( おぶなより ) と ( おぶなより2 ) では、いつも雑文のような感じで、感想文(たまには自分の体験談)などを書いているので、これといって特段、改まって書くこともないが、とりあえず、感謝を記しておきたい。(*1)
私は、上記 2 つのブログで、日本の宗教家五井昌久さんの著書の読書などから得た知識と理解を元に、彼の提唱した「世界平和の祈り」(以下、単に「世界平和の祈り」と略す)を中心にして、誰にでもわかりやすく平易に、大人から小中学生の子供までが理解ができるように、と独自の理解にもとづいた見地から、霊性や輪廻転生などについて記してきた。(*2)
いわば、五井昌久さんの著書を基本にして、自分なりの五井昌久さんの著書に書かれている内容に対する理解を、老若男女を問わず、誰にでもわかりやすい形で、とっつきやすいようにと、自分なりの、やさしい言葉と、やさしい理屈の展開で書き記してきたのが、( ( おぶなより ) と ( おぶなより2 ) ) な訳です。
従って、五井昌久さんの著書の言葉をそっくりそのまま丸写しすることは(中でも、この ( おぶなより2 ) では)徹底的に避けて、とにかくわかりやすく、平易に、と私独自の解釈により、五井昌久さんの文章や考えを敷衍または拡大解釈などをした上で、表現し直したものを記してきた(ただし、漢字の読み仮名についてはその大部分を撤廃してしまったが。小中学生の皆さんには厳しいかもしれないが、読み方がわからない漢字は、ネットやパソコンに頼らずに、あえて手間隙をかけ、漢字辞典を引いて調べるようにして欲しい。漢和辞典を引くのが理想ではあるが、私のような平易な文章なら漢字辞典だけで十分に事足りるはずだ。教養が深まってきたら漢和辞典に移行すればいい)。
なぜ、このようにやさしく敷衍するような書き方をするのかの理由を一つ例を挙げると。
最近の五井昌久さんのユーチューブの音声データで知ったのだが、五井さんは、彼の教義である「人間と真実の生き方」さえ読んでもらえば、うちの宗教(五井昌久さんご存命当時の白光真宏会)はわかる、というように話されているものがあったが、私にはとてもそうは思えなかったためだ。
唯物論者の人はもちろん、多少は霊的なことをかじった人でも、一読しただけで、あの内容を理解・納得できるとは、到底思えなかったからだ( 195_信仰について - おぶなより2 )。
そもそも、霊的なことについては、様々な人が、様々なことを主張する、百家争鳴のような状況であり、しかも、その内容表現がお世辞にもわかりやすいとは思えないものがたくさんあったからだ(ちなみに、五井昌久さんの宗教は新宗教の大本の系譜にある)。
主義主張がたくさんにわかれているだけではなく、その表現が(こう言っては申し訳ないが)、とてもではないがわかりやすいとは言えないものばかりだったからである。
簡単に言うと、内容を説明する言葉それ自体が圧倒的に足りない(言葉足らず、説明不足の例としては、( 529_仏言葉ー063 ー 神様の世界は厳しい - おぶなより ) などに書いた)ために、内容を確定させて理解することができない文章や、唯物論と唯心論をごっちゃにしてあるような表現をしている文章がきわめて多いと感じられ、もどかしい思いをさせられることが多かったのである(無論、私の読解力不足や理解力不足のせいもあるから仕方がない側面もあるが、それにしてもわかりにくい、と感じる文章が多かったのでね。内容や文章表現の水準を無理をしてでも落とせとは言わないが、もう少し読む人の立場に寄り添って理解させることを第一義としたような文章を書いて欲しいと感じさせられることが多かったんですよ)。
そもそも、霊的なことや輪廻転生などの魂的なことは、世にたくさんいらっしゃるガチガチの唯物論者の人達にとっては、どんなに言葉を尽くしても、理解・納得してもらうのは至難の技としか思えないのである(誰しもの意識の深層には神意識があるから、その人その人の過去世の因縁によってはそれなりに理解・納得する度合いはそれなりにあるにしても。五井昌久さんの教義の「人間と真実の生き方」についても同様だとは思うが、やはり、彼のあの書き方は、肉体人間観が強固に染み付いてしまっている一般的な私達には、理解・納得するには敷居が高過ぎると思うのだ。「人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、・・・」とのっけから生涯をかけて感得できるかどうかさえもわからないほどの大命題を、いきなりドーンとかましてしまっているから・・・。もしも、生涯をかけて肉体人間観を完璧に払拭することができて、肉体人間とは、神様の命そのものだ、肉体人間の(神様のお命を分け与えられているから)本質は神なのだ、と心身ともに深く感得することができれば、かなり悟りに近づいたことになるのではなかろうか)。
やはり、幽霊(映像だけでなく音も含む)でも、UFO でも、輪廻転生でも、唯物論者の人達にとって、超常現象となるものについては、彼ら自らが実感をもって身体の芯から体験しなければ、理解・納得することはきわめて難しいからだ。
だから、こうした超常現象の体験(うすぼんやりとした体験?では効き目は薄い。「あれは間違いなく幻覚ではない」というくらいの強烈な超常現象の体験をしないと信じるのは難しいと思う)をまったくすることができずに、ガチガチの唯物論に染め上げられてしまっている人達には、納得させることは無理にしても、できる限りの誠意をもって言葉を尽くして話をするのが、最低限の理解をしてもらう方法としてあるべき形だと思うのである(あとは、世界平和の祈りをして、唯物論者の人達の過去世の因縁のありようと彼らの守護霊様と守護神様のおはからいにおまかせするしかない)。
五井昌久さんの話は、般若心経や生長の家の話を唯物論者にもわかるようにかなり手前に引いた言い方や書き方になっているとは思うが、それでもまだまだ言葉を尽くす余地があると思ったからだ。
少なくとも、他の宗教にありがちな、天上天下唯我独尊、俺様の文章を読め、動画を視よ、といった高みからものを言い、理解できない者は捨て置け、というガチガチの唯物論者の人達を突き放したような態度ではダメだと思うのである。
