221_水準

私は、ブログを書くに当たって、とにかく、わかりやすく、小学生にも理解できるような(もしも小学生は無理だとしても最低限中学生には理解できるような)平易さを求めて書いてきた(読み仮名はその大部分を撤廃してしまったが)。

だから、学術的(?)には、正確無比を期すこともなく、現状の低い教養水準のままのかなり雑な書き方をしてきたことと思う。

それは、既存の宗教関連の書籍の文章(ネットの文章も)が、あまりにも、まわりくどく、難しすぎる、わかりにくすぎる、と思っていたからだ。

宗教を理解するのを目的とすることは、すなわち、人としての生き方をよくするため、具体的には、真善美と愛に悖らない神様のみ心に適う想いと行いをできる限り、この世であらわすようにすることが目的ということ。(*)

ならば、そのための手段としての読書、すなわち、読解はなるべく簡潔で容易になされるに越したことはない。

だから、わかりやすさが一番、易しさが一番と考えていたからだ。

それに、私の教養の水準も到底高いとは言えないレベルなので、それなりで十分と考えていたこともある。

従って、高度で難解な宗教用語を用いる必要などさらさらないし(そもそもこれ自体が俺には不可能)、権威づけやカッコづけなど、ナンセンスと勝手に思っていたこともある。

カッコづけをしているとすれば、せいぜい、質実剛健にしたいと思っていることくらいかな。

だから、読まれた人によっては、コイツは、なんていい加減で適当な言葉の使い方をするんだ、と鼻先で笑い、読むに値しない、と門前払いにしてきた人もいるかもしれない。

例えば、因縁と因果。

私は、一般的な宗教に対する理解度(つまり、普通の皆さんはそんなに宗教、特に学術的な用語の厳密さや論理の組み立て(ロジック)には興味をお持ちではない)だろうから、とにかく、ひたすら、簡潔に、平易に、と考え文章を書いてきた。

だから、学術的な水準にこだわる人には、それだけで文章の品のなさも含めて避けられてきたかもしれない。

ちょっと、話がそれた。

まあ、こうした次第なので、原因を因縁、結果を因果、といった形でちょっと乱暴に書いてきた。

ただ、自分のこれまで読んできた聖書に関する書物や仏教に関する書物は、あまりにも教条主義的だし、権威主義的だし、まわりくど過ぎる、わかりにく過ぎる、と思えて仕方がなかったのでね。

読んでいて、

「要はなんなんだよ。
もっとわかりやすくまとめた形で書いてくれよ」

「お澄ましし過ぎて、カッコつけ過ぎなんじゃないの、これ?」

「これじゃあ、学術的な用語の遊戯が好きな人(?)にはいいのかもしれないが、漠然とし過ぎて何言ってんのかわかんないよ」

と思わされたことが、何度もあったからだ。

話を戻すと。

一応、因縁と因果の正確な意味を調べてみると・・・。

・因縁~いんねん~

①ー1.仏教語~結果をもたらす因と縁。または、その関係。
因は結果をもたらす内的な直接原因。
縁は、それを外から助ける間接原因。

①ー2.~仏教語~定められた運命。
(用例)前世からの因縁。

①ー3.~仏教語~宿命的に結ばれた関係。
(用例)彼とは浅からぬ因縁がある。

②由来。来歴。
(用例)いわれ因縁を語る。

③言いがかり。
(用例)因縁をつける。

そして、因果については・・・。

・因果~いんが~

①原因と結果。
(用例)事件の因果関係を明らかにする。

②仏教語~すべての現象は、原因と結果の法則に支配されるということ。前世または以前に行った行為から受ける報い。
(用例)因果が巡る。

③不幸な宿命の下にあるさま。不運なさま。あわれなさま。
(用例)因果な話だ。

また、因果を使う慣用句には、以下がある。

・因果を含める~理由を話してやむを得ないと納得させる。仕方がないとあきらめさせる。
(用例)因果を含めて別れさせる。

・因果応報~いんがおうほう~仏教語~人の行いの善悪に応じて、必ずその報いがあらわれること。悪い報いに使われることが多い。

因果律~いんがりつ~哲学用語~原因となるべき状態には必ず結果となるべき状態が伴うという自然の法則。
すべてのことは原因と結果の必然的関係によって存在するとする原理。

