217_応援と推し2

前回 ( 216_応援と推し - おぶなより2 ) は、主としてスポーツの応援や芸能の推しが、どのような動機で行われるのか、そして、それら自体の意義を考えてみた。

応援や推しという行為は、自分がそのまま主役となって実現することができない人生を、いわば仮想的な形で実現する、自我を延長して重ね合わせる行為なのではないか、と仮定をしてみた。

誰もが憧れる、羨むヒーローになりたいヒロインになりたい、あるいは、別の形としては、理想的な恋愛がしたいという、現実にかなえることがきわめて難しい希望を、自我を延長して仮想的な形でかなえている行為が、応援や推しなのではないか、と。

そして、こうした実際に理想をかなえるのは難しいので、自らの自己実現とは別に、自我を延長して重ね合わせる、こうした楽しみ方がなされるのは自然であり、ある程度当然のものとして容認すべきではないか、と考えた訳(応援や推しは将来的に収斂していく可能性も考えられなくもないが)。

しかも、こうした応援や推しにかかわる、選手やアイドルを含めたたくさんの人々は、神様がこの世にあらわした人の一部に他ならず、従って、その他のたくさん人々と同様に、神様がそれなりの理由を持ってこの世に送り出した点も含めて、自己実現に直接の関係はないからと、K さんのようにいかにも無意味だと言わんばかりに、無下にこれらを否定するのは、傲慢だし、物事のとらえ方(かた)としてよくない、とした訳。

さらには、この自我を拡張する、投影することは、何も応援や推しに限らない。

小説やアニメなどの読書でも、芝居の演劇や映画やドラマ観賞などでも、やはり、自我を拡張する、あるいは、投影して楽しむ側面があるものだからだ。

だから、K さんのような発想をおし広げていくと、極端に言えば、小説などを読むのも、DVD や BD の映像や動画の観賞などでも、自己実現に直接のかかわりのないものは、すべてその存在意義を否定することになってしまう。

だから、社会のありようを考えても、ましてや、神様がこうしてたくさんの人をこの世にあらわしたことからしても、少なくとも現段階では、K さんのように、応援や推しをやめるべきだと言わんばかりに、それらの価値を無下に否定するのは、よくないし、傲慢な発想だと思うの。

ということで。

陰謀論的にがんじがらめにされて汚れた現代社会を、何とかよくすることも併せて、すべての成り行きとおはからいは、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行することも含めて神様に一任するのが、最善だと思った次第。

まあ、K さんも含めて、世の中を語りたがる人々は、愛だ、瞑想だ、スピリチュアルだといかにも唯心論的な話をしていても、その実、唯物論そのままの、他者を批判し、非難し、責め、裁く話をしている人がとても多いような気がしてならない。

批判、非難、責め、裁きを繰り返すこと自体、この時点ですでにもう、唯物論的な物の見方になっているのが、なぜわからないのかなあ。

その批判や非難や責めや裁きをする対象の背後には、目には見えない過去世の因縁という背景があるとは、まったく考えていないようにしか思えないのだ。

自分だけは絶対に間違っていないという唯物論的な視点から他者を論難ばかりしているんじゃあ、結局は物の見方が唯物論そのものに他ならないんですよ。

こうして、身体の五感に感じられるところから物事を見る唯物論と実質的にか何も変わらない形では、真実の人間を肉体人間だとしか考えていないと言われても仕方がないよ。

なぜなら、自分も他人も、その本質においては、同じ神様の分けられたお命を分け与えられた同じ神様の子供である同胞、すなわち、兄弟姉妹であること、そして、それぞれに輪廻転生によりたくさんの過去世を経て今生があることの視点が、スッポリと抜け落ちてしまっているから。

だから、こうした世の中の批判や非難や責めや裁きをしている人は、どんなに愛を説こうが、瞑想を説こうが、スピリチュアルを説こうが、その実質は唯物論者だと言わざるを得ないんですよ。

216_応援と推し

ユーチューブを見ていたら、スポーツの応援や芸能の推しを否定する講義?をしている人がいた。

それもかなり否定しまくるような。

何の価値があるの?と言わんばかりの。

以下、仮にこの人を K さんとする。

で、ちょっと考えてみたい。

例えば、スポーツ。

プロ野球を例えに考えてみると。

なぜ、特定の球団を応援したり、特定の個人(選手)を応援したり、ファンになる気持ちになるのだろうか?

