213_十年一日

この世は地獄だ。

いや、少なくとも天国ではない。

天国にはほど遠い。

このように感じている人も多いのではないだろうか。

特に、病気・争い・貧乏・苦労の渦中にあり、苦しんでいる人ならば、より、その思いは強いだろう。

いかに大自然や地球(ひいては宇宙)のかけがえのなさ、素晴らしさの神秘を説かれ、どんなに神様を礼賛されたとしても、まずは最大の関心事である、目の前の苦しみを何とか解決することができなければ、類いまれなる貴重な大自然の恵み等々を説かれても、綺麗事やおためごかしのようにしか、聞こえないことになってしまうからだ。

というのも、唯物論的な思考に絡めとられている私達は、普通の動物のようにこの世にあらわれている、肉体を持つ生命体としての生物=肉体人間こそが、真実の人間であるととらえ、私達、肉体人間の本体(本質)が、神様の分けられたお命となる、神様の光明体、真善美と愛に悖らない、霊なる人間、この命そのものこそが本当の人間だと感得(=頭の中だけや少ない経験や軽い感覚ではない、心身ともに深い境地からの感得、心の底からの感得、揺るぎない感得)ができていない、そうした人が社会のほとんどすべてを占めている、と考えられるためだ。

神様の光の光明体、霊なる人間、神様の分けられたお命そのものが本当の人間、真実の人間とわかっていれば、(極端に言えば)肉体がどうなろうが、目に見えるといった五感に感じる周りの物質的な環境がどうなろうが、真実の人間は何ら影響を受けない、関係ない、ということになるからだ。

従って、肉体にまつわる五感に感じられる痛みその他も存在しない、ということになる。

だから、法華経では、身体が火にも焼けないといった表現がなされる訳だ(または、肉体を持ちながらも、過去世の真善美と愛に悖った誤った因縁をすべて浄め尽くした、想いの体の幽体をすべてなくした霊なる人間そのままを肉体レベルまであらわせた人もそうなるはずたが、こうした超人は今の世の中にはいないだろう。合気道の開祖の植芝盛平先生が様々な神通力をあらわしたのはこうした理由によると思われる)。

これがいわゆる、般若心経や生長の家の言うところの「ない」、五井先生(日本の宗教家の五井昌久さん)の言うところの「消えてゆく姿」ということ。

真実としてあるのは、神様だけ。

神様だけが実体。

その他のありとあらゆるものは、あらわれては消えてゆく「かりそめの姿」。

だから、この世は(神様の見地からみれば)「仮想現実」。

ありとあらゆるすべてのものは波動だとすると、神体レベルと肉体レベルとでは、波動のレベル=細やかさがまったく違うから影響を受けないという話になるんですね。

しかしながら、こうした霊なる人間が真実の人間だと心の芯からわかっている、感得できているような人は、悟りを開いたような人しかいないと考えられる訳です。

だから、悟りを開けず、こうした物質レベル、肉体レベルでしかものをとらえることができない、すなわち、肉体にまつわる五感で感じられることことこそが真実だと思う一般的な私達ほとんどすべての人にとっては、五感で認識できるこの世で起きてくることが真実だと思い、そうしたあらゆる出来事に振り回されるのが、ごく当たり前で、普通だということになる。

これが私達の通常運転?の感覚だ、と。

そんな(この世を「真実の世界=実体」だととらえ、真実の世界、本当の世界、実体の世界である神様の世界を唯物論者のように「ない」としてとらえる、あべこべに顚倒夢想した逆さまの)感覚で物事を見ていくと。

例えば、(読んだのが数年前なので今もブログ自体が継続されているのかどうかわからないが)以前触れた KS さん(アメーバブログ)や SM さん(FC2ブログ)の文章を読んだあとでは、今のマスコミやネットのあり方に疑問を抱かざるを得ない。

本来、取り扱うべき重大なニュースをまったく取り上げず、いかにも一般的に話題になりそうな内容のものしか取り上げない、ありきたりのニュースサイトの状態などがそうだ。

だから、そうした内容と大差ないオピニオンリーダーが取り上げるようなごく普通にネットなどで話題にのぼるような話を、やいのやいの議論をして、想いを乱してばかりいるくらいなら、こうしたものは一切見ない・聞かない方がいいと思っている(従って、どうしてもこれらを見たければ、趣味・嗜好の最小限度の範囲内にとどめるようにするのが望ましい)。

そのようなことに、想いや労力を費やすくらいなら、どのような因果関係になるかはわからずとも(すべての差配は神様にお任せして)、とにかく、実質的に社会の下支えとなる、みんなの想いを少しでも浄めて、因縁因果を改善するための祈りをした方がよっぽどいいと思ったからだ。

だから、世界平和の祈りのお願いをしてきた。

祈りなんかして何になる?

祈りなんかに現状をすぐに改善する効果なんてあるのか?

