ここで取り上げる信仰は、日本の宗教家、五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」と守護霊様と守護神様への感謝行である。
この易行道を信仰とする。
この信仰に当たっての心構えについて記したい。(*1)
神様とは、真善美に悖らない愛そのものの存在である、そして、私達、肉体人間の本質が、霊なる人間、すなわち、神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)=霊魂魄であるとする限り、実践することのやりやすさも含めて、私は今のところ、この信仰が最善だと思っている。
何らかの事情により、どうしてもこの信仰ができない場合には、五井昌久著「生きている念仏」(白光出版)に出ている、「南無阿弥陀仏」祈り一念の信仰の浄土門の敬虔な信仰者である、源左さん、才市さん、宇右衛門さんといった妙好人と呼ばれる人達のような信仰のあり方がいいと思っている。
これさえもどうしてもできないという場合には、祈り言葉という、想いを整え、集約するための指標=祈り言葉がなくなってしまうので、本来なら好ましくはないし、やむを得ない消去法的な選択になってしまうが、「神様ありがとうございます」という、この一念で、あらゆるすべてのことに対して感謝一念で生きていくのがいいと思う。
それというのも、「世界平和の祈り」一念の信仰も、「南無阿弥陀仏」祈り一念の信仰も、この、「神様ありがとうございます」という感謝が基底に据えられている信仰に他ならないからだ。
また、巷間には身の回りに起きてくるありとあらゆることに対して、「ありがとうございます」で対処する感謝一念行(?)もあるが、これも本質は同じだ。
ただ、やはり、神様を抜かしているのがまずいと思うので、この場合もある程度、ありがとうございます感謝一念行がきわまってきたら、「神様ありがとうございます」の祈り一念の信仰に切り替えるのが望ましい。
というのも、私達肉体人間を有機的な生命体として成り立たせている、生かして下さっているのは神様の分けられたお命である分霊であり、これをも含めてありとあらゆる環境は、神様がお与え下さっていると考えられるためだ。
なぜこのようなことを書いたかというと。
ネットを見るとわかるが、「世界平和の祈り」の言葉にも、その提唱者である五井昌久さんにも、いろいろと否定的なことを書いている人達がいるからだ。
この世の人間は、その数も膨大だし、誰にでも過去世(前世、前々世、前々々世、・・・)を通した因縁があるから、五井昌久さんが提唱した「世界平和の祈り」や五井昌久さんに対してある程度敵対的な因縁を持つ人がいたとしてもおかしくない、と考えられるからだ。
それに、過去の様々な歴史上の聖者とされている人達が皆、完全無欠である、とみなして、崇拝すること自体に、そもそも無理があるのもその理由だ。
そして、上記のように、ありとあらゆるものは神様のお与えであり、肉体人間の本質が神様の分けられたお命である分霊である、と信じるならば、巷間にあるこれらの「世界平和の祈り」や五井昌久さんを否定的にとらえる人達の言説は、この際なので、いっそのことこれらの言説のすべてを「消えてゆく姿」、すなわち、真善美と愛に悖る過去世の因縁が、この世で時間をかけて解消されてゆく姿、ととらえる(=みなす(法律用語になぞらえて言えば看做す))ことにして、徹底的に排除(=かかずらわらないように)する。
そうして、こうした言説に一切振り回されないように、そして、ぶれないようにして頂きたいのである。
まあ、こうした迷いも過去世の因縁のこの世へのあらわれと言ってしまえばそれまでなのだが、肉体人間の本質が神様の分けられたお命であり、これを含めて、ありとあらゆるものは神様のお与えである、と信じるならば、こうした「世界平和の祈り」や五井昌久さんに否定的な言説に振り回されることは、結果的にかなりの時間と労力とカネを無駄にして、回り道をすることになってしまう。
それに、真善美と愛に悖る想いと行いという、神様のみ心に適わない、余分な業想念を抱くことにもなるからね。
よって、この道を信じる限り、「世界平和の祈り」に関してこの理解の仕方こそが正しい、あれが正しい、これが正しい、誤っている何のかんの、といった言説は、すべて徹底的に排除(=かかずらわらないように)する。
もちろん、人類の起源も、宇宙の始まりなどの宇宙のことも、幽界のことも、霊界のことも、宗教宗派の争いも、霊のお告げや宇宙人のお告げなども、未来から来たと「自称する」人間のお告げも、UFO などの超常現象のことも、臨死体験した人の話も何もかも、「世界平和の祈り」一念の信仰に直接に関係ないものは、一切合切、すべて徹底的に排除(=かかずらわらない)。
そして、これらのことをどうしても研究したければ、あくまでも趣味嗜好の最小限の範囲内にとどめておくようにする。(*2)
蛇足だが、(架空の生物ではあるが)元祖の小柄な魔人ブウほどの絶対的な力を持たない普通の人間が発信する世の中に不安と恐怖をもたらすものでしかない情報(近頃はやたらとこうした情報を発信する人が多い)(*3)は、唯物論でも、霊的なものも、一切合切、徹底的に排除(なぜこのような小柄な元祖魔人ブウの例えを使うかの理由は省略)。
抜本的な対策ができない以上、不安や恐怖をもたらすものでしかない情報は、結果的に世の中の因縁因果を悪くすることにしかならないからだ。
こうした情報に対応をする場合には、あくまでも自己責任の範囲でするしかない。
本当は、「世界平和の祈り」一念で、全託するのが望ましいが、やはり、現段階ではなかなか難しいからね。
とにかく。
「世界平和の祈り」とともに、可能な限り今現在の想いと行いを少しずつ正していくことだけにすべてを注力するようにしていくのだ。
つまり、五井昌久さんと、その提唱された「世界平和の祈り」に対して否定的な言説や、祈り一念の信仰に直接関係のない本質的に余分な事柄には、もう、一切かかわらない、気にしないようにして頂きたいのである。
そして、こうした否定的な言説その他を徹底的に排除しながら、こうした五井昌久さんや「世界平和の祈り」に否定的な内容を書いている人達のためにも、ただただ、ひたすら、「世界平和の祈り」一念の信仰に精進して頂きたいのだ(従って、こういった人達への批判や非難も控え、想いが乱れるたびに祈り一筋に切り替えるようにする)。(*4)
それと、ついでだから、この際オピニオンリーダーに頼ることも卒業してほしい。
もう、いい加減に。
オピニオンリーダーが何と言おうと自らの神性にたずねてみて、納得のいかないもの、違和感のあるものには、同調しない。
想いを乱さない。
オピニオンリーダーの大半(すべて?)は唯物論的に他者を責め裁くような人達ばかりだからだ。
そして、批判や非難だけにとどまらず、バカ、アホ、ゴミ、カス、グズ、クソなどの言葉を使ったり、理由はどうあれ、他人の不幸を「メシウマ」などとするニュースにも要注意(見て頂きたくないという意味)。
なぜならば、
( メシウマ(こうしたケースをメシウマなどとする表現は不適切だとしか思えない。ご飯に感謝して有り難みを感じる皆の幸せとリンクする敵を認めないメシウマなら何の問題もないけれど)
→ザマアミロ
→蔑み(理由はどうあれ、他人の不幸や災難を喜び愛の欠片もない悪い想いを抱く行為)
になるからだ。
他人を責め裁く、自らの想いを乱されるニュースなどは、要注意なのですよ。
それで、どうしても想いが乱れるようならば、祈りにすがるしかない。
ただ、祈るだけです。
世の中には、昨今、私達の想いを掻き乱すように、大ウソが罷り通り、弱い者イジメが横行して、明らかに不自然なこと、不条理なことが起きてくるので、不安や恐怖にさいなまれ、想いを乱さないでいるのは容易ではない。
でも、もう、すがるものは神様しかないんですよ。
だから、祈るんです。
ただでさえ、どうしてこの世はこんなに不安や恐怖や不条理に満ちているのか、と思えるのに、さらに不安と恐怖を増幅させることは悪循環にしかならないからだ。
要するに、
神様を善なるもの
真善美に悖らない
愛そのものの存在である
