169_原理5

前回 ( 168_原理4 - おぶなより2 ) をちょっと言い換えます。

要するに、

世の中には
そんなにうまい話が
転がっていることは滅多にない、

すなわち、

この世に生まれること自体が、

そもそも
主として
たくさんの過去世において
為してしまった
神様の
お命としての分霊(わけみたま)を
本質とする者としては
ふさわしくない
真善美に悖る想いと行いの
業想念という

過去世の悪い因縁を
果たす=清算するという
修行が主題なのであり、

身体や才覚も含め、
そんなに過去世の
たくさんの良き因縁の
ご褒美のように恵まれて
この世に生まれつく人は
滅多にいないのだから、

祈りをするならば、
あえて(今生の)欲望とは距離を置いて、
人格の向上、
ひいては霊性の開発を
目指しましょうよ、
ということです。

お釈迦さんの時代のような
古の修行者
のような人ならいざ知らず、
現代人では、
悟りを開いたり、
人格を向上させたり、
霊性を開発しようと
純粋に思う人は少ない。

それよりも、
圧倒的大多数の人が、
いわゆる、
病・争・貧・苦、
すなわち、
病気の治癒・争いの収斂・貧乏の脱却・苦労の解消、

現世のご利益(ごりやく。もちろん、気持ちを安定させることや少しでも人として良き生きたいという動機も含む)として
得るために宗教に入り、
祈りをする。

しかし、
その本当の祈りによるご利益、
すなわち、
良き想いと行いや
人のために尽くしたりして
与えられるご利益を
得るまでには
どうしても時間がかかる。

だから、
現世利益は
ひとまず置いておき、
人格の向上、
ひいては
霊性の開発を
していくことで、
少しでも因縁因果を
改善させることを
主題に切り替える。

現世利益、
それも上記のような
本当の現世利益は、
あくまでも人格の向上、
ひいては
霊性の開発に伴って、
自然に与えられる形」
を望ましいものとする。
あるいは
目指すべきものとする。

これが、
時間はかかるけれども、
現世利益を
無理なく確実に得ていく
自然なやり方に思える
訳です。

願いを叶える、
願望成就に代表される
現世利益は、
あえて後回しとする。

そうして、
人格の向上、
ひいては霊性の開発を
主題に据(す)える。

回り道のようでいて、
実は
これが無理がなく、
業想念を生じさせず、
過度に我欲に走らない
堅実な願望成就への近道。

そのように思いますね。

言い換えの言い換えになるけれど。

要は、

甘い果実を
「よこせ、よこせ、よこせ」と
願ってばかりいないで、
人格を向上させ、
霊性を開発することを
優先させることで、
自然に地に足のついた
堅実な願望成就への道のりに
近づいて行くことができるよ、
ということです。

時間は果てしなく(?)かかるかもしれないけれど、
真善美に悖る想いと行いの業想念を生じさせず、
無理がなく、
神性に適った行き方になり、
回り道のようでいて、
実は近道になるはずだよ、
ということです。