007_拡張

今までは参考書籍も比較的よどみなく読み流せて、一時的に都合で休んだ以外はそこそこ順調に書き続けてきた ( おぶなより ) が、何だか急に引っ掛かって書けなくなってしまった。

まあ、それとは別に感じたのだが、仏教の経典の作者さん(もちろん、信仰者であり、熱心な信奉者なのだろう)の創作(?)は、できる限りやめてほしい、とつくづく感じた。

ひろさちやさんの著書、釈迦 (春秋社) に出ていたのだが、経典にはお釈迦さんが悟りを得た後に、元の修行仲間にわざわざ会いに行ったように書いてあるのだが、これは事実とは異なり、別の目的(自分の教えをある程度理解できる可能性のある素養のある人達のいるところへおもむくため)で行ったら、たまたま、再会しただけだろう、としていた。

もしも、そうだとすれば、経典の作者さんに何の意図があったのかはわからないが、とにかく、余計な脚色はやめてほしいと感じた。

お釈迦さんの生まれ方も、イエスさんの生まれ方も、明らかに創作だと個人的には考えている ( (065_お断り - おぶなより ) (注3) ) 。

皆さんと同じ生まれ方、2500 年前の当時なら普通に自然分娩で生まれたはずだ。お釈迦さんのお母様は、だから産後の肥立ちが影響したのかどうかわからないが、早く(産後数日)でお亡くなりになっている。

今から、2500 年も前だから、やっぱり出産は命懸けで大変なことだったのだろう(もちろん今でも大変だと思うけど)。

話を戻すと。

自分が尊敬する、敬愛する人をなぜ称えたいのか。

まあ、これは素直な気持ちだとは、とりあえずは、言えるだろう。

しかし、仮に事実とは異なる余計な脚色などをして、尊敬する人(以下、仮に教祖とする)を祭り上げるのは、どのような気持ちなのか。

これは、あくまでも個人的な意見だが、こうした祭り上げの行為は、肉体人間としての自我の延長としてのものだ、と思っている。

教祖を祭り上げることは、すなわち、その信仰をしている自分を乗せて拡張させていると思われるのだ。

教祖はこんなにすごい人だ、偉い人だ、とすることは、ひいては、その信仰をする自分も同じとはいかないまでも、それなりに良い信仰をしている、ひとかどの信仰者であり、一般人(?)や一般的な信仰者とは、一線を画した人間なのだ、とひそかに示したい気持ちが、潜在的にあるのではないか?

ハッキリ言ってしまうと、教祖を祭り上げることが、祭り上げ過ぎることが、教祖に対しての過剰なまでの装飾を施すことが、自らの無意識的な自己顕示欲(世間から注目されたい・ちやほやされたい)の発露になっているということだ。

へそ曲がり(ひねくれ者)な私は、どうしても、このように考えてしまうのだ。

ご本人は、無意識である場合があるのかもしれないが、よく考えてみて欲しい。

教祖さんは、皆さんを真理に導きたい、神様(仏様)の子供としての本懐を遂げさせたい、と望んでいるのではないか?

教祖さんご自身が誉め称えられることなど、まったく意に介していないはずだ。

そんな、この世の名誉なんかにはこだわらないはずだ。

一人でも多くの人が救われるように、真理を知って、あるいは、感得して神様(仏様)の本質を、この火宅の苦しみの多い世の中で、少しでもあらわせるように、幸せを感じることができるように、望まれているはずだ。

話がそれた。

だから、奇跡や超人的なエピソードもつきものなのは、ある程度、致し方のない側面があるのかもしれない。

それなりに、神通力を得られれば、奇跡を起こすことも、当然にあっただろう。

が、できる限り、こうしたものを排した、教祖の素の状態こそ知りたいと個人的には、思うのだ。(*)

ましてや、お釈迦さんは、2500 年も前の人だ。中々、素の状態を知るのは難しいのは仕方がない。

だからこそ、熱心な信仰者さん、信奉者さんには、あえて、教祖(お釈迦さん)を祭り上げる華美な脚色を削ぎ落とした信仰の仕方をして頂きたい、と切に願うのである。

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(*)これも、ひろさんの同じ本に出ていたのだが、お釈迦さんは神通力を見せてほしいとせがむ侍者であったスナクシャトラ(パーリ語でスナッカッタ)には、神通力を決して見せなかったそうだ。

その態度に失望したスナクシャトラは教団を去ってしまったらしい。

ところが、三迦葉(さんかしょう)の三兄弟の長男優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう。ああ、難しい・・・)はお釈迦さんに神通力競争(?)で屈服(?降参か?)させられて、弟子になっている。

つまり、必要だと判断した時のみには、見せたということだろう。

必要がない、神秘競争に巻き込むようなことは、意味がないばかりでなく、道を外す、真理にかかわりのない外道であり、真理を広めるための本願ではなかった、ということではないだろうか。

つまり、きちんとした人は、やたらな超常的な現象や神秘力をこれ見よがしに見せたりはしない、ということになる。

それが、人格を伴った宗教の指導者のあるべき姿だ、とお釈迦さんは示していた、と言えるだろう。