と信じるならば、
あるいは
やはり、
そのように信じたいならば、
神様の世界から流れてくる光を
遮るもの、乱すもの、
神様の分けられたお命
そのままに生きることの妨げとなる、
私達肉体人間の抱く
想いを乱す原因となる、
不穏な想いを抱かせるもの、
不安な想いを抱かせるもの、
恐怖の想いを抱かせるもの、
などを
可能な限り徹底的に
排除する(=かかずらわらない)
ようにしながら、
祈り一念に徹する、
ということである。
言い換えると、
どんなに
利己的に生きたいと思っても
肉体にまつわる
五感にまつわる
欲望がどんなに強く
果てしないものであろうとも
私達人間は愛をあらわす存在だ
愛そのものの存在だ
と思いたければ
あるいは
思い込みたければ、
その愛をあらわすという
目的のためには
決して手段となることのない
むしろ妨げとなるような
余分になるものは
徹底的に捨象して
かかずらわらないように
して頂きたいのである。
そうして、あたかも上記の妙好人の人達のような「南無阿弥陀仏」祈り一念の信仰のようにしていく。
これが信仰に当たっての心構えとなる。
なぜ、このようなことを書いたかと言うと。
信仰にあたって大事なことは、ほんの少しずつでも霊性の開発をして、妙好人の源左さんや才市さんや宇右衛門さんのような境地に近づいていくことが大事なことになるからだ。
そうして、肉体を持ち、自己保存の本能を持つことから、利己的に生きざるを得ない厳しい制約を課されながら、火宅の世となる厳しいこの世で、少しでも神様の子供として相応しい生き方をあらわすようにしていく。
源左さんや才市さんや宇右衛門さんといった妙好人の人達の境地に至ることさえ大変な修行が必要で、精進は一朝一夕にはいかないのだから、あとの余計なことには、一切、かかずらわらないで頂きたいのである。
信仰にあたって何が大事なことか?と考えると、それは、知識でもない、理屈でもない、ただただ、普段からの肉体人間としての想いと行いが、神様のみ心に適うように精進を重ねていくことになる。
そうして、最終的には、何が起ころうとも、神様は私達のためになることしかなさらない、そのように思い、そうして神様に任せきることのできる、安心立命した境地を目指すようにしていく。
それ以外の一切の事柄は、余分なことになるの。
身も蓋もないけど、これが結論だから。
ということで。
以上に書いてきた、祈り一念の信仰のような、あたかも社会の裏方のように思える地道な下支えとなる役割(?)は、業想念が渦巻き、他人に認められたい、という自己承認欲求が闊歩する SNS や Twitter 全盛(?)の現代社会とはかけ離れたあり方となるかもしれない。
しかし、私はすべて神様のみ心に適うと思われるもの以外は、徹底的に捨象して、神様に溶け込めるような祈り一念のあり方を、みんなの幸せが、ひいてはわが身の幸せとなる道を、ここにあえておすすめしたいのである。(*5)
~~~~~
(*1)ここでは、五井昌久さんの後継者の西園寺昌美さんの主宰する白光真宏会には属さないで、個人的に「世界平和の祈り」を易行道として行う場合についての信仰の仕方を書いている。
~~~~~
(*2)お告げにしても、超常現象にしても、自分だけが得られた・経験したからといって、安易に御託宣などを信じる姿勢は頂けない。
かといってこうした内容を審神するといっても、六神通をそなえたような悟りを開いた人が行わないと審神をする意味がない。
つまり現実味がない。
私が「世界平和の祈り」をすすめているのは、神様は真善美に悖らない愛そのものの存在であり、私達肉体人間の本質が神様の分けられたお命であると考えた場合 (*2ー1) に、五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」が最も理に適っていると思ったから。
しかも、ありがたいことに、個人的に奉じるには、これといった面倒で格式ばった特別な制約もなければ、お金もかからない。(*2ー2)
祈り言葉も誰にでも理解できる平易さをそなえ、なおかつ、きわめて簡潔である。
だから、この祈りをすすめている。
(*2ー1)初めてこの文章をお読みになった方には、面食らうかもしれないので、ちょっとだけ触れておく。
まず、私達肉体人間は、生きようとして生きているのではなく、生かされている、ということがある。
私達の肉体の心肺機能をはじめとした五臓六腑の働きは、私達肉体人間の顕在意識の働きでなされているものではない。
起床時も就寝時も、顕在意識で命令を下している訳でもないのに、五臓六腑は黙々と縦横無尽に機能してくれている。
ということは、(補助があってもなくても)何らかの目には見えない摩訶不思議な力の働きかけがあって、この肉体は有機的生命体として一体となり機能してくれている、ということ。
だから、私達肉体人間は、何らかの目には見えない摩訶不思議な力の働きかけによって生かされているからこそ、生きていくことができている、ということになる。
すなわち、私達肉体人間は、何らかの力の働きかけによって、他動的に生かされている存在に他ならないのだ。
言い換えれば、ただ肉体それだけがあれば、有機的な肉体人間という生命体として生きていくことはできない、ということ。
この肉体人間を有機的な生命体として成り立たせている、何らかの力の働きかけがなくなってしまえば、肉体はあたかも脱け殻のようになってしまい、生物として生きていくことができなくなってしまう、ということである。
その私達肉体人間に働きかける力の源泉は何かと考えると、私達の肉体だけでなく、ありとあらゆる環境を与えて下さっている神様にしか行き着かなかったという訳。
そして、ゾロアスターのような善悪二元論的に神様をとらえる限り、常に不安と恐怖を抱いていなければならなくなる。
悟りを開くことができない以上、不安と恐怖を完全になくすことはできないけれど、自らにそなわった良心からしても、拠り所としては、真善美に悖らない愛そのものの神様をおくべきだ、と考えた次第。
(*2ー2)書籍なりネットなりで、五井昌久さんの提唱した「世界平和の祈り」を覚えて、信仰に当たっての大体の心構えを理解すればいい。
あとは実践するだけ。
その実践の究極の形が、上記のような信仰、すなわち、五井昌久著「生きている念仏」(白光出版)に出ている妙好人の源左さん、才市さん、宇右衛門さんのような信仰のあり方になる。
とは言うものの、この本を読むとわかるが、「南無阿弥陀仏」祈り一念の信仰をきわめて、妙好人の源左さん、才市さん、宇右衛門さんのような境地にまでに至るのは、実は容易ではない。
信仰の仕方は、他の宗教よりもはるかに入りやすく、かつ、易しいものではあっても、唯物論者やごく普通の人が、彼らの境地まで到達するには、信仰を始める時点での、その人その人の過去世の因縁にもよるが、並大抵ではない、かなりの修練(=信仰の経験)が必要になると考えられるためだ(「世界平和の祈り」一念の信仰、また、「神様ありがとうございます」の一念信仰、「ありがとうございます」の一念行によった場合も同様)。
ただ、様々な面で、これといった面倒な戒律も制約もなく、他の宗教よりは、はるかに取り組み易い信仰なので、唯物論者やごく普通の人にも入りやすい信仰であることは確かだ。
なお、教義と思われる「人間と真実の生き方」が、唯物論者や普通の人からすると相当わかりにくいので、最下段に素人なりではあるが、かなり砕けた形で意訳を書いておいた。
ご参照下されば幸いである。
~~~~~
(*3)ブログやユーチューブをはじめとして、ネットでは相も変わらず不安や恐怖を煽る情報を発信する人達がいる。
個人的に対処しようとしても、できることはきわめて限られているし、どうにもならないことも多い。
どうにもならないことは、どうにもならないし、なるようにしかならないのだ。
とあるいい人(人格者)と思われる占星術の「先生」では、楽観的でいい予想はことごとく外れ、あとはほとんどが不安と恐怖を抱かせるものばかり。
不安や恐怖を抱かせるものが外れれば、もちろん、それはそれでいいのだが、外れた予想に対しては一切の謝罪がない。
ご自分の発言を忘れ果てているのかな?