これは要するに、自我の延長だと思う。

つまり、応援したりファンになること(以下、この2つを応援とする)は、自我の延長、あるいは、投影した気持ちのあらわれに他ならない、と。

プロ野球の選手になること、それもスターになり活躍できるようになるのは、おそらく超狭き門で希なことだ。

話がややこしくなるので、さしあたり、その裾野の底辺を高校野球と規定して、運の作用も除外するとすると。

ゆくゆくプロ野球選手になりたい、スター選手になりたいと思ったら、まずは甲子園を目指すだろう。

優勝はしないまでも、甲子園に無事出場できた、またはできないとしても素質をスカウトに認められて、プロ野球選手になったとしよう。

それでも中心選手として活躍し、スター選手になるのは、さらなる希少な確率を突破しなければならない。

野球の裾野を上記のように高校野球に限っただけでも、大変な狭き門を突破しなければならないことになる。

この裾野の底辺からスタートするにしても、ある程度の体力と、足の速さ、そして、肩の強さ(速い球を投げる力)と、打球をとらえるセンス、そして、打球を遠くへ飛ばすセンスのいずれかを、一定水準以上備えないと、おそらくプロ野球選手にはなることはできないだろう。

実際、プロ野球選手の野手となる人でも、高校野球時代はエースで四番のような選手が多いようだ。

それだけチームのお山の大将のような選りすぐりの選手が、プロ野球に入り、投手から野手に転向する。

高校野球では、こうしたチームを代表して、牽引してきた中心選手でさえ、プロ野球では投手にはなれず、野手に転向することが多い訳だ。

逆に言うと、それほどまでにプロ野球で投手となる人は、超専門職のエリートということになる。

また、野手のままプロに入った人は、守備力もさることながら、主として打撃に非凡な才能を持った選手達ということになる。

これらを考えただけでも、プロ野球選手になること、そして、常時出場できるレギュラー選手になることが、いかに雲上人か、わかろうというもの。

つまり、プロ野球選手になるだけでも、裾野の底辺の位置からみても、雲上人のように大変な難易度がある狭き門を突破しなければならなくなる訳だ。

ところで、一般の人がこうした人を応援するというのは、一体どういう心理なのだろうか?

ある程度、自らの好みを踏まえ、特定の選手を応援するのは、その選手の活躍に自分の自我を重ねあわせて、つまり、自分の自我を投影・拡張させているのではないだろうか?

つまり、応援する一般の人は、こうした素質(努力する精神的な素質も含む)を持っているプロ野球選手という一種の絶対に手の届かないある種の天才に自分を重ね合わせることで、実生活でこうした天才達のような経験ができない分を補っているのではないだろうか?

仮にファンとなっているプロ野球選手を A とすると、A に応援し肩入れすること自体が仮想自己実現の一種となっていると。

つまり、自分を A を重ね合わせることは、実生活で満たされない自己実現を補完する形になっているのではないのかと。

だから、お人によっては、無意識ながらも自己実現の理想を実現することができないと、自己実現の上限にある程度見切りをつけて、実生活はほどほどにして、応援に熱心になるのではないだろうか?

本来なら自分の実生活には、何一つかかわり(多少の励ましにはなる場合はあるのかも知れないが)のないはずの A を応援すると。

A の熱心な応援をすると。

つまり、ごく一般的には、世の中の誰しもが世間の注目を浴びる華やかで、きらびやかなスターになるような自己実現は難しい。

本人の運と努力があるにしても、どうしても一部の突出した才能を持つように生まれつかないと、なかなかこうした選りすぐりの人にはなれないと思われるからだ。

となると、やはり、無意識に自分の自己実現の上限に見切りをつけ、その実現が難しい部分を、他人に投影して振り向けることにしているようにも思える。

つまり、世の中のすべての人がみんながみんな才気に溢れて、群雄割拠のようにはならないのが普通だから、こうした形があることも、ある程度やむを得ないことだと思うのだ。

応援を趣味として嗜む、あるいは、人生を生きていく上での動機づけや、励ましとしていくことも、不思議ではないと。

誰もが誰も、完璧な理想の自己実現を社会で実現させることはできないのだから、こうしたあり方が世の中に出てくるのも無理からぬことだと思うのだ。

おそらくこれが、冒頭の K さんにとっては単なる無駄、訳がわからないと言っているように思える。

K さんにしてみれば、 実生活での自己実現の可能性がどんなに限られていても、あくまでもこっちが本分なのだから、お金と時間を A の応援(テレビを視聴したり、ネットで情報を収集することも含む)をすること自体が無駄で、理解に苦しむと言いたいらしい。

芸能人のいわゆる推しについても、まったく同様にして、考えることが可能だ。

アイドル推しなら、実際には果たすことができない理想的な恋愛を、いわば疑似恋愛的に愛でる、楽しむといった形にとらえると。

つまり、K さんの言いたいのは、応援や推しに血道をあげるな、それは一種の大衆操作、いわば洗脳に使われている(陰謀論ではまことしやかに言われる 3S政策)のだから、応援や推しにお金と時間を割くことを出来る限り控えるか、あるいは、応援や推しの一切をやめて、どんなに実現幅が少なくても実生活に注力する(血道をあげる)か、それ以外にお金と時間を費やすならば、あくまでも実生活への潤いとなるささやかな趣味や家庭に使うべきだ、と言いたいのだろう。

そして、世の中はまだまだ問題だらけで不完全な状態なのだから、もっと社会を良くする他のことに注目して、こちらに関心を持つべきだ、と言いたいのだろう。

とはいえ、上記のように、私達の社会を構成する誰しもが必ずしも才気に溢れ、自己実現の理想を完璧に実現できるものではないことも、また確かだ。

だから、ある程度無意識的に自己実現の上限に見切りをつけて、こうした応援を趣味のように嗜む、あるいは、人生の生きる励ましや動機づけとすることも、やむを得ないことだと思うのだ。

