168_原理4

前回( 167_原理3 - おぶなより2 )は、主として私達肉体人間の想いと行いが、原則として世を隔てて(=輪廻転生を通して)実現することから、世界平和の祈りの効果を即物的なおかつ短期的に期待すべきではないことを書いた。

今生内にしろ、来世以降にしろ、どのように祈りの効果があらわれてくるかは、あくまでも神様にお任せをする(=自分でどうこうできる訳ではないので、神様のおはからいを待つ)のが一番いい、と。

悟りを開けず、五感にもとづく各種の欲望にまつわるとらわれを離すことができない私達にとっては、祈りの効果や現世(または来世以降)のご利益を期待しがちな面を鑑みると、なるべく即物的で短期的な効果を期待しないようにすることが、想いを乱さないことにもつながる。

ただし、これだけではやはり悟りを開けず執着を離せない私達には、欲をかかないことは難しいので、常に常に、「南無阿弥陀仏」や「世界平和の祈り」を祈り、あらゆることに「ありがとうございます」と(神様に)感謝を捧げることで、想いを神様に帰命させることを併用すべき内容を書いた。(*1)

いってみれば、現世のご利益を優先したい場合でも、まずは祈りによる霊性の開発に重きを置いて、想いと行いをできる限り整え、過去世からの果たすべきものとして今生にあらわれてくる悪い因縁因果をできるだけ減らすことに力を入れるようにする。

そして、祈りの効果≒現世のご利益は、その実現可能となる時間差の問題もあることから、なるべく忘れるように心がけて、結果(効果)は後からついてくるぐらいの気持ちで、「世界平和の祈り」などをするのが、一番いいように思われるんですよ。

こう言っては申し訳ないが、ちまたにあるよく外れる世の中の楽観的な見通しや予想などには、きわめて短い時間差でしか物事を見ておらず、その短い期間での勧善懲悪的な唯物論的な物の見方を展開するものがあるんですね。(*2)

しかし、そうした希望的観測をも含めた、勧善懲悪的な楽観的な予想は、ことごとく外れてきている(今までのところは)。

神様のおはからいとは、そんな私達が簡単に思いついたり、予測できるような、単純で浅いものではないでしょうに。

もっとはるかに深遠で、輪廻転生をも見通した、私達のまったく予想だにしない、預かり知らない高みからなされるのが、神様のおはからいというものでしょう。

だから、祈りをするには、できるだけ気を長く持つようにして、しかも、根気よくやっていくことが大切だと思うんですよ。

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(*1)自分の命から、身の周りから、ありとあらゆるものに対して「ありがとうございます」をすることが、なぜ神様に感謝をすることになるかについては、お手数で申し訳ないのだが、拙稿の( 130_あるがまま2 ー ありがとうの意味 ー - おぶなより2 )をご参照下さい。

(*2)わざわざこうした予想をする何らかの意図があるのかどうかは不明。

ただ、こうした予想をする人は、困ったことに、世の中に関して人々に不安や恐れを抱かせる悪い予想もたびたびするので、霊性のことや因縁因果のことを本当には理解していないと思われる。

しかも、悪い予想をしておきながら、外れたら外れっぱなしで何のフォローもない。

言いっぱなしの、忘れっぱなし。

すぐに忘れ去ってしまうのかどうかはかわからないが、当然のように謝罪もまったくない。

本当に全然ないんですよ。

本当の本当。

少なくとも、私の見た限り(=数年)ではそうでしたね。

おそらく、もう、これはこうした人達の性癖なのでしょう。

ということは、当然本当の祈りをしている可能性も低いですね。(*2ー1)

今生に抱いた不安や恐れは、原則として来世以降にこの世にどのような形となってあらわれることになるか。

これがわかっていれば、むやみやたらに悪い予想、それも防ぎようがない悪い予想などは、すべきではないとわかるはずだからですよ。

わからないからこそ、ちょっと不安な予想が生じるといとも簡単(=軽率)にそれを発信する。

そう思わざるを得ないですね。

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(*2ー1)本当の祈りとは、
肉体人間としての自らが、
神様の分けられたお命を
本質としている者である、
と宣り出す(のりだす)こと

すなわち、

私は神様のお命を
生きている者です
と宣言することです。

南無阿弥陀仏
私はみ仏(=阿弥陀如来様)
のお命を
生きている者です
となり、

世界人類が平和でありますように

私は神様のお命を
生きている者です
となり、

身の周りから
何から何まで
もちろん、
自らに起きてくる
良いことも
悪いことも
すべては
お与えになっている
神様のお陰様であり
おはからいであると

ありとあらゆることに
「(神様)ありがとうございます」
と感謝することも
私は神様のお命を
生きている者です、

となるので、
本当の祈りと言えます。