ファンや信者さんと思われる人達から「先生」、「先生」と呼ばれ、ご自身も「先生」と「自称」されている方が、これでは、「知らぬ顔の半兵衛」と言われても仕方がないのではありませんか?
これは想像にしか過ぎないが、もしも、五井昌久さんがご存命なら、たとえどんな小さな誤りでも、このような悪い予見が外れた場合(五井昌久さんがこんなことをして信者さんを積極的に脅すとは思えないが)でも、自らの権威失墜などに関係なく、きちんと謝って下さると思いますよ(周りの人が遠慮して誰も何も言い出せなかった場合は別にして)。
悪い予見を言ったら、言いっぱなし。
忘れっぱなし。
いいんですかね、そんなあり方で。
しかも、言っては忘れ、言っては忘れ、といったありさま(=間違った悪い予見や予言に対する謝罪をしない)を延々と繰り返す(少なくとも私が今まで見てきた数年間はそうだ)。
崖から落ちるから警告だって?
何の抜本的な対処もできない、やりようがないのにですか?
世の中のかなりいい人(人格者)と思われる占星術の「先生」(マドモアゼル愛さん)でさえ、こうなんですよ。
ということは、その他のこうした人々は・・・。
悪い予見をしたにもかかわらず、その予見が外れた場合に、世界平和の祈りの一つもせずに、一切の謝罪と訂正がない、すなわち、世の中の人々の不安や恐怖を煽ったままで放置するということは、結果的にご自身の不安や恐怖を吐き出したことにしかなっていないのだ。
輪廻転生のことをそれなりに信じるならば、
真善美に適った良い想いは、良いものや良い報いをもたらし、
それ以外の真善美に悖った悪い想いは、悪いものや悪い報いしかもたらさない
のである。
私達、神様の分けられたお命を本質とする肉体人間にとって、不安や恐怖は、真善美に悖り、愛に背く悪いものでしかないからだ。
祈りによる守護の神霊様のお浄めの救済もなしに、不安や恐怖を煽るのは、結果的にただただ悪い因縁を積み重ねることにしかならない。
最低限の警告をすることがあったとしても、基本はできるだけ黙って祈ることしかないのだ。(*3ー1)
不安や恐怖を抱かせる悪い内容を発信するということは、それを受け止める人に悪い想いを抱かせる可能性があることをあまりにも軽くみすぎているように思えてならないのである。
他人の想いを揺さぶるんですよ。
しかも、悪い方向に。
だから、
悪い内容を発信する以上は、
「自ら悪い因縁を背負う覚悟と挺身」
そして、
「世界平和の祈り」
が絶対に必要なるんですよ。
これらなくしては、ただただ、世の中に影響を及ぼす悪い因縁を作り出すことにしかならないのだから。
(*3ー1)神様とは真善美に悖らない愛そのものの存在だと信じ、
従って、
人間として抱く想いが因果律のように誰(個々の人間の本質である霊魂魄)にでも公平に作用するものとしてつくられているものと信じる限り、
良い想い(行いも伴えば想いと行い)には、原則として輪廻転生を通して良い報いなどが、
悪い(行いも伴えば想いと行い)には、原則として輪廻転生を通して悪い報いなどが
もたらされることにしかならない。
このように考える以上、対応しようがない悪い予見を公開して、人々に不安と恐怖を抱かせることは、結果として世の中に不幸や災難といった悪いものをもたらす「絶対悪」にしかならないのだ。
「絶対悪」なんですよ。
万が一、祈りをいくらしても追いつかないとしても、黙って祈るしかないではないか。
法則がそのままで、悪い想いと行いをしてしまったことに対する、お目こぼしとしての例外的な救済が、神様(=守護の神霊様)にしかないのであれば祈るしかない。
祈るだけ祈って、あとのすべてのことは、神様(=守護の神霊様)のおはからいに委ねるしかないのである。
だから、私は思うのだ。
対処できない悪い予見を公開することは、
「とてつもなく罪が深い」
すなわち、
「大罪である」
と。
残念なことに、何もこうした悪い予見に限らず、世の中には人間の想いを掻き乱すような悪いことや発言がある。
しかし、
人間の抱く想いが結果として世の中のすべてを左右するものであるならば、
因縁因果の結果として世の中を良い方向に向かわせたければ、
想いを乱さないように努め、
良い想いを発するように努めて、
足りないところは祈りで神様(=守護の神霊様)におすがりするしかない。
だから、想いを乱さないようにすることと、「世界平和の祈り」をお願いしているのである。
~~~~~
(*4)私は以前、五井昌久さんに対して批判的な内容を書いてあった他のサイト(ニフティのブログサービスのココログ)の「愛を学ぶ」という文章について「愛とは」と題して、このブログ ( おぶなより2 ) でいくつか文章を書いた。
他の人にもそういった「世界平和の祈り」や五井昌久さんに否定的な内容を書いたものがいくつかあり、どれもツッコミどころが満載だったのだが、あえてかかわらないことにした。
なんだかんだいっても、結局は想いを乱すことにしかならず、業想念を抱くことにしかならないからだ。
不穏な想いなどの業想念を抱くということは、結局は世の中の因縁因果を悪化させることにしかならないということ( 017_祈りについて - おぶなより2 ) 参照。だから、こうした五井昌久さんや「世界平和の祈り」に否定的なことを書いている人達に対して、直接祈る気持ちにすらなれない場合には、上記のように「世界平和の祈り」自体をより深くしていくしかない。そうすれば間接的にはであるが、五井昌久さんや「世界平和の祈り」に否定的なことを書いている人達のために祈ることにつながるから)。
最近ユーチューブで五井昌久さんのものを見つけたので、見るようになった。
以前にも書いたが、やはり、ちょっと気になるところ(ごく些細な内容も含めて完全無欠ではない部分)があった。
しかし、それなりに生の話を聞けるのはありがたい。
数年前に、音声を収録した CD 付きの本の存在を知ったので、これを買おうとしても絶版になっていた。
そんな訳で、直の話を聞くのを完全にあきらめていただけに、なおさらありがたい。
ただ、聞いたものが晩年の時分のお話らしく、ちょっと話をされているのが、何となく体調(呼吸?)がつらそうなものがありましたね。
やはり、たくさんの人の想いをはじめ、様々なものをお引き受けになっていたということなのでしょう。
まだたくさんあるようなので、もう少しお若い頃のものも探してみたい。
~~~~~
(*5)上記のようないくつかの祈り言葉ほど簡潔にはならないが、仏教にご縁がある人には、かなり短いお経として「延命十句観音経」がある。
同じく、短めのお経に「般若心経」があるが、それでも読経するには、早く読経しても最低でも三分以上かかるし、内容の理解がきわめて難しい。
特に、色即是空と空即是色をまったくの同義としてとらえてしまうと、ほぼ理解ができないと思う。(*5ー1)
その点、「延命十句観音経」の方が、はるかに理解しやすいし、親しみやすい。
しかも、仏教のお経としては、他のお経と比べると格段に短い。
上記に取り上げた、短い祈り言葉による一念信仰以外で、どうしても仏教にこだわりたい人(仏教にこだわるなら、本当は「南無阿弥陀仏」の祈り一念信仰にしてほしいのだが)や、それなりに「延命十句観音経」に特別にご縁の深いと思われる人(こうした人はご本人もまったく意図しない摩訶不思議な形で自然とそのように導かれる)は、これを徹底的にきわめるのも、一つの行き方だと思う。
(*5ー1)「般若心経」の色即是空と空即是色をまったくの同義だとして、すべてはナイナイナイのナイで虚無だ、としてしまうと、般若心経の内容を理解することはできないということ。
~~~~~
(追記1)
以下に五井昌久さんの教義と思われるものと祈り言葉をあげておく(教義と思われるものは句読点で故意に段落分けをしてある)。
(教義)
人間と真実の生き方
人間は本来、
神の分霊(わけみたま)であって業生(ごうしょう)ではなく、
つねに守護霊、
守護神によって守られているものである。
この世の中のすべての苦悩は、
人間の過去世(かこぜ)から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現れて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現れれば必ず消えるものであるから、
消え去るのであるという強い信念と、
