238_ご挨拶

 ( おぶなより ) と ( おぶなより2 ) では、いつも雑文のような感じで、感想文(たまには自分の体験談)などを書いているので、これといって特段、改まって書くこともないが、とりあえず、感謝を記しておきたい。(*1)

私は、上記 2 つのブログで、日本の宗教家五井昌久さんの著書の読書などから得た知識と理解を元に、彼の提唱した「世界平和の祈り」(以下、単に「世界平和の祈り」と略す)を中心にして、誰にでもわかりやすく平易に、大人から小中学生の子供までが理解ができるように、と独自の理解にもとづいた見地から、霊性や輪廻転生などについて記してきた。(*2)

いわば、五井昌久さんの著書を基本にして、自分なりの五井昌久さんの著書に書かれている内容に対する理解を、老若男女を問わず、誰にでもわかりやすい形で、とっつきやすいようにと、自分なりの、やさしい言葉と、やさしい理屈の展開で書き記してきたのが、( ( おぶなより ) と ( おぶなより2 ) ) な訳です。

従って、五井昌久さんの著書の言葉をそっくりそのまま丸写しすることは(中でも、この ( おぶなより2 ) では)徹底的に避けて、とにかくわかりやすく、平易に、と私独自の解釈により、五井昌久さんの文章や考えを敷衍または拡大解釈などをした上で、表現し直したものを記してきた(ただし、漢字の読み仮名についてはその大部分を撤廃してしまったが。小中学生の皆さんには厳しいかもしれないが、読み方がわからない漢字は、ネットやパソコンに頼らずに、あえて手間隙をかけ、漢字辞典を引いて調べるようにして欲しい。漢和辞典を引くのが理想ではあるが、私のような平易な文章なら漢字辞典だけで十分に事足りるはずだ。教養が深まってきたら漢和辞典に移行すればいい)。

なぜ、このようにやさしく敷衍するような書き方をするのかの理由を一つ例を挙げると。

最近の五井昌久さんのユーチューブの音声データで知ったのだが、五井さんは、彼の教義である「人間と真実の生き方」さえ読んでもらえば、うちの宗教(五井昌久さんご存命当時の白光真宏会)はわかる、というように話されているものがあったが、私にはとてもそうは思えなかったためだ。

唯物論者の人はもちろん、多少は霊的なことをかじった人でも、一読しただけで、あの内容を理解・納得できるとは、到底思えなかったからだ( 195_信仰について - おぶなより2 )。

そもそも、霊的なことについては、様々な人が、様々なことを主張する、百家争鳴のような状況であり、しかも、その内容表現がお世辞にもわかりやすいとは思えないものがたくさんあったからだ(ちなみに、五井昌久さんの宗教は新宗教の大本の系譜にある)。

主義主張がたくさんにわかれているだけではなく、その表現が(こう言っては申し訳ないが)、とてもではないがわかりやすいとは言えないものばかりだったからである。

簡単に言うと、内容を説明する言葉それ自体が圧倒的に足りない(言葉足らず、説明不足の例としては、( 529_仏言葉ー063 ー 神様の世界は厳しい - おぶなより ) などに書いた)ために、内容を確定させて理解することができない文章や、唯物論と唯心論をごっちゃにしてあるような表現をしている文章がきわめて多いと感じられ、もどかしい思いをさせられることが多かったのである(無論、私の読解力不足や理解力不足のせいもあるから仕方がない側面もあるが、それにしてもわかりにくい、と感じる文章が多かったのでね。内容や文章表現の水準を無理をしてでも落とせとは言わないが、もう少し読む人の立場に寄り添って理解させることを第一義としたような文章を書いて欲しいと感じさせられることが多かったんですよ)。

そもそも、霊的なことや輪廻転生などの魂的なことは、世にたくさんいらっしゃるガチガチの唯物論者の人達にとっては、どんなに言葉を尽くしても、理解・納得してもらうのは至難の技としか思えないのである(誰しもの意識の深層には神意識があるから、その人その人の過去世の因縁によってはそれなりに理解・納得する度合いはそれなりにあるにしても。五井昌久さんの教義の「人間と真実の生き方」についても同様だとは思うが、やはり、彼のあの書き方は、肉体人間観が強固に染み付いてしまっている一般的な私達には、理解・納得するには敷居が高過ぎると思うのだ。「人間は本来、神の分霊(わけみたま)であって、・・・」とのっけから生涯をかけて感得できるかどうかさえもわからないほどの大命題を、いきなりドーンとかましてしまっているから・・・。もしも、生涯をかけて肉体人間観を完璧に払拭することができて、肉体人間とは、神様の命そのものだ、肉体人間の(神様のお命を分け与えられているから)本質は神なのだ、と心身ともに深く感得することができれば、かなり悟りに近づいたことになるのではなかろうか)。

やはり、幽霊(映像だけでなく音も含む)でも、UFO でも、輪廻転生でも、唯物論者の人達にとって、超常現象となるものについては、彼ら自らが実感をもって身体の芯から体験しなければ、理解・納得することはきわめて難しいからだ。

だから、こうした超常現象の体験(うすぼんやりとした体験?では効き目は薄い。「あれは間違いなく幻覚ではない」というくらいの強烈な超常現象の体験をしないと信じるのは難しいと思う)をまったくすることができずに、ガチガチの唯物論に染め上げられてしまっている人達には、納得させることは無理にしても、できる限りの誠意をもって言葉を尽くして話をするのが、最低限の理解をしてもらう方法としてあるべき形だと思うのである(あとは、世界平和の祈りをして、唯物論者の人達の過去世の因縁のありようと彼らの守護霊様と守護神様のおはからいにおまかせするしかない)。

五井昌久さんの話は、般若心経や生長の家の話を唯物論者にもわかるようにかなり手前に引いた言い方や書き方になっているとは思うが、それでもまだまだ言葉を尽くす余地があると思ったからだ。

少なくとも、他の宗教にありがちな、天上天下唯我独尊、俺様の文章を読め、動画を視よ、といった高みからものを言い、理解できない者は捨て置け、というガチガチの唯物論者の人達を突き放したような態度ではダメだと思うのである。

だから、私は、「世界平和の祈り」だけでも、何とか理解してもらいたくて、少しでもわかりやすく、と平易を旨とした文章を書いてきた。

そんな次第だから、権威主義に固執する傾向のある人や、頭がガチガチに固い人は、端っから私のことをバカにして、内容を読み込む前に、
「こんな安っぽい、ペラペラな文章なんか読めるか!」
と門前払いをした人も相当数いたのではないかと思われる。

例えば、仮に「世界平和の祈り」などの語句の検索で、私のブログにたどり着いたとしても、
「何だ、この簡単でやさしすぎる、安っぽい文章は!!」
と、読むのをすぐにやめて、ブラウザバックをしてしまった人が、かなりいたのではないか、と考えられるのだ。(*3)

在野のたった一人の、何の権威もない素人が書いた、小中学生にも簡単にスラスラと読める文章なんか、読む気が起こらない、読み応えがない、読むに値しない、と。

まあ、それでも、「世界平和の祈り」関連の検索で私のブログにたどり着いた数少ない人々の中には、そのたどり着いた記事を文末近くまで、そこそこ読んだ人もある程度はいたのではないか、とは思っている。

特に、( おぶなより2 ) の現在の注目記事(アクセス上位の 5 記事と思われる)や、かつての注目記事は、ブログの記事としては、どれもそこそこの長文が上がっている(いた)からだ(そのようやに考えてくると、( おぶなより ) の ( 131_流行 - おぶなより ) の簡素で短い文章が注目記事に入っている( 2026 年 01 月 01 日現在)理由が私には理解できないのだが)。

いくら文章が平易でも、あれらのそこそこの長文を読むには、やはり「世界平和の祈り」それ自体に深い関心と興味がないと、文末まで辛抱強く読み通すことはできない、と考えられるためだ(中途で文章を読むのをやめて離れた方がそれなりにいたとしても、その中途まで読んだ動機は同じと考えられる)。

どんなにとるに足らない、在野のどこの馬の骨ともわからない人間が書いた文章だとしても、とにかく、「世界平和の祈り」に関する理解を少しでも深めたい、もしかしたら何らかの「世界平和の祈り」の理解を深めるための参考になる内容が書かれているかもしれない、と考えて辛抱強く読んで頂けたのではないか、と考えられるからだ。

つまり、五井昌久さんや、彼の提唱した「世界平和の祈り」に、何らかの形で過去世の因縁をもった人達が、それなりに興味を抱いて読んでくれたんだろうな、と考えられる訳。

本当は、こうした過去世の因縁のない他の多くの人達にも、「世界平和の祈り」を知ってもらい、平素から「世界平和の祈り」の実践をしてもらいたいところだが、「世界平和の祈り」一念の信仰をしている人それ自体が、宗教界やスピリチュアル界といった精神世界全体からみると、細流の細流?となってしまっているところ(←あくまでも私の独断と偏見による勝手な分析なのでお許し頂きたい)からしても、これからの普及もかなり難しそうだ。

本当に残念なことなんだけどね。

だから、「世界平和の祈り」を実践されている数少ない(と思われる)同士の皆様には、祈りの効果や功徳が、どのような形でこの世に具体的にあらわれてくるかの如何にかかわりなく、「世界平和の祈り」は、全宇宙をも含めた、ありとあらゆるものの調和と安寧を願う祈りだから、この世の因縁因果のあらわれに何らかの形で良いものをもたらすことだけは絶対に間違いない(=この世のあらわれの元となる人類の想いの世界である幽界に、良い種を蒔くことだけは絶対に間違いない)、と信じて、「世界平和の祈り」をひたすらに続けて頂きたいのである。

もちろん、神様のみ心がこの世にあらわれますように、すなわち、神界が現界であるこの世に映し出されますように、というのが理想ではあるし、究極の目指すべき形ではあるけれど、あまりにも、この到達目標が理想としては高過ぎて、実現は難しく思えて仕方がないので、とにかく、ほんのわずかでも、この形を目指していくために役立つ祈りを、地味でも何でも、ひたすら続けていくしかない、と考えられるのでね。

他方、体験談の方は、いわば雑談のようなもので、私がネットを探し回っても、ほとんど見つけることができなかった(私の検索の仕方があまりにも下手過ぎたせいなのかもしれないが)自分と同じ境遇?にあると思われる男性に特有の体験談を、私独自の体験ではあるが、一つの情報として記しておくつもりで書いてきた( ( 060_話01(体験記) - おぶなより2 )・( 083_一雫 - おぶなより2 ) )。

そんな訳で、2020 年の 4 月からブログを始めたから、もう 5 年以上になるが、とりあえず読んで頂いた方には、一言お礼を言いたいので、ここに記します。

ありがとうございます。

あと、私のブログを存在させて下さっているはてなさんにもお礼を言いたいと思います。

ありがとうございます。

まあ、つまるところは、年頭にあたって、私のブログ(特に ( おぶなより2 ) を読んで下さった方と、ブログに籍を置かせて頂いているはてなさんに感謝をしたかったという次第です(なお、(  おぶなより ) は、今現在、個人的な都合により、更新をしていません) 。

それと。

一見(いちげん)さん( 1 回ブログにアクセスしただけで、今生では未来永劫縁のない人達の意(として勝手に使わせてもらう))も、一部か全部かわからないけど、ブログを読んで頂き、ありがとうございました。

一見さんは、もう二度と私のブログを見ることはないだろうけど、とりあえず感謝だけは勝手に記しておきたいのでね。

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(*1) ( おぶなより ) では、中村元さんや佐々木閑さんや S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老さん)やひろさちやさんの著作を下敷きにして、法句経(ダンマパダ)など、仏教の入門の入門??のような内容について書いてきたが、これも五井昌久さんの著作から得た知識や考え方がなければ、到底書くことはできなかった。

五井昌久さんの著作から得た宗教のものの見方や考え方を、敷衍して、拡大解釈などをした(=応用した)上で、仏教の入門的な内容(主に「法句経(ダンマパダ)」など)について、宗教の素人の一般人から見た、素朴に感じた疑問や感想などを、努めて平易に書いてきたつもり。

元々は、一般に言われている般若心経と般若経との関係性に疑問を抱き(この罪滅ぼしのつもりで大蔵経の第一巻を買った( 137_贖罪 - おぶなより ) )、これを調べようと思ったのだが、大蔵経などの仏教の経典があまりにも大部で手に負えないと感じて、とりあえず、仏教の入門的な考え方や知識からお釈迦さんのお考えの基本を探ろうと、中村元さんの著書の「原始仏典」(ちくま学芸文庫)や法句経(ダンマパダ)などを中心に見てきたのが始まりだった。

それ以外の ( おぶなより ) の文章は、私的なものです。

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(*2)ここに取り上げている「世界平和の祈り」は、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)が提唱された「世界平和の祈り」のことです。

この「世界平和の祈り」の具体的な祈り言葉一式は以下の通りです。

~ 世界平和の祈り ~

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様(しゅごじんさま)ありがとうございます

なお、この祈りは、仕事や家事の合間でも、生活必須時間以外はいつどんな時にしてもよく、この祈り言以外は、特に形式ばったところはありません。

無論、声に出さなくても、心の中で唱えても良いそうです。

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(*3)文章中にトートロジー(同義反復)となるカッコ書きの部分がかなり多いから、煩瑣に見える部分もあるかもしれないが、少しでも内容をわかりやすく、読む人の理解をぶれにくくするために念を入れる意味で書き加えてあるものなのでご了承を頂きたい。

まあ、ペラペラで安っぽいという意味では、一般的に宗教について書かれている文章によく見られるような高揚感やおすまし感や気取り感がまったくないので、取っつきやすく読みやすいはずだとは思っているのだが。

私は、自分の勉強不足・研究不足ということもあるが、とにかく内容をわかりやすく、早く伝達することが一番だと思っているので、自分が他人様の書籍やブログの読解で散々苦労してきたこともあって、既存の宗教にごく当たり前のようにある、いかめしい理屈や難解な用語( (例) 機法一体)を徹底的に避けて、さらには、こうした文章にありがちな余計な高揚感や気取ったおすまし感をなくした、努めてわかりやすい文章を書くように心がけた。

なぜならば、宗教は、実践してなんぼ、自分で体現しないと価値がないと思っているからだ(厳しいかもしれないが)。

要は、権威づけや自己陶酔のための余分な装飾の一切(ごめんなさい)を徹底的に削ぎ落として、実践のための内容の理解に特化した文章を書くことに注力した訳です。

どんなに稚拙に見えようとも、どんなに泥臭く見えようとも、どんなにカッコ悪く見えようとも、できる限り、わかりやすく、なおかつ、早く内容を理解してもらうための文章を書くことが第一、と考えていたからです。

また、一般的な宗教に関する書物では、言葉を濁してあからさまに書かれることがめったにない、性的なことについても、内容の理解のために必要と思えば、具体的な描写を含めて躊躇なく書いてきました( ( 065_お断り - おぶなより ) の (*3) 他。下記の (追記2) に記したヤリチンな男達の話も同様)。

普通の宗教書(仏教の真言立川流関連の話は除く)やブログなどでは、お上品なことが多く、こうしたことは、具体的に扱われることがありません(少なくとも私の限られた読書範囲内ではそうだった)。

下記の (追記2) に記すような、性的なことに対する人としてのあり方が、宗教に深いかかわりを持つ(=肉体人間としての想いと行いが、神様のみ心に適うか否かは、宗教の問題となる)以上、性的な行動(特に男女の愛情の交歓と種の保存に直結するセックスの問題)を漠然とさせたままで具体的にわかりやすく扱わないのは不自然で不完全だと思います。

性的なことを何かと避けているような段階(=結果的に性的なことを動物と同列に扱うことになる段階)は、そろそろ卒業すべきなのではないでしょうか。

とは言うものの、神様が性的なことをどのように扱うべきとお考えになっているのかは、正直なところまったくわからない。

私は、神様に特別なご縁はないし、これといった霊感もないし、霊的な体験も数えるくらいしかないからだ。

けれど、そんな特別な能力がない私でさえ、ごく普通に考えただけでも、セックスが相思相愛の男女の愛情の交歓と人類の種の保存として、尊く気高いものとして昇華される(=貞操がごく当たり前なものとして、自然に尊ばれる)までに、霊性が開発されなければダメだと思うので。

神様が、人類の種の保存を、無性生殖ではない有性生殖の形としてお選びになっている以上、愛情の交歓と種の保存としてのセックスが、やましいものだとか、陰にコソコソと隠すべきものだとか、といった有り様や、快楽一辺倒ならなんでもいい、快楽さえ得られれば、相手は誰でもかまわない、といった有り様、さらには、人間以外の他の動物のあり方を人間にそのまま援用して、結果的に同列扱いをしているような有り様では、人類としての霊性の開発が、まだまだ未熟でいたらない段階だと考えます。

肉体人間のセックスが、動物のそれとは明確に一線を画す、崇高な意味合いを持つからこそ、大切に扱わなければならない→貞操が重い意味を持つことになる、と考えられるからです。

性的にかなり乱れた現状だってかまわないじゃないか、とか、肉体人間以外の動物のセックスの有り様を、いつまでも肉体人間に援用して、ごく当たり前のような認識でいる限りは、人類としての霊性の進歩はまだまだおぼつかない段階にあるとしか思えないからです。

仮に、神様のみ心がこの世にあらわれることが、地上天国化の成就だとすれば、こうした地上天国では、権力や地位や金や容姿その他の魅力さえあれば、ボス猿のような一極集中的なモテが当たり前にある状態や、浮気、不倫、その他、乱れた性的な現代的な社会の有り様は、許されないことは当然だし、そもそも、こんな乱れ切った性的な男女の社会の有り様は一切なくなる、と考えられるからです。

神様のお命を直接に頂いているという万物の霊長としての存在価値を示すためには、動物的な本能むき出しのあり方を超克しなければならない、と考えられるからです。

ボス猿のような男性のあり方とこれを取り巻く女性達のあり方、浮気や不倫の横行、果ては托卵など、こんな性的に不均衡で乱れた有り様が当たり前になっているような世の中が、神様のみ心があらわれた世界であるはずがないからです(まあ、それにもかかわらず、ボス猿のような男女のあり方や浮気や不倫や托卵が当たり前だと言うのなら、そもそもこれは宗教以前の問題でしょうがよ。こんなことを当たり前だとか、やむを得ない有り様だとか、なんて言うのは、私には宗教以前の問題だとしか思えないね。あるいは、宗教における神様の存在が、すなわち、私達の命の根幹をなす神様の存在が「真善美と愛に悖らない完全円満」なものではない、「きわめて即物的で唯物論的な身勝手な存在」だとしか考えられないよ。とにかく、溜まりに溜まっている過去世の悪い因縁があるから、今すぐにこれらをなくすことはできないので、「世界平和の祈り」をすることによって、少しずつ、少しずつ、こうした悪因縁を、根気強く、収斂に向かわせるように地道な努力(=「世界平和の祈り」をするしかないでしょうね。相思相愛の男女が自然に惹きつけ合って、感謝し合いながら人生をまっとうしていくような形が、ごく当たり前のように、ありとあらゆるところで見られるように、人類全体の霊性が開発されるまで努力をしていくことですね)を積み重ねていくしかない。

