209_隔世というタイムラグ

今まで、五井先生の著書から学んだことを中心に、肉体人間の本質(本体)のこと、輪廻転生のことなどを元にして、自分なりの敷衍と拡張を加えながら、試行錯誤を繰り返しつつ、様々なことを書いてきた。

著作でもユーチューブでもそうだが、五井先生のお話には、現世(=この世のこと)の話になると、何かにつけて「過去世の因縁」という言葉が、何回も何回も出てくる(続けて「消えてゆく姿」も)。

仮に、この世にあらわれていること、いずれ起きてくることの大半、さしずめ、 8 割方が過去世の因縁=原因として出てくる因果=結果だとすると、話の中に頻繁に「過去世の因縁」が出てくることも無理ないことに思われる。

ということは、これを逆読みというか、反転読みをすると、今生の、すなわち、この世で新たに生じさせた因縁=原因と、同じく、この世で生じてくる因果=結果との対応は、 2 割方、ということになる。

しかも、この世で生じさせた因縁=原因には、来世以降に因果=結果としてあらわれてくるものも含まれるとも考えられるから、今生で因果=結果としてあらわれてくるものは、さらに少なくなると考えられる。

つまり、今生のこの世の中での因縁=原因と、因果=結果との対応は、あまりない、ということになる。

このように見てくると、今生のこの世での因縁=原因と、因果=結果との対応は、あまりない、と。

だから、この世で新たに真善美と愛に悖る、神様のみ心に適わないことをしても、その報いは、返ってくることが少ない、ということにもなる。

今生で因果=結果として報いが返ってくるのは、
過去世の因縁=原因とするものが、

すなわち、過去世の因縁=原因として因果=結果として今生にあらわれてくるものが、
その大半を占めて、今生を因縁=原因としするものは
あまり多くない、と。

つまり、

肉体人間として、この世で生じさせた因縁=原因と、
この世で今生と来世以降に受ける因果=結果は、
その中の大半のものが、
来世以降、
すなわち、
世を隔てるという、
隔世の場合が大半だ、

肉体人間観、
すなわち、
人間とは肉体なんだ、
この五感に感じることのできるものだけが人間なんだ、
と、顕在意識で思い込んでいる私達には
真からは感得できない
時間差がある、ということになる。

従って、五井先生の著作の中に、頻繁に出てくる「過去世の因縁」を逆方向から見ると、肉体人間がこの世で生じさせる因縁=原因と、この世で受けることになる因果=結果は、このように世を隔てることが大半であり、原則でもある、と読めることになる。(*1)

ということは、

私達としては、過去世の因縁を原因としてすでに(悪く)あらわれていることと、これから(悪く)あらわれてくることの修正や守護の神霊様のご加護を願って、世界平和の祈りと神霊の神霊様への感謝行を行い、

今生も含めて、主として来世以降にこの世にあらわれてくることを良いものとするために、今生からできる限り、神様のみ心に適う、良い想いを抱き、それにもとづく良い行いをするべきだ、

という結論になる。

巷には、よくいろいろな形で因縁因果が説く人がいるのだが、上記のような五井先生のような隔世を中心の視点に据えて話されているケースをほとんど見ない(ように感じる)。(*2)

たまーに、「ああ、それはお前さんが、過去世でやったことの報いなんだよ」と諭すような話が、ポツン、ポツンとあるくらいしかない(ように見える)。

それも、ある程度の霊感があり、過去世の一部を見ることのできる霊感のある人や霊能者、あるいは行者さんなどの話がほとんどで、たまに、お坊さんのお話がある程度に見える。

このように、巷で因縁因果を説いている人々と、五井先生の教えが、かなり違って見えるのは、やはり、五井先生が、
霊性の全肯定、
輪廻転生の全肯定、
輪廻転生を通した、
神様の分けられたお命=神様の永遠のお命の全肯定、
をしているからこその、
帰結だと思われる。

