219_ツイフェミさんへ

今からちょうど 2 年前となる 2022 年 04 月 26 日、( 110_心構え - おぶなより2 ) として書いた文章の中に < ツイフェミさんへ > と題した短文を書いた。(*1)

ただ、本文の ( 110_心構え - おぶなより2 ) 自体ががかなりの長文になってしまった上に、< ツイフェミさんへ > を書いた箇所が最下段の部分で埋没するような形になっていた。

ただでさえ超場末に位置して読まれる可能性が極端に低い私のブログなのに、さらにこうした長文の最下段のごく一部となって埋もれている状態では、この短文が、ツイフェミさん達の目にとまることは「絶対にない」と思ったので、ここに別建てとして、改めて抜粋・引用することにした。

いわゆる、ツイフェミと呼ばれていた人達(騎士と呼ばれる男性も含む)について書いた短文である。

今はツイッターは X となってしまったので、彼女ら(彼ら)の呼称がいまだに「ツイフェミ」のままなのかどうかはわからないが(もう見ないので)、もしも名称が変わっている場合には、その新たな呼称( X フェミ?)で適宜読み替えをして下さい。

以下は、( 110_心構え - おぶなより2 ) の (追記2) に書いた内容です(引用にあたっての大幅な加筆・訂正あり)。

< ツイフェミさんへ >

ツイフェミさん達が、私のこの文章を読むことは、まずあり得ないとは思うが、万が一に備えて書いておく。

世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして下さい。

それも、今からできる限り、数多く。

今すぐに。

お願い致します。

私は、過去世の生き方が悪かったせいか、今生では、健康面を原因とした筆舌に尽くしがたい苦しみを味わった。

今でもさらなる別の苦しみを味わっているが、何とかかんとか、かろうじて神様を呪わずに済んでいる。

しかし、今の病気がさらに悪化したりすれば、どうなるかはわからない。

はじめの病気にしても、寝耳に水の出来事だったし、他人様から見れば大したことないと思われるかもしれないが、自分としては神様を呪うほどつらかったのよ。

仮に、今現在、あなた方に、争い・貧乏・苦労のいずれかがある場合だとしても、これといった難しい病気がない、すなわち、健康であり、それが当たり前であることがどれだけありがたいことであるのかを、あなた方は知らないような気がするのですよ。

悪口雑言の限りを尽くせているところから察するに、今のところは健康には問題はなさそうですからね。(*2)

しかし、悪口雑言の限りを尽くせば、(原則として)自らの来世以降の運命を暗転させるだけではなくて、その発信を見聞した人々の想いも乱し、悪影響を及ぼす可能性までもが出てくるのですよ。

あなた方のその攻撃的で乱れた想いを反映した文章を読んだ人達は、(悟りを開いた覚者ではない限りは)いやが上にも想いを乱すことにならざるを得ず、少なからず想いを乱す悪い影響を受けてしまうことになるからです。

説教は無効ですが、あえて一言だけ申し上げます。

もしも、どうしようもなく行き詰まる時が来ることがあったら、是非とも、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を、あなた方の選択肢の中の一つに加えて下さい。

世界平和の祈りの具体的な生活への反映の仕方については、( 205_運命好転の方法2(具体的な方法) - おぶなより2 ) に記してあります。

世界平和の祈りの祈り言葉一式は以下の通りです。

世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様(しゅごじんさま)ありがとうございます

以上、何卒、よろしくお願い申し上げます。

~~~~~

(*1)ツイフェミ~ツイッターフェミニストの略称。

~~~~~

(*2)悪口雑言~あっこうそうごん~いろいろの悪口。
(用例)悪口雑言を吐く。

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(追記1)
少し付け加えます。

今生の今現在の私達が肉体人間として抱く想いとその具現化された行いは、主として来世以降に反映されてあらわれてきます。(*3)

もちろん、あなた方が過去にツイッターを通して行ってきた言行も、当然、その中に含まれます。

その(今生における)想いと行い=言行が来世以降に反映されてあらわれてくる時には、これも原則として過去世(つまり、来世以降らか見たら今生は過去世(この場合は前世)となる)の記憶は消されてしまいますから、原因がわからない(=いわれもない)ような良いことや悪いことが起きてくることになります。(*4)