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(追記1)
ちなみに。

( 211_ハンドルネーム - おぶなより ) に書きましたが、ブログ名の「おぶなより」の「おぶな」は、アニメのドラゴンボール Z に登場するキャラクターの、伝説のサイヤ人「ブロリー」からとってつけた名前です。

お ← 俺は
ぶ ← ブロリーに
な ← なりたい

で、「おぶな」、とした訳です。

で、こうした「おぶな」の発信するブログなので、「おぶなより」としてあります。

幼少時から小心者で気が弱く、ビクビク癖を持ち、運動オンチだった(一部、それなりに上手くできるものもあったが、基本的には短距離が遅く、反射神経が鈍かった)が、見かけだけは、そうでもなさそうに見えるらしい。特に若い頃は背が高めなせいもあってか、短髪にするとスポーツマンというか運動ができそうに勘違いされることがよくあった。よくよくオーラというか雰囲気を観察すればそうは思えないはずなのだが。だから、そのギャップの大きさが自分では余計に嫌だった)の私は、甘さがまったくなく、あのような野性味溢れるブロリーに憧れたからです(後の設定では、元々は穏やかな性格と変えられてしまったが。やはり、ブロリーの真骨頂は、初出の劇場版にあると思う)。

そんな訳で、「おぶな」という名称は、戦国武将の「織田信長」さんからとったものではありません(そもそも私はあの人大嫌いですから)。

ここの ( おぶなより2 ) は、 ( おぶなより ) で、いろいろ言いづらかったり、書きにくかった内容を、さらに気を遣わずに勝手気ままに書かせて頂く、第二のブログということで、「おぶなより2」とした次第です。

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(追記2)
前に引き寄せのことを少し書いたことがあったが、私は、世界平和の祈りと引き寄せの理解の折り合いと言うか、攻めぎ合い?をまだつけずにいる(まあ、時間軸の考え方も含め、ある程度考え方の違いはわかっているつもりではいるのだが、あまりはっきりとは書きたくない)。

正直に言うと。

五井昌久さんの教えの

「過去世の因縁大半説(?)(と私は勝手に解釈している)」

は、今を生きる人、特に直近の未来を変えたい人にとっては、かなりの

「精神的な障壁(今流に言えば、いわゆる、ブロック)」

になってしまう可能性があるからだ。

確かに、生得的な容姿や才能、そして境遇の原因は、過去世にしか求めようがないのかもしれない。

しかし、どのような生得的な容姿や才能、そして境遇であろうとも、

「こんなのはどう考えてもおかしい、甘受などできるものか!」

と思えば、今からこの運命を、自力で少しでも変えるようにしたいと考えるのも、また、普通の人情として、ごく自然に納得のできる話だからだ。

だって、いくら何でも

「(今生、今あるすべては過去世での生き方を含めた)あなた自身の責任なのよ」

と言われたって、過去世の記憶はない人が大半なんだし、

「冗談じゃない、そんなの知ったこっちゃねえよ」

というのが唯物論的な普通の考え方だと思うからだ。

ましてや、自分よりも容姿や才能、そして境遇ではるかに恵まれている人達が、転輪聖王や人格者であり、人としてより良く生きるお手本となっている世の中ならばともかく(=つまり、今生で容姿や才能や境遇によく生まれついている人は、過去世においてそのように生まれつくだけの神様のみ心に適ったよき想いと行いの実績や蓄積がある背景を持った人だということ。ああ、あの人は過去世で、さぞやよいことの積み重ねが多かったから、あんな素晴らしく生まれつくことができたんだな、と解釈できる訳)、(それにもかかわらず、こうした恵まれた生まれつきの男女に見られる)自己承認欲求や自己顕示欲が闊歩する、そうではない人がかなりいると思われる(容姿や才能や財力のある男女をもてはやし過ぎるマスコミやネットのせいかもしれないが)現状では、こんなことを信じたくなくなるのも無理はないからだ。

またまた、下品な例え話になってしまい、申し訳ないのだが。

例えば、容姿が眉目秀麗に生まれついた、そこそこ背が高くてカッコいい、さらには仕事までができる男性がいたとする。

そんな彼が、女なんて誰でも寄ってくる、俺は入れ食い状態なんだよと、何股も平気でするようなヤリチンだったらどうだろうか?

容姿が良ければ、仕事ができれば(≒財力があれば)、何をしたって構わない、という人間としての見本を世の中に示していることになりはしないか。

世の中なんて、力さえあれば、何でも自己中のほしいままにしていいんだ、と。

容姿が良かったり、仕事ができたり、金があったりで、こうしたことをするヤリチンが、実際に世の中に多数存在してきた( & いる)(しかも、格別に容姿などが良くなくても、ヤリチンになる男達がそれなりにいる。しかも、お相手となる女性達も自らの保身や虚栄心などのためからとはいえ、これを当然のこととして受け入れてきた( & いる)。つまり、世の身勝手な男達だけが悪いのではなくて、これを当然のように受け入れてきた( & いる)(男からの強引で悪質な性加害を除いて、被害を被ったようには書かない。全部ではないにしろ、容姿に優れているヤリチン、才気に溢れているヤリチン、財力を持っているヤリチン、さらにはこうしたものに恵まれなくとも性欲の権化のようなヤリチンといった男達をそれなりにやすやすと受け入れてきた)世の多くの女達にも重大な責任があると言わざるを得ない←ハートカフェやパウラちゃんねるの世の女性達に対する強い怨嗟と深い哀しみが裏読みできるような、世の婚活女性や一般女性をこきおろしている男性達のコメントを見ると、こう感じざるを得なかった)から、世の中はこんなどうしようもないくらいに霊性の低い状態になっているのではないのか。

せっかく数少ないであろう、眉目秀麗な男性や、容姿端麗な女性に生まれついても、人格の高潔な世の中の良き男女のあり方を見せるどころか、唯物論的な自我欲望のおもむくままに、やりたい放題なことばかりしていたら、世の中の悪い手本にしかならないからである。

ああして美しく生まれつくことができれば、あるいは、後天的に整形その他で、外見を美しく装えるようになれば、あんな身勝手で好き放題なことができる、これが容姿の整った、または、財力を持った人間の特権だと言わんばかりの見本を示してしまっている事例が間違いなくあるからだ。(*4)

仮に、容姿が恵まれるように生まれつかなくとも、財力が十分になくとも、俺(または私)は美男美女になんかに負けていられるか、このままでは我慢ならないと、美男美女ではなくとも、ヤリチンやヤリマンをたくさん作る誘因にもなるからな。

人間としてこの世に生まれた以上、身勝手好き放題にセックスをヤリまくるのが当たり前の権利だとも、誤解を招きかねないからだ。

逆に言うと、容姿や才能や財力に恵まれた男女が、人格が素晴らしく、高潔な人間だったらどうだろうか?

容姿や才能や財力に恵まれた男女ではなくとも、こうした要素に恵まれた人間は、かくあらねばならないという姿を見せられて、自らの我欲を抑制することになる効果(=抑止効果)が、それなりに出てくる、と考えられるのである(まあ、中には、美男美女が高潔に生きていても、そんなの知ったことか、俺(または私)は、欲望のままに突っ走るんだ、という男女もかなり出てくるのかもしれないが)。

こんな世の中に鑑みると。

世の中にあらわれてくる、病気、争い、貧乏、苦労などは、こうした欲望の権化になりがちな私達には、逆に、必要不可欠な薬なのではないか、とさえ思えてしまうのだ。

良薬は口に苦し、というように。

そうした薬がなければ、容姿や財力その他で、恵まれ過ぎるほど恵まれた男女は、やりたい放題な有り様を、糺(ただ)すことにはならない、と思われるからだ。

もちろん、生粋の美男美女に生まれついても、金持ちでも、過去世の因縁により、性格も素晴らしい人も、それなりにはいるだろう。

しかし、マスコミやネットなどをはじめとする、外部からの様々な悪影響で、人格の高潔さを保てなくなる人がかなりいると思われることも、また確かなのである。

不可抗力のイヤでも受けなければならない、病気、争い、貧乏、苦労などを味わわさせると、日頃の何気ない健康その他に、本当の有り難みを感じて、深い感謝がわいてくるようになるし、傲慢不遜で野放図なヤリチンやヤリマンみたいな生き方は自ずとできなくなってくるはずだからである。

このように考えてくると。

容姿、才能に恵まれ、人々のお手本となるべきはずの男女が、動物よろしく自らの自己顕示欲、自己実現欲の権化のようなことばかりしていたら、人類はちっとも進歩(=神様のみ心に適った肉体人間としての想いと行いをこの世にあらわすということ。神体をこの世の肉体人間にそのまま映し出したような肉体人間になる、ということ)しない、ということになってしまう。

もしも、五井昌久さんの言うように、肉体人間の本質が神様の分けられたお命である、すなわち、真善美と愛に悖らない神様であるならば、今生でそんな唯物論的な身勝手な生き方をしてしまったら、来世以降には甚大なペナルティが課せられる

(「容姿に秀でた美男・美女は他の容姿の劣る人々の良き見本となるべく、すなわち、他の人々の良き見本となるべく気高く清廉(もちろん、富んでいても想いと行いが清ければ良い。清貧?である必要はない。無理にでも清貧にしようとすれば、(過去世の因縁などにより)置かれた環境に反逆することとなり、却って神様のみ心に反することになってしまう。富んでいれば、富んでいるなりに、世の中に有用となる財の清い使い道がそれなりに必ずあるはずだからだ)に生きるべし」という神様からかけられた期待を盛大に裏切る意味を持つことになる(←神様のみ心に適うためには、「美しい容姿をそなえている者は、その人格や立ち居振舞いも、それに見合うように高潔でなければならない」と(神様から望まれると)考えられるため)

→容姿が普通か、それ以下の人に比べて、容姿がかなり秀でている分、課されるペナルティははるかに重くなる(←神様のみ心から外れまくったエゴのきわみのような生き方がひどければひどいほど、そのあるべき理想の高潔な生き方との落差が余計に激しくなり、身勝手でデタラメな生き方をすることそれ自体が、あたかも重罪を犯すような形となってしまうため)

→ゆえに(原則として来世以降に)「甚大なペナルティが課せられる)

と考えられるからである(もちろん、容姿に秀でた彼らや彼女らは、すべてがそうではないだろうが、この世の有り様からすると、輪廻転生を通してこうした経緯をたどる者がかなり多いのではないか、と考えられる)。

過去世の因縁が良く(=過去世における肉体人間としての生き方が、真善美と愛に悖らない神様のみ心に適うものであった、ということ)て、せっかく良い容姿や才能や境遇に生まれついたのに、今生でさんざんやりたい放題の自己中な生活をした挙げ句、来世以降にジェットコースターの急降下のようにポシャってしまい、再び、容姿や才能や境遇が芳しくなく、病気、争い、貧乏、苦労の絶えないように生まれついては、人類全体としては、ちっとも進歩しないことになってしまう、と考えられるからだ。(*5)

「人類の進歩?

そんなのクソくらえだ。

俺(または私)は自分(とそのごく近しい者の)今生さえ良ければ他のことはどうでもいいんだ」

という感想を抱く人が大半で、世の一般的な反応であるとは思うけどね。

だから、容姿や才能や財力を含めた境遇に、良く生まれついた人の責任は、本来ならとても重いはずなのだ。

責任重大なはずなのよ。

美しい容姿に恵まれ、才気に溢れ、財力を持つからこそ、それを神様のみ心に適うように活かさなければならない、ということなのだから。

すなわち、唯物論的な価値観に縛られ、身勝手に生きがちな私達の、この世の人としての本来あるべき、良き生き方のお手本を示さなければならないはずの人達なのよ。

彼らや彼女らは。

それにもかかわらず、なぜ、世の中には、転輪聖王のような人がいないのか?

それは、上記のような背景が考えられるからである(まあ、究極の根本原因は、神様がこの世を生きていく便宜上、必要不可欠なものとして肉体人間にそなえさせた「自己保存の本能」にある、と思うけどね)。

まあ、上記は主に性欲だけに的を絞って考えた訳だが、他の財産、土地、家、家財、車、その他時計やダイヤなどの宝飾品についても似たようなことが言える。

自らの支配欲や虚栄心のために、こうしたものに執着するのが、私達のありがちな姿であるからだ。

なぜ、私達は人として立派にならねばならないのか?

悟りを開くことだって、結局は、私達が肉体だけの動物のような肉体人間ではなく、あくまでも神様の分けられたお命を本質とする者である、すなわち、神様の子供であることを心身ともに感得することだから、人としてどうあるべきか、は神様とは何かによって決まることになる。

すなわち、私達肉体人間の本質が何か、であることに帰着する訳だ。

神様を「真善美と愛に悖らない存在」とすれば、肉体人間がどんなに他の動物と同じように思えて、自己保存の本能という排他的な特徴をそなえていても、霊なる人間=神様が本質である以上は、真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適うように生きなければならないのが、本来のあり方となるはずだからだ。

肉体人間が多数に分かれていれば、どんなに紆余曲折を経ようとも、どんなに時間がかかろうとも、人類の調和と安寧が果たされることが理想であり、完成形であるはずなのだ(←私が五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」が理に適っていると考える根本的な理由はこれ。私達肉体人間個々の想いと行いは、実は世の中や果ては宇宙のあり方にまで、影響を及ぼす、と考えると世界平和の祈りの影響は、目には見えないし、幽界を通して現界(この世)にあらわれてくるから、何らかの時間差はあるけれど、全宇宙を含めた生きとし生けるものの調和と安寧を祈る、崇高な祈り言葉だとまで考えることが可能だ)。

それを輪廻転生を通して、ようやく容姿や才能や財力などの各種の恵まれた境遇にめでたく生まれつくことができたのに、再度、肉体人間観に縛られ、自己中心の唯物論に縛られ、来世以降にジェットコースターばりの急降下転落ばかりしていたら、いつまでたっても同じことの繰り返しで、神様のみ心に適うような肉体人間になることはなかなか望めないことになってしまうではないか。

何だか、何書いてるのか、訳がわからなくなってきたな。

この辺でやめとこう。

あと。

私は、日本の宗教家の五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」を皆様におすすめしてきた手前、神様を「真善美と愛に悖らない存在」と考えるところから、ブログを書くに当たっては、その当然の帰結として、可能な限り、真っ正直にいかなければならない、としました( 197_信仰について2(はぐれ者) - おぶなより2 )。

とはいえ、あからさまには書かずに、行間を読んでもらおうと、文章内に含ませてある、言外のメッセージを織り込んであるものがそれなりにあるのも、また事実です(そのうちのいくつかはツイフェミさんに対するものです。他人様に対して、あからさまでわかりやすすぎる表現をして、不安を抱かせたり、恐怖を植えつけるのは嫌だったからです。例えば「219_ツイフェミさんへ」では、「有り体に言ってしまうと、・・・」としましたが、あれでもオブラートに包んだ言い方にしてあり、さらに具体的にわかりやすく思い描くことはできない表現になっている、ということです。あそこに書いた「きわめて好ましくないもの」の具体的な内容については、彼女(彼ら)達には想像力を働かせて考えてもらうしかありません。そういう書き方にしてあります)。

基本的には、全体にわたって、自分のできる範囲で、平易を旨としたわかりやすい、懇切丁寧な書き方をしてきたつもりです(実際に上手く書けたかどうかは別として)。

ですから、書いた文章の大半は、努めて具体的にわかりやすく、簡単に読めるようにと考えて、文章を書いてきたつもりです。

小中学生をはじめとして、誰にでも簡単に、スラスラと読めるように、と(文章がスッキリとせず、クドクドとした書き方になってしまった部分が多かったのは、私の力不足ゆえ、仕方がないことなのです。本当は、クドクドした部分を全部集約して、何の補足説明も要らない、()(カッコ)書きのない、簡にして要を尽くした明快な短文や一文でビシッと決めた文を書きたかったのですが、それはできなかったので)。

本来なら、ブログ全体にわたって、この姿勢を貫きたかったのですが、実は、少しではありますが、そうはしなかったものがある、ということです。

要は、みなまで言わなくても、わかって下さいよ、というメッセージを忍ばせた文章もいくつか書いている訳です。

ごく普通の文章読解力がある人なら、絶対にわかるはずだ、と思いながら。

それともうひとつは。

( おぶなより ) では、はてなさんの推奨に従って、できるかぎり訂正内容の表記をしてきましたが、 ( おぶなより2 ) では、冒頭の ( 001_はじめに2 - おぶなより2 ) でお断りをさせて頂いたように、訂正の表記はせずに、随時、加筆・訂正をしてきました。

場合によっては、記事の削除や順番の入れ替え、表題の訂正までしてきました(例えば、「194_易行道の真髄」を書き始めた当初の表題は「194_スイッチ」でした。それから何度も加筆・訂正をしているうちに表題も今現在( 2026 年 01 月 01 日)の形になっている訳です)。

だから、万が一、( おぶなより2 ) を複数回以上ご覧になったことのある方(いないでしょうけど)は、「あれ、何か前と感じが違うぞ」と感じられた方もおられるかもしれません。

これも、( おぶなより2 ) を書き始めるに当たっての ( 001_はじめに2 - おぶなより2 ) で、あらかじめお断りをしてあります。

以上の 2 点、すなわち、

①ブログの文章内には、みなまでハッキリとは言わずに、言外のメッセージを織り込んで忍ばせたものがあること

②文末の訂正表記をせずに、随時、個々の文章の加筆・訂正をしてきたことと、記事の文章そのものの削除や記事の文章の順番の入れ替え、さらには表題の訂正までをもしてきたこと、

を皆様にはお許しを頂きたいと思います。

お願い致します。

ついでに。

私が日本の宗教家の五井昌久さんが提唱した「世界平和の祈り」を皆様におすすめしてきたのは、あくまでも、自分の理性というか、理屈で、この祈りが理に適っていると思ったからです。

ですから、仏教やキリスト教などの既存の多数派の宗教を信奉する人達のように、五井先生といった形で、五井昌久さんの名前はそれなりに出しても、固執しすぎるようにはしないようにしてきたつもりです。

そんな訳で、五井昌久さんの著述の内容その他でも、自分の理性で判断して、どう考えてもおかしい、矛盾していると思ったことは、あえて取り上げています( ( 065_お断り - おぶなより ) など)。

( おぶなより ) では、( 065_お断り - おぶなより ) を書いた後も、この姿勢は変えなかったので、やはり、中村元さんをはじめとする、仏教の高名な方々の著書に対して、かなりのケチつけ道中のようになっています。