だから、私は、「世界平和の祈り」だけでも、何とか理解してもらいたくて、少しでもわかりやすく、と平易を旨とした文章を書いてきた。
そんな次第だから、権威主義に固執する傾向のある人や、頭がガチガチに固い人は、端っから私のことをバカにして、内容を読み込む前に、
「こんな安っぽい、ペラペラな文章なんか読めるか!」
と門前払いをした人も相当数いたのではないかと思われる。
例えば、仮に「世界平和の祈り」などの語句の検索で、私のブログにたどり着いたとしても、
「何だ、この簡単でやさしすぎる、安っぽい文章は!!」
と、読むのをすぐにやめて、ブラウザバックをしてしまった人が、かなりいたのではないか、と考えられるのだ。(*3)
在野のたった一人の、何の権威もない素人が書いた、小中学生にも簡単にスラスラと読める文章なんか、読む気が起こらない、読み応えがない、読むに値しない、と。
まあ、それでも、「世界平和の祈り」関連の検索で私のブログにたどり着いた数少ない人々の中には、そのたどり着いた記事を文末近くまで、そこそこ読んだ人もある程度はいたのではないか、とは思っている。
特に、( おぶなより2 ) の現在の注目記事(アクセス上位の 5 記事と思われる)や、かつての注目記事は、ブログの記事としては、どれもそこそこの長文が上がっている(いた)からだ(そのようやに考えてくると、( おぶなより ) の ( 131_流行 - おぶなより ) の簡素で短い文章が注目記事に入っている( 2026 年 01 月 01 日現在)理由が私には理解できないのだが)。
いくら文章が平易でも、あれらのそこそこの長文を読むには、やはり「世界平和の祈り」それ自体に深い関心と興味がないと、文末まで辛抱強く読み通すことはできない、と考えられるためだ(中途で文章を読むのをやめて離れた方がそれなりにいたとしても、その中途まで読んだ動機は同じと考えられる)。
どんなにとるに足らない、在野のどこの馬の骨ともわからない人間が書いた文章だとしても、とにかく、「世界平和の祈り」に関する理解を少しでも深めたい、もしかしたら何らかの「世界平和の祈り」の理解を深めるための参考になる内容が書かれているかもしれない、と考えて辛抱強く読んで頂けたのではないか、と考えられるからだ。
つまり、五井昌久さんや、彼の提唱した「世界平和の祈り」に、何らかの形で過去世の因縁をもった人達が、それなりに興味を抱いて読んでくれたんだろうな、と考えられる訳。
本当は、こうした過去世の因縁のない他の多くの人達にも、「世界平和の祈り」を知ってもらい、平素から「世界平和の祈り」の実践をしてもらいたいところだが、「世界平和の祈り」一念の信仰をしている人それ自体が、宗教界やスピリチュアル界といった精神世界全体からみると、細流の細流?となってしまっているところ(←あくまでも私の独断と偏見による勝手な分析なのでお許し頂きたい)からしても、これからの普及もかなり難しそうだ。
本当に残念なことなんだけどね。
だから、「世界平和の祈り」を実践されている数少ない(と思われる)同士の皆様には、祈りの効果や功徳が、どのような形でこの世に具体的にあらわれてくるかの如何にかかわりなく、「世界平和の祈り」は、全宇宙をも含めた、ありとあらゆるものの調和と安寧を願う祈りだから、この世の因縁因果のあらわれに何らかの形で良いものをもたらすことだけは絶対に間違いない(=この世のあらわれの元となる人類の想いの世界である幽界に、良い種を蒔くことだけは絶対に間違いない)、と信じて、「世界平和の祈り」をひたすらに続けて頂きたいのである。
もちろん、神様のみ心がこの世にあらわれますように、すなわち、神界が現界であるこの世に映し出されますように、というのが理想ではあるし、究極の目指すべき形ではあるけれど、あまりにも、この到達目標が理想としては高過ぎて、実現は難しく思えて仕方がないので、とにかく、ほんのわずかでも、この形を目指していくために役立つ祈りを、地味でも何でも、ひたすら続けていくしかない、と考えられるのでね。
他方、体験談の方は、いわば雑談のようなもので、私がネットを探し回っても、ほとんど見つけることができなかった(私の検索の仕方があまりにも下手過ぎたせいなのかもしれないが)自分と同じ境遇?にあると思われる男性に特有の体験談を、私独自の体験ではあるが、一つの情報として記しておくつもりで書いてきた( ( 060_話01(体験記) - おぶなより2 )・( 083_一雫 - おぶなより2 ) )。
そんな訳で、2020 年の 4 月からブログを始めたから、もう 5 年以上になるが、とりあえず読んで頂いた方には、一言お礼を言いたいので、ここに記します。
ありがとうございます。
あと、私のブログを存在させて下さっているはてなさんにもお礼を言いたいと思います。
ありがとうございます。
まあ、つまるところは、年頭にあたって、私のブログ(特に ( おぶなより2 ) を読んで下さった方と、ブログに籍を置かせて頂いているはてなさんに感謝をしたかったという次第です(なお、( おぶなより ) は、今現在、個人的な都合により、更新をしていません) 。
それと。
一見(いちげん)さん( 1 回ブログにアクセスしただけで、今生では未来永劫縁のない人達の意(として勝手に使わせてもらう))も、一部か全部かわからないけど、ブログを読んで頂き、ありがとうございました。
一見さんは、もう二度と私のブログを見ることはないだろうけど、とりあえず感謝だけは勝手に記しておきたいのでね。
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(*1) ( おぶなより ) では、中村元さんや佐々木閑さんや S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老さん)やひろさちやさんの著作を下敷きにして、法句経(ダンマパダ)など、仏教の入門の入門??のような内容について書いてきたが、これも五井昌久さんの著作から得た知識や考え方がなければ、到底書くことはできなかった。