良いことなら、単に「ラッキー」で済ますことができますが、悪いことはそうはいかないのです。

悪いことは、いわゆる、病気・争い・貧乏・苦労などの形をとってあらわれてくるからです。

しかも、その原因がわからない(←原因は過去世にあり、その記憶は消されて今生に生まれてくる)から、あたかも身に覚えのない病気・争い・貧乏・苦労などがあらわれてくることになるので、何でこんな目に遭わなければならないんだ、という思いを味わわされることになるのです(男性に生まれ変わるか、女性に生まれ変わるか、の性別は関係ありません。どちらに生まれ変わろうと、過去世の因縁を果たす(=解消しなければならない)ことには変わりがないからです。性別がどちらになるかは、これもやはり過去世の因縁によることになると思われます)。

今生で神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いを抱き、その具現化となる行いをしてしまったら、(原則として来世以降に)いやが上にもその報いを受けなければならなくなるからです。

詳しくは省きますが、相手が悪いから批判して何が悪い、という訳にはいかなくなるのです。

ましてや、言いがかりや、やみくもな絡みなどは言わずもがなということになってしまうのです。

神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いと行いは、今生以降にいやが上にも悪い形となってあらわれてくるのです。

まあ、信じるか、信じないかは、読まれた方の過去世の因縁次第になりますが、とりあえず、追加説明をさせて頂きます。

~~~~~

(*3)ごく普通に因果応報、原因と結果というと、今生(今回の人生)内で原因が起こり、結果がもたらされるといった形で起承転結が収まる場合を指していることが多いと思います(唯物論の思考にとらわれている人の場合は特に。唯物論者の皆さんが、よくブーメラン云々といっているのはこれを指していますね)。

しかし、ここで主に想定している因果応報は、

(原則として)

過去世(前世、前々世、・・・の総称)の中に原因があり、
これに対して今生にその結果がもたらされる、

または、

今生の中に原因があり、
来世以降(来世、来々世、・・・)にその結果がもたらされる、

いわば、時空間を超えた原因と結果の対応な訳です。

つまり、輪廻転生があることを当然の前提とした上での、世を隔てた因果応報、原因と結果の対応の話です。

今生で抱く想いとその具現化となる行いも、実は過去世のものがあらわれた場合が多いのですが、話がややこしくなるので詳細は割愛させて頂きます。

ご了承願います。

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(*4)上記(*3)に書いたように、過去世とは、前世、前々世、前々々世、・・・の各人生の総称を指します。

つまり、過去世と一口にいっても、直近の前世(=ー1世?)だけでなく、その前の世(前々世=ー2世?)、さらにそのまた前の世(前々々世=ー3世?)、さらに・・・とたくさんのものが含まれている訳です。

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(追記2)
今回書いた内容には、その本質が神様の子供である私達が使う想いの発現となる言葉には、実は言霊のような命が宿り、ちゃんとそれなりの良い報いや悪い報いが、原則として輪廻転生を通して(=世を隔てて)もたらされる、ということがその背景にあります。(*5)

ご興味がわいたら、是非ともご自分でお調べになって下さい。

なお、あまりおすすめはできませんが、私が書いた文章としては、( 011_気高い - おぶなより2 )  があります(長文です)。

この文章は、元々は「穴モテ」という言葉を、モテ談義などでごく当たり前のように常用する男性達(一部の女性達も含む)を念頭に置いて書いたものでしたが、

「私達肉体人間の発する言葉が輪廻転生を通してどのような意味を持ってくるのか」

を考える際には多少のご参考にはなるとは思うので、(内容が内容だけにあまりおすすめはできませんが)ご紹介した次第です。

まあ、とにかく。

能書き(理屈)なんかはどうでもいいから、あなた方には、ただただ、ひたすらに、無条件に、今すぐに、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして頂きたいのです。

これが私の率直な気持ちです。

・・・。

まあ、有り体に言ってしまうと、あなた方は、(原則として)自らの来世以降をきわめて好ましくないものとしてしまっていることに、まったくと言っていいほどに気がついていない、としか私には思えないのですよ。(*6)

やはり、この世でわが身に味わわされる、不可抗力のどうしようもない(=いやが上にも受けざるを得ない・逃れることのできない)、病気・争い・貧乏・苦労を経験しないと、
人間の本質とは何か?
霊性とは何か?
について考えることがまったくないに等しい状態だ、と思われるからです。