その意味では、曲がりなりにも、首尾一貫してはいるんですけどね。

まあ、それにしても。

五井昌久さんも、ある意味、ずるい(???)ともとれなくもないですね。

だって、理詰めで考えたら、世界人類の平和を、神様の分けられたお命を頂いている、すべての人の調和と安寧を願うことは、あまりにも隙がなさすぎるからです。

他の一般的な仏教やキリスト教などの既存の宗教(これは新参の新宗教にもよく見られます)を信奉する人の書籍やブログを見ていると、もう自分の宗教だけが唯一無二の絶対の権威で、自我(この場合は、いわゆるエゴですね)と一体化しているものが、かなり多いと感じられたからです(まあ、私達には、自己保存の本能があり、今生がすべてと思い込んでしまうから、こうなってしまうのもある程度仕方のないことなんですが。自分の崇める教祖や神仏だけを絶対視して、他人様にゴリ押しするという姿勢それ自体が、自分の自尊心やエゴと一体化していることに他ならない訳ですからね)。

五井昌久さんの場合は、権威を出そうにも何も、ありとあらゆるすべての人(もちろん、人種も老若男女も問わない)を、神様の命を頂いている者としてそれなりに尊重しなければならないのだから、純粋に理屈で考えたら、エゴも何もないからです。

突き詰めて考えれば、人類はみんなが神様、さらには、これを取り巻く、ありとあらゆるものが神様の化身、になるんですからね。

「世界平和の祈り」は、ただただ、神様(ただし、絶対者なる善なる神様と仮定します)とその命を吹き込まれた、直接そのお命を頂いている人類を含めて、それを取り巻く、ありとあらゆるものの調和と安寧を願う祈りなのですから。

ーーーーーーーーーー

(*4)おそらく、肉体を持った人類が始まって、割合と早い段階から、こうした習性は連綿と続いてきたのではないだろうか。

現代までの間に。

そして、おそらくはこれからも続いていくことだろう。

本当に残念だけどね。

この世に生を受け、何度もの生まれ変わり、死に変わりを通して、

「人間とはこの肉体なんだ、

この五感に認識できる生物そのものが人間なんだ、

人間は動物と大差ないんだ」

という認識=肉体人間観が出来上がってしまい、肉体人間が神様の命が根底にあることを踏まえて、互いを尊重し、調和を旨とする認識(肉体人間が神様の分けられたお命=神様を本質とする以上、このように認識することがあるべき認識だと考えられる)が次第に薄れていってしまったのだろう。

実際、この地球上で、

「人間とは神様の命そのものだ」

と心身ともに、深く感得できている人は、0.01 % 、0.0001 %、いや、それよりさらに少ないというか、まずはいないだろう。

本来なら、人類みんなが神様の命を根底に踏まえた兄弟姉妹でなければならないはずのところが、

各々が神様の命が根底にあることを踏まえた霊なる人間であることを完全に忘れ果ててしまった、

各自が隔絶された個別動物のように認識されることで、

互いの利害が相反することの多い、ありとあらゆる面で、結果的には競争社会のようなあり方に行き着いてしまっている、

のだから。

こうした背景もあって、自分(と自分と近しい者)を守ることだけの利害得失にしか関心を抱かないようになってから、長い間、連綿として続いてきたこうした性的な悪因縁を、ほんのわずかながらも是正していくことができるのは、おそらく「世界平和の祈り」をおいて他にはないと考えている(私が ( 195_信仰について - おぶなより2 ) で「世界平和の祈り」が「社会の裏方のように思える、地道な下支えとなる役割」を果たすかのように書いたのはこうした意味合い。人類が誕生してからほどなくして、肉体人間観が定着するようになってから今までの間に、世の中に積もり積もった膨大な悪因縁の網の目を、少しずつ、少しずつ、溶かすように全体の調和に向けて、是正していく・整えていくことができるのは、「世界平和の祈り」しかないと考えているから。波動?で言うなら、「世界平和の祈り」は、長年にわたって蓄積されてきた人類の乱れ切った暗黒波動の堆積を、調和と安寧に向けて少しずつ、少しずつ、何気ない形で、黙って陰ながら地道に整えていくための波動調整の祈りだと考えることができる、ということ。巷によく見られる、批判や非難は、私達の想いを掻き乱すものであり、その本質が神様のみ心に適わないものであるがゆえに、そのほとんどが輪廻転生を通して世の中に悪い結果をもたらすものになるとしか考えられない以上、どんなに神様に不信感を抱き、どんなに神様を信じられなくなっても「世界平和の祈り」の実践に託すしかないと考えているから。どう見ても善とは思えない存在が栄え、ありとあらゆるところで不条理・不均衡きわまりないこの世を、陰ながら黙って下支えをしながら、ほんの少しずつでも、摩訶不思議な形で、時間をかけて良き方向に向かわせることができるのが「世界平和の祈り」の真髄だと思っているから。つまり、「世界平和の祈り」はこの世の崩落?(完全地獄化?)を防ぐための一種の黒子役?を果たしているとも考えられる訳で。ただし、その目指すべき心構えは、地道に裏方に徹するでもなく、もちろん、声高に叫ぶわけでもなく、ただただ、祈りたいから祈る、普段からの何気ない一挙手一投足のように、ごく当たり前に「世界平和の祈り」がわきだしてくることでしょうね。まあ、五欲をなるたけかなぐり捨てて、宗教的な黒子役に撤しましましょうよ、と言ったところかな。現在のネットをはじめとして、ありとあらゆるところで自己承認欲求が闊歩しまくる、騒がしい世の中とは無縁の境地でやっていきましょうや、という話。五井昌久さんに言わせれば、あらわれてくることの何もかもがみんな「消えてゆく姿」と言うかもしれないけれど、世の中にはそんな簡単な一言では割りきれない、あまりにもひどいことが多過ぎて仕方がないように思える。それでも、どんなに影響力が微細に思えても、「世界平和の祈り」だけは、とにかくするしかない。良いことはしないよりはした方が絶対に良いのだから)

いつまでもボス猿よろしくこんなことばかりしていたら、動物とは一線を画した万物の霊長としての神様の映し身をとしての肉体人間の存在意義を示すことができないままになってしまうのにね。

だから、皆様には「世界平和の祈り」をして頂きたいのである。

ーーーーーーーーーー

(*5)ここで考えている人類の進歩とは、肉体人間の本体の神様の映し身として、真善美と愛に悖らない人間、今流に言えば、健康、経済力、人との調和に富んでいる人間を目指すということ。

もちろん、肉体人間として為した、良き想いと行いは、神様のみ心に適うから、顔をはじめとした(主として来世以降の)容姿の良さにも反映されることになる。

逆に言うと、今生で他人様に対して、ブス、ゲソ、キモメン、KKO、ジジイ、ババア、BBA、などの蔑称を使う(=言う・書く)とその報いを(原則として)来世以降に受けなければならなくなる。

つまり、神様の子供としての同胞となる同じ肉体人間としての他人様を蔑称により著しく傷つけてしまうと、ただでは済まなくなってくる、ということだ(こうした蔑称を直接言われたり、あるいは、こうした蔑称を使った文章で傷つけられた人がいた場合には、ブス、ゲソ、キモメンその他の蔑称を用いて他人様を傷つけた加害側の人間には、その傷つけられた被害側の人に対しての購い・償いが、必然的に生じてくると考えられるため)。

どうしてこんなに厳しい仕組みになっているんだろう?とその理由を考えてみると。

やはり、私達肉体人間が、「真善美と愛に悖らない神様の命」を本質としている・根底にしているためなんでしょうね。

すなわち、

この世における、私達、個々の肉体人間という存在は、

どんなに自己保存の本能に縛られ、

どんなに唯物論に縛られ、

どんなに自己を中心とした利害得失計算に狂奔していたとしても、

本来的には(過去世の因縁を踏まえて与えられたありとあらゆる各々の環境の下で)神様という本質を体現しなければならない存在であるがゆえに、

互いを尊重して、調和を旨とする、気高い存在であるべきこととなり、

従って、こうした神様としてのあるべき本質を外した、肉体人間としての想いと行いそれ自体が、本来的には許されないものとなってしまうから

なのでしょうね。

そう考えないと、厳しい報いがくることの説明がつかないからです。

どんなに、私達自身が、上記のような罪悪深重の凡夫のように思えても、その本質が神様(仏教的に言えば仏様。まあ、わざわざ分ける必要もない。同じなんだから、神仏で一緒)である以上は、輪廻転生を通して、どんな経緯をたどり、どんな紆余曲折を経ようとも、必ず、その神様としての本質に立ち返らなければならない・元帰りしていかなければならない、ということなんでしょうね。

まあ、簡単に言ってしまうと、私達が生きている、否、他動的に生かされている、根本が、源が、神様の命にあるからこのような仕組みになっているのだ、と。

悪い言い方になってしまうかもしれないが。

肉体人間が、どんなにエゴのかたまりのような動物(=自己中動物。古の言い方なら罪悪深重の凡夫)のように思えても、その本質が霊なる人間=神様である以上は、このくびきを外すことはできないのだ、と。

237_正誤表(漢字の読み)2

以前、( 211_正誤表(漢字の読み) - おぶなより2 ) に、ユーチューブのある種の動画には、動画生成を AI に丸投げして音声を生身の人間が話しておらず、AI によるきわめて程度が低い小中学生でもしないような読み間違いがあるものがかなり多いことを書いた。

生身の人間がやっているユーチューブなら、まず、めったにこうした程度の低い読み間違いはなく、視聴していてもそんなにストレスは溜まることはまずない。

たま~に、漢字の読み間違いがある場合でも、せいぜい、「へー、こんなひとかどの有名な人でも、こんな漢字の読み間違いをすることがあるんだ(前回取り上げた読み間違いの事例の中には高学歴で元東大教授だった人がしたものが一つある)」くらいの感想を抱くくらいで、動画を視聴しても大きなストレスが溜まることはあまりないからだ。

しかし、AI に制作を丸投げして作成したと思われる、著しく程度が低いバカバカしい(ここではあえて「バカ」を使わせてもらう)読み間違いが頻繁に出てくる動画を視ていると、ストレスが溜まるのを通り越して、こちらの脳がバグっているのではないか、と錯覚を起こしそうになることがある。

明らかな読み間違いで、こんな小中学生でもしないような程度の読み間違いによる、影響を受けるはずはないとは思っていても、あまりにもこうしたおかしなくだらない読み間違いを聞かされ続けていると、こちらのまともな読みという常識までも、一瞬、おかしいのか、間違っているのか、と変な感覚に襲われることがあるからだ。

何が言いたいのかと言うと。

こうした程度の低い、どうしようもなく、くだらない読み間違いを放置し続けておくのは、明らかに「悪質」であり、視聴する人に「有害な影響を及ぼす」、「不適切な動画だ」と言いたいのだ。

本来なら、お詫びとともに、すみやかに削除すべき動画であり、どうしても再度同じ内容の動画としてアップロードしたければ、こうしたおかしな読み間違いをきちんと訂正したものをアップロードすべきだ、と思うからである。

例えば、最近の動画での文脈から読み間違いと判断できる例を挙げると、

(正)「涙が出(で)そうになった」
と読むべきところを
(誤)「涙が出(しゅっ)そうになった」

(正)金(かね)
と読むべきところを
(誤)金(きん)

(正)人(ひと)
と読むべきところを
(誤)人(じん)あるいは人(にん)

(正)国(くに)
と読むべきところを
(誤)国(こく)

(正)辛い(つらい)
と読むべきところを
(誤)辛い(からい)

(正)何ともない(なんともない)
と読むべきところを
(誤)何ともない(「なに」ともない)
最近は、ありとあらゆる分野(?)で、AI によると思われる動画で、従来なら間違いなく「なんともない」と読まれていたものを、「なにともない」と誤読しているのに出くわす。
本当にどうしようもないな。

(正)激しすぎた(はげしすぎた)
と読むべきところを
(誤)激しすぎた(「げき」しすぎた)

(正)羨望の的なのです(せんぼうのまとなのです)
と読むべきところを
(誤)羨望の的なのです(せんぼうの「てき」なのです)

(正)雑さ(ざつさ)
と読むべきところを
(誤)雑さ(「ぞう」さ)

(正)街並み(まちなみ)
と読むべきところを
(誤)街並み(「がい」なみ)

(正)格上(かくうえ)
と読むべきところを
(誤)格上(かく「じょう」)

(正)傍らにいる(かたわらにいる)
と読むべきところを
(誤)傍らにいる(「はた」にいる)

(正)作り手(つくりて)
と読むべきところを
(誤)作り手(つくり「しゅ」)

(正)一行(いちぎょう)
と読むべきところを
(誤)一行(いっこう)

(正)放っておく(ほうっておく)
と読むべきところを
(誤)放っておく(「はなって」おく)

(正)生の声(なまのこえ)
と読むべきところを
(誤)生の声(「せい」のこえ)

(正)今、SNS で(いま、えすえぬえすで)
と読むべきところを
(誤)今、SNS で(「こん」、えすえすえぬで)

(正)宝物(たからもの)
と読むべきところを
(誤)宝物(「ほうもつ」)
(「ほうもつ」は、しかるべき特別な文脈でしか使わない読み)

(正)何を食べても(なにをたべても)
と読むべきところを
(誤)何を食べても(なにを「しょく」べても)

(正)財布を空にする(さいふをからにする)
と読むべきところを
(誤)財布を空にする(さいふを「そら」にする)
(何だ?財布を空(そら)にするって?財布が広大で澄んだ青空になるとでも言うのか?)

(正)季節を愛でる(きせつをめでる)
と読むべきところを
(誤)季節を愛でる(きせつを「あい」でる)

(正)米の(こめの)
と読むべきところを
(誤)米の(「べい」の)
(まともな日本人なら絶対に「べい」などと読み間違いをしないところで平気で「べい」と読ませる。いくら機械だから仕方がないとはいえ、こんなめちゃくちゃな言葉(間違った漢字の読みを併せたわけのわからない日本語)を聞かされるのは生身の人間なのだ。こんなバカみたいなとんちんかんな漢字の読み間違いを聞かされ続けているとストレスの溜まり具合が半端ないのである)

(正)辛さ(からさ)
と読むべきところを
(誤)辛さ(「つら」さ)
(日本を訪れた外国人の人達が日本のカレーやカツカレーを絶賛している話の中で、米(こめ)と読むべきところを「べい」、辛さ(からさ)と読むべきところを「つらさ」などと、ごく普通のまともな日本人なら絶対にしないような根本的とも言えるやさしい漢字の読み間違いを平気で放置している。本当にひどいとしか言いようがないよ。まあ、普通に日本語がわかる人ならば、そこそこ意味が通じるから、これぐらいの間違いは不問にしても、まあ、いいか、と思う人もいるかもしれない。私も最初はそうだった。最初の 1、2 本ぐらいなら、まあ、しょうがないか、と。しかし、少し様子を見ていても、一向に変わる気配がない。くだらなく、バカバカしい漢字の読み間違いを頻発させる動画が、雨後の筍のように、後から後からわいて出てくるのだ。その間違いは、少なくとも日本の義務教育を済ませた人間ならば、絶対に誤るはずのないような程度の低いものばかりなのである。こんな漢字の読み間違いの頻発を放置して、是認し続けるのは、どう考えてもおかしいし、到底、納得などできないのである)

(正)小雨(こさめ)
と読むべきところを
(誤)小雨(「しょう」さめ)

(正)焦る様子も(あせるようすも)
と読むべきところを
(誤)焦る様子も(「こげ」るようすも)

(正)道に迷っても(みちにまよっても)
と読むべきところを
(誤)道に迷っても(「どう」にまよっても)

(正)夜な夜な(よなよな)
と読むべきところを
(誤)夜な夜な(「よる」な「よる」な)

(正)名家(めいか)
と読むべきところを
(誤)名家(めい「いえ」)

(正)家財(かざい)
と読むべきところを
(誤)家財(「いえ」ざい)

(正)老けた(ふけた)
と読むべきところを
(誤)老けた(「ろう」けた)

(正)鼻筋がスッと通っていて(はなすじがすっととおっていて)
と読むべきところを
(誤)鼻筋がスッと通っていて(はなすじがすっと「かよって」いて)

(正)知的で品がある(ちてきでひんがある)
と読むべきところを
(誤)知的で品がある(ちてきで「しな」がある)

(正)一目で(ひとめで)
と読むべきところを
(誤)一目で(「いちもく」で)

(正)音をあげる(ねをあげる)
と読むべきところを
(誤)音をあげる(「おと」をあげる)

(正)高級車(こうきゅうしゃ)
と読むべきところを
(誤)高級車(こうきゅう「くるま」)

(正)真逆(まぎゃく)
と読むべきところを
(誤)真逆(「しん」ぎゃく)
(真逆はここ 20 年くらいで広く慣用的に使われるようになったようだが、それだとしても「しんぎゃく」と読ませるのは、あまりにもおかしすぎる。本当にどうしようもないよ)

(正)今日(こんにち)
と読むべきところを
(誤)今日(きょう)

と読み間違えているものなどがあり、

文脈ではない、単純な読みを間違えている例としては、

(正)人工甘味料(じんこうかんみりょう)
の読みを
(誤)人工甘味料(じんこう「あま」みりょう)

(正)他なりません(ほかなりません)
の読みを
(誤)他なりません(「た」なりません)

(正)原風景(げんふうけい)
の読みを
(誤)原風景(「はら」ふうけい)

(正)邪魔者(じゃまもの)
の読みを
(誤)邪魔者(じゃま「しゃ」)

(正)筆頭(ひっとう)
の読みを
(誤)筆頭(ふであたま)

(正)時刻表(じこくひょう)
の読みを
(誤)時刻表(じこく「おもて」)
(何だ?「ふであたま」や「じこくおもて」って?
こんなの初めて聞いたぞ)

しかも、動画の締めくくりでこんなことを言っているのだ。

(正)この動画が面白いと思った方はチャンネル登録と高評価をお願いします(このどうががおもしろいとおもったかたは、ちゃんねるとうろくとこうひょうかをおねがいします)

(誤)この動画が面白いと思った方はチャンネル登録と高評価をお願いします(このどうががおもしろいとおもった「ほう」は、ちゃんねるとうろくとこうひょうかをおねがいします)

動画の締めくくりで、こんなどうしようもない初歩的な漢字の読み間違いをしているのだ。こんなひどい漢字の読み間違いをするというのは、動画の評価云々以前の問題ではないのか。

としているなど、
本当にどうしようもなくバカバカしい、低レベルで変な漢字の読み間違いが動画全体の中の数 % (私の感覚)くらいの割合で出てくるのが、ごく当たり前な状態なのだ。

日本バンザイ・礼賛動画も含めて、日本の歴史物まで軽くザッピングしただけでも、こんなにもどうしようもない漢字の読み間違いが出てくるのである(キリがないからこの辺にとどめるが)。

それと。

これは漢字の読み間違いそのものではないのだが、時たま、漢字の欠落がある。例えば、

(正)原宿(はらじゅく)
となるべきところが、
(誤)原(はら)
だけになってしまい、字幕では原宿と書いてあるのに、宿(じゅく)が抜かされて原(はら)だけのままに、ナレーションが進んでいるような場合だ。