こう思うのが、唯物論者が大半を占める一般的な人々のものの見方ではないかと思う。

私が皆さんに世界平和の祈りをおすすめしてきたのは、肉体人間として抱く想いが、今生から来世以降にかけての運命を左右することと、過去世の因縁によりあらかじめ定められたものとして、今生以降にあらわれてくる悪い因果を少しでも免除して頂けるなら、免除して頂くにこしたことはない、と考えてきたからだ。

たとえ、それらによる運命の改善がほんのわずかにしかならなかったとしても、私達一人一人が神様のお命でつながり、その抱く想いの集大成が、幽界のあらわれとして時間差を経てこの世にあらわれてくるものならば、絶対に祈り(世界平和の祈り)と普段からの造物主としての神様への感謝(間接的な形とはなるが具体的には守護霊様と守護神様への感謝行)をした方が、いいからである。

だから、私の書くことは十年一日のごとく、いつも同じ。

変わらない。

皆さんに、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をお願いすることだけです。

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(追記)
まあ、こうは書いたが。

だからといって、従来からずっと暗黙の事実のように公認?され続けてきた世の中の様々な暗部が、徐々に公にされ、つまびらかになってきたことが悪いと言っているのではない。

ただ、ちょっと光明が差し始めたからといって、唯物論的な思考で責め裁いて、すぐに現状を改善できるのとは違いますよ、と言いたかった訳。

今現在幅広く構築されてしまっている既成事実は、長い時間をかけて醸成されてきたものだし、ちょっとした隙が見え始めたからといって、すぐに事態が急速な好転に向かうとは思えないからだ。

既存の思考パターンや利害関係にどっぷりとつかってきた人達が、膨大な抵抗勢力?として立ちはだかっている(つまり、今までに、それだけの好ましいとはいえない、おびただしい悪い因縁因果が蓄積されてしまっている)以上、ちょっとやそっとのことで、そんなに性急な事態の好転は望めないと考えられるためだ。

だから、すべては私達の目には見えない、はかりしれない、広大無辺な因縁因果の網の目がこの世の背景にあるとしてとらえ、すべてのおはからいは、遠大な目ですべてを俯瞰して見通しておられる神様にお任せをして、私達一般人としては、祈りと感謝行(世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行)によって、決して目には見えなくても、世の中の流れの実質的な背景となっている、社会を構成する各人の因縁因果の集大成としての幽界のあり方を改善していく形をおすすめしているのである。

神様のみ心の真善美と愛の観点からすると、一見、どうしようもない、救いようもない、汚濁にまみれたように思えるこの世は、あくまでも個人個人の過去世の悪い因縁がこの世で複合的な形で解消されていくためにあらわれている「消えてゆく姿」と「みなす」ことにして、そうした「消えてゆく姿」の実質的な背景となっている因縁因果、中でも悪い因縁因果をできるだけその因果のあらわれを少なくしながら、消していきしょう、ということ。

もちろん、悪い因縁因果の複合的な全容など、私達にはわかるはずもない。

なぜなら、私達個人個人でさえも、ほとんどすべての人が過去世の記憶を消されて(=つまり、過去世の因縁がわからないままに)この世に生まれてくるから、ましてや、これが複合的な形で解消されていく全体像など、私達には到底わかるはずもないからだ。

おそらく、これがわかるのは、六神通を備えた超能力者か、漏尽通を駆使できる超能力者か、まあ、これらの人は今のこの世にはまずいないと思われるので、わかるのは神様しかいないだろう。

だから、私達にできることは、こうした因縁因果をつまびらかにしようとか(=つまり、批判や批判をして唯物論的に責めたり裁いたりして、世直しをしようとか)、身の丈を越えてできないことはしないで、ひたすら、私達の因縁因果の網の目で構成される全体を改善させることに力をいれましょう、ということ。

つまり、この世のあらわれの実質的な背景となっている、原因を改めることに注力しましょう、ということです。

因縁因果の全体像は神様にしかわからないのだから、世直しも何もかも(=つまり、いかなる人を用いてどのように世直しをしていくのかも何もかも)、すべては神様の差配にお任せすることにして。

何もかもすべては神様から始まったのだから、神様にすべての責任をとって頂きましょう、ということ。

ただし、そのためには、唯物論的な思考やエゴイズム的な思考を可能な限り排して、神様のみ心に適った想いを抱き、行いをして、南無阿弥陀仏の唱名(祈り)や世界平和の祈りを欠かさないことが必須となる。

唯物論的な思考で、散々、自分勝手にやりたい放題やっておきながら、神様助けて、とは言えませんもんね。

言い換えると。

あたかもマルクスの下部構造?ではないが、この世にあらわれてくる、すべての事象の元は、私達肉体人間がこの世で抱いた想いによって作り出された因縁因果にある。

悟りを開けず、六神通のような特別な能力のない一般的な唯物論的な思考にとらわれている私達には、目には見えないし、過去世の記憶が消されてしまうから、様々な事象の因縁因果の全容はわかるはずもないが、とにかく、この世にあらわれてくる事象を左右する根本的な要因は、私達の想いによって作り出しされる輪廻転生を通して巡る因縁因果である。

だから、少しでも世の中を(神様のみ心に沿った)良い方向に向かわせようと思ったら、結果としてどのような因縁因果の展開が世の中に展開されていくことになるにせよ、私達自身の抱く想いを、出来る限り(真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適った)良いものとして整えていくことしかないことになる。

そうした想いを整えるために、現実的で実践できる可能性が高く、最も近道となるのが、南無阿弥陀仏の唱名(祈り)一念による信仰か、世界平和の祈り一念の信仰の、絶対他力による易行道になる。

難行道は、現代社会ではその実践が実質的に不可能だと思われるからだ。

それに、現代社会がこのような形に結果として進展してきたとに鑑みると、(難行道にかかわる特別な天命のあるごく一部の限られた人達を除いて)想いを整えていくのは、実質的に易行道しかないのだよ、と神様が言われているようにも考えられるからだ。

そうして、少しでも良い因縁と因果を増やし、悪い因縁と因果をなるべく最小限度にとどめるように、因縁因果の展開を詰めていくという訳。