ユーチューブで、五井先生が予言についてお話をされているのを聞いた。
およそ理に適った、きわめて明快で、わかりやすい内容だった。
私は、今まで、再三にわたって、悪い予言や予見を発信することに対して、批判的なことをクドクドと述べてきたが、五井先生のように、ここまで明快に言い切って下さると、実にわかりやすいし、スッキリする。
善なる神様を、真っ向ひた押しにする宗教家は、言うことがさすがに違う。(*1)
まさにその通りだ、と思ったからだ。
その大体のところを記すと(加筆あり。なお、予言には、科学者のような唯物論的な予言と、精神世界の唯心論的な予言との双方を含む)。
「予言とは、人間に力を与えるものでなければならない。
人間に生きる力を与える、
すなわち、
人間に愛を与える、
人間に生きる力を与える、
人間に勇気を与える、
そういう予言なら、いくらあってもいい。
(しかし、これに反して、)
(人間の心を痛めるもの、)
(すなわち、)
人間の心を暗くさせ、
人間の心を脅かし、
人間の勇気を奪う、
そういう予言は、邪なる予言であり、外道である。
予言が実際に当たったても、当たらなくても、そんなことは、問題ではない。
あるべきものはあるし、ないものはない。
予言したって、しなくたって、(良いものも、悪いものも)あるものはある。(*2)
もし、(悪いものが)あるとしたらば、(その悪い)あるものを、なくすようにしなければならない。
その(悪いものを)なくすのは、何かというと、世界平和の祈り。
世界平和の祈りをしていれば、世界平和の祈りの光が調和をさせていく。
何か悪い事があるということは、調和していない、何か不調和の状態が災いになる訳で、不調和の状態を早く調和させれば、それだけ不調和が埋まるから、災難はそれだけ出てこないことになる。
だから、調和の祈りの世界平和の祈りをすれば、知らないうちに、不幸が前にあるとしてもそれは消えてしまうという訳。
すべて調和の祈りが一番大事な訳。
それが世界平和の祈り」
というお話だった。
私達の集合意識としての過去世の因縁により、どの程度未来が決まっているのかはわからないが、とにかく、不幸や災難がないように、あるいは、少しでも不幸や災難が軽減されるように、世界平和の祈りは絶対にやった方がいい。
それでも、力及ばない時は、それも神様のみ心。
そう考えるしかない。
だから、どのような未来が予想されようとも、人々に不安や恐怖を与える予言は、頂けないのである。
せいぜい、何か対処するにしても、万が一に備えて、必要最小限の準備をしておくことくらいだと思う。
とにかく。
世界平和の祈りをお願いしたい。
人々の不安や恐怖心を煽り、「不安騒擾の罪」に相当する情報を発信するのは今すぐにでもやめて、その代わりに「世界平和の祈り」をして頂きたいのである。
以下は、個人的な独断と偏見であり、これまで何度も書いてきたが、もう一度。
神様とは、真善美に悖らない、愛深き存在である。
ということは、神様の世界には本来、真善美と愛に悖るものは、存在しない。
この世も然り。
この世は、神様のおつくりになった世界の一つだから。
つまり、この世は、広義にとらえれば、神様の世界の一部と考えられる訳。
そうすると、
神様の何らかのお考えで、こうした真善美と愛に悖るものが一時的に生じるような仕組みになっていたとしても、この真善美と愛に悖るものは、いずれ何らかの形で消滅する宿命を辿らざるを得ないことになる。
すなわち、私達にとっての今生となるこの世では、こうした真善美と愛に悖るものを新たに生じさせたならば、これはいずれ必ず消滅させるための過程が生じてくる、ということ。
つまり、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖るもの、簡単に言うと悪いことは、これを生じさせてしまったら、原則として輪廻転生という時空間を越えて、形として、必ず打ち消すような現象があらわれてくる、ということ。
神様のみ心に適う、真善美に悖らない良いものは、神様の世界にそのまま存在して良いことになるから、輪廻転生という時空間を越えて、ただ循環するだけ。
よって、何ら問題は起こらない。
幸福などの良いことばかりだから。
蓄積されても、流れ去っても、良いことばかりだから。
これに反して、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖るものは、原則として輪廻転生という時空間を越えて、私達に悪い循環してもたらさない、端的に言って、不幸や災難しかもたらさない、ということ。