つまり、普通の私達一般的な人には目には見えない、神様や、そのお命を分け与えられた分霊(わけみたま)=本当の人間が輪廻転生を繰り返すことを、全肯定しなければ、このような隔世を主とした話は出てこない、と考えられるのだ。

この点が、五井先生の教えの特徴のように見える(というか、真実なんでしょうね)。

要は、そもそも、因縁と因果の対応法則は、世を隔てる、といったズレ(=タイムラグ)を生じて作用することが、かなりあるものだ、ということ。

例えば、この世のありようが、不幸や災難に満ちていて、不平等、不均衡、となっていることの説明をつけるには、こうした五井先生の説かれる内容を踏まえないと、到底、納得できないようになっているからだ。

そうでないとすると、人生は 1 回コッキリで、自分本位にわがまま勝手にふるまう人間のヤリ逃げ、ヤリ得を許してしまうことになる。

例えば、A という霊魂魄(以下、人間とする)と B という人間の間で、傷つけるなどがあった場合には、輪廻転生という生まれ変わりを通して、いわば、A から B への一方的な悪い行いを放置せず、帳尻を合わせる形にしないと、A と B を公平に扱うことにはならなくなってしまうからだ。

A が B を傷つけたら、A のヤリ逃げ、かつ、B がやられっぱなしとはならないように、輪廻転生を通しての帳尻を合わせるような形で、B が A に仕返し(?)をするようにして、不公平な状態を残さない状態にして、対等な関係に戻すような仕組みになっているからである。

つまり、今生で、A が B を傷つけたとすると、後々の世で、A と B はそれぞれまったく新たな別の人間に生まれ変わって、この世で再会するような形となり、主客転倒する形で、B が A を傷つける、というように帳尻を合わせ、A・B 間の公平さが保たれるような形になっている、と。(*3)

輪廻転生のたびに、大抵の人が過去世のほとんどの記憶を消されて生まれてくるから、こうした、A・B 間のやり取りの記憶はわからなくされているので、この世では、到底納得できないおかしなことが、たくさんあり、起きてもくる、と考えられる訳である。

肉体人間としての寿命を、原則として数十年と限った以上、各々の魂(霊魂魄)レベルでの、公平さ公正さを保つためには、輪廻転生といった仕組みは、必須ということにもなってくる、と考えられるのである。

しかし、残念なことに、現段階の量子力学の進歩の具合も含めて、神様や霊魂を誰もが納得する形で証明ができないために、こうした(霊感のないごく一般的な私達には)目には見えない神様や霊魂、輪廻転生の仕組みが、各人の信じるか、信じないか、というように分かれている状態になっている。

つまり、神様や霊魂、そして、輪廻転生の仕組みを信じるか、信じないかは、各人の過去世の因縁によって、分かれている状態で、いまだに唯物論が幅を利かせて、安穏にはほど遠い世の中になっている。

なので。

世界平和の祈りをお願いしたい。

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(*1)極端な言い方をすると、

今生にあらわれている、または、あらわれてくる大半のものが、
過去世において肉体人間としてこの世に生きていた時の想いと行いが、過去世の因縁=原因となり、
いわば、「世を隔てて繰延べられてきたもの」で占められ、

他方、

(今生のものも多少は含まれるが)来世以降にあらわれている、または、あらわれてくる大半のものが、
今生において肉体人間としてこの世に生きていた時の想いと行いが、(来世以降から見て)過去世の因縁=原因となり、
いわば、「世を隔てて繰越していくもの」となる、

ということ。

(*2) ( おぶなより ) の ( 285_因果律 - おぶなより ) に、名前は伏せたが、こうした過去世を度外視したままで、因縁因果を説いている、著名と思われるお方を 2 人挙げておいた ( ( 001_はじめに2 - おぶなより2 )  にも書いた)。

