセックスが可能な彼女の獲得という意味合いだろう)には、非モテコミットのような言動は絶対にダメだよ、たとえ脈があっても、女性が冷めてしまい、愛想を尽かされてしまうよ、というような内容だったと記憶している。

それを見て、私はこれは幸いだ、こうした女性は、世の中のあらゆることに対して、ありがたさを微塵も感じず、自分の体裁やマウントばかりしか頭にない女性である可能性がきわめて高いので、別れるに越したことはない、と感じて、これにもとづいた内容を書いたように記憶している。

それと、彼女として、確保したいばかりに、女性に対して過剰なサービスをするお相手の男性が、女性からすると、カッコ悪く見えるのかもしれない。

だから、彼女に尽くしたくても、やり過ぎはダメなんだよね。それに、女性はお姫様扱いされることが大好きなくせに、男のそうした彼女確保の焦り(?)を感じると、とたんに冷めて態度を豹変させる。

本当に、わがままだし、身勝手なんだよな。

焦りを感じさせるほどに、尽くし過ぎる男性にも、確かに問題があるけどね。

私には、レディファーストの一種とされる、これ見よがしの椅子引き、道路側歩き、がまったく理解できない。

俺はこんなに君を大切にしてるよ、俺はこんなに君のことを思ってるよ、と、なぜ、健康体の人間(=女性)が軽々とできることまで、わざわざ男性がしてやらなければならないの?

ケガをしていたり、体に痛いところや、つらいところ、動かないところがあれば、サッと手を貸してあげるのは当たり前。

人として当然だし、相手が老若男女であることを問わない。

しかし。

これ見よがしの椅子引きや道路側歩きは、健康体の人間に対しては、明らかにサービスが過剰ですよ。

もっと言ってしまえば、なぜ、女性として生まれただけで大切にされなければならない特権があるの?

ああした過剰とも言えるサービスは、霊性が開発されて、その上で、何気なく、さりげなく、自然に、無意識にパッと出るものならいいですけどね。

そうでないなら、やはり、過剰だと思わざるを得ませんよ。

なぜならば。

神様が人類を男性と女性にお分けになった。

そして、寿命に限りのある肉体人間として、互いにその特長を生かしながら、協力し合う形で、子孫を残し、世代を引き継がされるようにされた。

このように素直に考えれば、男女の関係は、基本的に一対一であり、一方的な支配従属関係や一方的な奉仕関係を望んでおられるとは、到底、考えることはできないんですよ。

同じ神様のお命を分け与えられて、それぞれ個々の魂の輪廻転生の都合上、たまたま、男性と女性とに別れている。

誰しもが、その本質は同じ神様の分け命であり、神様の子供であり、兄弟姉妹。

ならば、特徴や役割は異なっても、お互いに尊重し合い、協力し合い、奉仕し合うのは、当たり前じゃないですか。

それなのに、なぜ、一方的な支配従属関係や、一方的な奉仕関係を成立させなければならないんです?

おかしいじゃないですか。

世間一般では、こうした基本的なことをまったく無視しているかのように、ゴタゴタ論争し合っている(?)けれど、こうした論争は、私には、ただただ、業想念を増やすだけにしか思えないんですよ。

親子にしてもそうです。

確かに、子供は親に限りなく恩があります。

この世に肉体人間として生まれてくること自体が、実はたぐいまれなことだから、生んでもらったというだけでも大きな恩がある(仏教にもこの話がある)。

そして、育ててもらうことはかけがえのないこと。

しかし、だからといって、親が子供を強権支配して絶対服従させるのは間違っています。

子供を授かったという言葉にあるように、子供が生まれることは、神様から新たな命をお預かりしたことでもあるからです。

いわば、神様から子供の魂の成長を託されたんですよ。

ならば、やはりそれなりに尊重して、大事に育てていかなければならなくなりますね。

実際のこの世には、過去世から積み重ねられた様々な悪い因縁のために、毒親がいたり、育児放棄があったりしますが、基本は上記のようになるはずです。

自らの肉体の五感にまつわる欲望を最大化することばかりに気をとられ、世の中の当たり前と思われがちなことに、感謝やありがたさを感じることなく、批判、非難、論争している。

残念なことに、健康でも何でも、失われてみないと、その本当のありがたさに気づかないことが多い。

失われてみてはじめて、ああ、あれは何てありがたいことだったんだ、と後悔することの方が、圧倒的に多いんですよ。

病気になったり、災難に遭うことで、はじめて、身に染みて、失われてしまった、当たり前のようにあったことのありがたさが、わかるようになることが多いんです。

だから、自分の命からはじまって、様々な奇跡的な組み合わせの下に、今の境遇があるのだということに思いを馳(は)せ、普段からの想いをできる限り、感謝に振り向けるようにしていく。

