(お断り)表題にあるゴブチは、傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)を、傲慢のご、侮蔑のぶ、嘲笑のち、とそれぞれの頭文字から 1 文字ずつ取り、都合上、カタカナ化して縮めて個人的に勝手に作った造語です。ご了承下さい。
前回 ( 144_ゴブチ - おぶなより2 ) は、ありとあらゆるすべてのものを造り出した造物主は神様である、そして、その神様の作り出したすべてのものは、尊いということを前提にして、自然環境も肉体人間(以下、人間と略)も何もかもが尊いという内容を個別的に書いた。
ありとあらゆるものを全部ひっくるめて言えば、神様が尊い=宇宙が尊い、ということになる。
人間に関して言えば、あれは建前というか、理屈で考えられることであり、なかなか実感しづらいのが実情だ。
なぜならば、私達はそのたくさんの過去世の真善美に悖る想いと行いの業想念の生き方を反映して、この世でその魂(霊魂魄)についた汚れを浄めるために、様々な制約を課された不完全な人間として生まれてくるからだ。
霊なる人間=神体そのままを反映して映し出した完全円満な人間として、この世に生まれてくることはないからだ。
その魂の汚れを浄めるために、いわば、過去世で行った業想念を償うために、病争貧苦のような苦しみを味わい、耐えることによって魂の学習をして、人格の向上(=霊性の開発)をはかっていかなければならない。(*1)
人間としてこの世に生を受けるということは、元々の魂(霊魂魄=神体)のように命は永遠ではなく、肉体としての寿命は数十年と限られている。
生まれてから20 才までは成長していっても、寿命に向かって次第に衰えていくようになっている。
しかも、基本的には上記のような病争貧苦を耐えていかなければならない。
だから、つらく、苦しいことが多い浮き世(この世)で、本当の人間は、霊主体従であり、その本体の魂(霊魂魄)も肉体も尊いとは、なかなか実感できないようになっているのである。
この世は、つらく、苦しいことが多くて、思うがままにならないことばかりだ、と思うのが普通だからだ。
こうした訳で、ごく一般的には、こんなに不完全で苦しみの多い人間やこの世が、どうして尊いと言えるんだ、と疑問を抱くのも仕方のないことだと思うのである。
私は、個人的なこの世の様々な苦しみから、この世は何だ、神様は何だ、といろいろと考えるようになり、ある若い優秀な女医さんに五井先生の 五井昌久著「神と人間」(白光出版) (文庫版)という本を頂いたことから、人間やあらゆる世界について考えるようになった。
だから、あのような考え(五井先生の考えを敷衍して拡大・拡張解釈した私の独断ではあるが)もある程度、わかるような気がするのである。
これが、生まれつき自らの肉体も含めてあらゆる生得的な環境が比較的恵まれている人だと、よほど過去世で修行を積んで霊性の高い人でない限り、身の回りのあらゆる環境が当然のように整っていることが当たり前のように思えてしまい、あまりピンとこないのではないか、と思うのである。
さほど過去世で修行を積んでいなくとも、過去世での想いと行いが良かったために、ある程度恵まれた境遇に生まれついた人は、神様やこの世の有り様に関して知りたいという切実な気持ちを持たない人が多いのではないか、ということ。
フワンフワンとしても、普通に生きて、人並み以上の暮らしができて、さしたる病争貧苦がないと、何でそんなに切実に神様を求めるの?、何でこの世の有り様、ひいてはすべての世界の有り様をわざわざ考えて研究する必要があるの?と疑問に感じる人がむしろ多いのではないかと思うのだ。
言ってみれば、過去世でかなりの修行を積んだ人以外は、苦しみというある程度のスパイスかないと、なかなか、神様のおつくりになられたすべてのもの=宇宙が尊い、とはわからないだろうということ。
肉体人間としての人類が始まって、輪廻転生が始まった初期の頃は、こうではなかったはずだけど、自己保存の本能を与えられ、過去世の記憶を消し去られながら、たくさんの輪廻転生を繰り返し、業想念を積んでこのようになってしまったと考えられるのよ。