そんな状況下で、上意下達のマスコミでは、一次情報も明かされず、本来ならあるべきニュースの報道も制限され、問題意識を持ちにくい嫌いがあるから、なおさら、こうした応援に向かいやすい気もするのである。

しかし、だからといって、 K さんのように、自己実現こそが重要であり、まだまだ問題山積みの社会に広く目を向けよ、こうした応援はやめてしまえ、とか、価値がわからないと決めつけるのは、いささか乱暴な話だと思うのだ。

遠い将来?、無事に地上天国化が成就されて、社会を構成するみんなが輪廻転生の上がりに匹敵するように素晴らしく仕上がれば、おそらく現在からは想像もできないような素晴らしい調和が実現されることになる可能性がある。

仮に、遠い将来?そうした世界が実現されたものとすると、こうした個人個人の限定された自己実現を補う形での応援や推しが残るものかどうかは、私にはまったくわからない。

だだ、現在の段階では、こうした応援や推しの形は、普通のものとして、存在し続ける可能性はあるとも思える。

少なくとも、K さんのように、応報や推しをナンセンスといわんばかりにバッサリと切り捨てるのは、傲慢なものの見方に思えるのだ。

他方、こうした応報や推しが存在する社会のあり方が続けられるのには、もう一つ根本的・根元的な理由が考えられる。

それは、神様のことだ。

神様がこれだけの人間をこの世にあらわしているということは、私達の目には見えない、あずかり知らない、神様の見地からする、それなりの理由があると考えられるためだ。

この世にあらわした人間の一人一人にそれなりの役割を持たせていると。

なぜならば、これまで ( おぶなより ) でも、この ( おぶなより2 ) でも何回も触れてきたように、この世にたった一人の人間が誕生するのでさえ、神様のそれなりの命の働きかけがないと、あり得ないことだと考えられるからだ。

奇跡的に受精が成り立つこと、母親の子宮内で胎児が不思議な力の働きかけで成長していくこと、出産を経た赤ちゃんがこれまた不思議な力の働きかけで成長していくこと、そうして人として今この時を、生きている=何らかの摩訶不思議な力で他動的に生かされていることは、すべては神様のお力、命の働きかけがないとあり得ないと考えられるためだ。

たった一人の人間の誕生と生を考えただけでも、これだけ摩訶不思議で大変な現象を、神様がこの世にこうしてあらわしている(ということは、これを目にしているあなたは、どんなあなたであろうとも、神様がこの世にあらわした唯一無二の貴重な存在ということになる)。

ましてや、たくさんの人を人類としてあらわしているのは、神様から見たそれなりの意義があるとしか思えないのだ。

このように考えてくると、現在だけでも、プロ野球選手の球団や選手を応援するあり方が成り立っている、芸能の推しが成り立っているのは、神様から見て、やはり、それなりの地球上における人類の進化を見据えて、それなりの意義や思し召しがあっての(おそらく)途中経過として存在しているとしか、思えないのである。

従って、こうした実体の背景には、やはり、私達の目には見えない、私達には伺い知れない、はかり知れない、広大無辺な人類の過去世の因縁の網の目が張り巡らされているとしか思えない。

だから、K さんの言うように、単なる唯物論的な観点から、応援や推しをバッサリと切り捨てるような発想をする、物言いをするのは、間違っているとしか思えないのである。

なぜならば、このように人類を地球上にあらわしている神様のご意志と思し召しとおはからいを、単なる一個人の唯物論的な視点から否定していることに他ならないからだ。

まとめると。

まず、唯物論的に考えても、無下に応援や推しを否定するのは、行き過ぎであると思われる。

たとえ、スポーツや芸能に3S政策のような側面があったとしても。

神様がこれだけの人間を地球上にあらわし、その存在を暗に認めている形になっている以上は、それを無下に否定することはやめる。

いずれは、社会が進化すれば応援や推しはなくなるのかもしれない。

あるいは、スポーツの応援や芸能の推しは、漸次収束して収斂していくことになるかもしれない。

これはわからない(ただ、今のスポーツや芸能のゴタゴタを見ると、ようやくにして様々な暗部が衆目にさらされ、綻びが明らかになってきたから、収斂に向かう可能性が高いように思うのだが)。

ただ、少なくとも現段階では、それなりに存在を認めるべきだと思うのだ。

そうして、応援や推しの行く末も、陰謀論的に汚れた社会の状況の改善も何もかも、私達の因縁を改善することに努めて、すべてのおはからいは、神様に一任するしかないと思われるのだ。

唯物論的にどんなに批判や非難をしても、結局は神様のみ心には適わない想いと行い=業想念の応報になってしまい、ダンマパダにあるように、業想念によって作られた悪い因縁因果の循環の解決はできないのだから、やはり、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を含めた、できることの手は尽くして、あとは神様にお任せするしか、世の中をよくしていくことはないように思えるのである。