五井昌久さんの著作から得た宗教のものの見方や考え方を、敷衍して、拡大解釈などをした(=応用した)上で、仏教の入門的な内容(主に「法句経(ダンマパダ)」など)について、宗教の素人の一般人から見た、素朴に感じた疑問や感想などを、努めて平易に書いてきたつもり。
元々は、一般に言われている般若心経と般若経との関係性に疑問を抱き(この罪滅ぼしのつもりで大蔵経の第一巻を買った( 137_贖罪 - おぶなより ) )、これを調べようと思ったのだが、大蔵経などの仏教の経典があまりにも大部で手に負えないと感じて、とりあえず、仏教の入門的な考え方や知識からお釈迦さんのお考えの基本を探ろうと、中村元さんの著書の「原始仏典」(ちくま学芸文庫)や法句経(ダンマパダ)などを中心に見てきたのが始まりだった。
それ以外の ( おぶなより ) の文章は、私的なものです。
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(*2)ここに取り上げている「世界平和の祈り」は、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)が提唱された「世界平和の祈り」のことです。
この「世界平和の祈り」の具体的な祈り言葉一式は以下の通りです。
~ 世界平和の祈り ~
世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様(しゅごじんさま)ありがとうございます
なお、この祈りは、仕事や家事の合間でも、生活必須時間以外はいつどんな時にしてもよく、この祈り言以外は、特に形式ばったところはありません。
無論、声に出さなくても、心の中で唱えても良いそうです。
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(*3)文章中にトートロジー(同義反復)となるカッコ書きの部分がかなり多いから、煩瑣に見える部分もあるかもしれないが、少しでも内容をわかりやすく、読む人の理解をぶれにくくするために念を入れる意味で書き加えてあるものなのでご了承を頂きたい。
まあ、ペラペラで安っぽいという意味では、一般的に宗教について書かれている文章によく見られるような高揚感やおすまし感や気取り感がまったくないので、取っつきやすく読みやすいはずだとは思っているのだが。
私は、自分の勉強不足・研究不足ということもあるが、とにかく内容をわかりやすく、早く伝達することが一番だと思っているので、自分が他人様の書籍やブログの読解で散々苦労してきたこともあって、既存の宗教にごく当たり前のようにある、いかめしい理屈や難解な用語( (例) 機法一体)を徹底的に避けて、さらには、こうした文章にありがちな余計な高揚感や気取ったおすまし感をなくした、努めてわかりやすい文章を書くように心がけた。
なぜならば、宗教は、実践してなんぼ、自分で体現しないと価値がないと思っているからだ(厳しいかもしれないが)。
要は、権威づけや自己陶酔のための余分な装飾の一切(ごめんなさい)を徹底的に削ぎ落として、実践のための内容の理解に特化した文章を書くことに注力した訳です。
どんなに稚拙に見えようとも、どんなに泥臭く見えようとも、どんなにカッコ悪く見えようとも、できる限り、わかりやすく、なおかつ、早く内容を理解してもらうための文章を書くことが第一、と考えていたからです。
また、一般的な宗教に関する書物では、言葉を濁してあからさまに書かれることがめったにない、性的なことについても、内容の理解のために必要と思えば、具体的な描写を含めて躊躇なく書いてきました( ( 065_お断り - おぶなより ) の (*3) 他。下記の (追記2) に記したヤリチンな男達の話も同様)。
普通の宗教書(仏教の真言立川流関連の話は除く)やブログなどでは、お上品なことが多く、こうしたことは、具体的に扱われることがありません(少なくとも私の限られた読書範囲内ではそうだった)。
下記の (追記2) に記すような、性的なことに対する人としてのあり方が、宗教に深いかかわりを持つ(=肉体人間としての想いと行いが、神様のみ心に適うか否かは、宗教の問題となる)以上、性的な行動(特に男女の愛情の交歓と種の保存に直結するセックスの問題)を漠然とさせたままで具体的にわかりやすく扱わないのは不自然で不完全だと思います。
性的なことを何かと避けているような段階(=結果的に性的なことを動物と同列に扱うことになる段階)は、そろそろ卒業すべきなのではないでしょうか。
とは言うものの、神様が性的なことをどのように扱うべきとお考えになっているのかは、正直なところまったくわからない。
私は、神様に特別なご縁はないし、これといった霊感もないし、霊的な体験も数えるくらいしかないからだ。
けれど、そんな特別な能力がない私でさえ、ごく普通に考えただけでも、セックスが相思相愛の男女の愛情の交歓と人類の種の保存として、尊く気高いものとして昇華される(=貞操がごく当たり前なものとして、自然に尊ばれる)までに、霊性が開発されなければダメだと思うので。
神様が、人類の種の保存を、無性生殖ではない有性生殖の形としてお選びになっている以上、愛情の交歓と種の保存としてのセックスが、やましいものだとか、陰にコソコソと隠すべきものだとか、といった有り様や、快楽一辺倒ならなんでもいい、快楽さえ得られれば、相手は誰でもかまわない、といった有り様、さらには、人間以外の他の動物のあり方を人間にそのまま援用して、結果的に同列扱いをしているような有り様では、人類としての霊性の開発が、まだまだ未熟でいたらない段階だと考えます。
肉体人間のセックスが、動物のそれとは明確に一線を画す、崇高な意味合いを持つからこそ、大切に扱わなければならない→貞操が重い意味を持つことになる、と考えられるからです。
性的にかなり乱れた現状だってかまわないじゃないか、とか、肉体人間以外の動物のセックスの有り様を、いつまでも肉体人間に援用して、ごく当たり前のような認識でいる限りは、人類としての霊性の進歩はまだまだおぼつかない段階にあるとしか思えないからです。
