引き寄せに関する前回 ( 188_引き寄せ3(部分と全体) - おぶなより2 ) の続き。
引き寄せについての書き始めの当初は、いくつかの本を元にして、引き寄せについてまとめたあとに、引き寄せを書くつもりでいた。
しかし、中々本を選ぶことができないので、とりあえず見切り発車の形で、引き寄せについて適当に書いてきたが、勝手ながらすべてをご破算に(リセット)して、いくつかの前提から書き直すことにする。
しょっぱなからの、まぜっ返しになってしまうが、お許し頂きたい。
以下に、天命と引き寄せの違いについて現段階での理解を記したい。
1.神様と人間について
まず、はじめに、神様とはありとあらゆるものの造物主であり、全知全能で完全円満な、真善美に悖らない愛そのものの存在である。
従って、善悪二元論のような二項対立の形で神様と悪魔を対峙する形でとらえることはしない。
つまり、ゾロアスター教に影響を受けてしまった既存の宗教のようなとらえ方はしない。
仏教にある善悪不二に似た形(仏教もゾロアスター教の影響を受けている部分がある)で、すべては神様しかないと理解する。
そして、人間とは、元々は神様のお命を分けられた霊魂魄そのものの神霊、すなわち、霊なる人間であり、この世で普通に人間とされるのは、この霊なる人間が想いをまとい、肉体をまとってあらわれたものである。
つまり、
猫といった動物と同じように、
普通に、姿形が誰にでも目に見ることができて、
(鳴き)声を発し、
なおかつ、
手などで触れることのできる、
三次元の生物のように見えているのが、通常は人間とされる。
いわば、
通常、誰しもが五感に感じることのできる人間が、
肉体人間、唯物論での「人間」とされる訳だ。
唯物論では、幽霊(?)や神様や悪魔(ここではないと仮定するが)のように、
人によって見えたり、見えなかったり、
聞こえたり、聞こえなかったり、
触ることができたり、触ることができなかったり
とするように、要するに、霊感などのように、肉体の五感以外の感覚で認識が分かれてしまう存在は人間や動物とはされない(正確に言うと人によって五感で認識できたりできなかったり、五感で認識できる人でも体調や精神状態で認識できたりできなかったりと安定して認識できないものは唯物論では動物や人間とはされないという意味)。
従って、誰しもが五感に感じることのできる存在が、唯物論では、すなわち、通常では人間とされる。
私はこれを本当の人間、真実の人間とは区別して肉体人間といつも書いている訳。
人によって幽霊(?)や神様や悪魔、中でも悪魔とされる存在は、私達人間が作り出してしまった真善美に悖り、神様のみ心に適わない誤った想いと行いが、この世で時間をかけて解消されていくものが形となってあらわれたものである(従って、迷った妄念(誤った想いのより集まった想いの集合体(生物?))も含まれる)。
この誤った想い(とそのより集まり)と行いは、私達が霊魂魄からこの世で想いと肉体を得て生きていく便宜上、与えられた自己保存の本能により、肉体としてのわが身を守ろうと利己的に行動するようになったために、やむを得ず(必然的に)?生じてきたものである。
このような肉体人間は、その本質が霊なる人間である以上、神様そのものに他ならないのであるから、想いの体と肉体の体を得て、神様としてあるべき形ではないこの世で為してしまった真善美に悖る、神様のみ心に反する利己的な想いと行い=業想念は、必ず時間を経て矯正されなければならないようになっている。
つまり、真善美と愛に悖る業想念は、生じさせてしまったら、必ずなくすようになっているのだ。
仮に、霊なる人間である霊魂魄のこうした修行過程を製品の生産に例えるならば、肉体と自己保存の本能を得て、この世で何回も何回も、輪廻転生という生まれ変わり死に変わりを繰り返すなかで、神様のみ心には適わない、真善美と愛に悖る利己的な想いと行いという、(この世まで広義の神様の世界に含めるとすれば)神様の世界には本来存在してはならない有害(?)な、いわば、作業屑のようなもの(=業想念)が生じるようになっているから、この有害な作業屑に相当する業想念は、清算するなりして、消し去らなければならないようになっている。
ただし、自ら(霊魂魄自ら)が生じさせた業想念のすべてを自分で清算するとなると、あまりにも生じさせる業想念が多すぎて、負担が甚大となり、霊魂魄を進化させることが難しくなってしまう。