215_ひねくれ者

私事で恐縮だが、私はひねくれ者である。

なので、唯物論的に物事を見る場合、どうしても、裏読みをしてしまう。

元々は、非常に素直で、人の言うことを真に受ける純粋な子供だったのだが、小学校時代に始まり、人の本音と建前のあまりの落差に驚愕することを、何度も何度も繰り返し経験してきたために、物事をあるがままに素直に見ることができなくなってしまった。

フロイトの反動形成のような形で、他人の心理を裏読みするようになってしまったのである。

まあ、純粋と言えば聞こえはいいが、トロかったので、単細胞で鈍いだけたったのかもしれないけどね。

やはり、それでも外(社会)で、素直なものの見方をズタズタにされてきて、その影響がきわめて大きかったことだけは確かだ。

それはともかく。

つい最近、とあるサイトで、

「鏡見てないの?○○イクな人ほど“面食い”を公言するワケ」

という記事を見かけた(あからさま表現をするのは個人的に嫌なので勝手ながら記事の表題の一部を○○の伏せ字に改変させてもらった。お許し下さい)。

これをお書きになっていたコラムニストの玉恵さんという方は、とても真面目で誠実な女性なようで、そうした面食いの彼ら(同じく面食いの女性の話も出ていたので、以下、彼らにの中に彼女らも含める)の言われていることを、素直に受け取った考察をされていた。

だが、私の見方はまったくの逆。

正反対。

あまり詳しくは書きたくないので、簡単に言うと、彼らはすべてをわかっている。

よく理解している。

だからこそ、身と心に鎧をまとって、あのような言動をしている。

見方を変えれば、彼らは決して不自然ではない、首尾一貫した行動をとっていることがわかるのである。

そして、彼らは、実はとても繊細で傷つきやすい心の持ち主であるということも(無意識な形で、その心の内を訴えてしまっているととらえることができるから)。

理屈の展開は、以前に ( 038_望み2 - おぶなより2 ) に書いたこととほぼ同じ。

もしも、こうした彼らに遭遇した場合には、このような彼らの内実は一切触れず(指摘したり、暴き立てたりせず)に、(こちら側としては)こうした彼らの物言いはひたすら受け流して、彼らのために、ただただ黙って、世界平和の祈りと、彼らの天命がまっとうされますように、と祈るだけですね。

それだけです。

いつの日にか、彼らも世界平和の祈りをするようになってくれることを願いながら。(*)