仮に、神様のみ心がこの世にあらわれることが、地上天国化の成就だとすれば、こうした地上天国では、権力や地位や金や容姿その他の魅力さえあれば、ボス猿のような一極集中的なモテが当たり前にある状態や、浮気、不倫、その他、乱れた性的な現代的な社会の有り様は、許されないことは当然だし、そもそも、こんな乱れ切った性的な男女の社会の有り様は一切なくなる、と考えられるからです。
神様のお命を直接に頂いているという万物の霊長としての存在価値を示すためには、動物的な本能むき出しのあり方を超克しなければならない、と考えられるからです。
ボス猿のような男性のあり方とこれを取り巻く女性達のあり方、浮気や不倫の横行、果ては托卵など、こんな性的に不均衡で乱れた有り様が当たり前になっているような世の中が、神様のみ心があらわれた世界であるはずがないからです(まあ、それにもかかわらず、ボス猿のような男女のあり方や浮気や不倫や托卵が当たり前だと言うのなら、そもそもこれは宗教以前の問題でしょうがよ。こんなことを当たり前だとか、やむを得ない有り様だとか、なんて言うのは、私には宗教以前の問題だとしか思えないね。あるいは、宗教における神様の存在が、すなわち、私達の命の根幹をなす神様の存在が「真善美と愛に悖らない完全円満」なものではない、「きわめて即物的で唯物論的な身勝手な存在」だとしか考えられないよ。とにかく、溜まりに溜まっている過去世の悪い因縁があるから、今すぐにこれらをなくすことはできないので、「世界平和の祈り」をすることによって、少しずつ、少しずつ、こうした悪因縁を、根気強く、収斂に向かわせるように地道な努力(=「世界平和の祈り」をするしかないでしょうね。相思相愛の男女が自然に惹きつけ合って、感謝し合いながら人生をまっとうしていくような形が、ごく当たり前のように、ありとあらゆるところで見られるように、人類全体の霊性が開発されるまで努力をしていくことですね)を積み重ねていくしかない。
~~~~~
(追記1)
ちなみに。
( 211_ハンドルネーム - おぶなより ) に書きましたが、ブログ名の「おぶなより」の「おぶな」は、アニメのドラゴンボール Z に登場するキャラクターの、伝説のサイヤ人「ブロリー」からとってつけた名前です。
お ← 俺は
ぶ ← ブロリーに
な ← なりたい
で、「おぶな」、とした訳です。
で、こうした「おぶな」の発信するブログなので、「おぶなより」としてあります。
幼少時から小心者で気が弱く、ビクビク癖を持ち、運動オンチだった(一部、それなりに上手くできるものもあったが、基本的には短距離が遅く、反射神経が鈍かった)が、見かけだけは、そうでもなさそうに見えるらしい。特に若い頃は背が高めなせいもあってか、短髪にするとスポーツマンというか運動ができそうに勘違いされることがよくあった。よくよくオーラというか雰囲気を観察すればそうは思えないはずなのだが。だから、そのギャップの大きさが自分では余計に嫌だった)の私は、甘さがまったくなく、あのような野性味溢れるブロリーに憧れたからです(後の設定では、元々は穏やかな性格と変えられてしまったが。やはり、ブロリーの真骨頂は、初出の劇場版にあると思う)。
そんな訳で、「おぶな」という名称は、戦国武将の「織田信長」さんからとったものではありません(そもそも私はあの人大嫌いですから)。
ここの ( おぶなより2 ) は、 ( おぶなより ) で、いろいろ言いづらかったり、書きにくかった内容を、さらに気を遣わずに勝手気ままに書かせて頂く、第二のブログということで、「おぶなより2」とした次第です。
~~~~~
(追記2)
前に引き寄せのことを少し書いたことがあったが、私は、世界平和の祈りと引き寄せの理解の折り合いと言うか、攻めぎ合い?をまだつけずにいる(まあ、時間軸の考え方も含め、ある程度考え方の違いはわかっているつもりではいるのだが、あまりはっきりとは書きたくない)。
正直に言うと。
五井昌久さんの教えの
「過去世の因縁大半説(?)(と私は勝手に解釈している)」
は、今を生きる人、特に直近の未来を変えたい人にとっては、かなりの
「精神的な障壁(今流に言えば、いわゆる、ブロック)」
になってしまう可能性があるからだ。
確かに、生得的な容姿や才能、そして境遇の原因は、過去世にしか求めようがないのかもしれない。
しかし、どのような生得的な容姿や才能、そして境遇であろうとも、
「こんなのはどう考えてもおかしい、甘受などできるものか!」
と思えば、今からこの運命を、自力で少しでも変えるようにしたいと考えるのも、また、普通の人情として、ごく自然に納得のできる話だからだ。
だって、いくら何でも
「(今生、今あるすべては過去世での生き方を含めた)あなた自身の責任なのよ」
と言われたって、過去世の記憶はない人が大半なんだし、
「冗談じゃない、そんなの知ったこっちゃねえよ」
というのが唯物論的な普通の考え方だと思うからだ。
ましてや、自分よりも容姿や才能、そして境遇ではるかに恵まれている人達が、転輪聖王や人格者であり、人としてより良く生きるお手本となっている世の中ならばともかく(=つまり、今生で容姿や才能や境遇によく生まれついている人は、過去世においてそのように生まれつくだけの神様のみ心に適ったよき想いと行いの実績や蓄積がある背景を持った人だということ。ああ、あの人は過去世で、さぞやよいことの積み重ねが多かったから、あんな素晴らしく生まれつくことができたんだな、と解釈できる訳)、(それにもかかわらず、こうした恵まれた生まれつきの男女に見られる)自己承認欲求や自己顕示欲が闊歩する、そうではない人がかなりいると思われる(容姿や才能や財力のある男女をもてはやし過ぎるマスコミやネットのせいかもしれないが)現状では、こんなことを信じたくなくなるのも無理はないからだ。
またまた、下品な例え話になってしまい、申し訳ないのだが。
例えば、容姿が眉目秀麗に生まれついた、そこそこ背が高くてカッコいい、さらには仕事までができる男性がいたとする。
そんな彼が、女なんて誰でも寄ってくる、俺は入れ食い状態なんだよと、何股も平気でするようなヤリチンだったらどうだろうか?
