217_応援と推し2

前回 ( 216_応援と推し - おぶなより2 ) は、主としてスポーツの応援や芸能の推しが、どのような動機で行われるのか、そして、それら自体の意義を考えてみた。

応援や推しという行為は、自分がそのまま主役となって実現することができない人生を、いわば仮想的な形で実現する、自我を延長して重ね合わせる行為なのではないか、と仮定をしてみた。

誰もが憧れる、羨むヒーローになりたいヒロインになりたい、あるいは、別の形としては、理想的な恋愛がしたいという、現実にかなえることがきわめて難しい希望を、自我を延長して仮想的な形でかなえている行為が、応援や推しなのではないか、と。

そして、こうした実際に理想をかなえるのは難しいので、自らの自己実現とは別に、自我を延長して重ね合わせる、こうした楽しみ方がなされるのは自然であり、ある程度当然のものとして容認すべきではないか、と考えた訳(応援や推しは将来的に収斂していく可能性も考えられなくもないが)。

しかも、こうした応援や推しにかかわる、選手やアイドルを含めたたくさんの人々は、神様がこの世にあらわした人の一部に他ならず、従って、その他のたくさん人々と同様に、神様がそれなりの理由を持ってこの世に送り出した点も含めて、自己実現に直接の関係はないからと、K さんのようにいかにも無意味だと言わんばかりに、無下にこれらを否定するのは、傲慢だし、物事のとらえ方としてよくない、とした訳。

さらには、この自我を拡張する、投影することは、何も応援や推しに限らない。

小説やアニメなどの読書でも、芝居の演劇や映画やドラマ観賞などでも、やはり、自我を拡張する、あるいは、投影して楽しむ側面があるものだからだ。

だから、K さんのような発想をおし広げていくと、極端に言えば、小説などを読むのも、DVD や BD の映像や動画の観賞などでも、自己実現に直接のかかわりのないものは、すべてその存在意義を否定することになってしまう。

だから、社会のありようを考えても、ましてや、神様がこうしてたくさんの人をこの世にあらわしたことからしても、少なくとも現段階では、K さんのように、応援や推しをやめるべきだと言わんばかりに、それらの価値を無下に否定するのは、よくないし、傲慢な発想だと思うの。

ということで。

陰謀論的にがんじがらめにされて汚れた現代社会を、何とかよくすることも併せて、すべての成り行きとおはからいは、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行することも含めて神様に一任するのが、最善だと思った次第。

まあ、K さんも含めて、世の中を語りたがる人々は、愛だ、瞑想だ、スピリチュアルだといかにも唯心論的な話をしていても、その実、唯物論そのままの、他者を批判し、非難し、責め、裁く話をしている人がとても多いような気がしてならない。

批判、非難、責め、裁きを繰り返すこと自体、この時点ですでにもう、唯物論的な物の見方になっているのが、なぜわからないのかなあ。

その批判や非難や責めや裁きをする対象の背後には、目には見えない過去世の因縁という背景があるとは、まったく考えていないようにしか思えないのだ。

自分だけは絶対に間違っていないという唯物論的な視点から他者を論難ばかりしているんじゃあ、結局は物の見方が唯物論そのものに他ならないんですよ。

こうして、身体の五感に感じられるところから物事を見る唯物論と実質的にか何も変わらない形では、真実の人間を肉体人間だとしか考えていないと言われても仕方がないよ。

なぜなら、自分も他人も、その本質においては、同じ神様の分けられたお命を分け与えられた同じ神様の子供である同胞、すなわち、兄弟姉妹であること、そして、それぞれに輪廻転生によりたくさんの過去世を経て今生があることの視点が、スッポリと抜け落ちてしまっているから。

だから、こうした世の中の批判や非難や責めや裁きをしている人は、どんなに「愛」を説こうが、「瞑想」を説こうが、「スピリチュアル」を説こうが、その実質は唯物論者だと言わざるを得ないんですよ。

「愛」があれば何とかなる(もちろん、愛(=相手を慈しみ、思いやり、慮り、労る)のは必須にしても)悪い因縁を何とかしなければ、どうにもなりませんからね。