蓄積されることはあっても、必ず流れ去らなければならない。
消え去らなければならない。
本来的には、(広義の)神様の世界には、あってはならない、存在してはならないものだから。
よって、消え去るための過程が、必ずあらわれてくることになる。
この世で生じさせた不安や恐怖は、結果として、この世に不幸や災難といった悪いものしかもたらさない。
しかも、この世で新たに悪いものを生じさせてしまったら、それは原則として輪廻転生という時空間をこえて、生じさせた本人(霊魂魄)に必ずその行った悪いことに対する報いが返ってくる。
この世で発した悪い想いは、想いの世界の幽界を巡り、蓄積されて、またこの世に巡って様々な形となってあらわれて返ってくる。
唯一の例外となるお救いは、守護の神霊様のこの世にあらわれる前の事前のお浄めのみ。
これで、悪い想いが、この世で具現化する前に、浄めて消して頂くことだけ。
だから、人々に不安や恐怖の心を抱かせることは頂けないの。
最低限の警告を発するとしても、悪い予言をすることに伴う自ら悪い因縁を引き受ける「覚悟と挺身」そして「世界平和の祈り」が必須と考えられる所以です。(*3)
~~~~~
(*1)これは私の勝手な解釈である。
ただ、五井先生の本を読む限り、五井先生は、神様とは、徹頭徹尾、真善美と愛に悖らない、善なる存在としているように思える。
宗教だ、神様だ、といいながら、悪魔を認め、敵を認める普通の宗教(仏教もキリスト教もゾロアスター教の影響を受けている。というか、もうゾロアスター教の本は処分したので(もうゾロアスター教をネットで調べる気にもならないので悪しからず)年代も忘れてしまったが、善悪二元論的なことを説く宗教のほとんどが類似に見える)を語る人達とは、一線を画しているように思える。
だから、このように書いた。
(*2)まあ、私が極度の小心者で、臆病者であるせいもあるかもしれない。
極度の小心者・臆病者にとって、不安や恐怖を煽られるのは、本当に嫌なんですよ。
たまらない。
だから、他人事のように不安や恐怖を煽る情報に接すると、こうした情報を発信する人達は、一体何を考えているのか、と疑問を抱いて仕方がないんですよ。
「あるべきものはあるし、ないものはない。
予言したって、しなくたって、(良いものも、悪いものも)あるものはある」
このように五井先生が言われているのは、
「過去世の因縁で、
守護の神霊様のお浄めという、
お救いに預かることができず、
どうしても受けなければならない
悪い因縁は、
因果として必ず受けなければならない」
ということ。
すなわち、
「私達が、この世で紡いできた過去世(前世、前々世、前々々世、・・・)において、
肉体人間として生きていた時の想いと行い(=原因となる過去世の因縁)により、
守護の神霊様のお浄めという、
お救いに預かることが許されずに、
確定した事実として決められ、
未来に否応なしにあらわれてくること(=結果としてこの世にあらわれてくる因果)は、
どうあっても防ぐことができない」
つまり、
「どうにもならないことはどうにもならないし、なるようにしかならない」
ということなのだ。
例えば。
私達のいる太陽系の恒星である太陽は、50 億年後に、赤色巨星化すると言われている。
そこで、これは荒唐無稽な仮定で申し訳ないのだが、仮に、太陽の赤色巨星化が、何年か後に起き始めて、しかもそれが完結するまでに、数十年かかるものとする。
そして、これを事前に察知して予言する人がいたとする。
このような、どうしようもない、防ぎようがない現象の予言をして、人々の不安や恐怖を煽ることに、煽りまくることに、果たしてどれほどの意味があるのか?といいたいんですよ。
太陽の赤色巨星化が始まったら、もう私達には逃げようがない。
逃げ場はない。
逃れる術もない(一部、 UFO などの特別な宇宙船を持っている人がいるのかどうかは知らないが)。
どうしようもない。
つまり、こうした防ぎようのない、天変地異のような予言をして、人々の不安や恐怖を煽ることに、どれだけの意義があるのか?ということなんですよ。
あるとすれば、(後の他の宇宙への転生も視野に入れれば)残された時間を、できるだけ神様のみ心に適うように有意義に過ごすことくらいしかない。
つまり。
人々の不安や恐怖を煽ることで、絶対に防ぐことのできない、天変地異をはじめとした、いずれこの世にあらわれる、とすでに定まっている不幸や災難を、くい止めることができますか?