当たり前を当たり前と思わず、あらゆることに、故意ではなく、無心に感謝を抱(いだ)けるように精進(=霊性の開発)をしていく。

この先達とも言うべき敬虔な宗教の信仰者が、浄土門妙好人と呼ばれる、源左さん、才市さん、宇右衛門さんなんですけどね。

不幸・災難・艱難辛苦よ、わが身に来たれ、と魂の学習という、厳しい試練が大好きな変わった人(?)もいるのかもしれませんが、やはり、おすすめしたくはないですね。

062_変える3

前回( 061_変える2 )の続きです。

結論はこうです。

非モテはつらいけど耐えていきましょう。

だたし、一切愚痴らず、女性も批判せず、できる限り想いを乱さずに。

そして、女性関係は、すべてを守護霊さんにお任せして、かかわらない。

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行に、すべての成り行きをお任せする。

もしも、配偶者を得られる定めの人ならば、その中でも最もふさわしいお相手を導いて下さるはずです。

お一人様の定めの人ならそのままかもしれません。

それはわかりません。

この世で果たすべき神様から授かった天命に沿って、配偶者が必要とあらば、それなりに導いて下さるはずです。

仕事に没頭したいなら、仕事に没頭すればいい。

趣味に生きたいなら、趣味に生きるのもいい。

しかし、よくよく考えてみて、配偶者や家族のことで、人生に悔いを残したくないなら、試す価値はあると思います。

ただ、恋愛や結婚が満たされないための、代償行為として、仕事や趣味に没頭し過ぎないように注意する必要があります。

代償行為は、いわば、癒しに相当するので、気休めにはなりますが、残念ながら根本的な解決にはなりません。

時間が経って、やはり、恋愛や結婚をしておけばよかったと後悔した時に、それまでの時間を無駄にしてしまうことになるからです。

輪廻転生を通した長い目でものを見る場合には、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行による霊性の開発は、人格の向上にもつながるので、間違いなく価値があります。

なぜならば、私達は、そのすべてが人格の完成、人格の向上を目指して、輪廻転生を通して過去世の因縁を果たす(=過去世で溜め込んでしまった真善美に悖る想いと行いの業想念を清算する)というつらい修行をしながらも、成長していく存在だと考えられるからです。

モテ談義はある程度仕方ない(恋愛に興味を持つなというのは酷だから)にしても、それ以外の一般的によくある、婚活女性をはじめとする一般的な女性に対する批判や非難、フェミさんのような不穏で乱れた想いにもとづく言説は、すべて排除(シャットアウト)する。

もちろん、愚痴をこぼすのも、社会に対する批判もやめます。

こうしたものは、ウサ晴らしは、ウサを晴らすこと以外には、現実的に利することがないばかりか、真善美に悖る想いと行いの業想念(=そうした言説)なので、かかわれば、輪廻転生を通して何一つ良い結果をもたらすことはないからです。

悪口でウサを晴らしたい人もいるかもしれませんが、その代わりに失うもの、輪廻転生を通して償うべきものは、確実に増えます。

なので、さわらぬ神に祟りなし、なのです。

真善美に悖る想いと行いの業想念は、原則として、今生(今回の人生)ですぐに償いをする訳ではない、すぐにはその報いがこないから、因縁因果、因果応報の意味が普通にはわからないんです。

輪廻転生がある、来世以降がある、世をまたいで原因と結果の対応としての因縁と因果の対応がある、と考えれば、ウサ晴らしや悪口や批判は、絶対に得策ではないんですよ。

しかし、実はこれでも、まだ不十分なのです。

来世以降に、輪廻転生を通して嫌な思いをするのが嫌だから、つらい思いをするのが嫌だから、と世をまたいだ損得勘定に思いを馳(は)せ、真善美に悖らないように想いと行いを整えるのは、まだ序の口で、ごく自然に、ごく当たり前のように、神様の分け命を本体とする、神様の子供として、想いを乱さない、良くない行い(愚痴や批判や非難)をしないようになるために、霊性の開発をお願いしたいのです。

世の中には、

恋人と破局する、結婚に破局する、離婚だってある。

浮気や不倫や托卵(たくらん)だってある。

DV(配偶者間や恋人間での暴力、ドメスティック・バイオレンス)や育児放棄(ネグレクト)だってある。

だから、恋愛や結婚に決して価値がある訳ではないよ、必ずしもいいものとは限らないんだよ、といくら聞かされても、非モテの人には、御為(おため)ごかしにしか、聞こえませんよね。