ちなみに。

また、私事で恐縮だが。

私なら自分を本当に愛してくれる女性がいれば、どんな女性でもありがたいと思いますけどね。

この世知辛い浮き世を、艱難辛苦をともに分かち合い、信頼し合って生きていける伴侶(パートナー)がいるだけでも本当に幸せだと。

さらには、この地球上で、たった一人でも、無償の愛を与えてくれる人に出会えるならば、それこそ無上の喜びに違いないと。

~~~~~

(*)これはあくまでも個人的な独断と偏見による推測だが。

彼らは、本当は相手の容姿をさほど重要視していないのではないか。

容姿よりも、本当に信頼し合える、支え合える、真の愛情を注げる相手が出現すれば、彼らの気持ちは満たされるように思われるのだ。

額面というか、表向きの言動とは裏腹に、内面では互いに愛し合い、信頼し合い、労り合える真実の愛情を欲していると。

ただ、輪廻転生を通した彼らの魂の成長に最適な道筋をご存知なのは、彼らの守護霊様と守護神様なので、こちらからはほんのわずかでも、祈りの光を投げかけることをしておきたいと考える。

214_体質

私は世の一般的な人の例に漏れず(?)これといった霊感や霊能力もほとんどないし、霊的な体験も数えるほどしかない。

ただ、不思議と建物に対しては何とも表現のしようがない独特の雰囲気を感じることがある。

とある官庁に所用で行った時に、下から皇居となっている江戸城を見上げた時や、都心のとある銀行の立派な古い本社ビルを見上げた時などだ。

言葉は悪くて申し訳ないが、あまり、明るいとか、爽やかとは言い難い、どんよりとした、何だか歴史からくる不思議なえもいわれぬ独特の重さのようなものを感じたのである。

建物全体が(その風雪に耐えたという時間だけではなくて)人間の身体感覚に訴えかけてくる、どんよりとした重い空気を醸し出している、重い空気がじわじわと押し寄せてくるという感じで。

これらは、近代的な高層ビルなどでは、まったくといっていいほど、感じたことがなかった。

おそらく、目には見えない霊的な何かや、そうした肉体レベルとは違う細やかな波動レベルの何かがあったんだろう。

何か不思議。

213_十年一日

この世は地獄だ。

いや、少なくとも天国ではない。

天国にはほど遠い。

このように感じている人もかなりいるのではないだろうか。

特に、病気・争い・貧乏・苦労の渦中にあり、苦しんでいる人ならば、より、その思いは強いだろう。

いかに大自然や地球(ひいては宇宙)のかけがえのなさ、素晴らしさの神秘を説かれ、どんなに神様を礼賛されたとしても、まずは最大の関心事である、目の前の苦しみを何とか解決することができなければ、類いまれなる貴重な大自然の恵み等々を説かれても、綺麗事やおためごかしのようにしか、聞こえないことになってしまうからだ。

というのも、唯物論的な思考に絡めとられている私達は、普通の動物のようにこの世にあらわれている、肉体を持つ生命体としての生物=肉体人間こそが、真実の人間であるととらえ、私達、肉体人間の本体(本質)が、神様の分けられたお命となる、神様の光明体、真善美と愛に悖らない、霊なる人間、この命そのものこそが本当の人間だと感得(=頭の中だけや少ない経験や軽い感覚ではない、心身ともに深い境地からの感得、心の底からの感得、揺るぎない感得)ができていない、そうした人が社会のほとんどすべてを占めている、と考えられるためだ。

神様の光の光明体、霊なる人間、神様の分けられたお命そのものが本当の人間、真実の人間とわかっていれば、(極端に言えば)肉体がどうなろうが、目に見えるといった五感に感じる周りの物質的な環境がどうなろうが、真実の人間は何ら影響を受けない、関係ない、ということになるからだ。

従って、肉体にまつわる五感に感じられる痛みその他も存在しない、ということになる。

だから、法華経では、身体が火にも焼けないといった表現がなされる訳だ(または、肉体を持ちながらも、過去世の真善美と愛に悖った誤った因縁をすべて浄め尽くした、想いの体の幽体をすべてなくした霊なる人間そのままを肉体レベルまであらわせた人もそうなるはずたが、こうした超人は今の世の中にはいないだろう。合気道の開祖の植芝盛平先生が様々な神通力をあらわしたのはこうした理由によると思われる)。

これがいわゆる、般若心経や生長の家の言うところの「ない」、五井先生(日本の宗教家の五井昌久さん)の言うところの「消えてゆく姿」ということ。

真実としてあるのは、神様だけ。

神様だけが実体。

その他のありとあらゆるものは、あらわれては消えてゆく「かりそめの姿」。

だから、この世は(神様の見地からみれば)「仮想現実」。

ありとあらゆるすべてのものは波動だとすると、神体レベルと肉体レベルとでは、波動のレベル=細やかさがまったく違うから影響を受けないという話になるんですね。

しかしながら、こうした霊なる人間が真実の人間だと心の芯からわかっている、感得できているような人は、悟りを開いたような人しかいないと考えられる訳です。

だから、悟りを開けず、こうした物質レベル、肉体レベルでしかものをとらえることができない、すなわち、肉体にまつわる五感で感じられることことこそが真実だと思う一般的な私達ほとんどすべての人にとっては、五感で認識できるこの世で起きてくることが真実だと思い、そうしたあらゆる出来事に振り回されるのが、ごく当たり前で、普通だということになる。

これが私達の通常運転?の感覚だ、と。

そんな(この世を「真実の世界=実体」だととらえ、真実の世界、本当の世界、実体の世界である神様の世界を唯物論者のように「ない」としてとらえる、あべこべに顚倒夢想した逆さまの)感覚で物事を見ていくと。

例えば、(読んだのが数年前なので今もブログ自体が継続されているのかどうかわからないが)以前触れた KS さん(アメーバブログ)や SM さん(FC2ブログ)の文章を読んだあとでは、今のマスコミやネットのあり方に疑問を抱かざるを得ない。

本来、取り扱うべき重大なニュースをまったく取り上げず、いかにも一般的に話題になりそうな内容のものしか取り上げない、ありきたりのニュースサイトの状態などがそうだ。

だから、そうした内容と大差ないオピニオンリーダーが取り上げるようなごく普通にネットなどで話題にのぼるような話を、やいのやいの議論をして、想いを乱してばかりいるくらいなら、こうしたものは一切見ない・聞かない方がいいと思っている(従って、どうしてもこれらを見たければ、趣味・嗜好の最小限度の範囲内にとどめるようにするのが望ましい)。

そのようなことに、想いや労力を費やすくらいなら、どのような因果関係になるかはわからずとも(すべての差配は神様にお任せして)、とにかく、実質的に社会の下支えとなる、みんなの想いを少しでも浄めて、因縁因果を改善するための祈りをした方がよっぽどいいと思ったからだ。

だから、世界平和の祈りのお願いをしてきた。

祈りなんかして何になる?

祈りなんかに現状をすぐに改善する効果なんてあるのか?

こう思うのが、唯物論者が大半を占める一般的な人々のものの見方ではないかと思う。

私が皆さんに世界平和の祈りをおすすめしてきたのは、肉体人間として抱く想いが、今生から来世以降にかけての運命を左右することと、過去世の因縁によりあらかじめ定められたものとして、今生以降にあらわれてくる悪い因果を少しでも免除して頂けるなら、免除して頂くにこしたことはない、と考えてきたからだ。

たとえ、それらによる運命の改善がほんのわずかにしかならなかったとしても、私達一人一人が神様のお命でつながり、その抱く想いの集大成が、幽界のあらわれとして時間差を経てこの世にあらわれてくるものならば、絶対に祈り(世界平和の祈り)と普段からの造物主としての神様への感謝(間接的な形とはなるが具体的には守護霊様と守護神様への感謝行)をした方が、いいからである。

だから、私の書くことは十年一日のごとく、いつも同じ。

変わらない。

皆さんに、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をお願いすることだけです。

