ユーチューブを見ていたら、スポーツの応援や芸能の推しを否定する講義?をしている男性の歴史作家さんがいた。
それもかなり否定しまくるような。
応援や推しに何の価値があるの?と言わんばかりの。
以下、仮にこの人を K さんとする。
で、ちょっと考えてみたい。
例えば、スポーツ。
プロ野球を例えに考えてみると。
なぜ、特定の球団を応援したり、特定の個人(選手)を応援したり、ファンになる気持ちになるのだろうか?
これは要するに、自我の延長だと思う。
つまり、応援したりファンになること(以下、この2つを応援とする)は、自我の延長、あるいは、投影した気持ちのあらわれに他ならない、と。
プロ野球の選手になること、それもスターになり活躍できるようになるのは、おそらく超狭き門で希なことだ。
話がややこしくなるので、さしあたり、その裾野の底辺を高校野球と規定して、運の作用も除外するとすると。
ゆくゆくプロ野球選手になりたい、スター選手になりたいと思ったら、まずは甲子園を目指すだろう。
優勝はしないまでも、甲子園に無事出場できた、またはできないとしても素質をスカウトに認められて、プロ野球選手になったとしよう。
それでも中心選手として活躍し、スター選手になるのは、さらなる希少な確率を突破しなければならない。
野球の裾野を上記のように高校野球に限っただけでも、大変な狭き門を突破しなければならないことになる。
この裾野の底辺からスタートするにしても、ある程度の体力と、足の速さ、そして、肩の強さ(速い球を投げる力)と、打球をとらえるセンス、そして、打球を遠くへ飛ばすセンスのいずれかを、一定水準以上備えないと、おそらくプロ野球選手にはなることはできないだろう。
実際、プロ野球選手の野手となる人でも、高校野球時代はエースで四番のような選手が多いようだ。
それだけチームのお山の大将のような選りすぐりの選手が、プロ野球に入り、投手から野手に転向する。
高校野球では、こうしたチームを代表して、牽引してきた中心選手でさえ、プロ野球では投手にはなれず、野手に転向することが多い訳だ。
逆に言うと、それほどまでにプロ野球で投手となる人は、超専門職のエリートということになる。
また、野手のままプロに入った人は、守備力もさることながら、主として打撃に非凡な才能を持った選手達ということになる。
これらを考えただけでも、プロ野球選手になること、そして、常時出場できるレギュラー選手になることが、いかに雲上人か、わかろうというもの。
つまり、プロ野球選手になるだけでも、裾野の底辺の位置からみても、雲上人のように大変な難易度がある狭き門を突破しなければならなくなる訳だ。
ところで、一般の人がこうした人を応援するというのは、一体どういう心理なのだろうか?
ある程度、自らの好みを踏まえ、特定の選手を応援するのは、その選手の活躍に自分の自我を重ねあわせて、つまり、自分の自我を投影・拡張させているのではないだろうか?
つまり、応援する一般の人は、こうした素質(努力する精神的な素質も含む)を持っているプロ野球選手という一種の絶対に手の届かないある種の天才に自分を重ね合わせることで、実生活でこうした天才達のような経験ができない分を補っているのではないだろうか?
仮にファンとなっているプロ野球選手を A とすると、A に応援し肩入れすること自体が仮想自己実現の一種となっていると。
つまり、自分を A を重ね合わせることは、実生活で満たされない自己実現を補完する形になっているのではないのかと。
だから、お人によっては、無意識ながらも自己実現の理想を実現することができないと、自己実現の上限にある程度見切りをつけて、実生活はほどほどにして、応援に熱心になるのではないだろうか?
本来なら自分の実生活には、何一つかかわり(多少の励ましにはなる場合はあるのかも知れないが)のないはずの A を応援すると。
A の熱心な応援をすると。
つまり、ごく一般的には、世の中の誰しもが世間の注目を浴びる華やかで、きらびやかなスターになるような自己実現は難しい。
本人の運と努力があるにしても、どうしても一部の突出した才能を持つように生まれつかないと、なかなかこうした選りすぐりの人にはなれないと思われるからだ。
となると、やはり、無意識に自分の自己実現の上限に見切りをつけ、その実現が難しい部分を、他人に投影して振り向けることにしているようにも思える。
つまり、世の中のすべての人がみんながみんな才気に溢れて、群雄割拠のようにはならないのが普通だから、こうした形があることも、ある程度やむを得ないことだと思うのだ。
応援を趣味として嗜む、あるいは、人生を生きていく上での動機づけや、励ましとしていくことも、不思議ではないと。
誰もが誰も、完璧な理想の自己実現を社会で実現させることはできないのだから、こうしたあり方が世の中に出てくるのも無理からぬことだと思うのだ。
おそらくこれが、冒頭の K さんにとっては単なる無駄、訳がわからないと言っているように思える。
K さんにしてみれば、 実生活での自己実現の可能性がどんなに限られていても、あくまでもこっちが本分なのだから、お金と時間を A の応援(テレビを視聴したり、ネットで情報を収集することも含む)をすること自体が無駄で、理解に苦しむと言いたいらしい。
芸能人のいわゆる推しについても、まったく同様にして、考えることが可能だ。
アイドル推しなら、実際には果たすことができない理想的な恋愛を、いわば疑似恋愛的に愛でる、楽しむといった形にとらえると。
つまり、K さんの言いたいのは、応援や推しに血道をあげるな、それは一種の大衆操作、いわば洗脳に使われている(陰謀論ではまことしやかに言われる 3S政策)のだから、応援や推しにお金と時間を割くことを出来る限り控えるか、あるいは、応援や推しの一切をやめて、どんなに実現幅が少なくても実生活に注力する(血道をあげる)か、それ以外にお金と時間を費やすならば、あくまでも実生活への潤いとなるささやかな趣味や家庭に使うべきだ、と言いたいのだろう。