今からよくなるのであるという善念(ぜんねん)を起し、
どんな困難のなかにあっても、
自分を赦(ゆる)し人を赦し、
自分を愛し人を愛す、
愛と真(まこと)と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、
守護霊、
守護神への感謝の心をつねに想い、
世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、
個人も人類も真の救いを体得できるものである。
(祈り言葉)
世界平和の祈り
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
ーーーーーーーーーー
以上について、ちょっと記したい。
以下に書く国語辞典と漢字辞典は、大学受験に使えるようなごく一般的なものを使っている(漢字辞典は中型である)。
まず、人間と真実の生き方となっているが、人間の真実の生き方ではなく、なぜ人間と、となっているのかよくわからない。
人間と神様の視点から見たあるべき人間の生き方という意味なのだろうか。
この教義も祈り言葉も、普通の辞書に出ている読みなどと違った特殊なものがちらほらとある。
例えば。
私は、今まで五井昌久さんの著作に従って、ずっと「分霊(わけみたま)」と書いてきたが、分霊は、「分け御霊」と書くのが本来の書き方と読み方であり、一般的な表記のはずだ。
現に国語辞典は、そのようになっている。
業生も、国語辞典にも漢字辞典にも出ていない。
消えてゆくの「ゆく」は、国語辞典を見ると、漢字では「行く」となっていて、「いく」と読むとも出ていた。
過去世については、国語辞典にも漢字辞典にも直接は出ていない。
前世は、「ぜんせ」または「ぜんせい」として出ている。
来世は、「らいせ」として出ている。
過去世は、国語辞典にも漢字辞典にも直接には出ておらず、他の人の文章では「かこせ」としているものがあった。
前世と来世の読みからすると「かこせ」となるように思われるが、ここでは、「かこぜ」となっている。
ちなみに、国語辞典によると、仏教用語に三世があり、読みは「さんぜ」、意味は、前世・現世・来世、または過去・現在・未来の三つの世、となっている。
善念は、国語辞典にも漢字辞典にも出ていなかった。
許すには、
①願いなどを聞き入れる。許可する。
②罪などを免じる。
③義務や負担などを免除する。
④警戒心をゆるめる。
⑤相手の自由にさせる。
⑥認める。
⑦ある物事を行うのを可能にする。
⑧芸事で、師匠が弟子に免許を与える。
のうち、②を赦すとも書くとなっている。
宗教的な深い意味合いがあるからなのかもしれないが、あまり見かけない表記である。
日本は、国語辞典で「にほん」を引くと→「にっぽん」となっているので、そのまま。
私の「わたし」は「わたくし」の転用。
私の「わたくし」の使い方は、目上の相手に対して、または改まった場で自分を指す語。「わたし」よりも丁寧な言い方で、男女共に使うとなっている。
完うは、「まっとう」と読ませているが、かなり特殊なように思える。
漢字辞典には意味としては出ているが、読みとしては出ていない。
うろ覚えで申し訳ないが、ネットには、五井昌久さんの初期に近い頃のお弟子さんと思われる森島恒吉さんがお書きになっていた話の中に、ここは当初は「全う」だったのが、「完う」に変えられたという話があった。
このような経緯を知ったので、私もかなり特殊な読ませ方なので、あまりよくないような気がした(宗教的な深い意味合いを持たせるためとも考えられるが、平易を旨としている五井昌久さんの著作を読むとあまり相応しくないような気がした)時に、勝手にまっとうと書いたことがある。
いろいろと文句めいたことを書いてしまったが、なぜこんなことを書いたかというと。
五井昌久さんの提唱した世界平和の祈り一念による易行道による信仰は、平易で簡潔な中にも深い意味合いと真理が含まれていることに、その真髄があると思われるからだ。
私はそんなに学がない(大学は出ているがマーチ ( MARCH ) )ので、五井昌久さん在世当時の漢字や語彙のあらわし方はよくわからないが、誰にでもわかりやすい、しかも、やさしく、素晴らしい祈り言葉でありながら、読み方や表記に特殊なものがあるのは、相応しくないような気がしてしまうのだ。
「南無阿弥陀仏」のように難しくはないが、「南無阿弥陀仏」ほど短い一言で済ますことはできない。
つまり、「南無阿弥陀仏」よりは長い。
だから、深遠な真理を含みながらも、簡易さ、易しさを極めて、特殊性を徹底的になくしたものなら、より完璧なのに、というのが個人的な率直な感想である。
すなわち、易しい、従ってきわめて汎用性が高く、深遠な真理を含んだ、簡潔な真理の言葉=お経の言葉として、五井昌久さんは、宗教的な悟り=成道の意味合いも込めて「まっとう」を「全う」から「完う」に変更されたのかもしれないが、やはり、平易にして、簡潔、しかも、深遠というあの祈り言葉の真意には「完」は読み方が特殊過ぎて(漢字辞典には内容をあらわす意味としては出ていても、読み方の項目に出ていなかったから)似つかわしくない感じがしたんですよ。
言い換えると、子供からお年寄りまで、老若男女誰にでも、簡単に唱えることができて、しかも、その内容が誰しもの意識の深層に神意識があるから素直に入っていく=理解しやすい、しかも、宇宙万般に鳴り響くという深遠な真理までをも含んでいる。
それなのに、なぜ、わざわざ、元からあった「全」を通常の読みにはない特殊な「完」に変更されたのかが、納得できないし、個人的には何とも残念な気がしていたんです。
神様が遣わされた存在だから、守護霊様と守護神様は、そのままで仕方がないにしても、子供、特に幼少の子供が唱えることを考えると、いっそのことこうした漢字を使わずに、ひらがなのままで「まっとう」の方(ほう)がいい。
そう思った時に、ブログに書いた祈り言葉を勝手に改変して、「まっとう」と書いてしまったことがあります。
もっとも、私はあくまでも宗教にはズブの素人で、五井昌久さんのように神様から直接教えを授かるような縁もまったくない。
だから、見当違いのことを書いているのかもしれない。
そもそも、神様から教えを授かるということは、こうした特殊性がつきものなのかもしれない。
他の宗教の教義や祈り言葉や戒律は、「世界平和の祈り」一念の信仰より、はるかに大げさで、手間がかかるものが多いからだ。
ただ、簡潔な中にも、平易さ、深遠さが凝縮されているには、もうひとつ降りてきて頂きたいような気がしていた。
あくまでもズブの一素人の勝手な感想である。
さて、この教義を一読して感じるのは、人生は主として苦だ、人生は修行なのだ、という感じがする。
肉体にまつわる五感を満足させるような、快適さを楽しむだけのような目的のために、この世に生まれてくる訳ではないようだ。
巷間には、楽しむために人生を与えられて、生き方を間違えたから不幸や災難があるというような話もあるが、それならば生得的な恵まれない健康や境遇はどうなるんだ、と突っ込みが生じる。
だから、楽しむためだけのためにこの世に生まれてくるととらえるには無理がある。
肉体を与えられ、自己保存の利己的な生き方をせざるを得ない形を与えられた上で、つまり、真善美に悖る想いと行いが生じてしまうことを、あらかじめの前提とした上で、分け与えられた神様のお命である分霊を、磨き上げる修行が、この世で生きていくことの主な目的となっているように読める。
「赦す」をあのような意味合いで用いるということは、自分も他人も、自己保存の本能により、利己的な想いと行いをするのは不可避だと読み取ることができるからだ。
この世に生まれたら、人生を楽しみなさい、が基本になっていないような書き方に見える。
少なくとも、人生を思う存分楽しんでらっしゃい、極端に言えば、享楽三昧してらっしゃい、放蕩三昧してらっしゃい、ではないと読める。
お釈迦さんの四門出遊の話ではないが、この世の無常さをあらわしている感じがする。
なお、人間と真実の生き方を、個人的に意訳をさせてもらうと、以下のようになる。
(「人間と真実の生き方」の意訳 )
人間としての真に正しい生き方
人間は、動物と同じように肉体を持った生物のようにこの世であらわれてはいるが、その本質(=本体)は、神様の分けられたお命という分け御霊である。