こうした病気・争い・貧乏・苦労を嫌というほど身に沁みて味わわされると、

この世とは何なんだ?

この世の仕組みは一体どうなっているんだ?

神様はいるのか?

神様がいるとすれば救いはあるのか?

どうやったら救われるのか?

等々、考えを巡らせることになると思われるからです。

ツイフェミさん達は、おそらくまだそこまでの厳しい経験をされていないのではないか、と思われるのですよ。

仮に、ツイフェミさんが唯物論を脱却していて、とりあえず輪廻転生を認めていたとしても、

(以下、言葉は悪くてすみませんが)

「来世以降なんか、どうせ今世の記憶は(過去世の記憶として)消されてわからないままにこの世に生まれてくるんだから知ったことか。
今生では思う存分ヤリ逃げするんだ」

などと想いながら行動に及び、

その上で、

「来世ではちゃんとします」

と現在の自分に免罪符?を与えて、やりたい放題のことをする。

これが、ツイフェミさん達に限らず、ごく普通の一般的な私達にありがちなことだと思います。

そうしないと、来世以降に受けることになるであろう報いへの恐れでガチガチに固まってしまい、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いを抱き、行いをすることが何一つできなくなってしまいますからね( 287_バチの授業 - おぶなより )(*6)。

こうした自分に甘い、いい加減な生き方(?)がまったく許されないことになってしまうと、端的に言って、古の修行僧か求道者のように、かなりの自由が奪われてしまうことになるからです。

そんな中で、私達には自由裁量の余地が与えられている訳ですが、それをどのように宗教的にとらえて対処していくかは、あなた方次第ということになります。

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(*5)「私達肉体人間が神様の子供である」とは、または「私達が神の子である」とは、どういう意味なのか、を以下に記します。

私達肉体人間は、五感に認識される側面からすれば、その他の動物と同じです。

ただ、
その魂に相当するものが、
動物は魂魄(こんぱく)であり、
肉体人間はこの魂魄に加えて、神様の分けられたお命という霊を直接に頂いているので、霊魂魄(れいこんぱく)となり、
違いがあります。

それゆえに、私達は神様の子供に相当する訳です。

この神様の分けられたお命という霊魂魄、神様の光明波動そのもの、命そのものがこの肉体に命を与えて、一つの秩序ある生命体として生かしている本体(=神様のわけられたお命=分霊(わけみたま) )で、これが本当の人間です。

つまり、あたかもライオンやお猿さんといった動物のようにして五感に感じることのできる肉体人間が本当の人間ではなくて、この「肉体それ自体」に命を与えて、生かしている「命そのもの」が本当の人間である、と(巷でごくたまに見かける、「肉体は着ぐるみだ」とか、「人間とは意識体だ」とか、表現する人がいるのは、そういうこと)。

だから、私達肉体人間は、五感には動物と同じように見えても、動物とは異なり、神様の知恵と創造力を授かっている、特別な存在で、いわゆる、万物の霊長ということになります。

従って、この物質世界を生きていく都合上、肉体とともに自己保存の本能が与えられていても、私達肉体人間は、本来ならば動物とは一線を画し、

「真善美と愛に悖らず、気高く清廉に生きていかなければならない存在」

ということになります。

私達肉体人間が神様の子供であるとは、そういうことです。

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(*6)私は、あなた方の文章を隅から隅まで読んだ訳ではないし、おおざっぱな感覚しかつかめていないかもしれません。

しかし、私がいくつかのあなた方の文章を見た限りでは、あなた方の怒り?は、自らの身体にまつわる切実な問題ではないのではありませんか?

そうではなくて、あなた方が怒り?を感じているのは、(あなた方が勝手に作り上げた問題にとれなくもないものも含めて)他人様に対しての、いわば「作り物の義憤(?)」を感じて書いているような文章が多く感じられたものですからね。

他人様の気持ちを慮るにしては、ちょっと自然さに欠けるような印象を感じた部分があったんですよ。

だから、わが身に切実な問題、魂からの叫びというか、熱量にちょっと違和感があると感じたのです。

いずれにしても、怒りなどの想いと行いは、輪廻転生を通して、悪い循環しかもたらしません。

ダンマパダ(法句経)にある通りです。

なので。

とにかく。

もう細かいこと(理屈その他)は、本当にどうでもいいんです。

できうることならば、あなた方には、怒りの矛を収めて、祈りに変えて頂きたいのです。

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(*7)五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)によると、神様のおつくりになられた世界は、大別して 4 つにわかれているそうです(しかも、その各階層は、さらに細かく細分化されているそうです)。