この適正な読みの欠落現象も、AI による不適切な言葉のあらわれの一種なのだろう、と判断できる。

教養もなく、宗教のド素人の俺ですら日本人として、絶対に読み間違いをしない「八百万の神(やおよろずのかみ)」を「はっぴゃくまんのかみ」などと何度も何度も平気で読ませている。

人間の根底にかかわる、神様のことで、こんな根元的な過ちを平気で何回も犯している有り様なのだ。

それにしても。

今まで、私のブログを読まれる可能性のある方に、「バカ」「ゴミ」「クズ」といった言葉を使わないように懇願してきたから、はなはだ矛盾してしまうのだが、ああいった低レベルな漢字の読み間違いは、本当に、「バカ間違い」「ゴミ間違い」「クズ間違い」とでも言いたくなるような、どうしようもなく救いようがない、くだらなさ、ひどさなのだ。

さして学歴のない MARCH 出身のこんな俺でさえ、「何やってんだよ!」と怒鳴って、叱り飛ばしたくなるほどのひどさなのだ。

少なくとも、いかなる高校受験や、いかなる大学受験でも、いや、中学受験でさえも、まったくお話にもならない、受験前に門前払いをされても文句が言えない漢字の読み取り能力のレベルの低さだからだ。

悲しいかな、「霊夢」も「魔理沙」も、「ずんだもん」も、他の AI ナレーション?もみんなそうだ。

残念ながら初歩的な漢字の読み間違い(動画上では言い間違い)が、いつまでも止むことはない。

AI の抜本的な改善がなされない限り、当分はこのおかしな状態が続くんだろうよ。

数年か、数十年か、それとも百年以上かはわからんけどね。

その間に出されるああした動画も、万本、いや十万本以上になるんだろうよ。

しかも、最近は日本万歳上げ動画?だけでなく、他の様々なところでこうした AI 動画が出てきているような気がして仕方がない。

動画を視聴していて、小中学生でもしないような、初歩的なおかしな漢字の読み間違いが頻発すると、すぐに、「あ、これ、 AI 作成動画だろうな」と思えてしまうからだ。

こんな悪い状態を放置し続けているのは、どう考えても、ユーチューブを視聴する人間に悪影響を及ぼすとしか思えない。

批判や非難をしたところで、どうせこうした動画の作者さん達は聞く耳を持ってくれないだろうし、そもそも、批判や非難は無効なことがほとんどだから、遠巻きに考えると、自分の「世界平和の祈り」が足りないか、世の中の人々に「世界平和の祈り」をする人の絶対数があまりにも少なすぎる(*1)せいなのかもしれないが、本当にどうにかならないのかよ、と思わされる今日この頃である。(*2)

AI に動画制作を丸投げしたような動画の氾濫は、その数が多くなればなるほど、視聴する人に与えるストレスもそれなりに増えていくことになる。

こうした動画の中には、字幕を同時に出している動画あるが、そうした字幕にも間違った漢字が出ていたり、誤字や脱字も多い見苦しいものが多々ある(もしかしたら読み間違いを何とかしようと字幕を加えたのかもしれないが、あれだけ漢字自体の間違いや誤字脱字が多いと却って逆効果になっているとしか思えない。だから、抜本的な解決策としては正しい読み仮名を読み上げる動画を作り直してアップロードすることしかない)。

こうした動画を次々とアップロードし続けるのは、果たしてどういう意味を持つのか。

改めて、このような悪質な欠陥のある動画を制作し、アップロードする人達に、問いたい気持ちである。

特に。

日本礼賛・万歳動画を作りまくっている作者さん達に言いたい。

日本人の良さは、右翼だの、左翼だのの、うわべだけの思想の違いを超えた、深い、深い霊性の高さ(=肉体人間としてのありとあらゆる想いと行いに神様のみ心をあらわすこと)にある。

威張るんじゃない。

自慢するんじゃない。

誇示するんじゃない。

黙って、無意識的に、他者に対する配慮(これは社会全体への配慮にもつながる)が自然にできる。(*3)

外国人さん達の自由が、人々で構成される社会のあるべき自由さ(個性の主張・尊重)を履き違えた放埒(電車の中で大声を出して話す、大音量で音楽を流すなどがその典型)である自由であるのとはおよそ無縁の、お互いを尊重し合う快適さを伴う自由であるように。

それも、昔から一環してすべてあったものではなく、おそらく、ここ 2、30年間位の間に、様々な要因が無意識的に重なり合って、徐々に徐々に高められて完成されてきたものだ(例えば、ゴミ箱の撤去や路上喫煙の禁止条例など、別稿ですでに触れた。道路にゴミ一つ落ちていないなどとよく言われているが、二昔以上前は、ゴミやタバコの吸い殻のポイ捨て、犬のフンの放置、タンやツバの吐き捨てがよくあった。昔から完璧だった訳じゃない ( 051_一端 - おぶなより2) (*1ー3) (*1ー4) )。

日本を高く評価する外国人の人達は、おそらく、この期間に日本を来訪したから、日本を誉めているのだろう。

こうした、一見、地味に見える霊性の高さは、他方、日本人の真面目さ、真摯さも兼ね備える。

そうした日本人ならば、動画を作り、文章を書くならば、視聴者や読者に対する敬意を持つ意味で、当たり前の身だしなみとして、小中学生がしないような、誤字や脱字、読み間違いは、絶対にしないはずだ。

仮に、動画作成や文章を書くことを職人に例えるならば、日本の真摯で真面目な職人さんならば、こんな初歩的な誤りだらけのおかしな動画を作成し、文章を書くことなどは、絶対にあり得ないはずだ。

そうした、敬意を払う最低限の身だしなみもなっていないような、誤字や脱字や読み間違いが、あり得ない頻度で頻発する動画や文章の一体どこに真摯さや誠意があると言えるのか?

日本の美点を盛んに挙げまくりながら、他方では、小中学生もしないような初歩的な漢字の読み間違いは放置しっ放しですか?

おかしいじゃないですか。

日本人の自己肯定感やプライドをくすぐる日本上げを盛んに強調しておきながら、本来ならば真面目で誠実な日本人ならば、絶対にしないはずの、小中学生もしないようなおかしな初歩的な漢字の読み間違いを平気で頻発させる。

めちゃくちゃ矛盾しまくりですよ。

それと。

日本大ファン?のああした外国人さん達が、日本バンザイ・礼賛動画を視るかどうかは不明だが、もしも彼ら(彼女ら)が、こうした動画を日本語で視るとすれば、あんな小中学生でもしないような初歩的な漢字の読み間違いや誤字や脱字の乱発動画を見せるのは、日本語の習得という観点からしても、きわめて「不適切」かつ「有害」な動画だと言わざるを得ないのだ。

外国人さん達には、ただでさえ日本語の習得が難しいというのに、あんな読み間違いだらけの日本語を読み聞かせて、どうするんだよ。

私達日本人で、義務教育を済ませた人間にとって、あんなあり得ない初歩的な間違いを読み聞かせるのは、日本語を習得しようとする外国人さん達には、どう考えたって、「不適切」であり、「有害」な動画にしかならないじゃないか。

こうした動画に見られる日本語の各種の不備が、 AI それ自体の根本的な欠陥で、絶対になおすことができないのなら、AI 以外の手法を探るしかないと思うのだが。

それと。

これは俺の勝手な分析だが。

日本に来て涙を流す外国人さん達、日本を離れてから涙を流す外国人さん達は、なぜ、ああなるのか?

それは、はるか記憶の彼方の神界の記憶に触れたからではないのか。

つまり、元から魂に刻まれている記憶が呼び覚まされたのではないか。

「神界の原風景」という。

それまでの肉体人間としてのたくさんの輪廻転生を通した過去世の記憶にはなくとも、元々の神様だった時の深い深い底の意識=神意識にあるという記憶の。

本来、神様のわけられたお命を本質とする、すなわち、真善美と愛に悖らない神様を本質とする、肉体人間で構成される社会の本来のあるべき形に、現代日本の、無意識的に、他者を尊重して、調和を旨とする日本社会が近いと感じて、彼らの母国とのギャップに苦しんで、寂しくなり、悲しくなるからではないのか。

白色人種や、黄色人種や、黒色人種などの違いを超えた、神様の分けられたお命を本質とする同じ肉体人間なのに、どうして自分達の社会は、他者を尊重して、調和を旨とする社会が実現できていないんだ、ほど遠いのだ、と気づかされているのではないか。

だから、現代日本と母国との社会のありようのあまりの落差に愕然として、やりきれない思いを抱(いだ)くようになるのではないか。

私はそう考えている。

それでも、こんな日本がつまらない、退屈だ、放埒こそ自由だ、という外国人さん達は、おそらく、輪廻転生の経験が少ない肉体人間になりたて?の幼い魂(肉体人間としてこの世に遣わされた経験がきわめて少ない幼い魂?)で、この世で艱難辛苦の経験をある程度積んだ古い魂や、この世でそこそこの経験を積んだ魂には、こうした他者を尊重して、調和を旨とする社会のあり方が、あるべき理想に近いと心に響くものと考えられるからだ。

魂を強くする、魂を磨くためには、神体や霊体からすれば、まったく自由が利かない肉体をまとって、この世の様々な喜怒哀楽、中でも、艱難辛苦を経験する必要があると推測されるためだ。

ついでに言うと。

残念なことに、日本のこうした伝統や社会を構成する個人個人で整えられた尊い秩序を愚弄する、いわば「不良外国人」と呼んでしまっても構わないような悪質な外国人観光客達がいる。

あろうことか神社の鳥居で懸垂をしたり、新幹線の中で騒いでいい気になってバカ騒ぎをしているどうしようもない外国人達のことだ。

彼女らや彼らは、自分達がいかに「とんでもない大罪」を犯しているかがまったくわかっていない。

どうせ、何をしようが、今生では、何の悪い報いなんかきっこない、バチなんか当たりっこない、とたかをくくっているからこそ、ああした「とんでもない狼藉」を働くことができるのだろう。

まあ、あんな人達でも、その意識の深層には神意識があるから、ほんの少しはひっかかるところがあるはずだが、あまりに唯物論の思考に毒されて、それがほとんどわからなくなっているのだろう。

彼女らや彼らは、来世以降であがなわなければならない大罪を知れば、あまりの恐怖でブルッて恐ろしくなり、到底あんな大罪は犯せないはずなのだが、まあ、しょうがないね。

日本人が無意識的に積み上げてきた神様に対する敬意や、皆が互いを思い合うからこそ保たれている、彼女や彼らの母国では奇跡のような尊い秩序を愚弄する行為が、いかに罪深く、自らの来世以降にとんでもない重罪になって返ってくるかなどは、夢想だにしないのだろう。

まだまだ、現代の私達、特にああした外国人の人達の霊性が、いかに低いか、どうしようもないか、の証左だからな。

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(*1)最近は、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)のユーチューブの動画もかなり見つけられるようになった(時代が古いから仕方がないのかもしれないが、五井先生の映像が残っているのはごくごくわずか(私が見つけたのはたった一つだけ)で、その他の動画はほとんどが五井先生の写真を出した状態での音声の動画ばかり)ので、視聴するようになったのだが、その再生回数を見ると、ごく普通のユーチューブ動画のように再生回数が多くない(というかかなり少ない)し、ブログでもアクセスがきわめて少ない私のような超場末のブログでさえも「世界平和の祈り」関連の検索でわずかに出てくることがあるくらい(ということは、五井先生の「世界平和の祈り」関連の検索をする人の絶対数自体が極度に少ないから私のような超場末のブログでも検索結果に出てきてしまうと考えられる)だから、そもそも、五井昌久さんが提唱した「世界平和の祈り」に興味を持って、なおかつ、これを実践する人の絶対数自体が極端に少ないのが実情だと判断せざるを得ない。

また、元々見かけることが少なかった「世界人類が平和でありますように」のステッカーを、最近ではほとんど(というかまったくと言っていいほど)見なくなってしまっている)こともその理由の一つだ。

ユーチューブにあるのは、主に五井先生のお話であるが、ブログなどのサイトには、五井先生関連のものが確かにあることはあるが、それにしても、こうした周辺状況その他から考えられるのは、「世界平和の祈り」一念の信仰自体が、五井先生のご存命の時代からすれば、かなり衰退してしまっていて、宗教界的にも、もはや細流の細流?であり、到底、一般的とは言えないとしか思えないのである( 065_お断り - おぶなより )。

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(*2) ( 211_正誤表(漢字の読み) - おぶなより2 ) にも書いたが、雨後の筍のように、次から次へとああした動画を出し続けるところからみても、彼らの良心に期待することはまったく望めない、すなわち、誤った読み間違いが多数含まれる動画に対する謝罪をとりあえずして不適切な動画を削除するとともに、読み間違いをきちんと訂正した適切な動画を作り直してしアップロードし直すことにはまったく期待できないとしか思えないから。

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(*3)「他者への配慮」とはどういうことか?

まず、大前提としてあるのは、私達肉体人間は、神様の分けられたお命を本質とする、神様の子供であるということがある。

すなわち、私達の本質は、神様そのものに他ならないのである。

神様は、善なる存在、すなわち、真善美と愛に悖らない存在とすると、神様のお命を分け与えられた私達、個人個人は、この世に肉体人間として、(その各々の過去世の因縁により、どのように異なる形を持ってこの世にあらわれているにしても)同じ神様の子供としての兄弟姉妹に他ならないのであり、お互いを尊重して、慈しみ合い、何か必要が生じればお互いに協力し合うべき存在となるはずである。

私達、個人個人の肉体人間の本質を、このようにとらえる限り、社会が複数以上の肉体人間で構成されていれば、他者を尊重して、慈しみ合い、何か必要があれば、協力し合うのは、当然の帰結となる訳だ。

従って、こうした肉体人間で構成される社会は、互いを尊重し合い、調和を旨とするのも、至極当然と言えることになる。

煎じ詰めて言うと。

真善美と愛に悖らない神様で構成される社会ならば、互いを尊重し合い、調和を旨とするのは当たり前であり、明らかに他人への迷惑を生じる「放埒な個性の主張」や「ワガママ」は、こうした社会には認められない、相応しくない、ということ。

再三再四書いてきたが、肉体人間は、神様の分けられたお命を本質としている以上、この世を生きていく便宜上、自己保存の本能を与えられ、どんなに利己的に生きることがその本質であるかのように見えようとも、その行動規範はあくまでも神性、すなわち、神様のみ心に適う者でなくてはならないのである。

そうでなければ、何のために、私達肉体人間は、その本質に神様の分けられたお命を頂いているのかわからなくなるではないか。

肉体人間が、ただ利己的に生きるだけでいいのなら、ライオンやお猿さんなどの普通の動物と変わらないことになってしまう。

それどころか、神様の知恵と創造力を特別に授かっている分、こうした動物達よりもはるかにエゴに徹した、えげつない生き方さえ可能になる。

神様は、私達肉体人間に、そんなことを望んで、私達をこの世に遣わしたの?

違うでしょうよ。

弱肉強食が蔓延り、互いに相争う、残酷な世界を作るために、あるいは、きわめて限られたほんのわずかなごく一部の少数の人間だけがこの世をほしいままに専横して、貪り尽くすためだけに神様は私達をこの世に、この地球に遣わしたの?

違うでしょうよ。

神様は、植物も、動物も、さらには、ありとあらゆる自然環境を、取りまとめて、さらには、調和させる役割を期待して、私達をこの世に、この地球に遣わした、としか考えられないんですよ。

なぜならば、そうした適任者は、神様の知恵と創造力を特別に授かった、私達肉体人間を置いて他には考えられないからです。

どこをどう考えても、この地球を、何とかして取りまとめて、調和させる役割を担える唯一無二の存在は、私達肉体人間を置いて他にはないんですよ。

だから、私は、肉体人間の行動規範を貶めて、何かにつけて動物化させようとする巷の言説(竹内久美子さんが代表的)が大嫌いなんですよ。

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(追記1)
AI 動画の氾濫。

頻発にしろ、少なめにしろ、義務教育を受けた者でもしないような、著しく程度の低い、バカバカしい漢字の読み間違いが出てくる動画は、間違いなくAI 動画だろう。

いかにも、本人が話しているように見える、あるいは聞こえる動画でも、この人がこんなバカみたいな読み間違いをするはずがないと思われる、初歩的な漢字の読み間違いをしている動画は、AI 動画だと判断できる。

日本語は、本来、母音を大切にしている世界でもまれに見る貴重な言語であり、言霊にも固有の意味を持つ言語なのに、こんなことばかりやっていては、明らかに日本語の良さを棄損してしまっている。

ましてや、その内容が希望や願望を踏まえた作文のような創作や、場合によっては捏造に近いものとなっては、ますます真善美に悖って罪深いものになる。

まあ、こうした動画の作者さん達が、超場末の私のブログを読むはずもないだろうが、私はこの世における肉体人間の抱く想いと行いが、原則として輪廻転生を通して巡ることに関して、いろいろと書いてきたつもりだ。

その中でも、真善美と愛に悖る神様のみ心に適わないものは、どうなるかについても、幾度となく書いてきた。

言葉の使い方、中でも、蔑称については、( 011_気高い - おぶなより2 ) に詳しく記してある。

蔑称は極端な事例ではあるが、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る、肉体人間の抱く想いと行いが、輪廻転生を通してどのように巡るものであるかの、一つの参考にはなるかもしれない。

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(追記2)
日本礼賛・バンザイ動画によくあるのが、財布を落としても、そっくりそのまま中身の現金などが手つかずで戻ってくるとか、みんな黙って信号をきちんと守るとかあるがね。

私は、自身の過去世の因縁の悪さもあるためか、以下は、少なくとも一昔以上前だったと思うが、財布を落とし知人の不思議なつて(←知人のまた知人が金目のものを抜き取られて道端か公園かに捨ててあった財布を警察に届けてくれたとのこと)で警察に取りに行き、戻ってくるには戻ってきたが、中の金目のものはすべて抜き取られていたし、トイレに入りたくなってほんの少し車をあけただけで車上あらしにあって、これまた中に残っていた金目のものを、一切合切盗まれた(交番にも行ったが、これといった確たる証拠もないので、逆にお巡りさんから話の信憑性まで疑われる始末で、これは泣き寝入りしかないとあきらめた)経験がある(落とした財布がそのまま返ってきた外国人さんは幸せだね。俺と違って過去世の因縁が良かったから、財布が無事に戻ってきたんだろうな。だけど、いくら日本で気が緩むとはいえ、やたらと財布を落とすのは頂けないな。最低限、日本人に迷惑と手間をかけさせないように、母国でいる時と同様に、しっかりと財布を管理してほしいね。もちろん、これから日本に旅行に来ようとしている外国人さん達もね)。

ここ最近数ヶ月内でも、ごく細く目立たない道だが、歩行者信号を無視して渡る男性数人(一人ずつを数回に分けて)を見ている(ちなみに、女性は一人もいなかった)。

非常に残念なことだが、日本人だからなんでもかんでも完璧だ、などと言うことはないのだ。

だから、まだまだ、この世界を神様のみ心に適うように整えるための地道な努力は必要だし、皆様にはできることならば、世界平和の祈りによる、霊性の開発をして頂きたいのである。