動物の本質が魂魄であるのに対して、肉体人間は、神様の分けられたお命を、霊として直接に頂いているので、その本質は霊魂魄である。
つまり、人間は、神様の視点からすれば、本当は肉体としての人間ではなく、その目には見えない霊魂魄という、神様の分けられたお命そのもの、命そのものが本当の人間なのである。
そうして、神様の分けられたお命を霊として直接頂いているということは、
単なる動物とは異なり、
神様の知恵と創造力を、
特別に授かっているというだけではなくて、
動物をも含めたあらゆる自然環境を取りまとめて、調和させていく使命があり、
気高く生きていかなければならない存在である。
なぜならば、そうした神様の分けられたお命である人間は、神様の子供となり、神様そのものに他ならないからである。
そうした、本来の肉体人間、
すなわち、この分け御霊は、
この世で想いと肉体をまとって、
この世である現界と、
想いの世界である幽界と、
霊界の下層となる、
三界を経て、巡り続ける、
迷いに迷い、輪廻転生がやまない
業の世界を経て、巡り続ける
業生ではなく、
神様の分けられたお命そのままの霊魂魄であり、
肉体人間となるに当たっては、
その各々に対して、
神様によって、
先祖の悟った霊の守護霊と、
その上に立つ守護神が
つけられて、守られるようになっている。
この世の中に起きてくるすべての苦しみとなる、病気、争い、貧乏などにもとづく苦しみは、
その人間が、輪廻転生を通した過去世(前世、前々世、・・・)から今現在のこの世までにつくってしまった、
真善美に悖り、神様の愛に背く想い(行いが同時になされていれば行いも)が、因縁(=原因)となり、
今現在のこの世に因果(=結果)としてあらわれて、時間をかけて解消されていく姿である。
しかし、
過去世の因縁がこの世にあらわれた因果が、いかに苦しいものであっても、つらいものであっても、
必ずこの世で解消されるためにあらわれてきたものであるから、
必ず解消されて、この悪い過去世の因縁とそのあらわれとしてのこの世の因果は、解消されるのだ、消え去るのだ、
と強く思い込み、信念を持つようにして、
今から、この悪い過去世の因縁は、因果として必ず解消されるのだ、という良い思いを抱いて、
不可抗力により、どんなに苦しい境遇におかれようとも、
自分を責めないようにして、
他人を責めないようにする、
自分をいとおしむようにして、
他人をいとおしむようにする、
神様の愛と、
神様の真実と、
神様の赦しにもとづく、
思いによる言行を、
努めて行うようにしていくとともに、
この世で
肉体人間として生きていく便宜上、
肉体を与えられ、
自己保存の本能を与えられたために、
利己的な想いと行いに走り、
神様の真善美に悖らない愛に満ちた想いと行いから、
道を外しがちになる私達を守るために神様が遣わされた、
守護霊様と守護神様に対して、常に、常に感謝の気持ちを抱いて、
世界平和の祈りを、
挫折しないように間断なく祈りつづけていけば、
霊魂魄として個人としての肉体を持ちながらも、いずれは神様の分けられたお命そのままに生きることができるようになり、
すなわち、
本来ならば、
霊身(神体)という、
自由自在に動ける存在でありながら、
想いをまとい、
特に重い枷(かせ)となる肉体をまとい、
なおかつ、
肉体を維持するために
真善美と愛に悖る想いと行いとなる
利己的な想いと行いを
せざるを得ないような
わが身を守ろうとするための
自己保存の本能を付与されるという、
大変な制約を課されながら、
神様の分けられたお命そのままに生きることができる、
神様の光のまま
神様の光明波動そのまま
に生きることができる
ようになれば、
そして、
さらには、
こうした人々で、
世界の人類すべてが
満たされることになれば、
いずれは人類全体として、
神様の分けられたお命
そのままに生きていくことが
できるようになる。
個人も人類も、
ともに神様お命
そのままに生きていくこと
ができるようになる、
すなわち、
人として、
人類として成道する、
こうして、
すべての人が、
神様の子供として
真実に救われることになる
のである。
~~~~~
(追記2)
以下、神様も仏様も、神仏として、同一にとらえる(理由は省略)。
以前、 ( おぶなより ) に書いたが、祈りとは、肉体人間が神様の命を生きているという宣言である。
肉体人間の本質が神様の分けられたお命である、つまり、神様に他ならないのであるから、
祈りとは、
「私は神様の命を生きている者です」
との宣言に他ならない訳だ。
そうすると、
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀如来様(神様)と一つにならせたまえ、と宣言しているし、
「世界人類が平和でありますように」も、人類が神様の分けられたお命を本質とする、つまり、皆、神様の子供としてふさわしくあれ、すなわち、神様であれ、と宣言している。
「神様ありがとうございます」も肉体人間の本質が神様の分けられたお命であるとすれば、親様ありがとうございますとなり、やはり、神様の子供、つまり、本質は神様だと宣言している。
このように見てくると、「ありがとうございます」一念行は、感謝する対象をはっきりさせないことになってしまうのだ。
「神様」という言葉を抜かしているから。
だから、いずれは神様を頭につけた祈り言葉にした方がいいと書いた。
なお。
ありとあらゆるものは、神様によって創造されたものである、つまり、神様が造物主であるとすると、
祈りとは、
自らの命=神様から分け与えられた命そのものを宣言することであり、
自らを取り巻くありとあらゆるものはすべて神様があらわしたもの、
いわば、神様の命が宿り、それなりの神様の化身とも取れることになるから、
自分の命そのものも、
肉体人間として生きていくための必須の肉体の構成要素も、
それを生かすためにある、ありとあらゆる周辺の環境要素もいわば神様の一種となる訳であるから、
内=自分自身にも、
外=自分を取り巻き生かしてくれるありとあらゆる周辺環境要素にも、
すべては、神様であり、
自他となる内外共に、
神様を自覚する、
称えるための、
宣言とも取ることができる。
このように考えてくれば、
祈りとは、
尊い行為とも言うことができるだろう。
~~~~~
(追記3)
世の中は、唯物論の理屈だけで考えると、到底、納得し難いおかしなことや不条理なことに満ちている。
例えば、量子力学やヨガなどの精神世界にも通じる話までしている船瀬俊介さんの場合でも、やはり、唯物論的な視点から「目覚めよ」などと言っている。
しかし、これといって目立って誰も何も目覚めない(ように見える)し、事態は一向に変わらない。
目覚めたとしても単発・散発的で、せいぜいこうした呼び掛けを繰り返すのが関の山にしかならない。
それは、目覚めたところで、もはやどうにもならない、欲で釣り、刑罰で脅す、唯物論的な強固な組織的な基盤がすでに社会に広く構築されてしまっているからだ。
こうした状況は、私には単なる洗脳で片付けられる問題とは思えない。
みんな、そんな愚鈍ではないから、ある程度社会の仕組みを考える人には、薄々感づいているはずだ。
どうにもならない、と。
だから、私はとっくの昔に詰んでしまっていると書いてきた。
現状さえ何とかそこそこつなぐことができればまあいいか、という感じでズルズルと来ているのではないか。
だから、こうした世の中になっているんでしょ。
では、神様が本当に善なる存在で、真善美に悖らない愛そのものである、ととらえた場合に、そのお命を本質として頂いているはずの肉体人間によって構成される世の中に、なぜこのようなおかしなデタラメきわまることが多いのか。
不幸や災難が絶えず、人々がいがみ合い、不安や恐怖に満ちた世の中になってしまっているのか。
あたかも恐怖支配が着々と進んでいるようなおかしなことが起きてくる世の中に見えるのか。
こんなことが、過去世の因縁の消えてゆく姿(=この世で時間をかけて解消されてゆく姿)だなんて、(守護霊様と守護神様のご加護で)大難を小難で済ませてくれているなんて本当なのか、と納得できないことが起きてくる。
過去世の因縁がわかればまだしも、私達にはまったくわからないし、なおのこと本当に不可解。
こんな状態で、本当に輪廻転生を通したまともな因縁因果のきちんとした対応法則なんてあるの?