~~~~~

(追記)
まあ、こうは書いたが。

だからといって、従来からずっと暗黙の事実のように公認?され続けてきた世の中の様々な暗部が、徐々に公にされ、つまびらかになってきたことが悪いと言っているのではない。

ただ、ちょっと光明が差し始めたからといって、唯物論的な思考で責め裁いて、すぐに現状を改善できるのとは違いますよ、と言いたかった訳。

今現在幅広く構築されてしまっている既成事実は、長い時間をかけて醸成されてきたものだし、ちょっとした隙が見え始めたからといって、すぐに事態が急速な好転に向かうとは思えないからだ。

既存の思考パターンや利害関係にどっぷりとつかってきた人達が、膨大な抵抗勢力?として立ちはだかっている(つまり、今までに、それだけの好ましいとはいえない、おびただしい悪い因縁因果が蓄積されてしまっている)以上、ちょっとやそっとのことで、そんなに性急な事態の好転は望めないと考えられるためだ。

だから、すべては私達の目には見えない、広大無辺な因縁因果の網の目がこの世の背景にあるとしてとらえ、すべてのおはからいは、遠大な目ですべてを俯瞰して見通しておられる神様にお任せをして、私達一般人としては、祈りと感謝行(世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行)によって、決して目には見えなくても、世の中の流れの実質的な背景となっている、社会を構成する各人の因縁因果の集大成としての幽界のあり方を改善していく形をおすすめしているのである。

神様のみ心の真善美と愛の観点からすると、一見、どうしようもない、救いようもない、汚濁にまみれたように思えるこの世は、あくまでも個人個人の過去世の悪い因縁がこの世で複合的な形で解消されていくためにあらわれている「消えてゆく姿」と「みなす」ことにして、そうした「消えてゆく姿」の実質的な背景となっている因縁因果、中でも悪い因縁因果をできるだけその因果のあらわれを少なくしながら、消していきしょう、ということ。

もちろん、悪い因縁因果の複合的な全容など、私達にはわかるはずもない。

なぜなら、私達個人個人でさえも、ほとんどすべての人が過去世の記憶を消されて(=つまり、過去世の因縁がわからないままに)この世に生まれてくるから、ましてや、これが複合的な形で解消されていく全体像など、私達には到底わかるはずもないからだ。

おそらく、これがわかるのは、六神通を備えた超能力者か、漏尽通を駆使できる超能力者か、まあ、これらの人は今のこの世にはまずいないと思われるので、わかるのは神様しかいないだろう。

だから、私達にできることは、こうした因縁因果をつまびらかにしようとか(=つまり、批判や批判をして唯物論的に責めたり裁いたりして、世直しをしようとか)、身の丈を越えてできないことはしないで、ひたすら、私達の因縁因果の網の目で構成される全体を改善させることに力をいれましょう、ということ。

つまり、この世のあらわれの実質的な背景となっている、原因を改めることに注力しましょう、ということです。

因縁因果の全体像は神様にしかわからないのだから、世直しも何もかも(=つまり、いかなる人を用いてどのように世直しをしていくのかも何もかも)、すべては神様の差配にお任せすることにして。

何もかもすべては神様から始まったのだから、神様にすべての責任をとって頂きましょう、ということ。

ただし、そのためには、唯物論的な思考やエゴイズム的な思考を可能な限り排して、神様のみ心に適った想いを抱き、行いをして、南無阿弥陀仏の唱名(祈り)や世界平和の祈りを欠かさないことが必須となる。

唯物論的な思考で、散々、自分勝手にやりたい放題やっておきながら、神様助けて、とは言えませんもんね。

言い換えると。

あたかもマルクスの下部構造?ではないが、この世にあらわれてくる、すべての事象の元は、私達肉体人間がこの世で抱いた想いによって作り出された因縁因果にある。

悟りを開けず、六神通のような特別な能力のない一般的な唯物論的な思考にとらわれている私達には、目には見えないし、過去世の記憶が消されてしまうから、様々な事象の因縁因果の全容はわかるはずもないが、とにかく、この世にあらわれてくる事象を左右する根本的な要因は、私達の想いによって作り出しされる輪廻転生を通して巡る因縁因果である。

だから、少しでも世の中を(神様のみ心に沿った)良い方向に向かわせようと思ったら、結果としてどのような因縁因果の展開が世の中に展開されていくことになるにせよ、私達自身の抱く想いを、出来る限り(真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適った)良いものとして整えていくことしかないことになる。

そうした想いを整えるために、現実的で実践できる可能性が高く、最も近道となるのが、南無阿弥陀仏の唱名(祈り)一念による信仰か、世界平和の祈り一念の信仰の、絶対他力による易行道になる。

難行道は、現代社会ではその実践が実質的に不可能だと思われるからだ。

それに、現代社会がこのような形に結果として進展してきたとに鑑みると、(難行道にかかわる特別な天命のあるごく一部の限られた人達を除いて)想いを整えていくのは、実質的に易行道しかないのだよ、と神様が言われているようにも考えられるからだ。