世界平和の祈りによる、波動の効果がいかなる因縁への波及となって作用するにしても、この世を少しでもよくするための効果を秘めた祈りであることは確かなのだから。

236_淡々2

件の女性に黙って姿を消されてしまったが、彼女はあくまでもマスク美人なので、本物の美人なのかどうかはわからずじまいになってしまった ( 235_淡々 - おぶなより2 ) の (追記3) )。

そこで、ここでまた個人的な独断と偏見による超誇大妄想となるが、彼女の素顔を場合分けをして想定しながら、シミュレーションをして、気持ちの整理をつけたいと思う(また、彼女のことを彼女に向けて書くつもりで「あなた」と記す。なお、話も容姿だけに限り、その他一切の要素は無視する)。

①あなたがあくまでもマスク美人にしか過ぎなかった場合

なんだ、あなたが最初に見せた反応通り、私よりずっと格下だったんじゃないですか。

ばかばかしい。

そんなあなたに美人としての幻想を抱かされ、振り回された私はまるでピエロですよ。

マスクは本当に罪だと思う。

人間で一番注目する顔のかなりの部分を隠してしまうのだから。

マスクさえなかったら、私はいつも通り、無関心を装った「つまらない鈍感男」を余裕で演じることができたはずなのに、本当にマスクのせいで、とんだ目に遭わされましたよ。

まあ、今( 2025 年 11 月現在)は、医療機関内ではマスク装着がほぼ義務化されているような状態なので、仕方がありませんが、本当にマスク装着を呪いますよ。

まあ、そうは言っても、私も容姿が明確に落ちてしまった(回復するかどうかわからない)ので、あなたのことをとやかく言えなくなってしまったから、負け犬の遠吠えになってしまいますけど。

ただ、私はあの五分刈りをした少し後で、検査でいろいろなことがあってかなり不安で苦しかったから、こうした時に、やさしく接してくれていたら、どれだけ心が癒されたかははかりしれません。

幸い、精密検査の結果が良かったから、今はほっとしていますけど、そうした時に、支えるどころか、黙って姿を消されたら、絶対にいい気持ちはしませんよ。

いわば、結果的に、私が苦しい時に、励ましてくれるどころか、逃げ出されたような格好になってしまった訳ですからね。

偶然が重なったから仕方ないけど、これも含めてあなたには、かなり悪い印象を抱きましたよ。

まあ、そうは言っても、あなたに一旦嫌われたら、二度と修復するのは不可能だと思うので、あなたにつきまとったり、励ましを求めるその他のような未練がましいことは一切しません。

絶対に、です。

なぜならば、あなたは、二度と私と顔を合わせたくなかったから、そのまま姿を消してしまったとしか考えられないからです。

あなたにしてみれば、あなたなりの、それぐらいあなたの感情を揺さぶる、二度と私と顔合わせをせずに済むようにと、早急に退職を決断して実行に移すためのかなり強烈な動機があった、ということですよね(ただ、あなたのその即断即決力はある意味すごいとは思ったけど)。

でもね、私だって、正直、かなり不愉快なんですよ。

いくら、私の取り柄が、容姿以外の要素は一切なく、その急激な劣化が明らかになった以上、見捨てられるのは、至極当然のことだったとしても。(*)

だけど、ひたすら「世界平和の祈り」をして、ひたすら、あなたとのこの忌まわしい記憶が薄れるように努めます。

万が一、あなたがやむを得ない事情により転職できず、今まで通りに顔を合わせることになったとしても、私は努めて事務的に最小限に接するから、あなたは何の心配もしなくていいんですけどね。

なぜなら、私は容姿に関係なく、人情味が薄く、性格が悪い女性は大嫌いだからです。

あなたがあなたの立場から、二度と私と顔合わせをしたくないと思い、即時に行動を起こした(←私が五分刈りをした直後からまったく見かけなくなったから)かなり強い感情=動機があったように、私だって男側から感じたあなたに対するかなり強い不快感があるからですよ。

だから、今生では未来永劫、私は絶対にあなたに近づくことはしない、と間違いなく約束できます。

②あなたがマスクを外しても、本物の美人だった場合

まあ、これは仕方がありません。

出会った時の反応通り、私より格下だったとしても、上限値の同格だったとしても、とりあえず、美人だったら仕方がありません。

美人は美人。

あなたに振り回されたのもやむなし、として納得しますよ。

黙って去ったのも、御身第一で、トラブルを避け、身の保身を最優先する女性ならではの仕方がない行動だったと思って納得します。

ただ。

好意的な対応が減った看護師さんが多少いるのは事実ですけど、看護師さんの中には、態度がまったく変わらなかったり、むしろ、少しやさしくなったような人もいましたから、それを考えると、やはり、あまりいい感じはしませんね。

人間は、追い詰められた時や、苦しい時にその真価を問われると考えているからです。

自分が苦しい時や、つらい時や、追い詰められた時、
どのように自分と向き合っていくか、

そして、他人がそのような状況に陥った時に、
その他人に対してどのように対処するかで、
あるいは、手をさしのべるかで、

その人間の真価がわかる、
と思っているからですよ。

友人や親しい人や恋人などが、つらい時や苦しい時に見放すのと、
必要に応じて、見返りを求めず、無償で助けるのとでは、
天と地の差がありますからね。

私は、あなたの気持ちを何通りか推測しましたが、あのようであれ、なんであれ、私はあなたに「世界平和の祈り」をしてほしいと願っています。

仮に、あの推測のように、あなたが私に見切りをつけて去ったのだとすれば、あなたの想いは決して「良い想い」とは言えなくなるからです。

その想いの後々への悪影響を浄めて消し去るためにも、是非とも「世界平和の祈り」をして頂きたいのです。

伏してお願いしたいと思います。

ーーーーーーーーーー

(*1)まあ、数年前までは実年齢よりもかなり若く見られることがそれなりにあったし、異性からのいろいろな反応というか経験を積んできた(数年前、もうとうの昔にイケメンと呼ばれる時期を過ぎていたのにもかかわらず韓国人の女性店員さん達からイケメンと言われた時 ( 076_話17(販売員さん) - おぶなより2 ) のように)が、そろそろこうしたものからもいい加減卒業する時期なのかもしれないな。もしかしたら、年齢相応に見えたのだとしても顔が割合良く見られて(実際、顔が好みでいいと面と向かってハッキリと言ってくれた女性 N 井さん( 30 代?)がいた(残念ながら N 井 さんは既婚者だったが。以前、親戚や知人の女性達に言われた時にも感じたが、こうした世間的には恋愛関係には絶対になれない(or ならない)とあらかじめわかっている女性達の方が意外と面と向かって大胆なことが言えるのかもしれないな)。N 井 さんに出会ったのは韓国の女性店員さん達に出会った少し後だった)、背もほぼ 180 cm くらいと高めだからおそらく希少性が高い(顔は大きいけれど(*1ー1)そこそこ悪くはなく、なおかつ、背が高めな男はそんなに多くはいないと思われる)ということで、年齢に構わずに異性として好意的に接してくれた女性が多かったのかもしれないな。まあ、今は病気の段階が変わり、治療のせい(だと俺は勝手に思っている)で容姿も明確に変わってしまったし、治療で体力的にもかなり厳しいこの頃だから。いくら人間は生きている間、異性を求める気持ちが消滅しないものだとしても。

ところで。

男性が女性を求める、そして、女性が男性を求める気持ちは、おそらく、一生涯消えることはないんじゃないかな。

どんなに、枯れたように装おっていたとしても、この異性を求める気持ちは、一生涯消え去ることはない。

もちろん、年齢も一切関係なく、だ。

この世での、肉体人間としての寿命が尽き果てるまで、この気持ちは決して消え去ることはないだろう。

個人的な独断と偏見だが、悟りを開いた人でさえ、肉体をもつ以上、この気持ちはかすかに残っていると考える。

ーーーーー

(*1ー1) N 井さんと話した時に、あなたは俺をあんな風にほめてくれたけど、俺は身長の割に顔が大きいんですよ、N 井さんのようなバランスの良い人とは違うんです、と言ったら、そんなことはないと慰めてくれたけどね。

まあ、顔の大きさを割り引いても、容姿全体としてはそこそこ良いよ、と感じていてくれてたんだろうな。

~~~~~

(追記1)(以下に書いた短文は、彼女に向けて書いたものではなく、私のブログを読むと思われる一般的な男性に向けて書いたものです)。

女性から見た「男性の格上認定」の話については、ユーチューブにある、

キャバ人間さんの

「女が格上認定する男の特徴 6 選」

という動画を視聴すればその詳しい内容がわかります。

私は、文章でうまく説明できませんでしたが、キャバ人間さんは、きわめて具体的にわかりやすく明解に解説されていました。

私が ( ( 235_淡々 - おぶなより2 ) の (追記3) ) に書いたことは、あくまでも私一個人の体験から導いた経験則でしかありませんが、キャバ人間さんの解説は、私とは比較にならないほど、はるかに幅広く深い見地から、具体的で詳細な解説をされているので、私も
「なるほど、女に対する男の格上とはこういうことなのか」
と改めて、または、初めて教えられるところが、たくさんあった動画です(他にも格上の話を扱った動画はありましたが、格上の具体的な内容と解説も含めて、キャバ人間さんの動画がズバ抜けて説得力があると思いましたので)。

ご参考までに。

~~~~~

(追記2)
ユーチューブには、「まきの部屋」というチャンネルにあった「突然連絡を断つ女性の心理とは?」といった、類似の動画?も視ましたが、このケースは、私のケースとは明らかに違うと思いますよ。

あれは、仕事絡みなどでそこそこ面識がある男性が、女性が男性からの各種の誘いをみなまではっきりと断れないために、それをいいことに、だんだんと男性の押しが強くなってきて、女性がこのままでは、正式な形で男女としての付き合いをされられることになってしまうという状況に耐えられなくなって、男性の前から逃げ出す形で姿を消してしまったケースを扱ったものだからです。

女性は、社会的にも、やむを得ない形で、うわべをそこそこ取り繕って、相手(男性)にいい顔をしていることはあっても、その相手を恋愛対象とはしていないことが、かなりあるからです。

つまり、本来なら、

「あなたは私の恋愛対象ではありません」

「正式なお付き合いはできませんから、今後、一切近づかないで下さい」

と正直に言えれば話は簡単に済むことなのに、そのようにはっきりと断ることができないために、困りに困って?最終手段の形で、男性の前からやむを得ず突然の形をとって連絡を断つ形で姿を消してしまった、というケースだからです。

男性からすれば、あんなに親しげに振る舞ってくれて、だんだんと順調に距離を縮めてこれていたはずなのに、なぜ?(←これが男性の間違った思い込みで、はっきりと彼女に拒絶されないから、じゃあ次は、といった形で男性側が次第に距離を縮めようと、ラインその他の連絡手段を使ってさらに近づいていってしまうことになる)

彼女は明らかに脈ありになってきたんじゃないの?(←彼女は、ただラインその他の連絡手段をあからさまに拒絶することができず、仕方がなく我慢して受け入れていた(同時にそれなりのやむを得ない返信もして、お茶や食事などの軽いお付き合いをやむを得ずしていた)だけに過ぎない)

と思っていても、

女性の方は、どうやってこの男からいち早く逃げ出そうか、と極限まで追い詰められている状況だった(←お茶や食事など社会的な表面上のお付き合いまでは容認(=我慢)できても、その先の愛情が絡んだ男女の正式なお付き合いには絶対に進みたくないから))、ということ。

つまり、拒絶できずに我慢して連絡(やお茶や食事などの社会的な表面上のお付き合いまで)を受け入れ続けていて、ついにその限界を超えてしまった(従って、もう一切の返信もしたくないし、返信をする気持ちがない)から、男性とのラインを始めとする、すべての連絡経路を断ち切って、姿を消してしまった、という話(つまり、ここに至って、やっと女性側の「100 % 脈なし」が女性なりの形で表明された?(しかし、男性側はここに至っても、この意味がまったく読み取れず理解できていない)ということで、女性がなかなか本音を出さない(もしくは出せない)特徴がこうしたところにもあらわれている。日本には忖度という文化?があっても、男性が女性の心理を忖度することはほとんどない、というかそもそも本音と建前を超絶使い分ける女性の心理そのものがわからないために、忖度さえもすることができない。それぐらい、女性の心理は、単細胞な男性にとって超難解)。

それが男性側から見れば、女性の突然の連絡断ち、突然の消息断ちになってあらわれている訳です。

男性には、社会的なお付き合いその他で男性に対して義務的に仕方なく対応してきていた女性心理がまったく理解できていなかった、ということ。

だから、

女性側からすれば、絶縁のための、必然の連絡断ち、必然の消息断ちでも、

男性側から見れば、その理由がまったくわからないから、突然の連絡断ち、突然の消息断ち

に見えてしまうという訳です。

こうした行き違いが起こってしまうのも、女性は、男性よりも本音と建前の乖離が著しく(というか超絶)激しいので、なかなかその気持ち(本音)がわからない場合が多いからです。

私は、彼女の嫉妬煽りなどのねじまがった押し(←彼女は半ば無意識で押している自覚はなかったでしょうけど)にだんだんに耐えられなくなってきていて(経験しなければわからないでしょうけど、こうした押しは、かなり感情を掻き乱されます)、このままでは苦しいから、ことの成り行きはどうなるかはわからないけれど、じゃあ、多少なりともやさしく接しようか、少しでも楽になることができるなら、と好意的にやわらかく振る舞い始めた矢先(いわゆる、好意の返報性みたいなものです)だったからです。

だから、私は彼女に強引に迫ったり、いかにも脈があるかのような振る舞いはしていませんし、彼女のように押してはいませんでしたよ。

そんな訳だから、電話番号などの連絡先もラインも一切聞いていません。

そもそも、私は、医療従事者が油を売るような形になること自体が、患者が医療従事者に迷惑をかけることになると考えていたから、先生や看護師さんとの医療以外の話は極力避けていたので、他の男性患者さん達とは明確に一線を画し(ごめんなさい)、仕事中の彼女をなんやかんやと引き留めることもしていません。

とにかく、医療機関には、お世話になっているから、余計なことをして迷惑をかけることは一切したくないと考えていたからです。

ねじまがった形などではあるけど、五分刈りによって頭部の状態が発覚するまで嫉妬煽りなどで押されていたのは私の方なのです(上記のように彼女に自覚はなかったかもしれませんけど)。

だから、違うと思いますよ。

また、蛙化現象とも違うと思います。

蛙化現象は、思いを寄せていた異性の脈ありを確信したとたんに、気持ちが急速に冷めて、脈なしどころか嫌悪?になる話だけれど、この場合なら、何も姿を消さなくても、距離を置いて冷ややかに接するように態度を変えればいいだけだからです。

彼女だって、わずか数ヶ月でも、私のことを見てきているのだから、私がどんな人間か、どんな人格かはある程度はわかっていたはずです。

つまり、未練がましくつきまとったり、ストーカー化する人間ではないことくらいわかっていたはずだと思うからです。

彼女が態度を変えれば、私がそれに応じて、距離を置き、(ああ、もう私は嫌われて、見捨てられてしまったんだな、と)次第に離れて接するようになる人間であることぐらい、容易く推測できるはずだからです。

だから、蛙化だけで、彼女が今まで積み上げてきた貴重なキャリアをあっさりと捨ててしまうとは考えられないんですよ。

逆に、だからこそ、彼女が私を見捨てた先の様々な理由(=大切なキャリアまでもあっさりと(しかも私と二度と絶対に顔合わせをしなくて済むように即時退職を決断し、すぐに実行に移して)捨ててしまうほどに、彼女の感情を揺さぶる、蛙化だけでは済まされない蛙化以上の強烈な動機づけ)を推測した訳なんですけれど。

もちろん、彼女は退職時には、キャリアアップなり、一身上の都合なり、何なりの別の建前の理由で転職して行ったはずです。

私が推測したようなあんなことは正式な退職理由にはできないからです。

なお。

これはあくまでも予測にしか過ぎないが(また彼女に向けて書く)。

あなたは、今頃、私との忌まわしい記憶(あなたから見たら、あなたはあなたなりの感覚で私との記憶を忌まわしいと思っているはずだから)を忘れて(忘れ果てて?)、髪を元々の金髪か金髪と茶髪の中間色にして、濃い化粧(あなたはモブさんに「大工事」と言っていましたからね)の派手な外見に戻しているでしょう。

「私は、ゴージャスな女なのよ」という元の派手な雰囲気のルックスに戻していることでしょうね。

だって、比較的おとなしめの黒髪のポニーテールのよくある標準的な女性の姿は、私との嫌な記憶を呼び覚ましてしまうかも知れませんから。

これもまた妄想ですけど、あなたが黒髪のおとなしめのポニーテールにしたこともビックリしましたが、もしかしたら、万が一(兆が一?)地味な私に寄せてくれたのかな、などと能天気に夢想したこともありました(正直に言うと)。

もしも、そうだとすると。

あんな結果になってしまって、あなたとしてはやりきれず、怒りのぶつけようもない、悔しささやむなしさを感じて、さぞや苦しんだことだろうと思います。

でも、私としては、何の他意もなく、ただただ、真っ正直に生きていただけだから(=あまりにもむさ苦しくなったから面倒くさくなって理髪店でとにかく「スポーツ刈り以上に短くして下さい」と頼んだだけです。結果的に五分刈りになりましたけど。そうすれば、少なくとも数ヶ月は理髪店での散髪や、カット専門店でのカットをしなくても済むようになるからです)、本当にどうしようもないんですよ。

私はどうすればよかったんですかね。

出会った直後から、ただ、ひたすらに、あなたを崇め、奉り、あなたの自己承認欲求を満たすべく、かしずけばよかったんですかね。

そして、ほどなくさっさと捨てられるのが、一番よかったのかもしれない。

土台、私のような人間があなたのような若い女性とたとえプラトニックだけでもかかわりを持つこと自体が無謀な話なんだから、やはり、気持ちを揺さぶられてしまった私が悪いんだけど、この世であなたという人に出会ってしまったから、どうしようもないんですよ。

今までは、こうしたケースでも、身の程をわきまえて、一定の距離を置き、きちんと対応(傍観)できてきたけれど、今回だけはそれがうまくできなかった。

今となっては、どうすればよかったのか本当にわかりません。

まあ、今さら、くどくど言っても仕方ないし、これも私の悪い運命だったんでしょうね。

ただ、あなたが容姿が明確に落ちてしまった異性を、絶対に受け入られず、断固として拒絶(絶対に顔合わせをしないように消え去った訳ですから、拒絶よりもはるかに強い意味がありますね。超拒絶ですね。もしくは、私に未練がましくすがりつかれるような事態になるなんて絶対に嫌だ、と蛇蠍のように嫌われてしまったのかもしれませんが(私がこんなことを絶対にするわけがないのに)。それにしても、私は短期間(1日?)でこれほどまでに劇的に態度が豹変する人を初めて知りました)する女性だ、ということだけはよくわかりました(またまた、みっともない捨て台詞ですみませんが)。

