051_一端

以前のもの ( 039_望み3 - おぶなより2 ) に書き足したのがかなり長かったので、改めて別に再度書くことにする(改変あり)。

女性特有の「私は美しい」という強い思い込みについて。

(前略)

・・・まあ、そういう意味合いで言えば、男性側にも責任の一端(いったん)はあるのかもしれない。

女性固有の美しさに惹かれてにせよ、女性の体を求める下心からにせよ、女性をチヤホヤする男性が一定数存在する限り、女性に自分こそは特別だ、選ばれし者だ、もちろん、自分は女性として男性を選ぶ権利が当然のようにあるのだ、と勝手に思い込ませてしまうからね。(*1)

そんなこんなも含めて、日本では、最近は特に優しくおとなしい男性が多いせいか(?)、女性ばかりが、チヤホヤされやすいと思われてならないですね。

このような、いわば、絶対的な要因と自らのやや真善美から外れる業想念的な要因、男性に比べての多めな自らを中心とした独特な世界観も相まって、「私は美しい」と思う傾向が、かなり強くある。

男女ともに、悟りを開けていない以上は、誰しもがナルシストである部分はあるけれど、その度合いが男性と女性とでは、著しく異なっていると考えられる所以だ。

従って、基本はあくまでも A だが、B が女性の場合には、かなり強く押し出されている。(*2)

そう考えられる。

女性が克己心が足りないために、現実を見据えることができて、婚活などで最適解がすぐに出せるはずなのにそうはしない、のように書いたのは、この捉え方なら、A という絶対理性にもとづく判断を、B という肉体にまつわる業想念が抑え込んでいる、くもらせている、わかっていながらに見て見ぬ振りをしている、ということだ。

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(*1)選ぶ権利は男性、女性ともにあるよ。

女性にそうした権利がないと言っているのではない。

ただ、上記のような理由により、女性は自分達だけが一方的に男性を選べて当たり前だ、という思い込みや態度が不適切だ、と言いたいのである。

もしも、気に入らない男性ならば、選ばないのは当たり前だ。

今は自由だからね。

距離を置くことも致し方ない。

しかし、そこには人としての最低限の敬意は払うべきだ。

たとえ、好みの男性ではなくても、バカにしたり、失礼きわまる態度をとるのは絶対に避けるべきである。

どうしても嫌なお相手なら、毅然として一線を画して、矜持を保つような気高い振る舞いをすることだ。

つけ入らせる隙を絶対に見せないようにすればいい。

しかし、それ以外のお相手に対して、奢らせて当たり前、エスコートまがいの細かな気配りをさせて当たり前、のように、互いに尊重し、譲り合い、協力し合う姿勢がまったく見られないのは、一体、どういう訳なのか。

外国人の男がどうのこうのなんてどうでもいい。(*1ー1)

関係ない。

ここは日本だ。

私達は日本人だ。

私達はあくまでも神性を元に考えるべきである。

日本は神の国だとは、こういうことだ。

神様が肉体人間を男性と女性に分けて世代を引き継がせていく形(=有性生殖)をとっているのだから、片方だけを一方的に召し使いのように奉仕させるのは、間違っているとしか思えない。

私達肉体人間は動物的な側面を持っていても、動物そのものではない。

明らかに、動物とは違う。

あくまでも、神様のお命を直接に頂いて生きている、気高く、尊い存在だからだ。

ここが、普通の動物とは根本的に違う。

神様ならば、どのようにお考えになるかを、僭越ながら、想像させて頂くとすると。

あなた方は、みんな私の命を分け与えた、私の子供です。

あなた方は、みなその本質においては私の子供の兄弟姉妹に他なりません。

男女一対の夫婦として、子孫を残し、寿命が有限の肉体人間としての世代を引き継ぎ、この世を、この地球をより良きものにしていくためには、夫婦となる者同士は、お互いに尊重し合い、協力し合い、奉仕し合っていかなくてはなりません。