そして、世の中はまだまだ問題だらけで不完全な状態なのだから、もっと社会を良くする他のことに注目して、こちらに関心を持つべきだ、と言いたいのだろう。
とはいえ、上記のように、私達の社会を構成する誰しもが必ずしも才気に溢れ、自己実現の理想を完璧に実現できるものではないことも、また確かだ。
だから、ある程度無意識的に自己実現の上限に見切りをつけて、こうした応援を趣味のように嗜む、あるいは、人生の生きる励ましや動機づけとすることも、やむを得ないことだと思うのだ。
そんな状況下で、上意下達のマスコミでは、一次情報も明かされず、本来ならあるべきニュースの報道も制限され、問題意識を持ちにくい嫌いがあるから、なおさら、こうした応援に向かいやすい気もするのである。
しかし、だからといって、 K さんのように、自己実現こそが重要であり、まだまだ問題山積みの社会に広く目を向けよ、こうした応援はやめてしまえ、とか、価値がわからないと決めつけるのは、いささか乱暴な話だと思うのだ。
遠い将来?、無事に地上天国化が成就されて、社会を構成するみんなが輪廻転生の上がりに匹敵するように素晴らしく仕上がれば、おそらく現在からは想像もできないような素晴らしい調和が実現されることになる可能性がある。
仮に、遠い将来?そうした世界が実現されたものとすると、こうした個人個人の限定された自己実現を補う形での応援や推しが残るものかどうかは、私にはまったくわからない。
だだ、現在の段階では、こうした応援や推しの形は、普通のものとして、存在し続ける可能性はあるとも思える。
少なくとも、K さんのように、応報や推しをナンセンスといわんばかりにバッサリと切り捨てるのは、傲慢なものの見方に思えるのだ。
他方、こうした応報や推しが存在する社会のあり方が続けられるのには、もう一つ根本的・根元的な理由が考えられる。
それは、神様のことだ。
神様がこれだけの人間をこの世にあらわしているということは、私達の目には見えない、あずかり知らない、神様の見地からする、それなりの理由があると考えられるためだ。
この世にあらわした人間の一人一人にそれなりの役割を持たせていると。
なぜならば、これまで ( おぶなより ) でも、この ( おぶなより2 ) でも何回も触れてきたように、この世にたった一人の人間が誕生するのでさえ、神様のそれなりの命の働きかけがないと、あり得ないことだと考えられるからだ。
奇跡的に受精が成り立つこと、母親の子宮内で胎児が不思議な力の働きかけで成長していくこと、出産を経た赤ちゃんがこれまた不思議な力の働きかけで成長していくこと、そうして人として今この時を、生きている=何らかの摩訶不思議な力で他動的に生かされていることは、すべては神様のお力、命の働きかけがないとあり得ないと考えられるためだ。
たった一人の人間の誕生と生を考えただけでも、これだけ摩訶不思議で大変な現象を、神様がこの世にこうしてあらわしている(ということは、これを目にしているあなたは、どんなあなたであろうとも、神様がこの世にあらわした唯一無二の貴重な存在ということになる)。
ましてや、たくさんの人を人類としてあらわしているのは、神様から見たそれなりの意義があるとしか思えないのだ。
このように考えてくると、現在だけでも、プロ野球選手の球団や選手を応援するあり方が成り立っている、芸能の推しが成り立っているのは、神様から見て、やはり、それなりの地球上における人類の進化を見据えて、それなりの意義や思し召しがあっての(おそらく)途中経過として存在しているとしか、思えないのである。
従って、こうした実体の背景には、やはり、私達の目には見えない、私達には伺い知れない、はかり知れない、広大無辺な人類の過去世の因縁の網の目が張り巡らされているとしか思えない。
だから、K さんの言うように、単なる唯物論的な観点から、応援や推しをバッサリと切り捨てるような発想をする、物言いをするのは、間違っているとしか思えないのである。
なぜならば、このように人類を地球上にあらわしている神様のご意志と思し召しとおはからいを、単なる一個人の唯物論的な視点から否定していることに他ならないからだ。
まとめると。
まず、唯物論的に考えても、無下に応援や推しを否定するのは、行き過ぎであると思われる。
たとえ、スポーツや芸能に3S政策のような側面があったとしても。
神様がこれだけの人間を地球上にあらわし、その存在を暗に認めている形になっている以上は、それを無下に否定することはやめる。
いずれは、社会が進化すれば応援や推しはなくなるのかもしれない。
あるいは、スポーツの応援や芸能の推しは、漸次収束して収斂していくことになるかもしれない。
これはわからない(ただ、今のスポーツや芸能のゴタゴタを見ると、ようやくにして様々な暗部が衆目にさらされ、綻びが明らかになってきたから、収斂に向かう可能性が高いように思うのだが)。
ただ、少なくとも現段階では、それなりに存在を認めるべきだと思うのだ。
そうして、応援や推しの行く末も、陰謀論的に汚れた社会の状況の改善も何もかも、私達の因縁を改善することに努めて、すべてのおはからいは、神様に一任するしかないと思われるのだ。
唯物論的にどんなに批判や非難をしても、結局は神様のみ心には適わない想いと行い=業想念の応報になってしまい、ダンマパダにあるように、業想念によって作られた悪い因縁因果の循環の解決はできないのだから、やはり、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を含めた、できることの手は尽くして、あとは神様にお任せするしか、世の中をよくしていくことはないように思えるのである。