そんなのないんじゃないの?
ただただ、その時々で力を持つ者が、わがもの顔で振る舞い、好き勝手し放題の、行き当たりばったりのデタラメの偶然の産物であるカオスの世の中に過ぎないだけなんじゃないの?
だから、転輪聖王みたいな人はいないし、力のある人が贅沢三昧、放蕩三昧の好き勝手している(かのように見える)世の中になってしまっているんじゃないの?
この世の中の有り様は。
個人個人の過去世からの因縁因果の集大成としての結果。
つまり、過去世の記憶が消されてこの世に生まれてくる私達の過去世の因縁のなせる仕業の因果としての総和が今のこの世の有り様。
それで納得するしかないよね、神様を善なる存在、愛そのものである存在と信じるならば。
しかし、到底、そんなことは納得できないほどに、世の中にはあまりにもひどいことが多過ぎる。
混雑した雑踏の中を歩けば、自分一人なんてけし粒のような取るに足らない小さな存在にしか思えなくなる。
どんなにこの世に生を受けることが貴重なことであったとしても。
しかも、この世の中の言論空間、特に Twitter を含めたネットは、真善美に悖る業想念が、悪い祭りのようになっているようにさえ見える。
そうした人々は、大半の人が唯物論者で、霊性の開発など考えていない、そもそもまったく知らないのではないか。
宗教や精神世界でも、残念ながら他宗を批判・攻撃・排斥するものがたくさんある。
なんとも形容し難い厳しい状況。
しかも、残念なことに、私達には地球のことも、宇宙のこと(もちろん月をはじめとした太陽系のことも)、本当のことを知らされているとは思えない。
以前、 ( おぶなより ) にチラッと書いたが、だからといって、そうした悲観的な内容を知ったところで、私達の力ではどうすることもできない。
対抗なんかできっこない。
だから、何だって言うんだ。
悪い宇宙人が神様となって肉体人間をつくっただなんて、そんな暗澹とした未来しか連想できないことことを信じるくらいなら、自暴自棄に生きた方がまだマシだと思うよ。
仮にそうした連中がいたとしても、それをもさらに超えた、あらゆる元には、善なる神様の存在があるととらえなければ、そもそも信仰をする意味がない。
この地球世界が、この世の中が、いくら限られたほんのごく一部の支配層が牛耳り、牢獄や刑場のように厳しい側面があるからといって、肉体人間が奴隷として使役されるために生み出された存在だなんて解釈したら、夢もへったくれもない。
巷には、この他にも霊的存在のお告げやら、宇宙人のお告げやら、地底人のお告げやら、未来から来たと「自称する」人間のお告げなどがあり、そうした内容を安易に信じている(宣伝させられている?)人もいるようだが、そんな内容を単なる伝聞のような形で、安易に受け売り公開して、本当に大丈夫なんですかね?(*追記3ー1)
こうして抱かされる不安や恐怖や憎悪などの悪い想いは、少なくとも私達の輪廻転生を通して悪い運命しかもたらさないんですよ。
「目覚めよ」たって、実質的に何もできやしないじゃないか。
結局は、ただ不安と恐怖や憎しみにさいなまれ、苦しむことにしかならないのがオチだ。
そして、悪い想いを抱き、結果として輪廻転生を通して悪い運命を食らうことになるだけだ。
「目覚めよ」ったって勝てっこないんですよ。
信憑性のほどは不明だが、もしも、万が一、ユーチューブなどの一部に出ている太陽系周辺に出入りする超巨大 UFO などの超常現象が本物だとすれば、あんな私達には想像もつかないような空前絶後の超絶科学力を持った存在の前では、私達は無力だと思わざるを得ない。
地球上の科学で明らかにされていない隠されてきた高度なものが数多くあったとしても、到底、太刀打ちできるレベルとは思えない。
次元が違い過ぎる。
万が一、私達がそんな配下に組み込まれ、支配されているものだとすれば、絶望しかない。
ただただ、限定的に生かされているだけにしか過ぎないことになってしまう。
こんなとてつもない相手に、対抗できる、何とかなるなどと考える方がどうかしている。
ただただ、私達には不介入であることを願うしかない。
そして、宇宙の元となる善なる神様が存在するものだとすれば、おすがりしてそのおはからいに期待するしか道はない。
そんな状況下なのに、悪い想いは悪い運命しか招かないのに怒れとでも言うのか。
何言ってるのさ。
ほとんど対処らしい対処もロクにできやしないのに、不安や恐怖を抱いて、憎しみだけをつのらせることにしかならないなんて、おかしいじゃないか。
誰かが助けてくれるとでもいうんですか。
助けることができるのは、高度な宇宙人以上の科学技術をそなえた、天涯孤独で、かつ不死身な、絶対不可侵のそれこそ、元祖魔人ブウのような破壊力と強さを併せ持った信じられないような怪物くらいしか考えられない。
いないよ、そんなのは。
だから、私はゼカリア・シッチンやディヴィッド・アイクの話を端っから鵜呑みにする、結果的に私達に不安や恐怖を抱かせるものでしかない言説は信用することができないし、好きになれない。
私達が肉体人間として、
この世で抱いた想いは、
原則として、
世を隔てて、
つまり、
輪廻転生を通して巡る、
すなわち、
原因(因縁)としての
良い想いには、良い結果(因果)が、
悪い想いには、悪い結果(因果)が、
それぞれ、
原則として、
輪廻転生を通して
もたらされる。
これが神様のおつくりになった法則だとすれば、ゼカリア・シッチンやディヴィッド・アイクの言説の「真の目的」どこにあるのかを疑わざるを得ないのである(要するに、実は向こう側の人達ということ)。
彼らだけではない。
どんなに素朴で素晴らしい行いをしているいい人(いわゆる無農薬のりんごの人のことだ。悪いが本も処分したし、名前も忘れた←ネットで調べてわかった。木村秋則さん)であったとしても、地球があと数年(数十年?)でダメになる、以降の年限はないなどという、宇宙人だか神様だか何だか知らないが、やたらに不安と恐怖を抱かせる話をする人の話は真に受ける訳にはいかない。
残念ながら、俺には六神通のような能力がないので、木村さんの UFO 体験や幽体離脱体験などの真偽をあたかも審神をするかのように判断することはできない。
だから、木村さんの話を信じるか信じないかは、人それぞれになるだろう。
しかし、私達に絶望を与えようとするかのような話を持ち出し、私達に著しい不安や恐怖を抱かせるのは、頂けないと言わざるを得ない。
木村さんのしていることは、人々の想いを悪く揺さぶり、この世の将来に強い不安を与えるだけでなく、絶望感という重石を与えることに他ならない。
これは、人々の想いの集積される想いの世界である幽界に、この世にその不安と恐怖を、いずれは不幸や災難などの形であらわすための、きわめて悪い種を蒔く行為に他ならないのだ。