神界、霊界、幽界、現界(以下、この世とする)、と。

この世を卒業した、すなわち、肉体を脱ぎ捨てて、幽界という想いの世界に行った場合には、その世界で想ったこと(=言ったこと、やったこと)の反応は、間髪を容れずにすぐに返ってくるそうです。

時間差がほぼ無いに等しい、と。

真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適うものならいいですが、そうでない真善美と愛に悖るものが間髪を容れずに、すぐに返ってくるとなると、悪循環が続いて、苦しむことになってしまいます。

なので、神様を信じずに(=人間とは肉体だけだ、肉体人間として死んだらすべてがオシマイで何も無くなると思うこと)、迷った想いを持ったままで亡くなってしまう(=あの世に行ってしまう)と、想いの世界の幽界で苦しみ続けることになる場合が往々にしてあるそうです。

御先祖様の中にこうした魂の方がおられた場合には、その苦しみから救って欲しくて、この世で生きている子孫にかかってくる場合もあるそうです。

代々、同じ病気にかかることが続いたり、と。

だから、従来から施餓鬼供養などの風習がある、と。

ところが、この世では、想ったこと、すなわち、言ったこと、やることを完遂するにはそれなりの時間がかかるようになっています。

(例えが悪くて申し訳ありませんが)アイツぶん殴ってやる!と思っても簡単にはいきません。

それなりの時間を要するようになっています。

だから、その想いが成就する、ぶん殴るまでには、時間がかかるので、すぐには反応(報い)は返ってこない(=ぶん殴り返されない)ことがほとんどです。

逆に言うと、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いと行い(=アイツをぶん殴る)を成就させることを防ぐ(=自省や自制、他人様のアドバイスなどで思い止まるといった)可能性もあることになるし、

(アイツをぶん殴ることを)成就するまでに時間がかかる分、(主として過去世で)自らのしてしまった真善美と愛に悖る行いの報いを受ける十分な時間がある、ということになります。

つまり、視点を変えて、過去世の神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る(=業とする)報いを受ける立場から見ると、
業の報いを受ける十分な時間があり、魂についた業という汚れを落とすための神仏の子供としての魂(霊魂魄)の学習をする時間がある、
こうした(私達肉体人間の本質である神様の分けられたお命という霊魂魄についた汚れとなる)業を浄める(=消滅させる、消化させる)時間がある、
ということになります。

上記の迷ったご先祖様などが、救ってほしくて、子孫にかかってきて同じ病気にかかる人が代々続いてしまうというのは、こうしたあの世(幽界)で迷ったままで苦しんでいて、この世に生まれたくても、生まれてくることができずに、業を消せずに苦しいために救われたくて、縁のある知己(=子孫)にかかってくるということになるそうです。

だから、この世に生まれてくることは、輪廻転生を通して魂についた業という汚れを浄めるための絶好の機会を頂いたということになるらしいのですね。

簡単に言ってしまうと、この世に生まれてくることは、過去世、つまり、たくさんの輪廻転生を通して溜め込んでしまった業を浄めるための、ありがたい格好の機会を頂いた、ということになるそうなのです。

たとえ、病気や争いや貧乏や苦労などの不幸を味わうことになったとしても。

という訳で、誰も何も頼んでもいないのに、こんな苦しい娑婆(この世)に俺(または私)を生みやがって、と親御さんを恨むのは罰当たりになるそうなのです。

こうした仕組みを知らないから仕方ないことだとしても。(*7ー1)

よって、この世が、幽界のようになってしまうと、真善美と愛に悖る、神様のみ心に適わないことの間髪を容れない反応=報いを恐れて、あるいは、その反応が悪い意味での超絶高速な無限ループ(=悪循環)になり、その苦しみの悪循環から逃れられなくなることを恐れて、誰も何も悪いことができなくなってしまうと考えられます(上記の萎縮してガチガチになってしまい、誰も何も悪いこと(=真善美と愛に悖る神様のみ心に適わないこと)ができなくなると書いたのはこのこと)。

今回のあなた方に対する文章に限らず、私今までにブログを通して皆さんに「世界平和の祈り」をおすすめしてきたのは、こうした施餓鬼供養などの先祖供養をも含めた、自らの近しい周辺の霊道を浄める効果という功徳があるからでもあります ( 199_世界平和の祈りの功徳 - おぶなより2 )。

世界平和それ自体が大事なことはもちろんそうなのですが、まずはその世界を構成する個々のご先祖様を含めた家族単位の足場を固めておく必要があると思いましたのでね。

つまり、社会を構成する家族単位、または、個人にまつわる霊道単位を浄めることが手始めだと思われるからです。