そこで、神様がこうした負担を減らすために、私達人間が生じさせた業想念を、この世であらわれる前に事前に浄めて消し去るようにして、私達個々の霊魂魄を救いながらその進化を支えるような形になっている。
そのために、神様が私達に遣わされているのが、守護の神霊である、祖先の悟った霊である守護霊様と、その上に立つ守護神様になっている。
そして、こうした霊魂魄の矯正過程、修行過程にかかる時間に相当するものが、原則として世を隔てる期間の輪廻転生の期間ということになる。
輪廻と転生は、固有に分けられないこともないのだが、ここでは、ひとくくりに輪廻転生とする。
ただし、肉体人間の場合は、六道輪廻にあるように動物に生まれ変わることはなく、肉体人間はあくまでも肉体人間に生まれ変わる。
動物と肉体人間との間で共用されるのは、霊魂魄のうちの肉体を構成するような魂魄の魄要素だけであり、霊となる神様の分けられたお命は、あくまでも肉体人間にのみ与えられる。
従って、動物から肉体人間へ、肉体人間から動物へと生まれ変わることはない。
肉体人間が出来上がる時に使われることがあるのは、あくまでも、言ってみれば目には見えない肉体を構成することにかかわる魄要素だけである。
神様の分けられたお命という神霊=分霊という霊がある以上は、あくまでも肉体人間は肉体人間で、動物そのものではない(肉体人間の本体は霊魂魄なのに対して動物の本体は魂魄のみ)。
つまり、肉体人間と動物間で生まれ変わりがあるように見えるのは、あくまでも肉体を構成する魄要素だけであり、肉体人間そのもの、動物そのものが、それぞれ交互に生まれ変わることはない。
霊なる人間としては本質が神様であるから、そのお命は永続するが、この世で肉体人間となると、その寿命は原則として数十年と限られる。
この世にあらわれた肉体人間としては、誕生から肉体人間としての死、すなわち、死去までの限られた人生となる。
2.輪廻転生について
1.に書いた私達霊なる人間が、想いと肉体を得て、この世を生きていく便宜上与えられた自己保存の本能のために生じた、神様としてはふさわしくない想いと行い(以下、両者を含めて行いと表記する。行いの前には必ず想いがあるから)は、原則として今生という肉体人間の輪廻転生という生まれ変わりを経て、来世以降に矯正されることになる。
今生で生じさせてしまった業想念は、原則として来世以降に矯正するという形でなくすようになっている。
業想念により生じさせてしまった霊なる人間としての誤った行いは、必ず矯正される定めにあることになる。
この業想念は、いわば、霊魂魄についてしまった魂の汚れに相当するので、これを浄めて無くすような仕組みになっているということである。
そうして、肉体人間としての魂である霊魂魄を、肉体をまとっても、汚れをつかないように矯正を繰り返す形で、輪廻転生の上がりとなるまで立派なものに仕上げていく。
そうすれば、肉体人間としても、霊なる人間そのものを想いと肉体をまとった、すなわち、霊なる人間を肉体人間に映しても、霊なる人間そのものが肉体人間となる、その本質が神様にふさわしい肉体人間になっていくことになる。
ただ、上記のように、私達個々の霊魂魄だけで、こうした業想念を浄めてなくす=自らが為した行いを受けるだけでは、私達個々の霊魂魄が肉体人間となって輪廻転生を繰り返し、この世で生じさせてしまった業想念が多すぎるので、守護の神霊さんが浄めて救う形でお守り下さっている。
肉体人間として抱く想いは、業想念だけではなく、神様のみ心に適った良いものもあり、これも、輪廻転生を通して巡るのだが、これは真善美に悖らず、神様のみ心に適うので、取り立てて問題とはならない。
「自らが為した行いが自らに返る」
「自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければならない」(*1ー1)
と言われるのは、
親様としての神様も、
その分けられたお命としての神様の子供に相当する私達霊なる人間も、
すべてを神様として、ひとくくりにして、
神様としてマクロ的に一つとしてとらえると、
良い行いも悪い行いも、双方ともに輪廻転生を通して巡るので、
自分のしたことは、
良いものも悪いものも、
必ず自分に返ってくる、(*1ー2)
ということになる。
従って、
個々の霊魂魄同士で、為された誤った行いに対してその償いとしての報いが来ることと、