だから、木村さんのいうところの、その神様だか宇宙人だかとされる存在の「真意」を疑わざるを得ないんですよ(万が一、あれらの木村さんの体験談が創作だったとしたら木村さんも。創作でないにしてもなぜあんな絶望的な話をわざわざ公開するのか、木村さんが何を考えてわざわざあんな内容を公開した(=本に著した)のかはなはだ不可解としか言いようがない。霊的な体験(や超常現象的な体験)を語りながら、輪廻転生の仕組みを知らないのか、知っていてもなおかつ故意にああした読んだ人を絶望させる悪いことを書いたのか、と邪推してしまうんですよ。
じゃあお前が木村さんの立場だったらどうするのかと聞かれたら・・・できるだけ人格の高い霊感のある人を探して公開の是非を相談するか、あの出来事(=宇宙人だか神様だかの話した地球の行く末のこと)は黙って自分の胸の内にだけ収めて「世界平和の祈り」をしていくしかないですね。もちろん、あらんかぎりの力で「世界平和の祈り」を皆さんにお願いしながら。だから、五井先生の教え(=肉体人間の抱く想いは輪廻転生を通して巡り、その想いがこの世に形となってあらわれる可能性があること)を知っている者としては少なくとも安易に公開することだけは絶対にしません)。(*追記3ー2)
不安、恐怖、暗い未来・・。
信仰をする以上は、私達にこうした悪い想いを抱かせる話を信用する訳にはいかないのである。
たとえ、万が一、悪い未来しかないとしても、信仰者としては、こうした悪い想いを抱かせる話にはかかずらわるべきではないと思うよ(理由は省略)。
こうなってくると、もう宇宙をはじめとしたあらゆる元に善なる神様を想定して、おすがりをして、そのおはからいに期待するしかやりようがないではないか。
もしも、それで進化した超絶科学を持つ善なる宇宙人(?)を神様が派遣されることにでもなるとするならば、これはもう、神様のおはからいに委ねるしかない。
もう、ここまでくると、何を信じるか、の各自の判断の問題だ。
しかし。
じゃあ、お前はあきらめるのか?と問われれば、やっぱり、あきらめる訳にはいかない。
たとえ、一個人の霊性の開発による世の中の因縁因果への影響が限りなくゼロに近くても、望み薄でもやるだけのことはやっておきたい。
なぜならば、神様の分けられたお命を頂いているせいか、やはり、美しいもの、良いもの、人類として互いに愛し合うことを求める気持ちを消し去ることはできないからだ。
それに、お釈迦さんが晩年に大自然の美しさを称えたように、大自然の美しさ、素晴らしさを見ると、やはり、これを創造されたであろう神様に畏敬の念を抱かざるを得ない。
つまり、善なる神様を信じられないけれど、信じたい、という宙ぶらりんな気持ちで信仰していくしかないような場合が、実はかなりあるのではないか。
おそらく、悟りを開いた人なら善なる神様を信じることができるのだろうけれど、そうでない人は、疑心暗鬼になり、不安と恐怖を感じながらも、何とか信仰をしていくしかない場合がかなり多いのではないか、と思われる。
いずれ、遠い先には神様の世界が地上天国としてこの世に映されるという、見果てぬ夢を抱きながら。
それが、信仰をする人には、ある程度あるのではないか。
唯物論の自我欲望の延長で、自分の信じる神様や仏様に固執して、他の宗教を排斥するゴリゴリの偏向宗教にはまってしまっているような人でさえも、本当はみんなが調和して、ともに尊重し合い、愛し合う世の中を求めているのではないか。
信仰を思う時に、どうしてもこのことが頭の中を過る。
それにね。
「目覚めよ」ったって、仮に自分だけが難を逃れることができた(?)としても、せいぜい一時的なもので、恒久的じゃない。
しかも、目覚めない(?)人達は置き去りのままだ。
これでは、人間という存在を、基本的に動物的な肉体人間に過ぎないとみなす、自己保身第一主義の唯物論と何ら変わりゃしないよ。
これでは結果的に、自分さえ良ければいい、アイツらは愚か者(?)だから、見捨てても構わない、と言っているのと同じことですよ。
この考え方の本質は、自分達だけが良ければいい、他の者達は好き勝手し放題に、搾取・収奪・処分していいとする、独占恐怖支配を目論む人達と何ら変わらない、同じだと言われても仕方がないのではありませんか。
正しいあり方だと思いながら、本質的に独占恐怖支配を目論む人達という批判対象とまったく同じことをしているのではありませんか。
つまり。
この世の中は、否応なしに、善人も悪人も、大多数と思われる中間層も、すべてが玉石混淆となって存在している以上、そのすべてが救われる道を求める形を志向しなければ、世の中の安寧は訪れないということです。
もっと言えば、そうした玉石混淆となっている私達の命の元が真善美に悖らない愛そのものである神様にあるととらえる限りは、否応なしに、すべてが調和した世界を目指していかなければならない、ということです。
たとえ、どんなに果てしない時間がかかろうとも。
だから、どのような立場に置かれた人であろうと、何事に当たっても、常に神様を念頭において改めて想いをリセットするつもりで、「南無阿弥陀仏」の唱名や「世界平和の祈り」などを基底に据えながら、祈り一念の生き方をすることが望ましいということになります。
なぜならば、個人の霊性の開発やお祈りが、たとえ世の中の因縁因果に及ぼす影響が限りなくわずかでも、やらないよりはやった方が絶対にいいからです。
少なくとも、自分さえよけりゃいい、アイツがダメだ、コイツが悪い、と差別的な想いを抱いて、他人を見下げて、世の中の因縁因果を悪化させることよりはずっといい。
考えてもみてほしい。
「目覚めよ」と言うなら、最終的には、すべての人が目覚めなければ、意味をなさないんだ。
すべての人が、神様の本質をあらわした時にこそ、はじめて皆の心の平安が訪れる。
たとえ、可能性が薄くても、そこに至る正しい道筋を示さずに、人々の想いを乱し、業想念しか招かないものは、結果として輪廻転生を通して、世の中に不幸や災難をもたらすことにしかならない、有害なものでしかないんだ。
有害なんだよ。
真善美と愛に悖るものは、(最終的には絶対善をあらわすための前段階になる可能性があるとはいえ)輪廻転生を通して不幸や災難をもたらすものにしかならないんだ。
「世界平和の祈り」の一つもせずに、世の人々の不安や恐怖を煽り、対峙する敵対者に悪い想いや憎しみを抱かせることは、結果的に世の中の人々の想いを悪く揺さぶり、輪廻転生を通して、不幸や災難をもたらす、さらに最悪の場合には前倒しの形で、今生に不幸や災難をもたらすことになるんだよ。
まさか、「世界平和の祈り」の一つもせずに、つまり、因縁因果の改善に何一つ注力せずに、「目覚めよ」なんて言っているんじゃないでしょうね?