容姿が良ければ、仕事ができれば(≒財力があれば)、何をしたって構わない、という人間としての見本を世の中に示していることになりはしないか。
世の中なんて、力さえあれば、何でも自己中のほしいままにしていいんだ、と。
容姿が良かったり、仕事ができたり、金があったりで、こうしたことをするヤリチンが、実際に世の中に多数存在してきた( & いる)(しかも、格別に容姿などが良くなくても、ヤリチンになる男達がそれなりにいる。しかも、お相手となる女性達も自らの保身や虚栄心などのためからとはいえ、これを当然のこととして受け入れてきた( & いる)。つまり、世の身勝手な男達だけが悪いのではなくて、これを当然のように受け入れてきた( & いる)(男からの強引で悪質な性加害を除いて、被害を被ったようには書かない。全部ではないにしろ、容姿に優れているヤリチン、才気に溢れているヤリチン、財力を持っているヤリチン、さらにはこうしたものに恵まれなくとも性欲の権化のようなヤリチンといった男達をそれなりにやすやすと受け入れてきた)世の多くの女達にも重大な責任があると言わざるを得ない←ハートカフェやパウラちゃんねるの世の女性達に対する強い怨嗟と深い哀しみが裏読みできるような、世の婚活女性や一般女性をこきおろしている男性達のコメントを見ると、こう感じざるを得なかった)から、世の中はこんなどうしようもないくらいに霊性の低い状態になっているのではないのか。
せっかく数少ないであろう、眉目秀麗な男性や、容姿端麗な女性に生まれついても、人格の高潔な世の中の良き男女のあり方を見せるどころか、唯物論的な自我欲望のおもむくままに、やりたい放題なことばかりしていたら、世の中の悪い手本にしかならないからである。
ああして美しく生まれつくことができれば、あるいは、後天的に整形その他で、外見を美しく装えるようになれば、あんな身勝手で好き放題なことができる、これが容姿の整った、または、財力を持った人間の特権だと言わんばかりの見本を示してしまっている事例が間違いなくあるからだ。(*4)
仮に、容姿が恵まれるように生まれつかなくとも、財力が十分になくとも、俺(または私)は美男美女になんかに負けていられるか、このままでは我慢ならないと、美男美女ではなくとも、ヤリチンやヤリマンをたくさん作る誘因にもなるからな。
人間としてこの世に生まれた以上、身勝手好き放題にセックスをヤリまくるのが当たり前の権利だとも、誤解を招きかねないからだ。
逆に言うと、容姿や才能や財力に恵まれた男女が、人格が素晴らしく、高潔な人間だったらどうだろうか?
容姿や才能や財力に恵まれた男女ではなくとも、こうした要素に恵まれた人間は、かくあらねばならないという姿を見せられて、自らの我欲を抑制することになる効果(=抑止効果)が、それなりに出てくる、と考えられるのである(まあ、中には、美男美女が高潔に生きていても、そんなの知ったことか、俺(または私)は、欲望のままに突っ走るんだ、という男女もかなり出てくるのかもしれないが)。
こんな世の中に鑑みると。
世の中にあらわれてくる、病気、争い、貧乏、苦労などは、こうした欲望の権化になりがちな私達には、逆に、必要不可欠な薬なのではないか、とさえ思えてしまうのだ。
良薬は口に苦し、というように。
そうした薬がなければ、容姿や財力その他で、恵まれ過ぎるほど恵まれた男女は、やりたい放題な有り様を、糺(ただ)すことにはならない、と思われるからだ。
もちろん、生粋の美男美女に生まれついても、金持ちでも、過去世の因縁により、性格も素晴らしい人も、それなりにはいるだろう。
しかし、マスコミやネットなどをはじめとする、外部からの様々な悪影響で、人格の高潔さを保てなくなる人がかなりいると思われることも、また確かなのである。
不可抗力のイヤでも受けなければならない、病気、争い、貧乏、苦労などを味わわさせると、日頃の何気ない健康その他に、本当の有り難みを感じて、深い感謝がわいてくるようになるし、傲慢不遜で野放図なヤリチンやヤリマンみたいな生き方は自ずとできなくなってくるはずだからである。
このように考えてくると。
容姿、才能に恵まれ、人々のお手本となるべきはずの男女が、動物よろしく自らの自己顕示欲、自己実現欲の権化のようなことばかりしていたら、人類はちっとも進歩(=神様のみ心に適った肉体人間としての想いと行いをこの世にあらわすということ。神体をこの世の肉体人間にそのまま映し出したような肉体人間になる、ということ)しない、ということになってしまう。
もしも、五井昌久さんの言うように、肉体人間の本質が神様の分けられたお命である、すなわち、真善美と愛に悖らない神様であるならば、今生でそんな唯物論的な身勝手な生き方をしてしまったら、来世以降には甚大なペナルティが課せられる
(「容姿に秀でた美男・美女は他の容姿の劣る人々の良き見本となるべく、すなわち、他の人々の良き見本となるべく気高く清廉(もちろん、富んでいても想いと行いが清ければ良い。清貧?である必要はない。無理にでも清貧にしようとすれば、(過去世の因縁などにより)置かれた環境に反逆することとなり、却って神様のみ心に反することになってしまう。富んでいれば、富んでいるなりに、世の中に有用となる財の清い使い道がそれなりに必ずあるはずだからだ)に生きるべし」という神様からかけられた期待を盛大に裏切る意味を持つことになる(←神様のみ心に適うためには、「美しい容姿をそなえている者は、その人格や立ち居振舞いも、それに見合うように高潔でなければならない」と(神様から望まれると)考えられるため)
→容姿が普通か、それ以下の人に比べて、容姿がかなり秀でている分、課されるペナルティははるかに重くなる(←神様のみ心から外れまくったエゴのきわみのような生き方がひどければひどいほど、そのあるべき理想の高潔な生き方との落差が余計に激しくなり、身勝手でデタラメな生き方をすることそれ自体が、あたかも重罪を犯すような形となってしまうため)
→ゆえに(原則として来世以降に)「甚大なペナルティが課せられる)
と考えられるからである(もちろん、容姿に秀でた彼らや彼女らは、すべてがそうではないだろうが、この世の有り様からすると、輪廻転生を通してこうした経緯をたどる者がかなり多いのではないか、と考えられる)。
過去世の因縁が良く(=過去世における肉体人間としての生き方が、真善美と愛に悖らない神様のみ心に適うものであった、ということ)て、せっかく良い容姿や才能や境遇に生まれついたのに、今生でさんざんやりたい放題の自己中な生活をした挙げ句、来世以降にジェットコースターの急降下のようにポシャってしまい、再び、容姿や才能や境遇が芳しくなく、病気、争い、貧乏、苦労の絶えないように生まれついては、人類全体としては、ちっとも進歩しないことになってしまう、と考えられるからだ。(*5)
「人類の進歩?