それと、あなたが意志が強固で、即断即決のものすごい実行力がある女性だということも(彼女に向けて書いた部分はここまで)。

かえすがえすも、マスク装着さえなかったら、こんなことにはならなかったはずなのに、と思うけど、時代の一時の流れだから仕方がない。

マスクという、顔全体がわからない被り物(逆か?)のせいで、あなたが「もしかしたら本物の美人かもしれない」と思わされたために、俺は気持ちを揺さぶられてしまったんだからね。

マスク装着さえなければ、私はあなたに幻惑されることは、おそらくなかっただろうからさ。

失礼ながら、マスクを外したあなたが美人でなければ、私はいつも通りの「つまらない鈍感男」を楽々と余裕をもって演じることができたはずだからね。

まあ、そんな訳で。

頭の急激な変容を知っても、自分自身としては、どういう訳か、あまりショックを受けていなかったのだが、とある一人の女性によって傷つけられ、かなり嫌な思いをさせられて、やはり、これ、へこむものなのかな、と多少は思うようになった次第。

冷静に考えれば、当然の成り行きだったとしても、やはり、気持ちの傷は残る。

まあ、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の教えから、教条主義的に考えると、私と彼女は、過去世においてすでに何らかのかかわりがあり、私が彼女に対して為した何らかの良からぬ因縁があり、それがお互いの今生で、今回のような形になってあらわれた、ということになるんだけど、いざ、自分の身にこうした悪い因縁のあらわれと思われるものが降りかかってくると、なかなか納得することができないんだよね。

今までそこそこ世界平和の祈りをしてきたこともあるし、それでもつらい病気と治療以外にも、まだこんな思いをさせられるのかよ、といった私自身の身勝手でわがままな思いもあるし。

五井先生に言わせれば、この世に生を受ける人は、ほとんどみんなが罪悪深重の凡夫で、過去世でどれだけの神様のみ心に適わない、悪い想いと行いをしているか、わからないんだよ、と言われそうだけど、やっぱり、なかなか納得することができないんだよな。

どうしても、唯物論の思考で、自らを正当化して、他人を責め裁くような思考にとらわれてしまう(今回、私が複数回にわたってぐちぐちと自らを正当化して、彼女の非をあげつらうごとく書いてきた内容のように)。

つまり、今回の出来事は、私が過去世において彼女に対して為した悪い想いと行いが、この世にあらわれて、解消されていく姿(←五井先生は、こうしたもの一切を「消えてゆく姿」と表現している)だ、その可能性がかなり高い(五井先生の本に書かれていることを鵜呑みにすれば、 8 割方が相当するらしい)、ということ。

ただ、その原因となる理由=過去世の因縁=彼女と私とのかかわり=がまったくわからないから、納得できないんだよね(逆算類推できないこともないが、やはり、はっきりとわからなければ納得できないし、不満が残る)。

宿命通という過去世を見る能力がないとこうした内容はわからないから(しかも、この宿命通も単なる霊感程度では信憑性が低くて、漏尽通や六神通のような力を獲得したような人の宿命通でないと信用できない、という)。

だから、この世に起きてきた嫌なことを過去世の因縁のあらわれと思うためには、どうしても素直に、もっと言えば無条件に、神様(のおつくりになられたあらゆる世界の仕組み)を信じなければならなくなる訳で。

まあ、よほど、神仏に対する信心が篤い人(例えば、因幡の源左さんのような妙好人のような人)でないと、こうした信仰は難しいのが、一般的だと思う訳で。

まあ、正直なところを言えば、このままでは、彼女のブライドを完璧にへし折って、ぺちゃんこにしないと気が済まないのだが、そんなことはできっこない(彼女の存在は映像としてはわかるのだが、初対面時に自己紹介をしてお互いに挨拶をした時に聞いた彼女の名前(苗字)すら忘れてしまった(お恥ずかしい話だが、私は幼少時から人の名前を覚えるのが大の苦手で、ある程度の長い時間の慣れを経験しないと、すぐに相手の名前を忘れてしまう。彼女の名前も初期段階ですぐに忘れてしまった。まあ、私の無意識にとっては彼女は特別な印象を残さなかったということなんだろうな)し、今さら他の看護師さんに彼女の名前などを教えてもらう気もない(彼女の記憶をさっさと消し去りたくて仕方がないのだが、簡単にはいかない。こういう場合は忘れている名前を聞いた方がいいのかな?とはいえ、他の看護師さん達に訊いても教えてくれるかどうかはわからないが。忘れたままの方が記憶を消しやすいならこのままでいいのかもしれないが、どっちが記憶を消しやすいのかわからない)。だから、私は名無しの権兵衛のような女性に対するわだかまりだけが残る変な状態になっている)し、まあ、なかなか腹の虫がおさまらない話ではある。

以上、急な容姿劣化の発覚により、かなりの脈ありに見えた一人の女性から見捨てられたみっともない男の恨み節をつらつらと書いてきたが、よくよく落ち着いて、冷静に考えてみると。

私が検査で不安に駆られてかなり苦しんでいた時、同時に彼女に去られて、精密検査の結果が良かった、ということは、彼女が離れて行ったことは、私の健康にとって良い結果をもたらした、とも解釈できなくもない訳で。

つまり、彼女は、私にとっては幸運をもたらす良い女性ではなく、私の運気を下げる相性の良くない女性だったと解釈できなくもない訳で。

このように考えてみれば、彼女に去られたことは、かけがえのない「健康」という宝をを保つためには、良かったとも解釈できることになる。

このように考えてくれば、彼女に見捨てられたことは、良しとすべきこと、否、絶対的な幸運をもたらしたこととして、感謝すべきことなのかもしれない。

こうした相性や巡り合わせは、過去世の因縁と同様、特別な能力がないとその裏側にある因果の相関関係はわからないから、このように解釈しておいた方が、精神衛生上も良いので、これでいいのだろう。

かなりのこじつけだが、そう考えれば、多少は気持ちが楽になるからな。

しかし、まあ、ブログだから公序良俗の範囲内でなら許されるだろうと、自分の体験したことをいろいろと好き勝手に書かせてもらってきたけれど、まさか、こんなみっともない話まで書くことになるとは思ってもみなかった。

あと、その他に私が感じたことは、純粋な容姿だけでする男女の恋愛なんて、めったにうまくいくことなんかないのが本当のこの世での現実なんじゃないのかってこと。

ましてや、容姿が整った魅力的な美男美女が、互いに惹かれ合う、純粋な相思相愛なんてケースは、まれもまれの超絶まれで、美しい夢物語にしか過ぎず、現実の世界ではほとんど存在しないのかもしれない、という。

そんなものは、映画やドラマや小説や漫画やアニメの世界の中だけでの話。

よしんばあったとしても、芸能人の美男美女の結びつきなど、かなり限られたケースだけで、世の中の絶対数としては、かなり少ないんじゃないのかってこと。

てな訳で、この世の中で、男女の純粋な容姿だけ、ましてや、生粋の容姿だけでの恋愛なんて、めったに成就することはないのが実情なのかもしれない。

しかし、極端なことを言ってしまえば、こうした男女のかかわりは、すべてうわべだけの恋愛心理戦みたいな恋愛ゲームみたいなもん。

暴論かもしれないが、高村光太郎さんややなせたかしさんのようなご夫婦の結びつきや、長く連れ添い、最終的には互いに感謝しあえるようになった、神様のみ心に適うと思われるご夫婦の結びつき以外はみんな恋愛ゲームでしかない。

どうせゲームなんだから、ある程度冷めた目で、気楽に取り組めばいいのだが、やはり、感情を揺さぶられたり、心を傷つけられたりすることがあるから、厄介なんだよな。

こうした苦しさを味わわなくても済むためには、(豪さんや浜崎さんのような?)超絶モテ人間になって、ほとんどの異性を見下せるようになって余裕を持つか、悟りを開いて、異性関係のすべてを突き放して、平穏な境地にいるしかないだろうな。

となると、あまりにも現実味のない話( (現代で難行道で悟りを開くなんてまずというか絶対に)不可能だし、潜在意識を活用するにしても、豪さんや浜崎さんのような達人には簡単になることはできないと思うので )になってしまうから、現実的な対処としては、(女性は本音と建前の差が超絶激しいことと、生理などの問題もあるためか、どうしても気分屋で感情の動物という特徴を色濃く持つので、彼女達に振り回されないためにも)自分軸で生きるようにすることと、「今今メソッド」のように時間は今しかないとしてやっていくしかないだろうね。

俺が今回、複数回にわたってネチネチと、惨めに捨てられた男の恨み言のような文章をみっともない形で書いてきた行為は、かなりネガティブな想いを伴う行為だし、いわば過去を生きているようなもので、今を生きていない。

過去を再定義するにしても、過去を変貌させる(過去を変貌させる話は、今今メソッド開発者の 108 さんの話に出ている)にしても、今を良く生きるためにそうしなければ、今を生きていることにはならない。

だから、少しでも気持ちの整理をつけたら、世界平和の祈りなどといった各種の祈りや、巷に流布している心を落ち着けるための各種メソッドを用いて、心を整えていくる必要があるだろうね。

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(追記3)
上記に書いたように、実は ( 229_節約 - おぶなより2 ) は、上記の彼女や彼女のように嫉妬煽りなど、男性に対するねじまがった(よく言えば婉曲的過ぎる)態度を見せる女性に向けて書いたもの。

女性は男性に比べて、腕力(暴力)や社会的地位などの権力でどうしても不利な立場に立つ場合が多いので、いろいろな意味で自らの保身を最優先にするのはやむを得ないことなのかもしれない。

だから、本音と建前の差が超絶激しいし、めったに本音を出してくれないのもおそらくこの保身が最優先となっているため。

そんな訳で、全方位あらゆる面で、自らが傷つくことを極力避けるように、常に細心の注意を払って行動しているように見える。

もちろん、これは恋愛にも色濃く反映されていて、意中の男性に対して自分から積極的にはっきりとした告白などの直接行動を起こす人はまれで、基本はあくまでも受け身で、男性に気づいてほしいと何らかのサインを出すような女性が大半であるかのように。

つまり、男性に対して積極的な女性にしろ、消極的な女性にしろ、(男性からするときわめてわかりにくい婉曲的な)何らかのサインといった形で、撒き餌をして、何とか男性に自分の好意を気づいてもらえるように仕向ける女性がその大半を占める、ということ。

異性に対するアプローチとして見ると、男性のアプローチが直情怪行型のわかりやすいアプローチなら、女性のアプローチは間接的なサインや匂わせなどといったきわめて婉曲的でわかりにくいアプローチ、というように。

あくまでも、自分が傷つかないように、とにかく傷つかないように、と用意周到に様々な細かい予防線を張るような振る舞いをするから、女性心理に疎い、大半の真面目な男性にはこうしたサインがまったくと言っていいほどにわからないとしか思えないんですよ。

まあ、そんな具合だから。

女性の皆さんも、せっかく意中の男性に巡り合えているならば、またとないその好機をいかして、勇気を振り絞って、自分から正面切ってアタックしてみたら、と言いたかった訳で。

好みの男性や、意中の男性に直接出会えるチャンスそのものが、そもそもなかなかないと思うから(男性はストライクゾーンが広くても、女性はストライクゾーンがかなり狭いような気がするので)。

言い方は悪くなってしまうけど、どうせ後悔をするのなら、チャンスを活かさない後悔よりも、チャンスを活かした後悔をする選択をしてみたら、と(この場合なら、チャンスを活かした分、満足度は高いし、いずれ何らかの後悔をすることが出てきたとしても自分が選択したことだから、とそれなりに納得ができるはずだと思うから)。

それが、( 229_節約 - おぶなより2 ) で言いたかったことです。

まあ、もっと深く霊的に見ると、長い長いスパンの輪廻転生を通していずれかかわり合うことになる因縁のある者同士ならば、何世もわたって、男になったり、女になったり、としてかかわり合いながら、ダラダラともったいつけていないで、さっさと早いとこ因縁を解消させてしまう・消化させてしまう方がいいでしょうよ、ということ。

それにしても。

今回、俺が未練がましく恨み言めいた駄文をつらつらと書いてしまったことで、また、来世以降、彼女とはいずれまた何らかのかかわりを持つことになるんだろうな。

本来なら、妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さんのように、こうした嫌な出来事も、すべては阿弥陀如来様(神様)の思し召しとして、感謝一念で対処すべきところだろうけど、なかなかあんな風にはできないよ。

やはり、やられた(=心を傷つけられた)分、「こんちきしょう」という想いを抱いてしまう。

これは、業想念(=神様のみ心に適わない肉体人間の想いと行い)だから、消滅させるための過程がいずれは(来世以降に)起きてくる可能性が高いから。

だから、とにかく、今生では未来永劫かかわらないことと、世界平和の祈りをひたすらすることで、何とかこの悪い因縁が(来世以降に)発現しないように努めるしかないな。

そして、できることならば、彼女とは来世以降、二度と会わずに済むように、この悪因縁は今生だけで終わりになるように願っている。

235_淡々

ここわずか数ヶ月で、気づかない間に急激に外見がかなり変わってしまっていた。

しばらく頭髪を伸ばしたままで、頭髪全体かなりむさ苦しくなっていたし、頭もめったに洗わなかったから気づかなかったのだが、頭髪を五分刈りにしてみた( 2025 年 09 月頃)ら、頭の左右の生え際がかなり後退してしまい、登頂部から額にかけての毛がかなり減ってしまったことがわかったからだ。

約 1 年前(下記に記した治療が始まる 1 カ月前。 2024 年 9 月頃)に、スポーツ刈りに近いかなりの短髪にした時には、まったくこんなことはなかったので、自分でもびっくりした。

何だこれは、という感じ。

元々は、毛量が多めで、毛をすきますか、と理髪店で何回も訊かれたことがあったし、下記に記した治療を始める直前まで(=つまり、約 1 年前まで)には、年齢的なこともあり、ほんのわずかながらの変化はあったとは思うものの、それなりにかなり毛量が多かったので、これほどまでの頭髪の急激な変化は経験したことがなかったからだ(だいぶ前にとある治療で髪の毛が多少抜けたことはあったが、その量が今回よりもずっと少なかったし、毛量もすぐに回復した)。

いくらありがたいことで、感謝しなければならないことだとはいえ、場合によっては数時間も疼痛を耐える治療(これが始まったのが 2024 年 10 月頃から)を受けたりすれば、そりゃあ身体に影響が出ないはずはないよな、とは患者としては思う(お世話になっている医療従事者と医療関係者の合わせて数人の皆様(医師( 1 人)や看護師さん( 3 人)さらには薬剤師さん 1 人)にも訊いてみた)に訊いてもこうしたケースはないと否定されてしまったけれど)。

だが、不思議とあまりショックはなく、割合に気持ちが淡々としている。

世の中には、頭髪の問題では悩んでおられる方もそれなりにおられるようだから、こうして自分もそうした感じになると、もっと激しく悩み苦しみ、煩悶するものかと思っていたが、なぜか気持ちは淡々としている。

健康な他者を羨み、わが運命を呪い、わが身を憐憫し、神様を呪うような初めて難しい病気を発症したかつて抱いたことのある気持ちは、今のところはわきあがってこない。

数ヶ月前まで味わってきたことのある、私固有の異性に関する数々の不思議な体験?は、もう経験できなくなるかもしれないと思っても、なぜかあまり激しい落胆の感情も起きてこない。

もちろん、怒りの感情も。

本当に自分でもどうしてなのかはわからないのだが、不思議と気持ちは基本的に平穏なままだ。

(日本の宗教家五井昌久さんが提唱した)「世界平和の祈り」をぼちぼちとやってきたことや、「般若心経」や「延命十句観音経」や(観音菩薩普門品第二十五の)「観音経普門品偈」を唱えたことのためのご利益なのか、はたまた、「引き寄せ」をそれなりに研究実践した成果なのかどうかはまったくわからないが。(*1)

まあ、元に戻るかもしれないが、何とも不思議な気持ちではある。

ーーーーーーーーーー

(*1)実は「阿弥陀経」なども唱えたことはあるのだが、あまりにも長い(=私にとっては長過ぎる)ので今は唱えることはしない。

私には唱えるお経自体の長さとしては、「観音経普門品偈」(観音経普門品の全体を唱えるとかなり長くなってしまうので私は偈(「げ」と読む。現代的に言えば詩に相当する)の部分のみを唱える)や「大悲呪(大悲心陀羅尼)」くらいの長さまでのお経を唱えることが、実質的な限界なのでね。

これはあくまでも私の独断と偏見だが、読経などを個人的に日々の習慣などとして実践するにしても、読み上げる文言の長さとしては、せいぜい 5 ~ 6 分くらいまで(つまり「観音経普門品偈」や「大悲呪(大悲心陀羅尼)」くらいの長さまで)が限界なんじゃないのかなあ。

そんな気がするんだけど。

ちなみに。

「世界平和の祈り」や「延命十句観音経」はいいですよ。

「お経」=「真理の言葉」としては、とにかく短い(全文を唱えるのに 1 分とかからない)からね。

「延命十句観音経」を 3 回 1 セットで唱え、前後に「開経偈」(かいきょうげ)と「回向文」(えこうもん。開経偈と回向文を平たく言うと、お経を唱える前後の仏様(この場合なら観音様かな)へのご挨拶と思ってもらえばいい)をつけ加えても、まあ、短いですからね。(*2)

その点では、「世界平和の祈り」が一番短く現代的だから、いいのかもしれないな。

角度を変えて言うと、

観音様(=観音菩薩様)に救って頂きたい)現世利益最重要視ならば、「延命十句観音経」を選び、

現世利益にこだわらず、神様の分けられたお命(つまり、神様としての永遠の命)を通しての霊性の開発最重要視ならば、「世界平和の祈り」を選ぶ、

ということになるのかもしれないね。

ーーーーー

(*2)順番は以下の通り。

①「開経偈」を 1 回唱える(お経を唱え始めるに当たっての始めのご挨拶。回向文もそうだが書き下し文ではなく白文を唱える方がいいだろう)

②「延命十句観音経」を 3 回連続して唱える

③「回向文」を 1 回唱える(お経を唱えた後の締めくくりのご挨拶。①と同様になるべく白文で)

これで、1 セットで完結。

~~~~~

(追記1)
上記に記した「世界平和の祈り」と「延命十句観音経」、「開経偈」、「回向文」の詳しい文言や、祈る(あるいは唱える)際の心構えや祈り言葉を唱える回数その他の注意事項などについては、お手数をおかけして申し訳ありませんが、皆様ご自身で、お調べ頂くよう、伏してお願い申し上げます。

なお、「書き下し文」と「白文」についても同様にお願い申し上げます。

いつもなら、それなりに引用して、素人なりに努めて平易にやさしく解説するなり、それなりの詳しい注釈を施すなり、すべきところかもしれませんが、最近はいろいろとつらいことがあったり、身体的にもかなり疲れているのでね。

今回は、奉仕をサボらせてもらいます。

調べたい方の好奇心に期待します。

悪しからず、ご了承下さい。

~~~~~

(追記2)
「引き寄せ」で思い出したんだけど、「豪さん」は面白いな。

「ブレインダンプ」の話をあんまり聞いているとちょっと苦しくなってしまうけれど、

「今の冷蔵庫の開け方はメッチッャカッコよかったな、さすが俺」

「腹が出ている俺もカッコいいな。
てか、よくこんなに腹を膨らませたもんだ、スゲエ」

などを聞いていると、思わず笑ってしまう。

幼少期から喘息があり、小学生時代に悪魔のような凶悪人間 N に長い間いじめに苦しんで、散々、自尊心を傷つけられてきた俺も、これぐらいの気概?を持たなきゃダメだよなあ。

嫌なことやつらいことがあってもこれぐらいの勢いで、瞬時に気持ちをひっくり返せたらいいな、とつくづく思わされる。

「根拠のない自信」

これをどうやって醸成する(=潜在意識に刷り込む?)のかはわからないが、やっぱり199 さん式の「アファ(アファメーションの略)」しかないのかな。

ただ、あの箇所は、聞いていて面白いし、何となく勇気をもらえるような気がするんだよね。

気が小さくて、小心者で、不安や恐怖に弱くて、ビクビク癖を持ち、クヨクヨしがちで、他人様に対してあまりにも気を遣い過ぎる俺にとって、あんたの場合なら、他人様に気を遣わず、自らを奮い立たせるために、これぐらい不安をなぎ倒すほどの自信を持つべきなんだよ、と教えてもらっているような気がして。

「あんたもこれぐらいの自信を持って生きてみろよ、楽だし、楽しいぜ」って。

「たった一度の人生なんだよ、どうせなら、縮こまらずに強気で生きていこうぜ」って。(*3)

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(*3)五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)流に考えれば、輪廻転生を通して少しでも神様のみ心をあらわした肉体人間に近づくために、精進をしていくべき、ということになるんだろうけど、特別な人を除き、来世以降は、みんなそれまでの過去世の記憶を消された上で、この世に生まれてくる場合が大半なのだから、つまり、大半の人は過去世の記憶を引き継げないままにこの世に生まれて来て、しかも来世以降にそれまでの過去世の記憶を消されて生まれなおして来る訳だから、実質は、大半の人が「人生一度きり」と思って生きていくようなもんだもんね。

それに、輪廻転生を通した、永遠の神様のお命(神様の分けられたお命)の視点から見ても、その時点での人生=今生を悔いないようにより良く生きるべき、精一杯生きるべきだから、まあ、許してもらえるかもしれないかも?