できないに決まってるじゃないですか。
それにもかかわらず、不安や恐怖を煽るのをやめない、煽ってばかりいる、ということは、想いの世界である幽界に不安や恐怖という種を送り込み、不安や恐怖の実を結ばせる、すなわち、不安や恐怖を、不幸や災難といった現実のものとしてこの世にあらわすための仕込みをしていることに他ならないのですよ。
それでも、仕込みをやめないというのであれば、結果的に、不安や恐怖の具現化、すなわち、不幸や災難、果ては天変地異の具現化を早めることを望んでいると解釈されても仕方がないことになる。
その自覚がおありですか?ということなんです。
六神通のような超能力を持つ高潔な人格者ではない以上、私達にできることは、悪い因縁のあらわれを防ぐことの可能性を信じて、できる限りの世界平和の祈りをするしかないのですよ。
だから、世界平和の祈りをお願いしているのです。
(*3)「覚悟と挺身」とは言うものの、私達には五井先生のように、神様に自分の生命を投げ出す、身体を「さあ、神様のお好きなようにお使い下さい」と捧げること(=つまり、肉体人間として生きるも死ぬも、すべては神様のみ心のままに、と良いことが起きようと、悪いことが起きようと、あらゆることを神様のみ心に任せきる=全託するということ)などできはしない。
だから、実際のところは、
「自分はこうして悪い予言をすることで、世の中を悪くする「悪事に荷担する」という、明確な自覚を持つこと」
と
「できる限りの世界平和の祈りをしていくこと」
しかないのが実情でしょうね。(*3ー1)
仮に予言が当たらなくても、予言者自身と、これに影響を受けて想いを不安や恐れのように、悪く乱されたことによる、想いの世界である幽界に、いずれは何らかの形で消えていかなければならない有害な想いが残ることになります。
だから、これは予言の言い出しっぺ(万が一、予言をいわされているならその命令者も)この幽界に溜めてしまった有害な想いを浄めなければなりません。
ということは、悪い予言の発信者(と命令者がいれば命令者も)、いずれはその悪い予言をしたことの償いをしなければならないことになります。
過去世の因縁の可能性もない訳ではないですが、こうした悪い予言に振り回された人々は、いわば、被害者にあたるので、こうした人々のためにも、とにかく、悪い想いを抱かされたことによる被害をなくすためにも、世界平和の祈りをして頂きたいのです。
~~~~~
(*3ー1)「悪事に荷担する」とキツイ言い方をしたのは、この世に具現化するにせよ、具現化しないにせよ、私達の想いの世界である幽界に、不安や恐れなどといった、真善美と愛に悖る、神様のみ心には適わない、この世で不幸や災難などを具現化するための悪い種を蒔いたことには、何ら変わりがないからです。
想いの世界に、神様のみ心には適わない、真善美と愛に悖る、悪い種を蒔いた事実には、いささかの変わりもない。
不安や恐怖などの想いは、神様の真善美と愛に悖るものである以上は、間違いなく善とは言えないからです。
従って、時間はかかることがあるにせよ、最終的には神様の世界に存在すべきではないものとして、生じてしまった神様のみ心に適わない、消え去らなければならないものであり、一般的に、唯物論的に言えば、「悪」ということになるのです。
神様のみ心に適わない、悪の種を蒔くことが、良いことと言えますか?
言えませんよね。
というように理屈の上で考えてくると、悪い予言をすることは、結果的に悪いことをしている、すなわち、「悪事に荷担する」と言わざるを得なくなるんですよ。
どうしても、世の中の人々に警告を発信したいという純粋で切実な動機があったとしても、想いの世界に悪い種を蒔くことには、いささかの変わりもない。
従って、この場合でさえも、悪い種を蒔き、自らもその責めを受けなければならないことには、何ら変わりがないのですよ。
その責めを受けること、これが「覚悟と挺身」に他ならない訳です。
この場合には「自らの身に悪い因縁を引き受けてでも、少しでも人々を救いたい」という「純粋で切実な動機」になる訳です。
加えて、世界平和の祈りは、世の中に起きうる可能性がある悪いことを、具現化の前に少しでも事前に浄めて救うための祈りだから、世の中に尽くすという意味合いで「挺身」と言えますね。
以上のように考えてくれば、こわいもの見たさの軽々しい予言や、出所の証明ができない、未来やら異星やらと、どこの者ともつかない人間(生物?)のしている予言を安易に受け入れるべきではない、相手にすべきではない、という結論になるんですよ。(*3ー1ー1)
端的に言ってしまえば、本当に信頼の置ける予言をするのは、悟りを開いて、六神通のような超能力を獲得した、高潔な人格者しかいない。
しかも、それだけではなく、お釈迦さん在世当時の古とは違い、現代では不死身で、周囲に身の安全を脅かされる関係者が一人もいないことが必須となる。
こんな境涯と条件を備える人は、つまり、信用に足りる人は、残念ながら現代にはいない(なぜかの理由は書かない。ご賢察願いたい。天涯孤独で、悪の心を無くした、小柄な元祖魔人ブウのたとえを何度も用いてきたのはこうした理由による)。
しかも、仮に良い予言でも、その後の私達の心の持ちよう、すなわち、想いの運び方によっては、どうなるかはわからない可能性もある。
だから、この世が少しでも良くなるための想いを発するように、世界平和の祈りなどの祈りに努めて、予言、特に防ぎようのない災難を想像させて、私達の不安と恐怖を著しく煽る予言にはこだわらないようにして頂きたいのである。
~~~~~
(*3ー1ー1)これも何回も書いてきたが、こうした人ならば、そもそも、人々を不安や恐怖に陥れる予言は、よほどのことがない限りは、しないはずだ。
五井先生の話にあったが、五井先生は初めのうちは、いろいろとわかること(たとえば、個人的な未来について)を言ったことがあるらしい。
しかし、これは良くないと思い直して、後にはそれを一切しなくなったようだ(五井先生は、「これ(未来がわかる話をする段階)を卒業した」となっていた)。