経験者と非経験者には、画然とした差があるから。

しかし、ヤリチン、ヤリマン、そして、女性の体目当てのパパ活や、浮気、不倫をしまくる人達のことを考えたら、つらい思いをしながらも、耐えた方が、はるかにいいと思います。

人間としてのあるべき姿、神様の分け命を本体とする者=肉体人間とするならば。

彼らや彼女らは自らの(過去世の因縁でない限りは)輪廻転生を通しての償いをやたらに増やすばかりか、人類全体の霊性の水準を下げることまでしているからです。

まあ、人生で不可抗力でどうにもならないつらい思いを味わうと、こうした話は多少なりとも理解できるはずだとは思うのですが、そうでない人にも一考して頂きたいと願います。

061_変える2

前回( 060_変える )、非モテを割り切り、あきらめ、悟り切ったかのように言いながら、延々と非モテについて未練ありげに取り上げていた人のブログをネットで見かけた(はてなさんのブログ)ので、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすすめる内容を書いてみた。

だが、私の文章が彼に読まれる可能性は、残念ながらまずない。

ゼロだろうな。

申し訳ないけど、私のブログ自体が、ほとんどアクセスのない、超場末の、しかも超細流のブログなんでね。

多分、彼に見つけてはもらえないだろう。

ただ、恋愛や結婚に限らず、唯物論に嫌気がさした、飽き飽きした、ウンザリだ、といったように、もう唯物論では、いいことがほとんどない、行き詰まってしまった、となった時に、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行があることを知っておいて欲しかったんですよ。(*)

この世に生を受けていることは、神様からそれなりの働きとなる、天命を授けられてのこと。

自分の意思で、この世を離れても(後に述べるように自殺はダメですけどね)、そうでなくても(=自然に寿命をまっとうしても)、つまり、死んでも、望むように簡単に生まれ変わることはできない。

非常に残念なことに。

次はどの国(惑星?)に、こんな風に生まれるなんて、まったく指定できない。

むしろ、思いもよらない形になる方が一般的なんじゃないの?

これを預かり知るのはおそらく神様だけですよ。

ただ、来世以降がどうなるかはまったくわからなくても、過去世で溜め込んだ悪い因縁を今生で少しでも清算し、これからこの世で人としての良き想いと行いを積み重ねることで、良き因縁を新たに作り出していく以外に、輪廻転生を通しての運命好転の道はない。

そのためには、生まれる前から、そしてこの世を去った後も、見守って下さっている守護の神霊さんに感謝を捧げながら、できる限り真善美に悖らない想いと行いをするようにして、すべての人々のために祈りを捧げる。

これが、神様も何も知らない(本当はどんな人でも無意識にわかっている。窮地に陥った時に「神様!」と言いたくなるのはその証拠だから)、神様を否定しまくる唯物論者よりも、過去世の悪い因縁の、この世でのあらわれを少しでも浄めて減らして頂ける分、とてつもなく、はかり知れないほど、ありがたいことなんですよ。

なぜならば、神様も何も信じない唯物論者の人には、過去世の因縁によるこの世での償いが、まったく緩和されることなしに、そのままあらわれてきてしまうからです。

決まっている宿命は、止めようがないんですよ。

ただ、過去世のこの世にあらわれてくるはずの因縁のうち、宿命ではなく、運命として修正して頂ける余地が、祈りと感謝行で、少ないながらも、それなりにあることになるんです。

だったら、こんなにありがたいことはない。

この世の不可抗力で受けざるを得ない悪い因縁による運命に苦しんだ(あるいは苦しんでいる)人には、これがどれほどありがたいことかが、わかるはずです。

という訳で、唯物論で行き詰まり、投げ出しいような気持ちになった時に、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をして頂きたいんですよ。