霊魂魄すべてを親様の神様とともに、神様(本質として神様となるものをすべて含む)という一つの集合体としてとらえた場合に、誤った行いが巡ることは、
とらえ方が、
個々の霊魂魄同士の関係としてミクロ的にとらえるか、
個々の霊魂魄をすべて包摂して含めたマクロ的にとらえるか、
が異なるだけで、同じ現象を表裏一体で見ているだけである。(*2)
3.輪廻転生の必要性
以上のように、私達が肉体人間としてこの世にあらわれ、その本質の霊なる人間にふさわしい、霊なる人間を映した肉体人間となるためには、今生というたった一回の肉体人間の人生だけではなくて、何回もの輪廻転生という時間をかけていくように、神様がお考えになったとしか、考えようがない。
そうして、この地球世界を私達を通す形で開発して、私達が霊なる人間を映した肉体人間が住むにふさわしい環境として開発していくようになっていると思われる。
よく、巷には、輪廻転生は、それ自体があるのかないのかとの話があるが、輪廻転生があるのは、神様が私達霊なる人間に公平さをもたらすために肉体人間の限られた寿命とともにおつくりになられたと考えられる。
この世で繰り広げられる肉体人間としての人生が、たったの一回だけに限られてしまったら、神様の分けられたお命という、私達、個々の霊魂魄に与えられる機会の平等さ、公平さは保てないからだ。
霊魂魄といういわば資本に相当する元手は(後述のようにその働きに大小の相違はあるが)は私達個々に平等に与えられることで、
あとはその霊魂魄個々が輪廻転生を通してどのように行いを積み重ねるか、という生き方の違いによって、その後の、来世以降のこの世での肉体人間としての生まれつきが変わってくる、
というように、
ある程度の自由裁量の余地が与えられるような形で、機会の平等が保たれている。
今現在のこの世を見ればわかるように、その想いと肉体を得た霊なる人間の過去世の生き方によって映された肉体人間のありようは、千差万別に分かれている。
この肉体人間としての人生がたった一回だけだとしたら、これほど不平等で、不公平で、不条理なことはない。
そのくらい、生まれつく環境から、生まれつく容姿から、才能から、何から何までが肉体人間個々ですべて異なっている。
このように過去世の生き方の積み重ねを反映した結果としての不平等、不公平、不均衡があらわれている、
「現時点でのこの世の状態だけ」
を見れば、とても公平さが保たれているとは言えない。
まさに、不条理に満ち満ちている、混沌(カオス)そのものである。
しかも、天国に近いというよりも、むしろ地獄に近いような(?)、寿命は数十年と儚い期間に限られ、その生涯は病争貧苦に満ちている部分が多い。
上記 1. のように神様をとらえる限り、神様はあくまでも、不公平・不平等はおつくりにならないと考えられる。
だから、私達霊なる人間の個々のこの世での輪廻転生を通した行いを反映した形で、異なった肉体人間とはなっているけれど、与えられている素材の本質としては、霊魂魄として誰もが変わらない、ということになる。
その霊なる人間が、想いと肉体をまとい、この世に誕生したあとの何回もの肉体人間としての生と死を繰り返した生き方を反映して、その結果として来世以降の生まれつきが異なるようになっている。
その生き方となる前世、前々世、前々々世、・・・としての過去世における肉体人間としての行いの記憶は、輪廻転生を経るごとにほとんど消し去られてしまうために、私達のこの世の顕在意識(普通にこの世で抱く想い)では、この世の不平等さや不公平さが、到底、理解できない。
この世は、
神様の分けられたお命を映した肉体人間が出来上がるまで、そうして地球世界が開発されて出来上がるまでの、
あくまでも中途の過程であり、
いわば、
神様の世界が映し出された本物の世界が出来上がるまでの未完成な世界であり、
私達のこの世で織り成した行いが、
良いものも悪いものも巡っていく、
悪いものに関してはミクロ的に見ると清算されていく姿としてあらわれる、
私達がたくさんの過去世で織り成した因縁の時間をかけて解消されていく姿、
いわゆる、消えてゆく姿であり、
仮想現実とも取れることになる。
ただ、私達肉体人間は、悟りを開いていないから、一般的に霊なる人間が本質だとはわからず、肉体人間こそが人間であり、この世が真実の世界だと思い込むようになっている。