そんなのクソくらえだ。
俺(または私)は自分(とそのごく近しい者の)今生さえ良ければ他のことはどうでもいいんだ」
という感想を抱く人が大半で、世の一般的な反応であるとは思うけどね。
だから、容姿や才能や財力を含めた境遇に、良く生まれついた人の責任は、本来ならとても重いはずなのだ。
責任重大なはずなのよ。
美しい容姿に恵まれ、才気に溢れ、財力を持つからこそ、それを神様のみ心に適うように活かさなければならない、ということなのだから。
すなわち、唯物論的な価値観に縛られ、身勝手に生きがちな私達の、この世の人としての本来あるべき、良き生き方のお手本を示さなければならないはずの人達なのよ。
彼らや彼女らは。
それにもかかわらず、なぜ、世の中には、転輪聖王のような人がいないのか?
それは、上記のような背景が考えられるからである(まあ、究極の根本原因は、神様がこの世を生きていく便宜上、必要不可欠なものとして肉体人間にそなえさせた「自己保存の本能」にある、と思うけどね)。
まあ、上記は主に性欲だけに的を絞って考えた訳だが、他の財産、土地、家、家財、車、その他時計やダイヤなどの宝飾品についても似たようなことが言える。
自らの支配欲や虚栄心のために、こうしたものに執着するのが、私達のありがちな姿であるからだ。
なぜ、私達は人として立派にならねばならないのか?
悟りを開くことだって、結局は、私達が肉体だけの動物のような肉体人間ではなく、あくまでも神様の分けられたお命を本質とする者である、すなわち、神様の子供であることを心身ともに感得することだから、人としてどうあるべきか、は神様とは何かによって決まることになる。
すなわち、私達肉体人間の本質が何か、であることに帰着する訳だ。
神様を「真善美と愛に悖らない存在」とすれば、肉体人間がどんなに他の動物と同じように思えて、自己保存の本能という排他的な特徴をそなえていても、霊なる人間=神様が本質である以上は、真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適うように生きなければならないのが、本来のあり方となるはずだからだ。
肉体人間が多数に分かれていれば、どんなに紆余曲折を経ようとも、どんなに時間がかかろうとも、人類の調和と安寧が果たされることが理想であり、完成形であるはずなのだ(←私が五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」が理に適っていると考える根本的な理由はこれ。私達肉体人間個々の想いと行いは、実は世の中や果ては宇宙のあり方にまで、影響を及ぼす、と考えると世界平和の祈りの影響は、目には見えないし、幽界を通して現界(この世)にあらわれてくるから、何らかの時間差はあるけれど、全宇宙を含めた生きとし生けるものの調和と安寧を祈る、崇高な祈り言葉だとまで考えることが可能だ)。
それを輪廻転生を通して、ようやく容姿や才能や財力などの各種の恵まれた境遇にめでたく生まれつくことができたのに、再度、肉体人間観に縛られ、自己中心の唯物論に縛られ、来世以降にジェットコースターばりの急降下転落ばかりしていたら、いつまでたっても同じことの繰り返しで、神様のみ心に適うような肉体人間になることはなかなか望めないことになってしまうではないか。
何だか、何書いてるのか、訳がわからなくなってきたな。
この辺でやめとこう。
あと。
私は、日本の宗教家の五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」を皆様におすすめしてきた手前、神様を「真善美と愛に悖らない存在」と考えるところから、ブログを書くに当たっては、その当然の帰結として、可能な限り、真っ正直にいかなければならない、としました( 197_信仰について2(はぐれ者) - おぶなより2 )。
とはいえ、あからさまには書かずに、行間を読んでもらおうと、文章内に含ませてある、言外のメッセージを織り込んであるものがそれなりにあるのも、また事実です(そのうちのいくつかはツイフェミさんに対するものです。他人様に対して、あからさまでわかりやすすぎる表現をして、不安を抱かせたり、恐怖を植えつけるのは嫌だったからです。例えば「219_ツイフェミさんへ」では、「有り体に言ってしまうと、・・・」としましたが、あれでもオブラートに包んだ言い方にしてあり、さらに具体的にわかりやすく思い描くことはできない表現になっている、ということです。あそこに書いた「きわめて好ましくないもの」の具体的な内容については、彼女(彼ら)達には想像力を働かせて考えてもらうしかありません。そういう書き方にしてあります)。
基本的には、全体にわたって、自分のできる範囲で、平易を旨としたわかりやすい、懇切丁寧な書き方をしてきたつもりです(実際に上手く書けたかどうかは別として)。
ですから、書いた文章の大半は、努めて具体的にわかりやすく、簡単に読めるようにと考えて、文章を書いてきたつもりです。
小中学生をはじめとして、誰にでも簡単に、スラスラと読めるように、と(文章がスッキリとせず、クドクドとした書き方になってしまった部分が多かったのは、私の力不足ゆえ、仕方がないことなのです。本当は、クドクドした部分を全部集約して、何の補足説明も要らない、()(カッコ)書きのない、簡にして要を尽くした明快な短文や一文でビシッと決めた文を書きたかったのですが、それはできなかったので)。
本来なら、ブログ全体にわたって、この姿勢を貫きたかったのですが、実は、少しではありますが、そうはしなかったものがある、ということです。
要は、みなまで言わなくても、わかって下さいよ、というメッセージを忍ばせた文章もいくつか書いている訳です。
ごく普通の文章読解力がある人なら、絶対にわかるはずだ、と思いながら。
それともうひとつは。