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(追記3)
上記に気持ちは平穏だと書いたし、基本的にはその通りなのだが、一つ気になることはあった。

ただし、以下に書くことは、私の独断と偏見による荒唐無稽な超誇大妄想であり、明らかな世迷い言であることを、あらかじめご承知置き頂きたい。

とても見苦しい話なので、お許し頂きたい。

実は、治療でお世話になる看護師さんの中に、どうもかなり私に気があるのではないか、と思われる女性がいた。

年齢は、20 代半ばといったところか(たしかモブさん(下記に記してある)に 20代と話していたから)。

頭髪は金髪か、金髪と茶髪の中間といった感じに染めていて、ちょっと芸能人のような感じのする、派手な雰囲気をまとった人だった(ただし、残念ながら私は彼女の顔の全容までは知らない。私が彼女の顔を知っているのはあくまでも「マスク顔(マスクを顔に装着している時の顔全体)」だけだ。マスクを除いた顔だけから想像する限りでは、彼女はかなりの美人なのだろうと思われた。なお、ある偶然(かなりの血圧降下と急激な嘔吐感に見舞われて吐きそうになり、いつ嘔吐してもいいように準備をしてマスクを外していたため)により彼女は私の顔の全容を知っていた。その時には、彼女以外の他の 2 人の女性の看護師さんにも私の素顔を見られてしまっている。初対面時はお互いにマスク顔だったが彼女に素顔を知られてからも反応や態度はまったく変わらなかったので、彼女から見た私の素顔はマスク顔から想像する期待値を上回るか、同等で、少なくとも期待値を下回ることはなかったと判断している)。

いろいろ書いてしまうと、長くなるので簡単にはしょるが、要はかなりの脈アリに見え、しかも最近頭髪をわざわざ黒髪にした(私は彼女に出会ってから数ヶ月だが、彼女の黒髪は初めて見た。多分、私の性格があまりにも地味だし、反応が鈍いからそれに合わせて変えてくれた?のかもしれない。髪型もポニーテールのようにして、以前の派手でゴージャス?な感じから一転して全体的に一般的な看護師さんに多いおとなしめの雰囲気に変わった)人が、私が頭を五分刈りに短くした直後から、ぷっつりと姿を見せなくなったのだ。

消息を聞くことはしないから、正確なことはわからないのだが、それまでの通常の感じからする(直前の日までかなり見かけていたし、私のところにも直前まで処置にも来ていたから)と、どう考えてもいなくなったとしか思えない。

他の看護師さんの話を小耳に挟んだ(私を処置しに来た 2 人の女性の看護師さん達がどういう訳か、私を処置しながら、わざわざ私の目の前で「新しい職場云々」の話をチラッとしていたから。ひょっとしたら、私に対する何かの匂わせなのかな?直感的に、雑談にしては何か変だ、妙だ、と感じたので。女性ははっきり言わずにこのようにほのめかすやり方が非常に多い)感じからすると、どうも新たな違う職場に転職したようだ。

おそらく、彼女はこう考えたのではないだろうか?

私が頭髪を伸ばしている時には、部分的に減る部分があってもそれなりに周辺の毛量が多かったので、わかりにくかったのだろうが、五分刈りにして、頭髪の全容がわかって、かなりのショックを受けたのではないか?

彼女にしてみれば。

何てことなの。

自分は、こんな男に懸想していたなんて、何て情けない。

コイツ、私の 20 代の大事な数ヶ月を無駄にさせて、何てことなの。(*4)

ここ 1、2ヶ月前からの彼女の態度に対する応対が正直ちょっと苦しくなってきていて、ごく最近は私も彼女にそれなりにやわらく(=要するにやや好意的に)接するようになってきていたこともあるから、これから先、こんな容姿の男なんかに懸想され、近づかれたら大変だわ、と逃げ出したのではないか、と思われるのだ。(*5)

まあ、つまるところ、こうした容姿になってしまった男の実態?がしゃくに障って頭にきたし、もう用なしの煩わしい邪魔者(悲惨な扱われ方だね)になってしまったから、万が一にでも近づかれて、かかわられたら大変、一目散に逃げ去るしかないわ、ということなのだろう。

または。

こんな男(美人?の彼女にしてみれば明らかに容貌の変わってしまった俺は完全に恋愛対象外になってしまったから)に懸想していた今までの彼女自身自らが情けなく、悲しくなり(激しい自己憐憫の一種かもね)、こんな男を目にせざるを得ない職場にいることが、つらくて耐えられなくなってしまった、ということなのかもしれないな。

まあ、彼女の気持ちにほとんど(わかりやすい形で)応えなかった私にも非があるのかもしれないが、好き勝手に懸想して、好き勝手に夢想して、好き勝手に逆ギレして、去ってしまうというのも何だかなあ。

ちょっと、ひどくはないかなあ。

まあ、これも俺の過去世の悪い因縁のあらわれなのかな(つまり、俺が悪いのかな)。

彼女だって、20 代なんだし、まだまだ若すぎるほど若いのだから、数ヶ月の時間の無駄も許してもらいたいね(実は彼女と私にはかなりの年齢差がある)。

(以下は彼女に向けて書いている。まあ、彼女がこの俺の文章を読む可能性は万に一つもないだろうが)

別に、俺はあなたを悪意を持ってだますことなど何一つしてはいないし、何一つのウソもついていないし、ごく普通にして、生きていただけなんだからさ。

ーーーーーーーーーー

(*4)でも、俺から言わせてもらえば、別に俺はカツラをつけていた訳ではないよ。

今までカツラをつけたことは、幼少期にふざけて親戚(伯母)のカツラを被ったことくらいしかないのでね。

ただありのままに髪を伸ばしていただけ。

それだけだよ(理髪店は料金が高いしね。ちなみに。俺はオシャレが大嫌いだからさらに高額となる美容室には行かない。行ったこともない。今流行っている?カットだけの 1000 円ちょっとの店も行ったことがあるのだが、スポーツ刈りはできないと言われてしまい、それに近くしかすることができなかった経験がある。スポーツ刈りや五分刈りをするためにはどうしても理髪店に行かざるを得なかったという訳)。

頭ボサボサの時でも、スポーツ刈りの時でも、五分刈りの時でも、俺はそれなりに、何のごまかしもなく、ただただ、ひたすらに、(頭については)真っ正直に生きていただけ。

何一つのウソもごまかしもないんだよ。

ーーーーーーーーーー

(*5)実は私は、( 229_節約 - おぶなより2 ) に書いた意中の男性に嫉妬させるために近くにいる、モテるとは思えない(すみません)複数以上のモブさん(この場合は私のすぐ近くにいる男性患者さん)と超親しげに振る舞う(または、声をこれみよがしに聞かされる)経験を、彼女から何度もされている。

あそこに書いたのは、その他の経験も含めての、すべては私の実体験だったのである。

私も悟りを開くには程遠く、まるでできていない人間だから、自分のごく近くの前後周囲の明らかなモブさん(ごめんなさい)とのこうした姿を見せつけられる(または、声を間近でこれみよがしに聞かされる、しかも鈴を転がしたようなきれいな声で)と、どうしても動揺しないでははいられなかった。

自分をそれなりに何とか律してはいても、ほぼ目の前で繰り広げられることの多いこうした嫉妬煽りに耐えるのは、やはり、男としてはかなりつらいものがあったのである(今となっては、もうあの楽しげな姿を見せつけられたり、楽しげで、これみよがしな鈴を転がしたようなきれいな笑い声を聞かされることもなくなったので、ずいぶんと楽にはなったのだが。逆にモブさん達は、火が消えたように静かになってしまった(でもこれが医療機関内の本来のあるべき姿ではないだろうか?)から、かなりさびしくなってしまったかもしれないな)。

なお、実は彼女以外にも、なんかちょっと・・・という人はいたし、管理栄養士さんも初対面なのにもかかわらず、「お会いするのを楽しみにしていました」だの「ラブレターがどうの」など不思議なことを言う(一回も会ったことがないのに何でこんなことを言うのか意味がわからない。訳を聞くこともできなかったし)女性がいたりした( 2024 年の 11 月か 12 月頃)のだが、今( 2025 年 09 月頃 )は変貌してしまった私の容姿も含めてこれらの話については割愛させて頂く。

ご了承頂きたい。

あと、これは余談で。

父に聞いた話だから、かなり古い話になってしまうのだが。

父の役所の人で看護婦(当時の女性の名称)と婚約した男性がいたそうだ。

しかし、その男性に頭の命にかかわる難しい病気(病名は控える)が発覚したために、女性から婚約が破棄されてしまったとのこと。

そして、ほどなく、その男性は(確か数年で)お亡くなりになってしまったらしい。

まあ、その女性にしてみれば、仕方がないこと(=やむを得ない選択)だったのかもしれないが、何ともつらく悲しい話ではある。

私の場合も、取りようによっては、容姿の突然の急激な劣化の発覚により、かなりの好意を示していたはずの美人女性?(「マスク美人」なので真偽は不明(=本当に美人なのかどうかはわからない)。私は正式な彼女の顔を確認できずじまいのままになってしまった)から、見事に逃げられた(=捨てられた)ようなものだから、何とも世の世知辛さと言うか、やるせなさを感じる話ではある(他の看護師さんは、多少の好意的対応が減ったりしたことはあるが、まったく変わらない(むしろ、気の毒に思ってくれたのか、ほんのちょっぴりやさしくなった?)人もそれなりにいるので、やはり、あの有り様は、彼女特有の対処だったとしか思えないな。つまり、彼女固有の「人格の問題」ということ)。

高村光太郎の智恵子抄の話や ( 005_読解 - おぶなより2 ) の最下段に書いたやなせたかしさんのご夫婦のような話は、現代では奇跡なのかもしれないな。

まあ、私は元々、素のままの人間の有り様が大好きだ(=つまり、神様のみ心に適うと思っている)し、生まれながらの純粋な日本人(つまり、黄色人種)でも、かなりのソバカスの色白肌や髪の毛が細く自然な茶髪のやむを得ない生まれつきの人ならいざ知らず、彼女のような元々がおそらく太く固い黒髪と思われる人が、金髪か金髪と茶髪の中間色?に染めていたり、濃い化粧(彼女はモブさんに「大工事」と言っていたな。彼女は、化粧には相当強いこだわりを持つ人なのだろう)には(失礼ながら)正直、かなりの違和感や嫌悪感を抱いていた(俺なんか最低限の清潔感の確保をするだけで、やむを得ず髭や鼻毛や服についたフケに気を使うことぐらいで無化粧。以前は理髪店ですすめられてブラバスのヘアクリームを使ったこともあるが、今はこれもやめてしまった。シャワーや入浴などで最低限体をきれいにすることはしても、乳液や香水などはまったく使ったことがない。元々はかなりの色白で紅顔のために、肌の手入れをまったくしないでほったらかしにしていたから、シミやソバカスがひどくなっていたのだが、これはレモン酢(よく皮を洗ったレモン本体とお酢の摂取)でかなりの程度解消できた)ので、大体において相性が悪かったということなのかもしれないな。

ちょっと、捨て台詞みたいになっちまったけど、まあ、こんなもんだろう。

もう、いいや。

捨て台詞ついでに、ウサ晴らしで書いちまおう。

マスク美人であり、あくまでも推定美人にしか過ぎない(ごめんね)彼女ではあるが、自意識はかなり強いだろうから、やはり、彼女は自分自身のことをかなりの美人だと自認していると考えられる(以下、彼女のことを「あなた」と記す。彼女がこの文章を読むはずもないが、それでも、以下は、彼女に向けて書く)。

しかし、出会った当初に、「わあっ」「パアッ」反応(私の今までの経験上、女性に見られてきた特有な反応のうちの一つ。すでに別の記事で触れた)のようにして、俺の顔を覗き込むことが数回あったから、身長を含めた容姿の上下関係からすると、明らかに俺の方が上だな(俺は背が高めで 180 cm くらいだが、彼女は特別な高身長ではなく、標準の 160 cm 前後という感じという点も含めて)。

美人だと自覚しているあなたではあるが、それでも身長を含めた容姿に限っては俺のことを異性として間違いなく「格上認定」をしているということが、初めて出会った瞬間に俺にはすでにわかってしまったんだよ(実はね)。(*5ー1)

俺だって、伊達に何十年も生きてきた訳じゃないんだから、それなりのある程度の女性との出会いの経験はしているからだよ。

仮に、あなたのような(マスク美人なのであくまでも仮定にしか過ぎないが)美人とされる女性が、容姿を含めて俺に異性としての魅力を感じたとすれば、

それはすなわち、

世の中の女性のうち、あなた以外のかなりの数の女性もあなたと同じように、俺に対して異性としての魅力を感じていた可能性がそれなりにあった、

ということに他ならないのであり、

従って、俺に異性としての魅力を感じた度合いに従って、そうした女性達が俺に対して女性としての数々の様々な反応を示してきたという事実が、

あなたの与り知らないところで、かなり前から、もうすでにそれなりに存在していた可能性があった、

ということに他ならないんですよ。

この意味、わかりますよね?

つまり、私は、あなたに巡り合うずっと前から、あなたとまったく同じ反応(「わあっ」「パアッ」反応)を示した、相当な数の女性とすでに出会ってきているのです。

こうした出会いの経験をかなりの程度積んで、女性の反応を観察する眼を養ってくれば、女性の特定の反応をみれば、ある程度、彼女達が抱いている気持ちを推察することができるようになってくるのは、至極当たり前なことなんですよ。

そうでしょう?