・・・。
要は、善なる神様が、すべての創造主であり、ありとあらゆるものに命と力を与えているものならば、その神様のお造りになった、すべてのものの調和をはかることを目指していくしかないってこと。
(*追記3ー1)
身も蓋もない言い方になってしまい、大変申し訳ないのだが、他の一般的な宗教の例に漏れず、五井昌久さんの教えも、オカルトと言えば、言えないことはない。
なぜならば、神様や霊魂といった存在を、現代人の誰もが納得のいく形で証明をすることができないからだ。
(五井昌久さんの教えに対する私的な解釈とはなるが)五井昌久さんの教えが真理、すなわち、人間は神様の分けられたお命であり、つまりは、神様の子供に他ならないのであり、その私達がこの物質世界の地球上に天下ってきたのは、神様の世界をこの物質上の地球世界に映し出すため、すなわち、地上天国化を成し遂げるためである、
とするならば、
神様と霊魂という存在を万人に納得させることができない現段階では、五井昌久さんの教えを信じるか否かは、その人その人の過去世の因縁によることになる。
しかも、残念なことに、歴史がある宗教においても、伝承を伴う神話も、残された文書も、悟りを開けない人間がかかわっている以上は、創作や改竄の可能性を完全に排除することはできない。
つまり、あらゆる宗教は、神様や霊魂の完全な証明ができず、しかも残された資料の信憑性も担保できない限界を持っている訳だ。
その中では、五井昌久さんの「世界平和の祈り」は、数十年前(それでも昭和 30 年代(西暦だと 1950 年代くらい)だろうから、かれこれ 60 年以上前になるが)の現代に説かれたものであり、間違いない直の文章も音声も残っているから、改竄されていない正確な内容を知ることができる。
つまり、少なくとも、「世界平和の祈り」の祈り言葉や五井昌久さんの説いた教義の内容についての信憑性だけは間違いなく確保できている(今のところ)。
「世界平和の祈り」にしても、神様を真善美に悖らない愛そのものの存在であり、肉体人間の本質はこの神様の分けられたお命であると解釈すれば、理に適っている。
神様をこのような存在だと信じた場合に、唯物論の理屈でも(つまり、誰にでも)、十分に納得がいく内容となっている。
逆に言えば、この前提が崩れる、すなわち、神様という存在が真善美に悖らない愛そのものの存在ではない、肉体人間の本質は神様の分けられたお命ではない、となれば、この限りではなくなる。
何を信じたいか、
すなわち、
神様をどのような存在としてとらえるか、
また、
神様をどのような存在としてとらえたいかは、
この文章を読まれた方(の過去世からの因縁因果)次第。
・・・。
真善美に悖る想いと行いの業想念と妄想話になってしまい、大変申し訳ないのだが、私は火星などの他の惑星移住のいわゆる宇宙植民地(スペースコロニー)の話が大嫌いだ。
私達が、修行場だとしても、牢獄だとしても、地上天国化の場だとしても、仮にもこの地球上に生を受けた以上は、神様は、
「あなた方で地球を何とかしなさい、あなた方に与えられている場所は地球しかないのですよ」
と言っているのと同じだと考えられるからだ。
今現在の地球でさえ、こんな状態にしてしまったのに、他の惑星に行ってどうするっていうんだ。
移住するなら、悟りを開いたような、それこそ、人格の完成された覚者にしか、その資格はない。
でなければ、移住先の惑星が地球の二の舞になることは、火を見るよりも明らかだからだ。
それに、これは妄想だが、火星にも、金星にも、おそらく、私達よりもはるかに進化した霊体だけではない肉体を持った人達が、もうすでにいると思いますよ。
つまり、地球の環境とはそうは変わらないし、空も普通に青いし、大気の組成に対応するそれなりの調整をすることができれば、おそらく私達のような人類でも余裕で暮らせるだけの環境がある、ということ(あくまでも妄想ですよ)。
そんなところに、支配欲に駆られた業想念だらけの私達のような地球環境を破壊しまくった身勝手な人間達が行ったら、ご迷惑をかけることにしかならないし、第一、受け入れてくれないでしょうよ。
「あなた達は、地球という元は素晴らしい星を与えられているのだから、その与えられた場を何とかするべきだ」
と諭されるのがオチだと思いますよ。
どうしても移住したいというのであれば、まずはこの地球を、火星や金星の人達が安心して訪れることができるほどの素晴らしい星に仕上げなければ、お話にならない。
だから、たとえどんなに望み薄であろうとも、見通しが厳しくても、地上天国化を目指すようにしていかなければ、どうしようもない。
そのように思いますね。
そもそも、もしも、現在の一般的な科学常識で知らされている宇宙の姿が真実であり、今現在の私達の科学技術が本当に一般的に知らされている程度でしかないのだとすれば、スペースコロニーの話は、きわめて現実味の低い話ですよ。
端的に言って、荒唐無稽だとしか思えない。
なぜ、そんな話を可能性があると称して、わざわざ持ち出すのでしょうかね?
・・・。
とにかく。
どこぞやの神のお告げも、地底人のお告げも、宇宙人のお告げも、臨死体験した人のお告げも、未来から来たと「自称する」人間(?)のお告げも、その他何でもかんでも、私達の今現在の霊性の開発に、プラスにならないもの、直接に関係のないものについては、もう一切合切、かかずらわってほしくないんですよ。
真理を語る人は、少なくとも悟りを開いた人しかいないと考えられるし、そもそも、こうした人は、未来に対して不穏な感情を抱かせたり、不安や恐怖を抱かせる軽率な内容を話すはずがない、と考えられるからですよ。
それに。
真理を細大漏らさず真っ正直にありのままに語る(または語り続ける)ことのできる人は、条件がきわめて限られている。
先に出した元祖の小柄な魔人ブウのように
「天涯孤独で、絶対的な力を持つ、不死身な存在」
であり、
なおかつ、
「周囲に身の安全を脅かされる関係者が一人もいない存在」
でなければ真実は語る(または語り続ける)ことはできない。
悲しいことに、現代はそうした世の中になってしまっているのである(なぜかの理由は書かない。ご賢察願いたい)。
お釈迦さんのご存命のような古の時代なら、彼のような神通力を持った人間が、真実を語って世の人々を導き、世の中をそれなりに動かすことはできただろう(なお、お釈迦さんご自身は、神通力に対しては、基本的にその乱用を厳しく戒めるような態度を取っている( 拙稿 ( 007_拡張 - おぶなより2 ) (*) 参照 )。
残念なことに、今は明らかにそういう理想がすぐに実行に移せるような単純な時代ではないのですよ。
だから、霊性の開発に直接関係のないことその他に、限られた時間を割いてほしくないんです。
そんなことをする時間と手間は、すべて「世界平和の祈り」に振り向けてほしいんです。
そして、結果として、私達に不穏な想いを抱かせて、不安や恐怖を煽ることにしかならない、あたかも、
「不安騒擾の罪」
とでも呼びたくなるような、巷にあるあまたの言説には、かかずらわらないで頂きたいんですよ。
(*追記3ー2)
私達肉体人間の想いが(原則として)輪廻転生を通して巡り、この世に具現化されるものである以上、神様の世界には本来あるべきではない、真善美と愛に悖る、すなわち、神様のみ心に適わない悪い想いを撒き散らし、想いの世界である幽界に、この世に不幸や災難を具現化するための不穏な土壌を
「わざわざ醸成する」
のは、百害あって一利なし(利があるとすれば最低限の備えをすることくらい)となる、愚かきわまる悪質な行為にしかならない。
それにもかかわらず、こうした行為をやめないのは、結果的に他意を疑われても仕方がない、ということです。