既存の宗教には、排他的なものがありますよね。

しかし、肉体人間が神様の分け命を本体とするもの、神様のお命を本質とするものならば、自他を区別するのはおかしいのですよ。

どんなに、自他一体感が抱けず、相克(そうこく)した過去世からの因縁で対立し合っていても、肉体人間である以上は、根っ子は一つです。

神様につながっています。

なぜならば、神様に生かされているからこそ、生きていることができるからです。

肉体人間の想いで、生きたいとして生きている訳ではありません。

なぜならば、心臓をはじめとした五臓六腑は、私達が意識的に働かせているものではないからです。

何らかの不思議な力、不思議な作用によって、この肉体人間の肉体は、有機体として生かされている。

それが、私達の命の大元と考えられるんです。

それが神様と考えられるんですよ。

だから、元は一つなんです。

自他を分けることは、自他を隔てることは、こうした考え方からすると、唯心論ではなく、唯物論そのものになってしまうんですよ。

他人を神様の子と見ない。

他人を疎(うと)んじて差別をする。

他人を敵として排撃する。

これは、唯物論の考えであり、唯物論の態度そのものに他ならないのではありませんか。

肉体人間観と自己保存の本能による競争と排斥。

これに、どう対処していくか。

神様を認めるお考えならば、祈りと感謝行をして頂きたいと願います。

~~~~~

(*)この世は修行です。

主として、過去世で溜め込んだ悪い因縁を清算するために、この世に生まれてくる。

だから、肉体人間としての命は有限だし、生老病死がある。

大元の神体なら、美しく、健康体そのもの、そして善なる想いと行いの自由自在の身体であるはずのところを、私達は、過去世の償うべき因縁も含めて、かなり制限された肉体人間としてこの世に生まれてくる。

神様から授かった天命と果たすべき因縁が、相当程度重なる人もいるでしょうし、そうでない場合もあるでしょう。

それはケースバイケース。

ただ、今生(今回の人生)で果たすべき因縁を果たさず=受け入れず、この世を勝手に卒業したいと命を断つこと=自殺は、過去世の今生で果たすべき因縁=修めるべき修行を中途で投げ出してしまうことになる。

神様の不思議な力で生かされているのに、自然消滅(神様のみ心)に任せず、勝手にこれを切断して、果たすべき因縁も果たさない。

だから、これは神様的に罪が重くなるし、許されないことになると考えられるんですよ。

苦しくても、つらくても、我慢してやっていくしかなさそうです。

仕方がないですね。

しかも、この悪い因縁による償いのつらさは(家族も含めて)肉体として別れた個体である他人様には、なかなか理解してもらえない。

多少の共感はあっても、本当の理解は難しい。

ちょっとでも寄り添ってもらい、真に理解を示してもらえれば、それだけでも本当に幸せ。

この世は、みんな自分のことしか考えない人がほとんどだから。

・・・。

私達は、神様の本質を肉体をまとったままで、この世であらわしていくには、さらに上、すなわち、より良き想いと行いを常に目指していかなければならない。

やはり、人生は修行ですね。

つらくても、こらえて生きていくしかなさそうです。

きれいごとを書いて来ましたけどね。

私は自分の運命に腹も立つし、正直、神様を呪いたくなることもある(自分の因縁因果かも知れないが、このような仕組みを作ったのは神様しかいないから。神様のお立場からすれば逆恨みにしか見えないことになりますけどね)。

それでもどうにもならない場合には、ひたすら我慢するしかないんです。

それもたった一つだけじゃないんです。まったく別のものが次から次へと一体どうなっているの。

最近、そのうちの一つが、不思議なことにお陰様でほぼ治りました。本来なら大感謝しなければならないのだけれど、他は、多少和らいだとはいえ、相変わらずあり、そのうちの一つはかなり逼迫してきている。

受け入れたくなくたって、生きている以上は、嫌でも受け入れざるを得ない。

どんなに、怒っても、嘆いても、叫んでも、神様を呪ってもどうにもならない。

つらいんですよ。

やはり、悟りには程遠い業想念だらけの状態だから、肉体人間観がまったく抜けないし、生きているうちに、今すぐに全部良くなってしまいたい。それは望めないことだとしても。

だから、自分のような苦しみのないたくさんの人達を見ると、悔しくて悔しくてたまらないこともある。

やはり、こうしたつらさは経験した人でないとわからない。

比較的恵まれて、順風満帆な人生を送る方には、何のことやらさっぱりわからず、実感がわかないでしょうが、こうした仕組みのことを頭の片隅に入れておいて下さい。

お願い致します。

060_変える

ネットを見ていたら、非モテ非モテとやたらに愚痴っている人がいたなあ。

非モテ

確かにこれはつらいよな。

女性と恋愛したいのに、女性とセックスしたいのに、まったくそれが満たされないのだから。

しかし、もうモテはあきらめた、悟ったかのように装いつつも、いつまでも連綿と非モテのことを書き綴るのは、却(かえ)って悟っていないことが、裏読みできてしまうよ。

執着を断ち切った証(あかし)は無関心です。