~~~~~

(*7ー1)私が ( おぶなより ) を書くために中村元さんやひろさちやさんや S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老さん)などの仏教の書籍を二十冊弱見てきた時に、この世に生まれてくる確率がいかに低いことか(←いわゆる、「人身得難し」のこと)、について記されているものはいくつかありました(確か、2、3 冊だったかな)。

ただ、その中では、上記のような(=五井先生のような)輪廻転生を通して溜め込んでしまった業を浄める機会を与えられることになるから、この世に生を受けることは有難いことなんだ、に言及しているものはありませんでした(おそらく、現在入手できる一般的な仏教関係の書籍にも書いていないものと思われます。神様や霊性を否定する仏教関係の人の書籍ならなおさらに)。

ちょっと専門的な話(?)になってしまい、かなり難しい話なのですが(信じるか否かは読まれた方の過去世の因縁因果次第)、( 343_法話50-28-2 - おぶなより ) がご参考になるかもしれません。

~~~~~

(追記3)
私のブログ ( ( おぶなより )  と ( おぶなより2 ) ) は、奇特なお優しい方のアクセスしかない超のつく弱小ブログ(アクセスは、 1 日あたり二桁や三桁は滅多になく(三桁はだいぶ前の ( おぶなより ) の 確か 1 回だけだったと思う)で、アクセスがゼロの日もしょっちゅうという状態で、1 日あたり一桁でも読んで頂ければそれだけでも御の字といった感じのブログです。

従って、はてなさんでよくアクセスグラフを公表されている方のように 1 日あたりのブログへのアクセスが数百やそれ以上の人達は私にとっては雲の上の存在です。

といった次第なので、ごく普通に考えたら、私のブログは、あなた方(ツイフェミさん)の目に止まることさえも叶わないのが実際のところだと思います。

それでもほんのわずかだけでも見て頂く可能性を上げるために、あえてこのような形をとりました。

なお、宗教を突き詰めていくと、最終的に行き着くのは感謝です。

感謝一念の生活です。

単に「ラッキー」と感じることばかりや、幸福感に満たされることばかりではなくて、ありとあらゆることに対する感謝一念です。

あなた方には到底理解し難いことでしょうし、信じられないことだとは思いますが、不幸までをも含めた、感謝一念なのです。

この内容には、あなた方の大好きな唯物論の理屈でも実は説明をつけることができます( 058_輪廻と信仰2 - おぶなより )。

世の中には様々な宗教がありますが、あまり一般的とは思われない(=信奉者や実践者が少ない)宗教ですけどね。

もちろん、奇をてらったり、自我の延長のガリガリ亡者のような唯我独尊教(?)といった他者を排斥して、攻撃するような宗教ではありません。

最終的には、「穏やかな人格者」になることを目指す宗教です。

私は、あなた方が、いつの日にかその理解にいたることを願っております。(*8)

とは言うものの。

上記の内容からもご想像がつくとは思いますが、主にこの ( おぶなより2 ) で、( 010_フェミさん - おぶなより2 ) や ( 021_不条理 - おぶなより2 ) や ( 022_不条理2 - おぶなより2 ) や ( 033_いつ - おぶなより2 ) や ( 037_望み - おぶなより2 ) や ( 075_話16(女性観察記) - おぶなより2 ) や ( 097_祈り心 - おぶなより2 ) や ( 098_祈り心2 - おぶなより2 ) など、私はあなた方に対してかなりキツイことをいくつか書いています。

批判したのを隠しておくのは嫌なので、とりあえずここに記しておきます。

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(*8) ご参考になるかどうかわかりませんが、( 194_易行道の真髄 - おぶなより2 ) (内容の理解度は読まれた方の過去世の因縁によると思います。ちょっと長めの文章です) をお読み頂き、それなりの理解ができるようになることが、とりあえずは一つの目安になると思います。