( おぶなより ) では、はてなさんの推奨に従って、できるかぎり訂正内容の表記をしてきましたが、 ( おぶなより2 ) では、冒頭の ( 001_はじめに2 - おぶなより2 ) でお断りをさせて頂いたように、訂正の表記はせずに、随時、加筆・訂正をしてきました。
場合によっては、記事の削除や順番の入れ替え、表題の訂正までしてきました(例えば、「194_易行道の真髄」を書き始めた当初の表題は「194_スイッチ」でした。それから何度も加筆・訂正をしているうちに表題も今現在( 2026 年 01 月 01 日)の形になっている訳です)。
だから、万が一、( おぶなより2 ) を複数回以上ご覧になったことのある方(いないでしょうけど)は、「あれ、何か前と感じが違うぞ」と感じられた方もおられるかもしれません。
これも、( おぶなより2 ) を書き始めるに当たっての ( 001_はじめに2 - おぶなより2 ) で、あらかじめお断りをしてあります。
以上の 2 点、すなわち、
①ブログの文章内には、みなまでハッキリとは言わずに、言外のメッセージを織り込んで忍ばせたものがあること
と
②文末の訂正表記をせずに、随時、個々の文章の加筆・訂正をしてきたことと、記事の文章そのものの削除や記事の文章の順番の入れ替え、さらには表題の訂正までをもしてきたこと、
を皆様にはお許しを頂きたいと思います。
お願い致します。
ついでに。
私が日本の宗教家の五井昌久さんが提唱した「世界平和の祈り」を皆様におすすめしてきたのは、あくまでも、自分の理性というか、理屈で、この祈りが理に適っていると思ったからです。
ですから、仏教やキリスト教などの既存の多数派の宗教を信奉する人達のように、五井先生といった形で、五井昌久さんの名前はそれなりに出しても、固執しすぎるようにはしないようにしてきたつもりです。
そんな訳で、五井昌久さんの著述の内容その他でも、自分の理性で判断して、どう考えてもおかしい、矛盾していると思ったことは、あえて取り上げています( ( 065_お断り - おぶなより ) など)。
( おぶなより ) では、( 065_お断り - おぶなより ) を書いた後も、この姿勢は変えなかったので、やはり、中村元さんをはじめとする、仏教の高名な方々の著書に対して、かなりのケチつけ道中のようになっています。
その意味では、曲がりなりにも、首尾一貫してはいるんですけどね。
まあ、それにしても。
五井昌久さんも、ある意味、ずるい(???)ともとれなくもないですね。
だって、理詰めで考えたら、世界人類の平和を、神様の分けられたお命を頂いている、すべての人の調和と安寧を願うことは、あまりにも隙がなさすぎるからです。
他の一般的な仏教やキリスト教などの既存の宗教(これは新参の新宗教にもよく見られます)を信奉する人の書籍やブログを見ていると、もう自分の宗教だけが唯一無二の絶対の権威で、自我(この場合は、いわゆるエゴですね)と一体化しているものが、かなり多いと感じられたからです(まあ、私達には、自己保存の本能があり、今生がすべてと思い込んでしまうから、こうなってしまうのもある程度仕方のないことなんですが。自分の崇める教祖や神仏だけを絶対視して、他人様にゴリ押しするという姿勢それ自体が、自分の自尊心やエゴと一体化していることに他ならない訳ですからね)。
五井昌久さんの場合は、権威を出そうにも何も、ありとあらゆるすべての人(もちろん、人種も老若男女も問わない)を、神様の命を頂いている者としてそれなりに尊重しなければならないのだから、純粋に理屈で考えたら、エゴも何もないからです。
突き詰めて考えれば、人類はみんなが神様、さらには、これを取り巻く、ありとあらゆるものが神様の化身、になるんですからね。
「世界平和の祈り」は、ただただ、神様(ただし、絶対者なる善なる神様と仮定します)とその命を吹き込まれた、直接そのお命を頂いている人類を含めて、それを取り巻く、ありとあらゆるものの調和と安寧を願う祈りなのですから。
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(*4)おそらく、肉体を持った人類が始まって、割合と早い段階から、こうした習性は連綿と続いてきたのではないだろうか。
現代までの間に。
そして、おそらくはこれからも続いていくことだろう。
本当に残念だけどね。
この世に生を受け、何度もの生まれ変わり、死に変わりを通して、
「人間とはこの肉体なんだ、
この五感に認識できる生物そのものが人間なんだ、
人間は動物と大差ないんだ」
という認識=肉体人間観が出来上がってしまい、肉体人間が神様の命が根底にあることを踏まえて、互いを尊重し、調和を旨とする認識(肉体人間が神様の分けられたお命=神様を本質とする以上、このように認識することがあるべき認識だと考えられる)が次第に薄れていってしまったのだろう。
実際、この地球上で、
「人間とは神様の命そのものだ」
と心身ともに、深く感得できている人は、0.01 % 、0.0001 %、いや、それよりさらに少ないというか、まずはいないだろう。
本来なら、人類みんなが神様の命を根底に踏まえた兄弟姉妹でなければならないはずのところが、
各々が神様の命が根底にあることを踏まえた霊なる人間であることを完全に忘れ果ててしまった、
各自が隔絶された個別動物のように認識されることで、
互いの利害が相反することの多い、ありとあらゆる面で、結果的には競争社会のようなあり方に行き着いてしまっている、
のだから。