もう話題にあげないこと。

のはずなのに、いつまでも書いているということは・・・。

基本は健康でありさえすればいいんですよ。

日々の暮らしに困窮するまでに追い詰められていなければ、何とか生きていければ、それだけで実はかなりありがたい。

病気や苦痛(体の痛いところやつらいところ)がなければ、それだけで、実はものすごく素晴らしい。

生活に余裕があれば、実はとてつもなくありがたい。

こうした境遇にありながら、恋愛への未練が断てずに、連綿としているお人には、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をすすめたい。

人は誰しも神様に何らかの期待をかけられて、つまり、天命を授けられてこの世に生を受けている。

仏教には、(肉体)人間として、この世に生を受けることが、たぐいまれな希少なことであるとされる話がある。

たとえ、デキ婚だろうと、どのような形であろうと、唯物論の見方だけでは決してわからない、神様のお力の働きかけがないと、この世には生を受けない、ということになるんです。

この世に生を受け、その世代を引き継ぐべく期待された人は、十二分に可能性があるんですよ。

唯物論のモテ談義は、ある程度わかったら、きれいさっぱり忘れ去るのがいいですね。

なぜならば、そのほとんどが、業想念を招くものばかりだから。

別に純愛をしろとまで言う訳じゃないんですよ。

余計な償いを伴う因縁を、積まないように、おすすめしたいだけなんです。

恋愛や結婚もいいですが、過去世の悪い因縁を果たすためだけのものよりは、その果たす因縁を少しでも和らげて頂くか、もっと穏やかな恋愛や結婚を望む方がいいと思います。

すべては、守護の神霊様である、守護霊さんと守護神さんが知っている。

だから、愚痴るのはやめて、祈りとともに一切を守護霊さんにお任せするのが、一番無難だと思います。

愚痴ったり、批判したり、風俗に頼るのは、おすすめできません。

なぜならば、神様の子供を本体とする者として、ふさわしくない想いと行いは、各自の輪廻転生を通して、過去世の因縁として果たすべきもののあらわれではない限りは、もれなく、なかったものとして償わなければならなくなるからです。

果たすべき因縁の修正のわずかな可能性は、祈りと守護の神霊さんの救済にあります。

従って、少なくとも愚痴をやめるか、できれば、祈りと感謝行をして頂きたいと思います。

059_簡潔に

宗教を国語辞典で引いてみると。

・宗教~しゅうきょう~神仏など、超人間的・絶対的なものを信仰して、安心や幸福を得ようとすること。また、そのための教えや行事。
(用例)宗教家。

となっている。

五井先生の本に、「神と人間」(白光出版)があるけれど、宗教は神様と人間との関係を考えるものですね。

神様がすべての始まり、出発点だとすると、要は、「大元の教え」あるいは「元の教え」ということができるでしょうね。

私は素人ながら、チラッと仏教の経典や聖書をかじったりしたけれど、どうもそんな大袈裟なことはいらないんじゃないかなあ、と思っているんですよ。

だから、今私がする話は、簡潔で身勝手な話になるんですけどね。

私達肉体人間の本質が神様の分けられたお命である、神様に分け与えられた命によって、この肉体が生きている、もっと言えば、生かされている、とすれば、私達には元々、神様の性質である神性(仏教なら仏性)が、そなわっていることになります。

だから、過去世の因縁が特別に深くて良くないと思われる因業人間やサイコパスなどの、まともな性癖を持つ人間としては足かせとなる重い因縁を背負っている者などを除いては、皆、誰しもが善悪の判断、正邪の判断を自然にできるんですよ。

地頭の良さをはじめとして、学歴や、知能指数などには関係なしに。

神様の分けられたお命の力がなかったら、こうした判断力がないばかりでなく(?)、高度な考える力や創造する力はないはずですよ。

だから、誰しもにそなわっている、こうした判断能力を元にして、これに照らし合わせてあらゆることを考えていけばいいのではありませんか。

神様としての本質に適合する、適う(かなう)ことと、適合しない、適わないことは、誰もがわかるのだから、こうした肉体人間として抱く(いだく)想いと行為が、この世も(あの世も)原則として輪廻転生という時空間を隔てながら巡っていく。

これを踏まえて、あらゆることを逆算していけば、どのようにすれば良いかの、おおよその見当はついてくる。

だから、あまり、史実をきわめよう、真実を知りたいと、過去の歴史にこだわりすぎたり、やたらに、難しい概念、しかも、実生活にあまり反映されない概念や理論にこだわるのは、それほど必要ではないような気がするんですよ。

だって、せっかく肉体人間としてこの世に生を受けて、過去世の因縁により各人各様の能力のあらわれは千差万別にしても、肉体人間として、神様のお力をそれなりに与えられているのですから。

だから、学問的な探求心や法悦感に浸る逸話もいいかもしれないけれど、やはり、大事なのは、想いと行いだから、伝説や理論もほどほどにしておいた方がいいように思うんですけどねえ。

経典や聖書や参考書をかじっての個人的な感想です。