お一方は、実業家でお弟子さんからは教祖的な存在となっている S さんという方である。

ただ、この人が五井先生に否定的なことを言ったことを書かれた本を見たので、元々感じていたいくつかの違和感もあり、数年前に、この人の本はすべて処分した。

もうお一方は、ユーチューブで仏教の講義をされている K さんという方である。

なお、過去世の因縁を度外視して(=すっ飛ばして)、因縁因果を説くのが、いかに(ほとんどの場合に)的外れな話になってしまうのかは、すでに ( おぶなより ) の ( 314_法話50-9-2 - おぶなより ) で触れている。

あれ(五井先生の本とそれをまとめた( 314_法話50-9-2 - おぶなより )を見るとわかるのは、因縁因果を(悟りを開いていない、霊魂も因縁因果も信じない唯物論者が圧倒的大多数と思われる)現代人に簡単に理解・納得させることが、いかに難しいことであるか、がわかるからだ。

今現在のこの世に生きている人のほとんどの人がたくさんの輪廻転生を繰り返し、しかもその各人の過去世の内容から生成される過去世の因縁が、こんなにも込み入っている。

あんな複雑多岐にわたる過去世の内容を端から度外視することが、いかに無理があるか、と思わざるを得ないからだ。

(*3)ここで書いたのは、A と B を個別に見たミクロ的な見方。

ところで。

A も B も肉体人間として神様の分けられたお命を本質とする、いわば、神様の子供。

そして、その親にあたる、いわば、親様は、神様。

人間とは肉体人間だとする肉体人間観ではなくて、人間とはこの肉体を生かす命そのもの=霊なる人間そのもの、こそが本当の人間だとすると、人間は神様の分けられたお命そのものとなるから、命を分け与えた命の大元となる、親様が神様で、その子供が、A と B となる。

つまり、 A も B も親様も、本質はみんな神様に他ならない。

そのように、全部神様として、一体化して考える(=マクロ的な視点から考える)と、神様は、真善美と愛に悖らない存在感なのであるから、これに悖った想いを抱き、行いをすることは、あってはならないことになる。

従って、こうした想いを抱き、行いをしてしまったら、これはなかったように打ち消す、または、償うような形にならないと、神様の本質にはそぐわない。

つまり、本来的に、親様の神様も(親様の神様には、そもそもこのような真善美に悖る想いと行いはあり得ないが)、肉体人間としてこの世に天下った A も B も真善美に悖る想いや行い=業想念は、やはり、その神様という本質に照らして、その存在が許されなくなる、ということ。

まあ、見方によっては、神様はこのようにして、私達をこの世に肉体人間として、あえて天下らせることで、その霊魂魄を磨きあげるための機会を、お与え下さっているとも取れる訳で、やはり、神様のおはからいや思し召しには、改めて感謝をしなければならない、ということなのでしょうね。

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(追記)
これ、話がさらにゴチャゴチャになると思って書かなかったんだけど。

今生で、今現在抱いている想いも、実は、今生の今、新たに生じさせた想いではなくて、過去世において、過去世のその時点で新たに生じさせ、抱いた想いが、今生の今現在に、輪廻転生という時空間をこえて、反復されるような形であらわれているものがかなりあるようだ。

しかし、ごく普通の私達は、悟りを開いた覚者ではないし、六神通のような特別な能力がないから、この内訳はわからないことになる。

こうした話を突き詰めていくと、神界、霊界、幽界、現界(=この世)という話になる、すなわち、非常に微妙で細かい神様の世界の波動、霊界の波動、幽界の波動、現界(=この世)の波動という、次第に粗い波動になってくるという話になるものと思われる(=神界からの神霊波動という神様の光が、すべての元になっていると思われるから)が、悟りを開けない私達には、どうせ五感に感じられないものを確実に解き明かすことはできないのだし、深入りもできないので、ここでは触れない。

過去世の想いの反復としての今生の想いへのあらわも、波動の話も、それらの話を持ち込むと、さらに説明がしにくくなるので、大まかな説明は上記のままとする。