そうして、少しでも良い因縁と因果を増やし、悪い因縁と因果をなるべく最小限度にとどめるように、因縁因果の展開を詰めていくという訳。

212_選択

人には誰しも皆それぞれの固有の好き嫌いがある。

私は、孤独がさして苦痛ではなく、その上、根が臆病で小心者なためか、人といると気を遣い過ぎて疲れて参ってしまうタイプなので、むしろ、一人で勝手気ままでいるのが本当に楽。

人様を痛めまい、傷つけまい、軋轢を生じさせまい、とすると、どうしても様々な面で自分を抑制し、相手に気を遣って疲れてしまうためだ。

それというのも、相手をそれなりに尊重しようとすると、人格の完成、つまるところは、霊性の開発がまだまだ不十分な場合には、それ相応の相手を慮るための、固有の意志の発動が、どうしても必要不可欠になってしまうからだ。

ただ、他人様を見ていて、自分としては「これは好ましくないな」と思った行いでも、(このような感情を態度に表さないように気をつけつつ)何も言わずに、黙るようにしている。

そうして、自分からは決してそのよう行いをしないようにしているだけ。

例えば、「腕組み」。

よく、書籍やネットなどの写真にある、著名人が、「カッコいいポーズ」としてカメラマンにやらされているのか、自分でしているのかはわからないが、ああした腕組みのポーズは個人的には嫌いだ。

心理学関係の本で、自分の防御で他人の排斥の意味合いもあると読んでからは、さらに嫌いになった。

もしも、これが本当なら、腕組みは最悪の場合、相手に対する尊大な態度、極端な場合にはケンカ腰をあらわすことになってしまうからだ。

そうすることで、相手の反感を買ったり、不興を買わないように気をつけている。

これもつまるところは、自分も相手も想いを乱さないようにしているという訳なの。

少しでも、業想念(=神様のみ心に適わない肉体人間の想いと行い)を生じさせないようにするために。

だから、対面時には自分からは絶対に腕組みをしないようにしている。

それから、これは女性によくありがちな「はーい」とか「そうでーす」のように、やたら語尾を伸ばすのも嫌だ。

「メッチャ」とか「ヤバッ」という言葉も多用したくない。

「あざーす」なんて論外だ。

それから、滑舌が悪く、抑揚が不安定で、言葉が崩れるように話すのも嫌いだ。

別に、ハキハキしろとか、ピシッとしてきれいに話せ、とまでは言わないが、グシャグシャ・フニャフニャとしたあまりにいい加減でだらしない滑舌や抑揚(イントネーション)で崩された日本語の言葉遣いを聞いていると、この人はせっかくの神様のおつくりになられた、あらゆるものに通じる母音に特徴のある日本語を大切にしていない、棄損している、とさえ感じてしまうからだ。

残念なことに、こうした芯の通っていない崩れた話し方をする人は、テレビでも主演俳優さんやタレントさん達の中にも結構いた(ただし、数年以上前なので、今はどうなっているのかはわからない。多分変わっていないだろう)し、また、話の専門的な訓練を受けていない人が大多数を占めると思われるユーチューブで発信をする人々や、小中学生でもしないような初歩的な漢字の読み間違いが異様に多く、聞き苦しく不快感を抱かざるを得ない AI にテキスト読み上げを丸投げしている(と思われる)人々をはじめとして、今や至るところで見られるのが現状だ。

子音が主となる外国語とは異なり、母音を大切にする言語感覚は、自然に通じる。

自然の虫の鳴き声は、外国人さんには騒音のように聞こえるらしい。

虫の鳴き声に反応する脳の部位が日本人とは違うのだそうだ。

今では、日本人の若者や子供にもこうした人が出てきているらしい。

何もわざわざ「日本は神の国」などと大上段に構えなくても、自然に通じるということは、神様のおつくりになられたものに通じる、すなわち、神様に通じる言語ということ。

(いろいろと疑問を持たざるを得ない内容を含む記紀金科玉条化して解釈し)記紀に書いてある内容がどうのとか、日本列島が世界の縮図の形をしているのがどうのとか、そんな「日本を権威づけるための材料」なんかはどうでもいいの。

まことに不思議なことに、今現在の結果として、日本はこうした言語を扱うような立場に置かれている。

だったら、それを謙虚に受け止めて、その(母音に特徴のある)日本語を大事にして、自然と人間との調和、そして、ひいては世界の調和、すなわち、世界平和を求める役目もあると考えていけばいい。

だから、一般的によくありがちな、日本は偉い、日本語が偉い、日本人が選ばれし民族だ、などと思い上がるのはお門違いもはなはだしい。

そんな他民族の反感を買うような、そして、自分達以外の民族を下に見る他民族にありがちな、傲慢で尊大で思い上がった姿勢をとってしまったら、せっかくのこうした言語が与えられている境遇が台無しになってしまう。

日本や日本人だけが由緒正しく偉いんだ、などと威張ったり、自己顕示欲で認めてもらおうなどとしたら、せっかくまわりに認められて評価される要素が自然にそなわっていても(=神様から与えられていても)、そうした美点が、すべて台無しになってしまうからだ。