いわゆる、般若心経にいうところの、
「顛倒夢想」がこれである。
ただ、同じ平等な霊魂魄とはいっても、その働きにはそれなりの段差があるので、大きな働きを司る霊魂魄、小さな働きを司る霊魂魄のように、肉体人間世界を構成する上で、それぞれに受け持つ役割は異なるということになる。
本質は平等でも、果たす役割で、それなりに違いがある、と。
ただし、本質が同じ神様の分けられたお命である以上、肉体人間としてこの世を生きていく上では、あくまでも、お互いを尊重して、協力し合って生きていくべきだ、ということになる。
巷に普通に言われる平等のあるべき形は、こうした形となる。
従って、自己保存の本能によるエゴイズムを突き詰めた、人々の差別と段差を激しくさせた、独裁による恐怖支配を目論む世界は、論外中の論外ということになる。
唯物論での独裁による恐怖支配を目論む世界が、唯一神様のみ心に適うのは、社会を構成するすべての人が、悟りを開いた人格者である場合だけである(もっともこうした社会ではそもそも独裁による恐怖支配を目論むこと自体が起こり得ないことになるが)。
肉体人間として、それぞれに果たす役割は異なるけれど、皆お互いに尊重し合い、協力し合う形の世界が完成形のあるべき社会でなければならない、ということになる。
神様の愛をあらわすということは、社会を構成する各人が、お互いがお互いのために尽くし合うことに他ならないからだ。
4.天命について
天命とは、上記のように地球世界を開発して、神様の世界を映した世界をつくり上げていく上で、私達個々の霊魂魄に託した輪廻転生を通して果たす一つの長い目でみた役割ととらえることができる。
つまり、一つの神様の分けられたお命が想いと肉体をまとって、この世にあらわれて、何回となく輪廻転生を繰り返して、その霊魂魄を肉体人間が神様の分けられたお命を映した肉体人間にふさわしいものとなるように修行しながら、同時並行して地球世界を開発することで、この世を神様の世界を映した世界にするように完成させていく、というように。
だから、天命とは、神様の視点から見た、幾つもの輪廻転生を通して果たされる、長期的な視野で考えられているものととらえることができる。
以上、1. から 4. までのように考えてきた時に、引き寄せというのはのは、果たしてどのような意味合いを持つことになるのか?
5.引き寄せの意味するところ
巷間で「引き寄せ」と呼ばれているものは、果たしてどのような意味合いがあるのか?
引き寄せとは、私達肉体人間が輪廻転生を繰り返す中での、たった一つの今生という視点から見て、主にその唯物論的な肉体人間観を元にして抱いた様々な願望を実現させるためのものだ、ということになる。
つまり、神様が幾つもの輪廻転生を通して果たすべき私達個々の霊魂魄に授けたと思われる天命とは、まったく違うものだ、と考えられるのである。
もしかしたら、奇跡的に神様の授けた天命とこの引き寄せの願望が一致することもあるかもしれない。
しかし、もしも万が一そうしたことがあり得るとすれば、よほど高尚な、それこそ、お釈迦さんのような人々を教え導く立場に生まれるべくして、生まれつく人の超特別な場合、としか考えられない(でも、まずはあり得ない。お釈迦さんですら、何回もの生まれ変わりをしているとされているのだから)。
以上により、
今生という一つの人生に限ってみただけでも、
神様が私達個々の霊魂魄に輪廻転生を通して授けた天命の、さらにそのほんの一部分としてでしかない今生の天命と、
私達が肉体こそが人間だという肉体人間観から引き寄せで抱く願望は、
まったく異なるものだ、と考えざるを得ないのである。
~~~~~
(*1ー1)、(*1ー2)
話が煩瑣になることを避けるために、部分的に簡略化して書いたが、より正確にはそれぞれ下記のようになる。
(*1ー1)
「自らが為した行いが
原則として輪廻転生を通して
自らに返る」
「自分が蒔いた種は、
原則として輪廻転生を通して、
自分で刈り取らなければならない」
(*1ー2)
自分のしたことは、
良いものも悪いものも、
原則として輪廻転生を通して、
必ず自分に返ってくる。
今回、はじめて私の文章を読んだ方は違和感を覚えるかもしれないが、
このように(=原則として輪廻転生を通して、と)書くということは、
今生の今現在の私達の想いと行い、
そして、生得的な環境や身体的特徴や性格や