なので、おそらく、霊性というか霊格が高くないと、あらゆるものが類いまれなる偶然と奇跡の巡り合わせとなっている人間の素晴らしさ、この世の素晴らしさ、そして、ありがたさはなかなかわからない。
むしろ、この世に生まれ、それも制約のある肉体人間として生まれ、病争貧苦を味わうことで、こうした世の中というか、神様について考えるきっかけがもらえるような気さえするのよ。
私なんかは、超わがままなので、ある程度様々な面で恵まれていたら、「神様?そんなの関係ないや、いらない」となっていたかもしれないと思っているから。
皆さんはこれほどではないと思うけど、やはり、人生がある程度順風満帆だと、神様やこの世について考える機会が少なくなるのではないか、と思うのよ。
地球さんの開発や私達の霊性の開発は、要は、取り戻しだと思う。
神様の世界そのままを、この世にまで映し出していくまでの、いったん、落ちた過程からの取り戻しだ、と。
だから、 ( おぶなより ) や ( 043_奪回 - おぶなより2 ) で、眉目秀麗な男性や容姿端麗な女性は、元々は神体の映し身として、それぞれに違った個性を持ちながらも美しかった容姿を、たくさんの輪廻転生を通してそれなりに落とし、さらに、またたくさんの輪廻転生を通して、人間として良き想いと行いを積み重ねてきたことによって、元々の美しかった容姿をある程度取り戻してきた人達ではないか、と仮説を立てた。(*2)
もちろん、美男美女でも性格の悪い人はいるけれど、大体の傾向として割合に性格の良い人がいるのは、この世で生まれてから周囲から良くしてもらってきたという今生的な要因もさることながら、過去世の生き方の反映されたものが深く影響しているのではないのか、と考えられる訳。(*3)
こうして容姿を取り戻し、性格を取り戻し(=人格の向上)、元々の神体を、次第に肉体に映し出していく過程ではないか、と。
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(*1)ここでは、一般的な唯物論の人達にもわかりやすいように、仮に
人格の向上=霊性の開発
としたが、実際には違うな。
霊性の開発の方が、はるかにきわめるのが難しい。
それは。
自分がただの肉体人間というだけではなくて、肉体を持ちながらも、神様(以下、神仏とする)のお命そのままに、自分も痛めず、他人も痛めず、みんなのためになることができるように、神仏のみ心のままに、神仏のお命のままに、想いと行いができることが、霊性の開発の最終の目標だから。
人格の向上だけなら、誰にでも、ある程度までは可能なはずだ。
誰しもにそなわった良心に沿うような、世間的に良いとされることをするように、努めることだから、神仏を認めない唯物論者にだってできる。
しかし、それだけでは、この思うがままにならない、病争貧苦のあるうたかたのこの世を生きていく上で、自分の利害得失が絡めば、簡単に挫折しやすい。
これでは、到底、揺るぎない神仏を仰ぐ信仰はできないから、霊性の開発と世間一般の人格の向上には、難易度の違いがはなはだしくある。
だから、霊性の開発と人格の向上は、同列には扱えないな。
(*2)遺伝子の解析や進化論を肯定する人からすれば、私のこのような仮説は、コイツ、何をおかしなことを言っているんだ、と思うだろう。
これは、世の中の表舞台に立つもの(あらゆる人間と公にされている事物を含む)が本当に真実を反映したものなのか、をよくよくお考えになればいい。
私は、結論から逆算する形で、このように考えることができたから、書いているだけなんでね。
個人的に、霊性の開発の学習をして、輪廻転生の有り様や因縁因果の話を読んできた立場からすると、あながち、当たらずとも遠からずだと勝手に思っている。
(*3)前にも書いたことがあるけど、せっかくこうして過去世の良い生き方の積み重ねで、良い容姿を取り戻してきたのに、異性からチヤホヤされたりして思い上がって傲慢になってしまい、誰も咎める者がいないからと、ヤリチンやヤリマンのような生き方をしてしまったら、果たしてどのようなことになるか。
そして、自分より容姿の劣る異性を好き放題にもてあそび、貶めたら、輪廻転生を通してどのような結果がもたらされることになるか、はもう自明なことだろう。