私は、幸か不幸か、こうした経験をそれなりに積んできたために、好感を抱いてくれていると思われる女性の反応がどのようにあらわれてくるかのを、ある程度パターン化した形で、わかっているのです。

だから、わかるのですよ。

経験値としてね。

仮に、異性にアピールできる容姿絶対値なるものがあるものとすれば、あなたが「この男は自分よりも(こと容姿だけに限っては)明らかに絶対値が上位にある人間だ」と認識している、ということがわかってしまった、ということなのですよ。

なんと、初対面でね。

つまり、俺と初めて出会った時に、あなたがああいった反応を思わず出してしまった事実によって、実は、俺はあなたとの恋愛勝負の初期段階で、形式的な勝負はすでについていたことがわかっていたの(つまり、順当に行けば俺の勝ち判定のままで終わりになるはずだった(形式的な勝負の判定はお付き合いなどでのかかわりを持つ実戦には一切関係がないから))。

それなのに、意地悪なのか?俺に対してその気持ちのままに、素直にやさしく接してくれればいいのに、そうすることはほとんどなく、周囲の男性患者さんに、やたらにこれ見よがしに親切に振る舞ったり(女性患者さんに対してはまあ普通かな)、俺に向けての嫉妬煽りがあったりと、わかりにくいねじまがった行動に出てくる。

これでは、いくら世界平和の祈りをしても、心を静め切ることができず、正直、結構やきもきさせられたよ。

あなたの素直ではないこうした振る舞いに心乱されて、無関心を装い、世界平和の祈りで送り出す、いつものやり方ができなくなってしまったからだよ。

挙げ句の果ては、急激な容姿劣化の発覚で一方的に切り捨てられたんだから、俺も本当にカッコ悪いよな。

まあ、それでも。

あなたは俺の心に多少の傷痕は残していったが、冷静に考えてみれば、治療は続くのだし、あなたが俺の目の前からきれいサッパリとその姿を消し去ってくれたことは、結果的に良かったのだ、と解釈すべきなのだろうと考える。

これでいいのだ、と。

俺自身のためにも。

もちろん、若くて、光輝く無限の未来の可能性を秘めたあなたのためにも。

とにかく、あなたとの記憶が薄まり、心の傷痕が癒えるように、世界平和の祈りをすることにしよう。

それに。

あなたのような若い女性と、ほんの少しのプラトニック上ではあるけれど、かかわることができたことだけでも、俺みたいな男からすれば、本当にありがたい、と心から感謝しなければならないことだからね。

ただねえ。

こんな目に遭わされるのなら、やはり、あなたの素顔だけはどうしても知っておきたかったな。

あなたは、俺の素顔を知っていても、俺はあなたの素顔をいまだに知らないままなのだから。

マスク顔だけじゃ、容姿の正式な判定はできないんだよ。

わかるでしょ、この気持ち。

まあ、あなたの示した反応からすると、大変失礼ながら、(素顔がわからないからあくまでもマスク美人としか言えないがとりあえず美人と仮定すると)美人とはいっても、最上級とまではいかないのかもしれないな。

なぜならば、俺のことを明らかに格上認定していたからさ。

俺を明確に格上認定した、ということは、残念ながら、あなたの異性にアピールする容姿の絶対水準値は、よくて以前の俺と同等か、それ以下、ということだからね。(*5ー2)

それを確認できないままに姿を消されてしまったから、やっぱり、モヤモヤした割りきれない気持ちなんだよ。

ーーーーー

(*5ー1)極端なことを言えば、肉体人間の男女は、(幼児はどうなのかわからないが)老若男女を問わす、初めて出会った瞬間に、バチバチと勝負の火花を散らしているのさ。

または。

お互いの異性の魅力を認識する電算機(コンピューター)が、相手の魅力度と自分の魅力度を天秤にかけて、瞬時にその優劣の答えを弾き出しているのさ。

だから、初めての男女の出会いがあった場合には、必ず、その魅力度の上下関係も判定されて、お互いに異性としての魅力度は、わかっているはずのものなのさ。

ほんのわずかな一瞬でね。

だから、こんなものは、そもそもが、誰にでもわかっていなきゃおかしいものなの。

といった次第で、男女が初めて出会った時に、上位認定などといったものが電光石火の瞬時になされてしまうという訳なのよ。

今は、必須とはならないまでも、マスクをしている人が一定数いるから、なかなか他人の素顔がわからない場合もそれなりにあるが、基本はこうだ、ということ。

ーーーーー

(*5ー2)以前の俺と同等かそれ以下、とは、どういう意味なのか、というと。

以前の俺というのは、頭の状態が五分刈りによって、露になる前の俺、という意味です。

以下は、あくまでも、異性にアピールできる容姿のみを対象とします。

したがって、家柄、財力、仕事の能力、人柄、性格といったものは、一切、度外視します。

あくまでも、容姿のみ、外見のみを話の対象とすることにします。

男女を組み合わせにした場合、男性と女性の容姿の、ステレオタイプの釣り合いというものがあると思います。

およそ、美男には美女がふさわしい、というように。

あなたが俺を上位認定した、ということは、あなたは自分自身の容姿をよくて俺に釣り合う、あるいは、ふさわしい、のが上限だと考えている、ということです。

ですから、あなたご自身の容姿の自覚としては、俺があなたにふさわしくなくなる、俺があなたと釣り合いがとれなくなる、すなわち、あなたご自身が、俺を明らかに超えて不釣り合いな最上級の超美人とは思っていない、ということです。

あなたは、最上限で、俺と釣り合いがとれる程度(水準)の美人と(無意識でしょうけど)思っていることになるのです。

もしも、あなたがご自身をこの世の最上級の超美人と思っているならば、おそらく、俺ははるか格下の大したことのない容姿の男として、見下されてしまうことになるはずです。

そうはならずに、俺を上位認定したということは、そうではない、いうことになるのです。

これが、以前の俺と同等かそれ以下、という言葉の意味するところです。

例えば、私は美人だから、あの男性(ひと)にふさわしいわ、とそれなりに容姿の秀でた男性をターゲットにする場合には、あなたは、自分の容姿の水準と、ターゲットとなる男性の容姿の水準を(無意識にでも)電光石火の瞬時に比較・検討して、それなりに想いを寄せるようになっている、ということです。

しかし。

世間には、男にもともとそなわっていた、容姿やら、金やら、健康やらと、当たり前のようにあった良い条件がなくなると、冷酷かつ冷徹にこうした男を見捨てる女の話があるようだが、まさか自分がそんな当事者になるとは思ってもみなかった。

まあ、こうした冷酷かつ冷徹な女は、今生では、未来永劫無縁にするに越したことはないね。

男にしてみれば、悔しさも残るだろうし、未練も残るだろう。

スパッと忘れ去るのが、難しいのが実際のところだろう(俺もそうだし)。

だから、気持ちを無理にでも切り替えて、できる限り、ご機嫌でいることと、何か没頭できる良いことを見つけて、過去のこうした女の記憶が薄れるように過ごした方がいいだろうね。

ああした女達には、今生では未来永劫、金輪際、時間と労力をとられる無駄なことは絶対にしない(もちろん、復縁なんかは論外)、と固く決意できれば、申し分なしだけどね。

これは俺の勝手な分析だが(以下は、きわめて下品な内容となることをあらかじめご了承頂きたい)。

なぜ、見捨てられる男は、見捨てる女に未練を持つのだろうか。

考えられる可能性としては、艱難辛苦をともに分かち合い、この世を生きて行くための必須の伴侶としての未練は、ほんのわずかで、ほとんどないんじゃないのかな。

可能性で言えば、こうした自らを捨てた女に未練を抱く全体を、100 % とすれば、0.1 %くらいの。

自分が事業を拡大して夢を叶えるためには、どうしてもこの女に、裏方で支えてもらわなければならない、といった場合しかないように(過去世の因縁による「霊体の結びつき=魂の結びつき」もあるだろうけど、これは顕在意識ではほとんどわからないと思われるので)。

もしくは、女が「この男は」と見込んだ男を、徹底的に支えて、どんな困難に遭おうとも、一流の男に育てあげる場合とかくらいしかない(なお、類いまれなる悪妻は、これとは違った意味で男を一流にする力を持つようだ)、と。

あとの可能性のほとんどは、恋愛をする楽しみとセックス(いつかはセックスにありつけるかもしれないという可能性という意味)への未練だろう。

しかも、セックスへの未練にかなりの重き(=おそらく、99.9 % 以上の)を置いているような。

男としては、無意識かもしれないが、これが本音なのではあるまいか。

女性の文章を読んだり、観察していると、女性は恋愛という行為に、楽しむ=「恋愛に夢を抱き」、「恋愛に酔う」嫌いがあるように思われるのだが、これは男には、(恋愛に淡い気持ちを抱く幼少期や少年期以外には)ほとんどない(=おそらく、0.1 % くらい)、と考えられるためだ。

このように考えてくると、女に未練を持つことは、要は、セックスを完遂させたいという、女の体だけ目当ての、霊性には適わないことになるから、こうした意味合いからも、容姿、金、健康で落ちぶれた男をいとも簡単に見捨てるような「冷酷かつ冷徹な女」は、即座に縁を切り、絶対の絶対の絶対に(笑)、今生では未来永劫かかわらないのが良い(=性欲は満たせなくても霊性を落とさずに済む)、と考えられるのである(万が一、何かしらかかわらざるを得えなくなった場合でも、あくまでも、「単なる顔見知りの知人」として、徹頭徹尾、最低限のうわべだけのかかわりにとどめるようにする。上記のように未練たらしい復縁などは論外)。

つまり、人として、神様の分けられたお命を本質とする肉体人間としての、最低限の敬意を払うまでにとどめて、それ以上は、絶対にかかわらない、絶対に深入りしない、ということ(万が一、迷いが出たり、気持ちが乱れた時には、ひたすら「世界平和の祈り」で対処して心を落ち着けるように努める)。

以下は、霊的なことを唯物論で分析するわけのわからない話となるが。

容姿、金、健康で「落ちぶれた男」をすぐに見捨てる「冷酷かつ冷徹な女」は、そもそもが、人としての確かな信頼関係を築くことができない人間なのだ。

恋愛の誘因に、いかにメスがオスを求めるという動物的な本能や、金が潤沢にある経済的な力が影響を及ぼすとしても、その根底にあるのは、人と人とのかかわり=信頼関係にあると思うのだ。

男女の出会いの縁なんて、大した深みのないものに終わるかもしれないのがその大半だとしても、後々、また何の目には見えない過去世の因縁があって(恋愛関係以外で)出会ってかかわりを持つことになるかどうかは、未来を見通すことのできない私達一般人にはわからないからだ。

一期一会ではないけれど、恋愛感情を除いても、人との出会いとかかわりには、最低限の敬意と配慮が必要だと考えられるためだ。

落ちぶれた男を、いとも簡単に冷酷かつ冷徹に見捨てる女は、こうした信頼関係を結ぶに値しない、ただこの世の目に見える利害得失関係だけでしか人や物を見ない、きわめて唯物論的な人間なのである。

仮に、人と人との関係を、神性と神性との間の架け橋に例えるならば、こうした女は、ちょっとでも即物的な利害が絡めば、神性という目には見えない尊い架け橋(外見などの目に見える表面的な要因ではない、奥深い魂と魂とのつながり)を、いとも簡単に木っ端微塵にぶち壊してしまう、冷酷かつ冷徹な人間なのだ(つまり、それほどまでに唯物論でしか物事を判断しない、霊性が開発されていない人間だ、ということ)。

だから、こうした女には、なるべくなら今生では絶縁して、世界平和の祈りをすることで、あくまでも遠巻きに彼女の霊性の向上を願うべきなのである(本来ならば、世界平和の祈りとともに、冷酷かつ冷徹な女の天命がまっとうされることを祈り、彼女の守護霊様と守護神様に祈りを捧げるべきだが、傷つけられ、癪に障った女に対しては、さすがにここまではできないと思うので。だから、普通に「世界平和の祈り」をするだけで十分(遠巻きにはなるが、間接的に彼女のために祈りをささげることにつながるから。世界平和の祈りは全宇宙の調和と安寧の祈りだから、天の川銀河の調和と安寧も、太陽系の調和と安寧も、地球世界の調和と安寧も、日本の調和と安寧も、そこに含まれる個人の調和と安寧まですべてを含んでいる祈りだから))。

まあ、強いて自分に都合よく解釈すると。

彼女は、落ちぶれた男を、その男の目の前から完璧に姿を消し去ることで、見事に(今生では)縁を断ち切った訳だが、実際にある程度かかわりを持つようになってから、こんな目に遭わされるよりは、早期に彼女の唯物論的な計算高い本性を知れてよかったのかもしれないな。

彼女を深く傷つけたり、地団駄を踏ませるような悔しさを何一つ味わわすことができなかったのはとても残念(笑)だが、これも世にありがちな(霊性が開発されていない)肉体人間のあり方を身をもって学ばせてもらった経験として、良しとしよう(過去世の因縁かもしれないが、嫌な想いを体感して身に沁みて学習しないと、魂の勉強にはならないからね)。

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・懸想~けそう~異性に思いをかけること。恋慕すること。
(用例)ひそかに彼女に懸想する。

・恋慕~れんぼ~恋慕うこと。
(用例)恋慕の情。

・世知辛い~せちがらい~①人情がうすく暮らしにくい。
(用例)世知辛い世の中。
②計算高くて抜け目がない。打算的でお金にこまかい。
(用例)世知辛いやつ。
ここでは、①の意。

・やるせない~悲しさやつらさのまぎらわしようがない。気分が晴れずにつらい。せつない。
(用例)やるせない気持ち。

234_節制

世の中には、太っていることで、悩む人もいるでしょうけど、これは食事を制限すれば、なおすことができますよ。

誰でも肥満体になる前は、そうでなかったはずですからね。

とりあえず、BMI が 22 前後を標準体重の目安としましょうか。

あれが食べたい、これが食べたい、あの味が忘れられない、という誘惑を決然と断ち切り、食事を制限できれば、必ず体重は落とせます。

要は、克己心との攻めぎ合いに勝てばいいんですよ。

あまり、肥満体でいる期間が長いと、場合によっては糖尿病を発症する可能性までもが出てきてしまいます。

糖尿病は様々な弊害を伴う病気なので、発症を避けることができるならば、避けるに越したことはありません。

なので、糖尿病を回避するためにも、肥満体はなるべく早く卒業した方がいいと思います。

まあ、肥満体を卒業したい理由は、健康や、異性にモテるためなど、人それぞれなのかもしれませんが、健康を考えると肥満体、それもかなりの肥満体は、是非とも卒業をして頂ければ、ありがたいなと思っています。

なんといっても、健康は失ってみて、初めてそのありがたみが身に沁みてわかる、かけがえのない宝物なのですから。

肥満体経験者からの一意見です。

233_姿勢3

私は、以前、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の提唱した「世界平和の祈り」には、それなりの功徳があることを理解した話を書いた( 199_世界平和の祈りの功徳 - おぶなより2 )。

塚本さんや山本さんという二人のご婦人方の信仰体験を通して、唯物論の思考からすれば、およそ理解不能な一種の奇蹟的な体験を読んで「世界平和の祈り」にもそれなりの効能?があるんだな、と自分なりに理解した話を書いた訳だ。

しかし。

お釈迦さんの逸話もそうだし、イエスさんの逸話もそうだが、おそらく、後世の彼ら教祖を崇拝する人達によって意図的に創作されたと思われる、美辞麗句で燦々と飾られた、彼ら教祖にまつわる奇蹟体験の数々は、本質的に考えれば、信仰には無関係な話である。

これらの話は、自分の崇拝している教祖さんは、こんなに偉いんだぞ、こんなにすごいんだぞ、どうだ、と奇蹟満載のきらびやかな物語で脚色することで、いわば教祖さんの明らかに常人とは異なる権威づけをはかっている訳だ。

簡単に言えば、まあ、信者さんを新たに獲得して信仰に誘い込む、または、より既存の信者さんの信仰に対する帰依心を深めさせるための間接的な、動機づけ物語だよね。

しかし、信仰の本質は、神性との対話であり、自らにそなわる良心、すなわち、真善美と愛に悖らない、神様のみ心との対話で、想いと行いを少しでも神様のみ心に適うように整えていくことのはずだ。

だから、教祖さんの権威づけのためのたくさんの美辞麗句にきらびやかに装飾を施されたこうした物語は、この信仰の本質には関係がないなはずのものなのだ。

無関係なんだよ、本質的には。

自分の良心との対話とそれから発する想いと行いがすべてを決する、と理解して、今からでもできる限り想いと行いを整えるようにしていくことだけが、信仰の要諦のはずだからだよ。

要は、権威づけよりも、行為の実践がはるかに大事だろう、と言いたい訳なのよ。

さらには、権威づけに狂奔し、奇蹟体験ばかりにこだわるのは、道を外しているとさえ言える訳で。

だから、本来の信仰というものは、これみよがしに世間の耳目を集めるような派手なものではなくて、表面的には比較的地味な形をとるものだ、と思われるのである。

こうした比較的地味な形の信仰は、世間の耳目を集めるようなことはないが、人々の神性に、魂に響いて、染み込んでいくような、あくまでも目には見えない形で、じわじわと波及していくのが、そのあり方ではないか、と考えられるのだ。

自然に感化されるような形で。

お釈迦さんはこれといって明言はされていないようだが、彼の奇蹟に対する厳しい態度を見ると、これを納得することができるのである( 007_拡張 - おぶなより2 )。

閑話休題。

悟りの段階が、52 段階云々・・・。

私はこの話を知った時に、なんだかとてもむなしい気持ちになった。

段階上昇競争?

じゃあ、何のために競争しているの?

人として悟りを開くことが立派だから、その段階が上がることがより偉いから?

悟りを開くことが、偉いのだ!

じゃあ、この偉いっていうのは、は自己満足のことなの?

そりゃあ、自己満足なのは個人の自由なのだろうが、自己慰撫に他ならないんじゃないの、これは?

そもそも、自分が生きている自己目的とは何か?

唯物論にほとんど染め上げられている現代ならば、人間としての五感を満足させることだろう。

すなわち、他人様よりも豊かで、確実に安心できる裕福な暮らしと、理想的な伴侶を得て、自分の血筋を受け継いだ子孫を残し、あわよくば?自分の人生の足跡を世間様から賞揚されるような形で、残したい。

こんなところじゃないかな。

232_完成度3

ユーチューブで「笑ゥせぇるすまん」というアニメを視た。

かなり現代的な描写ではあるのだが、描写や内容のあちこちに今の時代にはそぐわない部分があったので、年代を調べてみたら、今から約 36 年も前の 1989 年(昭和が終わり平成が始まる年。いわゆるバブル期が終わる直前くらいからの感じ)からのもののようだ。

いくつか視た感じでは、内容は一話完結の芥川龍之介の小説の蜘蛛の糸のような感じというか、寓話のような話だった。

喪黒福造というボランティアで人の心の隙間を埋めるセールスマンと称する者(怪人?物陰や人影から生えて出てくるなんて普通の人間という設定じゃないですよね。人間にもなれる人間ではない生物という感じ)が、様々な人に出会い、超能力者?であり金持ち?である彼が、その特別な力によって様々な救いの手を差し伸べるのだが、それには必ず守らなければならない戒律のような条件が付してあり、それを守らずに破ってしまうと、彼のおかげで一炊の夢のような現実を体験させてもらえたお客様(男性や女性)は、願望を叶えた後の自らの欲望にブレーキをかけることができず、戒律のような条件を破ってしまい、結局は元の木阿弥かそれ以下?の状態に転落してしまう、というオチになっていた。

一話完結で楽しめて、とてもよくできたアニメだな、と思った。

声優さんもとても上手(猫(ドラ)や犬(ドス)の鳴き声もすべて声優さん)だし、何気ない場面の風景描写などの細かく丁寧な場面描写、BGM 、伏線の張り方などよくまとまっていて、完成度がとても高いな、と思わされた。

右門捕物帖(1974 年版)の話 ( ( 099_完成度 - おぶなより2 )、( 100_完成度2 - おぶなより2 ) ) でも書いたが、昭和(笑うセールスマンは平成からの始まりになっていたが、制作の大半の骨子は昭和になされたのではなかろうか)のドラマやアニメは、完成度が高いな。

特に、何気ない見落としがちな背景のコマの丁寧で綺麗な描写が素晴らしい。

デッサンをした人ならわかると思うが、あれだけの細かく丁寧で綺麗な描写(しかも動画化してある)をするのは大変なことだ。

玄人の制作者の方達にしてみれば、当たり前のことなのかもしれないが、本当に尊敬してしまう。

何気なく過ぎ行き、当たり前のように見落としがちなほんの風景の一コマ一コマの描写が素晴らしいのだ。

さらには、魚拓のイラストも綺麗だったし、手書きで書いてある手帳の中身も、綺麗な図表がでており、字も丁寧で優しく読みやすい字に描いてある。

中には部分的に実写(花火)を交えてとても凝った映像になっている。

細部まで作り込みが丁寧であることがよくわかるのだ(あの猫(ドラ)の命を助けるために見手郎君の部屋に石を投げ込んだのは喪黒さんだな(前に見手郎君を助けるために猫(ドラ)に石を投げつけたのも喪黒さんだから)。喪黒さんは復讐とはいえ少年の見手郎君が生き物の殺生をすることを良しとすることはできなかったのだろう「笑ゥせぇるすまん(99)「今仁見手郎の秘密復讐計画表」)。

あらすじを含めて、細かい絵の描写、声優さんの演技、適宜な BGM や効果音などの演出も含めて、オーケストラをまとめるような総合作品として楽しむことができた。