これから不可抗力で未来に起きてくることの
何もかものかなりの部分が、
実は、前世、前々世、前々々世、・・・といった過去世の(想いと)行いに規定されてしまっている、
ということに他ならないのだ。
例えば、今現在頭の中を駆け巡っている想いも、実は、過去世の(想いと)行いがかなりの部分を占めてあらわれている、と。
ただ、六神通を駆使できるような漏尽通を獲得している悟りを開いた人だけしかこうしたことがわからない、という訳でもない。
どういうご意志なのかはわからないが、神様は私達に、過去世の全容と来世以降の内容を、悟りを開いた人でなくとも部分的に(あくまでも、部分的に)わからせるように、それなりのヒントをお与えになっていると思われるからだ。
星の配置、生年月日、顔つき、手相、つけられた名前、というように、過去世と来世以降を探るための手がかりを、何らかの意図の下にヒントとしてお与えになっていると思われるからだ。
ただし、ヒントはあくまでもヒント止まり。
やはり、王道(?)は、人格の向上、さらには、霊性の開発をしていくこと、
それも、今生だけですべて輪廻転生の上がりになれると欲張るのではなくて、
今生なら今生なりに、精一杯やれるだけやっておくようにするしかない、と考えられる。
話を戻すと。
過去世の内容とその今生と来世以降への反映を完璧に体得してわかっているのは、悟りを開いた人しかいない(つまり、現在ではまずいないと思われる)ことになるので、
私達としては、
「ああ、そういうものなのかなあ」
と感じるしかないのが、何とも残念なところだ。
(*2)以下のように示せる。
肉体人間 A が 肉体人間 B を「ぶつ」場合を例とする(殴ると書くと響きが悪い感じがしたので、いつもとは異なり「ぶつ」に変えた)。
肉体人間 A も 肉体人間 B も、その本質は神様の分けられたお命という霊魂魄なので、以下に、霊魂魄 A と 霊魂魄 B の関係として考える。
下記の図解がわかりにくければ、さしずめ「ぶつ」という行いを「石のつぶてを投げる」のように考えるとわかりやすくなる。
①は、「石のつぶて」の霊魂魄 A と霊魂魄 B の間のぶつけ合い
となり、
②は、「石のつぶて」がブーメランのように自分に戻ってくる形
となっている。
①ミクロ的な視点による霊魂魄同士の個別の主体の行いのやり取りとして行いをとらえた場合
霊魂魄 A→行い(ぶ つ)→霊魂魄 B
霊魂魄 A←報い(ぶたれる)←霊魂魄 B
この場合には、「ぶつ」という行いは、
霊魂魄 A の「ぶつ」という行い=働きかけ
と
霊魂魄 B の「ぶつ」という行い=反応
という形で、相対する形で、「ぶつ」という行いが行き交うことになる。
②マクロ的な視点による、親様としての神様と、その分けられたお命としての神様の子供に相当する、霊魂魄 A と霊魂魄 B をすべて一つの大きな主体 = 神様 として、その行いの循環をとらえた場合
親様(神様) ┓→行い(ぶつ)──→┐
霊魂魄 A ┃ │ 霊魂魄 B ┛←報い(ぶたれる)←┘
この場合には、親様としての神様も、そのお命を分け与えられた親様の神様の子供としての、霊魂魄 A も霊魂魄 B も、すべてを含めた神様という一つの主体の行いとして「ぶつ」をとらえるから、自らの「ぶつ」という行いが、「ぶたれる」という形で自らに返ることになる。
~~~~~
(追記)
これまでも ( おぶなより ) でもここ ( おぶなより2 ) でも何回か触れてきたのだが、業想念という、真善美に悖る、神様のみ心に適わない悪い行いをすれば(悪い因縁をつくれば)、原則として輪廻転生を通して悪いもの(悪い因果)が返ってくるからやらないようにする、嫌な目に遭いたくない、つらい目に遭いたくないから、端的に言えば、罰を受けたくないから、業想念を避けるというのは、信賞必罰と同じで、修養の域を出ない。
まだまだ、足りない。
やはり、人格を向上させて、もっと言えば、霊性を開発して、業想念を浄めて減らすようにしていき、自然に業想念を為さないようにする、自然に良いことをする、自然に愛を施すようになることが理想であり、目指すべき(神様の子供としての)人間のあり方であると言える。
良いことという、ニンジンというか、報酬がなくても、神様を本質とする者として、当たり前に愛を施し、良いことをする。
これが、人格の向上を目指す者の理想的な形だと言える。