といった感じになっている。

だから、原因=因縁、結果=因果というのは、正確ではなくかなり乱暴な書き方だった訳です。

因縁はともかく、現代語の因果そのものが、原因と結果という意味を含むものだから。

ただ、私としては主に初期の仏教についていろいろと見てきたので、あまり原因と結果という書き方は、現代語過ぎて感覚が馴染まないというか、しっくりこないので、勝手に混同して使っていました。

まあ、因縁と因果関係の言葉については、現代語も、仏教語(仏教用語)も、哲学用語も、ごちゃごちゃに入り混ぜて使っていたことは確かなので、その点は、申し訳なく思っています。

本当にすみませんでした。

という訳で。

以降も、こうした教養の足りない、いい加減な書き方を続けますが、あらかじめご了承頂きますようお願い申し上げます。

以前、( 110_心構え - おぶなより2 ) でブログを書くに当たって、(過去世の因縁により魂という自らの責任に帰する)今おかれた環境や能力、そして、(神様から与えられている)命を生かし、最善を尽くすべき、といったような内容を書いておきながら矛盾してしまいますが、今さら一から教養を構築しなおすこともできないので、この低水準のままでやらせて頂くというお断りです。

とにかく。

どんなに教養が足りなかろうが、文章が下手だろうが、文章がクドクドと長かろうが、文体が美しくなかろうが、内容の理解しやすさ第一、内容のわかりやすさ第一、でやっていくつもりです。

なお、最近、私は「振り仮名」と「読み仮名」の 2 つの言葉を誤って混同して使っていたことに気がつきました。

間違った言葉の使い方をして申し訳ありませんでした。

その他の言葉にも、その意義や用法などに誤りを見つけ次第、その都度、その都度、できる範囲で徐々に訂正をさせて頂きます。

ご了承願います。

まあ、こんな私でも、はてなさんにこうして書く場を与えて頂いていることに感謝しながら、できる範囲で誠意を尽くしたいと思います。

世間一般から見れば、雑文の書き散らしに見えるだけかもしれませんが、誠意だけは尽くしたいと思いますので。

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(*)私達、唯物論で通常人間と言われる肉体人間の本質・本体は、真善美と愛に悖らない神様の分けられたお命という分霊(わけみたま)である。

すなわち、神様の光という光明波動の一筋一筋のわかれとなる、霊なる人間こそが本当の人間、真実の人間である。

しかし、この唯物論で言うところの物質世界に、映し出す、五感に認識できる形であらわれるために、想いの体である幽体をまとい、さらに肉体をまとう形で、この世にあらわれて生きていく上で、自己保存の本能という、本来の分霊にはなかった排他的な性質が与えられたために、肉体の自らを中心とした利害得失計算に明け暮れるような形の人間、すなわち、肉体人間となってしまった。

これを、本来の分霊である霊身を映した形にふさわしい姿になるように、少しずつでも段階的に矯正を繰り返していくのが、霊性の開発である。

この肉体人間を神様を映し出した人間に近づけていく方法が宗教だとも言える。

私達肉体人間は、本質としては元々が神様に他ならないのだから、どうしても神様を求めたくなってしまうようになっていると考えざるを得ないのだ。

そこに、神様と人間の関係を求める形であらわれてきたのが、宗教である、と。

で。

宗教に入る動機には、大別して 2 つあると言えるだろう。

根本的には、神様のみ心をあらわした生き方をすることが目的となるが、そこに入る行き方のことだ。

第一は、現世利益を求めるもの。

すなわち、この世でほとんどの人が避けることのできない、病気・争い・貧乏・苦労などを何とかしたい、この苦しくつらい状況から脱却したいなどを動機とするものだ。

第二は、上記のように、この世で神様のみ心をあらわした生き方をすること、すなわち、人格を向上させて、世のため人のために尽くし、皆の調和をはかるような人間になること。

現代であれば、おそらく大半の人が病気・争い・貧乏・苦労などを解決するような現世利益の追求から宗教に入ることになるだろう。

そして、最終的には、やはり、第二の神様のみ心をあらわした生き方をすることが目的になる。

なぜならば、神様のみ心をあらわした生き方ができるようになってくれば、自然と病気・争い・貧乏・苦労が解消する方向に向かうようになってくるからだ。

だから、第一の現世利益からの宗教への入り方は、いわば、方便みたいなものなんだね。

おそらく、守護の神霊様としては、過去世の因縁とも睨み合わせて、本来の神の子をあらわすための入り口として、病気・争い・貧乏・苦労を通すことで、本来の宗教の目的である神様の子供としてのあり方を求める形に導くというお考えの下に。

ということは、・・・。