こうした背景もあって、自分(と自分と近しい者)を守ることだけの利害得失にしか関心を抱かないようになってから、長い間、連綿として続いてきたこうした性的な悪因縁を、ほんのわずかながらも是正していくことができるのは、おそらく「世界平和の祈り」をおいて他にはないと考えている(私が ( 195_信仰について - おぶなより2 ) で「世界平和の祈り」が「社会の裏方のように思える、地道な下支えとなる役割」を果たすかのように書いたのはこうした意味合い。人類が誕生してからほどなくして、肉体人間観が定着するようになってから今までの間に、世の中に積もり積もった膨大な悪因縁の網の目を、少しずつ、少しずつ、溶かすように全体の調和に向けて、是正していく・整えていくことができるのは、「世界平和の祈り」しかないと考えているから。波動?で言うなら、「世界平和の祈り」は、長年にわたって蓄積されてきた人類の乱れ切った暗黒波動の堆積を、調和と安寧に向けて少しずつ、少しずつ、何気ない形で、黙って陰ながら地道に整えていくための波動調整の祈りだと考えることができる、ということ。巷によく見られる、批判や非難は、私達の想いを掻き乱すものであり、その本質が神様のみ心に適わないものであるがゆえに、そのほとんどが輪廻転生を通して世の中に悪い結果をもたらすものになるとしか考えられない以上、どんなに神様に不信感を抱き、どんなに神様を信じられなくなっても「世界平和の祈り」の実践に託すしかないと考えているから。どう見ても善とは思えない存在が栄え、ありとあらゆるところで不条理・不均衡きわまりないこの世を、陰ながら黙って下支えをしながら、ほんの少しずつでも、摩訶不思議な形で、時間をかけて良き方向に向かわせることができるのが「世界平和の祈り」の真髄だと思っているから。つまり、「世界平和の祈り」はこの世の崩落?(完全地獄化?)を防ぐための一種の黒子役?を果たしているとも考えられる訳で。ただし、その目指すべき心構えは、地道に裏方に徹するでもなく、もちろん、声高に叫ぶわけでもなく、ただただ、祈りたいから祈る、普段からの何気ない一挙手一投足のように、ごく当たり前に「世界平和の祈り」がわきだしてくることでしょうね。まあ、五欲をなるたけかなぐり捨てて、宗教的な黒子役に撤しましましょうよ、と言ったところかな。現在のネットをはじめとして、ありとあらゆるところで自己承認欲求が闊歩しまくる、騒がしい世の中とは無縁の境地でやっていきましょうや、という話。五井昌久さんに言わせれば、あらわれてくることの何もかもがみんな「消えてゆく姿」と言うかもしれないけれど、世の中にはそんな簡単な一言では割りきれない、あまりにもひどいことが多過ぎて仕方がないように思える。それでも、どんなに影響力が微細に思えても、「世界平和の祈り」だけは、とにかくするしかない。良いことはしないよりはした方が絶対に良いのだから)。
いつまでもボス猿よろしくこんなことばかりしていたら、動物とは一線を画した万物の霊長としての神様の映し身をとしての肉体人間の存在意義を示すことができないままになってしまうのにね。
だから、皆様には「世界平和の祈り」をして頂きたいのである。
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(*5)ここで考えている人類の進歩とは、肉体人間の本体の神様の映し身として、真善美と愛に悖らない人間、今流に言えば、健康、経済力、人との調和に富んでいる人間を目指すということ。
もちろん、肉体人間として為した、良き想いと行いは、神様のみ心に適うから、顔をはじめとした(主として来世以降の)容姿の良さにも反映されることになる。
逆に言うと、今生で他人様に対して、ブス、ゲソ、キモメン、KKO、ジジイ、ババア、BBA、などの蔑称を使う(=言う・書く)とその報いを(原則として)来世以降に受けなければならなくなる。
つまり、神様の子供としての同胞となる同じ肉体人間としての他人様を蔑称により著しく傷つけてしまうと、ただでは済まなくなってくる、ということだ(こうした蔑称を直接言われたり、あるいは、こうした蔑称を使った文章で傷つけられた人がいた場合には、ブス、ゲソ、キモメンその他の蔑称を用いて他人様を傷つけた加害側の人間には、その傷つけられた被害側の人に対しての購い・償いが、必然的に生じてくると考えられるため)。
どうしてこんなに厳しい仕組みになっているんだろう?とその理由を考えてみると。
やはり、私達肉体人間が、「真善美と愛に悖らない神様の命」を本質としている・根底にしているためなんでしょうね。
すなわち、
この世における、私達、個々の肉体人間という存在は、
どんなに自己保存の本能に縛られ、
どんなに唯物論に縛られ、
どんなに自己を中心とした利害得失計算に狂奔していたとしても、
本来的には(過去世の因縁を踏まえて与えられたありとあらゆる各々の環境の下で)神様という本質を体現しなければならない存在であるがゆえに、
互いを尊重して、調和を旨とする、気高い存在であるべきこととなり、
従って、こうした神様としてのあるべき本質を外した、肉体人間としての想いと行いそれ自体が、本来的には許されないものとなってしまうから
なのでしょうね。
そう考えないと、厳しい報いがくることの説明がつかないからです。
どんなに、私達自身が、上記のような罪悪深重の凡夫のように思えても、その本質が神様(仏教的に言えば仏様。まあ、わざわざ分ける必要もない。同じなんだから、神仏で一緒)である以上は、輪廻転生を通して、どんな経緯をたどり、どんな紆余曲折を経ようとも、必ず、その神様としての本質に立ち返らなければならない・元帰りしていかなければならない、ということなんでしょうね。
まあ、簡単に言ってしまうと、私達が生きている、否、他動的に生かされている、根本が、源が、神様の命にあるからこのような仕組みになっているのだ、と。
悪い言い方になってしまうかもしれないが。
肉体人間が、どんなにエゴのかたまりのような動物(=自己中動物。古の言い方なら罪悪深重の凡夫)のように思えても、その本質が霊なる人間=神様である以上は、このくびきを外すことはできないのだ、と。