だから、美点はあくまでも謙虚に受け止めていくべき。

話を戻すと。

自然が母音にあふれているものだとすれば、日本人は日本語という母音を主とする特徴を持つ言語を扱うために、いわば、自然の声を聞き取る感覚を持つ可能性がある脳になるとも考えられる。(*1)

だから、虫の鳴き声も騒音にならないように聞こえるのではないか。

ユーチューブで来日した若いドイツ人女性が、セミの声がうるさくてたまらないと話しているのがあった。

多分、彼女には、セミの鳴き声が、大自然の奏でる自然の音の一部ではなくて、単なるやかましい騒音にしか聞こえなかったのだろう。

このようにみてくると、日本は、言霊を大切にすべきことは、自然の声を聞くという、こんな側面にもあらわれていると思うのだ。

言葉は、やはり、乱して使うものではないと考えられるからだ。(*2)

だから、どんなに地味でも、つまらなくても、穏やかで柔らかく、語尾のはっきりした平坦な言葉遣いを心がけるようにしている。

つまり、自分としては人様の不快や好ましくないと思われる仕草や言葉遣いに出くわしても、それは黙って心に収め、自分からは決してそうした仕草や言葉遣いはしないようにしているだけだ。

個人の自由だからね。

いろいろと大変な時代ではあるが、こうした選択の自由があるのは、とてもありがたいことだと思っている。

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(*1)大体、10 才くらいまでに日本語を母国語として習得すると人間の脳はこのようになるらしい。

だから、自然と人間との調和、ひいては世界の調和=平和ということを考えると母音に特徴のある日本語をきちん話すことには重要な意義があるし、最適であるとも言えるな(日本語を母国語としない外国の人達は反発するかもしれないが)。

(*2)ユーチューブのロシアの何人かの女性の話にあったが、彼女達によると、日本語は美しい歌のように聞こえるそうだ。

だから、日本を破壊しつくそう(?)と思ったら、こうした母音を特徴とした美しいとされる日本語を、外来語、カタカナ語と省略語を使って、ぐちゃぐちゃにに混ぜ合わせて使わせるのも、一つのやり方となる可能性があることになる。

日本は、言霊の国ともされるし、自然の声を聞き取る母音に重きを置く特徴のある言語でもあるし、そもそも、言葉すなわち神なりきのような宗教まであるこどだしね(キリスト教を信奉している人達は、独善的・排他的に自分の神様と唯一の神の子とされるイエスの言葉だけに限って使ってるんだろうけどね)。

そんな訳で、相手を騙そうとするのでもない限り、やたらめったらわけのわからない外来語やカタカナを使うべきではない、とも言えるね。

逆に、馴染みのない、訳のわからないポッと出の言葉には、つまびらかにはできない、それなりの意図が隠されている、とも言えるな。

悪い言い方をすれば、何でも横文字にして煙に巻いてしまえ、といった形の。

211_正誤表(漢字の読み)

数年前からユーチューブを視るようになって、特にここ 2 年以内で「明らかな漢字の読み間違いだな」とすぐに気づいたものや、はじめは間違った読みなので、聞いていても何を言っているのかわからなかったが、改めて聞き返してみて、前後の文脈からこうした漢字の読み間違いだろう、と判断できた事例をいくつか挙げておく。

ただし、アニメキャラ対談風のゆっくり系のような一部のVtuber(バーチャルYouTuber)に見られる、テキスト読み上げを AI に丸投げしたことによると思われる、小中学生でもしないような初歩的な漢字の読み間違いは取り上げていない。

そうした、読み間違いは著しく程度が低く、論外だからだ。

従って、以下に挙げる例は、あくまでも AI ではない、生身の人間(わざわざ生身の人間だなどと断らざるを得ないのも厄介な世の中だが)のユーチューブ上で聞いた読み間違いの事例である。

(正)声高(こわだか)
(誤)こえだか

(正)市井(しせい)
(誤)いちい

(正)断捨離(だんしゃり)
(誤)だんじゃり

(正)右脳(うのう)
(誤)みぎのう

(正)古今東西(ここんとうざい)
(誤)こきんとうざい

(正)半生(はんせい)
(誤)はんしょう

(正)一斉(いっせい)
(誤)いっさい

(正)生老病死(しょうろうびょうし)
(誤)せいろうびょうし

(正)ご利益(ごりやく)
(誤)ごりえき

(正)念力(ねんりき)
(誤)ねんりょく

(正)机上の空論(きじょうのくうろん)
(誤)たくじょうのくうろん

(正)定石(じょうせき)
(誤)ていせき

(正)怪文書(かいぶんしょ)
(誤)かいもんじょ

(正)違って(ちがって)
(誤)ちがくて
(*)この「違くて」は、「漢字の読み」そのものではないが、最近、老若男女を問わず、日本人にも使う人が多いし、日本語に堪能な外国人ユーチューバーさんにも多く見られる。

しかしながら、この「違くて」という言葉(表現)は個人的には日本語として間違っているとしか思えない。

細かい理由づけは省くが、とりあえず、ここに挙げておく。