167_原理3

直近の ( 162_原理 - おぶなより2 ) と ( 164_原理2 - おぶなより2 ) で、霊的なことや輪廻転生に関する私的で大まかな理解について書いてきた。

ちょっと、書いていなかったことをいくつか補足しようと思う。

今回は、今まで霊的などを扱った本や動画などを見てきて感じたことを書きたい。

内容については、あくまでも個人的な感想なので、その点は、あらかじめご容赦・ご了承頂きたい。

それは。

引き寄せなどを取り上げる方に典型的なのだが、こうした方々に限らず、仏教やキリスト教系も含めて、皆さん現世(この世における今生=今回の人生のこと)に、しかも、短い期間での物事の成就という視野にとらわれすぎているのではないかな、ということ。

私が ( おぶなより ) とここ ( おぶなより2 ) で世界平和の祈りをたびたびお願いしてきたのは、実は、即物的かつ短期的な、しかも、誰にでもわかりやすく、この世に効果があらわれてくる成果を期待してのものではなかった。

もちろん、祈りの効果が皆無だなどといった、読んで下さる方をだますという意味合いは天地神明に誓ってありません。

そうではなくて、ごく一般的に考えて、皆さんは祈りをお考えになる場合に、人格の向上、ひいては霊性の開発を目指すというよりも、どちらかと言えば、この世における願望成就(言い換えれば、現世のご利益)に重きを置きがちな方が多いと思われます。

こうした方は、どうしても祈りの手早い成果を期待しがちなことが多いと思われるので、それはちょっと違いますよ、と言いたかったんです。

肉体人間としての想い(と行いは)原則として世を隔てる=輪廻転生を通して、実現していくことは、これまで何回も何回も書いてきたことからおわかりになるとは思いますが、今生内で良き想い、良き祈りの成果の成就がなる場合でも、この世では時間がかかることが多いからです。

祈ったから、すぐに効果があらわれる、悪い因縁が因果としてあらわれるのを緩和して頂ける、または、悪い因果を改善して頂ける、といった、すぐにわかりやすく目に見える効果が得られることを期待してのものではなかったのですよ。

もちろん、過去世の因縁がある程度よくて、そのように即効性があり、効果が目に見えてすぐに感じることのできる人も、それなりにいらっしゃるでしょう。

しかし、こうやったからこう、と誰の目にもすぐに因果関係が手に取るようにわかるような、悪い因縁の改善としてのあらわれ=効果がある、というのは残念ながらまれで、効果があったとしても、しばらく時が経ってから、ああ、あの時はまったくわからなかったけれど(むしろ悪いようにあらわれていたけれど)、今になってみれば、最終的にはこうしていい結果に導かれたんだな、ということの方が圧倒的に多い、というか、ほとんどそうなのではないか、と考えられるのですよ。

要は、神様のお導きというか、おはからいは、私達の想像をはるかに超えた高みからのものになるのが、ほとんどなのではないか、ということ。

ゆえに、私達がいろいろとこの世での即物的な効果を目論んで、とらぬ狸の皮算用よろしく、即物的かつ短期的な効果を期待をしながら祈るというのは、あまり好ましくないと思うのです。

因縁因果をどう運んで、個人個人の人生をどのように霊性にも適った良きものに変えていくか、ひいては、世の中の運びを良きものに変えていくかは、あくまでも、神様のおはからいの範疇の話であって、私達が主にこの世での欲得からどうのこうのできることではない、と考えるべきだと思うのですよ。

もちろん、宗教に入る動機の大半は、この世での不幸などを何とかしたいという、現世のご利益の中でも特に切実なものがほとんどでしょうから、即物的でなおかつ目に見えてわかりやすい効果を期待するのは、もっともなことではあります。

しかし、こうしたことがすぐに叶えられるのはまれで、引き寄せなどを強引に使ってしまうと、今生で受けざるを得ない因果を無理矢理避けることで、来世以降に受ける因果をかえって増やしてしまう可能性すらあると考えられるのですよ。

自分のことにしても、世の中のことにしても、どのような流れをたどって良くなっていくかは、あくまでも神様のおはからいの範疇に属すること。

私達の預かり知らない高みから、すべては運ばれること。

つまり、結果の良きことを願って祈りをするのはいいけれども、その最終的なあらわれ方は、神様のおはからいにすべて委ねるのが望ましいということです。 

良い想いは、良い結果をもたらすことには違いはないけれども、そのあり方を私達の狭い視野でくくったりせずに、すべて神様にお任せすべきだということです。

良き想いを発して(=従って、良き行いも伴う)、良き祈り=世界平和の祈りをしても、結果を度外視するくらいで、(言葉は多少悪いですが)やりっ放しにするくらいでちょうどいいと思うのですよ。

結果を期待する、というか、結果を物欲しそうに期待し過ぎると、思ったような結果がすぐに得られない場合に、想いも乱す=悪い想いを抱くことにもなり、かえって良くないことになるからです。

私達のまったく予想だにしない経過で、時が経ったらいつの間にか、自分も世の中も良き方向に向かっている。

これこそが、神様のお導きであり、おはからいではないのかな、と考えられるのです。

今現在の因果関係を元に、いろいろと話をするのはもっともわかりやすいし、理解しやすい。

宗教関係やスピリチュアル関係の書籍や動画では、一般的にはもっともお説教(?)として取り上げられやすい。

しかし、実際の因果関係は、世を隔てる、すなわち、輪廻転生を通すことが多いし、そんな単純明快に割りきれることの方が少ない。

だから、とりあえずは、一般的には取り上げられやすい(?)、短期的で単純な勧善懲悪的な視野を離れることが必要かな、こうした執着を解き放つことが必要かな、と考えられる訳です。

こうした執着を解き放つためにも、普段から「南無阿弥陀仏」なり、「世界平和の祈り」なり、(良いことも悪いこともありとあらゆることを含めて)「神様ありがとうございますの一念信仰」=「何があっても( ありがとうございます )で対処する一念信仰」なりで、常に自らの想いをリセットしていくことが必要ですね。