このように、おっしゃっられるのではないだろうか。

神様が、わが子としての肉体人間としての男女を見た時に、両者の関係として、一方的な支配従属関係や、かたよった奉仕関係を望まれているとは、到底、考えることはできないのだ。

それぞれの持ち味や個性をいかしながら、協力し合うことを望まれているはずである。

ということは。

男性、女性ともに、お互いに奉仕し合い、協力し合っていくことこそが、あるべき形であり、これこそが当たり前じゃないか。

女性の人達が、なぜ、このことに気づかないのか、このことがわからないのか、本当に不可解で、不可解で、不可解で、しょうがないね。

考えてもみてほしい。

椅子を引く。

道路側を歩く。

こうした、これ見よがしで、わざとらしい行為が、霊性が開発され、ごく自然になされる行動の一環ならまだいい。

まだ、救いがある。

しかし、わざわざ、意図的にこうしたことをする。

私は男だからなのかもしれないが、こんなのは、カッコよくも何ともない、としか思えないね。

「何だ、あれは?」としか思えない。

体が辛(つら)そうで困っているお年寄りに、ごく自然に手を差しのべる。

お手伝いをして差し上げる。

これならわかるよ。

しかし、若くて(若くなくても)健康でピンピンしている女性に対して、なぜ、わざわざこれ見よがしに大事にする素振りをするのか?

私に言わせれば、こんなのは不必要だ。

明らかな身の危険があり、守ってあげなければならない極端なケースは別だろう。

しかし、そうでもないごく一般的なケースに、これ見よがしに奉仕する。

健康体の人間に対して。

私には不可解でしょうがない。

「女性にお姫様気分を味わわせること」
と、
「この世を感謝一念で生き、男女ともに気高く、お互いに奉仕し合うこと」

どちらが大切なことなんですかね?

確かに女性は生理・妊娠・出産・幼少期の子育てと大変だ。

しかし、だからといって、それだけで男が固有に担わされる様々な重責を、すべてなぎ倒す理由としてしまっても、果たしていいものですかね?

本当にわからない。

身体が健康で丈夫ならば、こうしたことは自らやるべきことではないの?

力仕事やどうしても男手が必要な時(しかも、常軌を逸しない範囲で、やむを得ない事情あり、という条件つき)に、助けを求めて、協力してもらえばいいだけの話ではないの?

自分でできることは自分でする。

足りないところを補い合い、協力し合えばいいだけの話ではないの?

なぜそれができないの?

なぜそれがわからないの?

本当に不可解です。

これは仮説だが、日本人の男性に元々過剰なレディファーストの習慣がないのは、このような神性の発想が無意識に根づいているからではないだろうか。

気が利かない。

女性特有の心理に疎い。

この根っこにあるのは、お互いにできることは自分でして、補い合えることは補い合うべきだと、自然にわかっているからではないだろうか。

過度な封建制やマザコンは論外としても、日本人の特に男性には、脈々とこうした発想が無意識に受け継がれてきている。

他にも日本人特有の霊性の高さが反映されているものがあると思われるのだが、今回は省く。

(*2)神様の分け命を頂いていることから、誰しもがそなえている判断力を A として、「自分は美しい」と思い込む自己肯定感を B としてある。

A は B よりも上位にある。優先順位で言えば、間違いなく A が上だ。A がすべての元であり、はじまりであり、あらゆる判別に優先される。

なぜならば、これこそが、私達肉体人間が、神様の分け命である分霊(わけみたま)を本質とすることに他ならないからだ。

だから、B は、第 2 の優先順位となる。

実は、B は、女性だけの専売特許という訳ではなくて、男性にもある。

ただし、その程度の差が、男女で著しく異なっているだけ。

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(*1ー1)海外の人(特に女性)が言う海外特有の安全性の話(襲われる危険があるので、夜道を女性 1 人で歩けない)も絡んで、こうした騎士的な態度が尊重される側面はあるかもしれない。

治安という点では、女性だけに限らず、男性でも窃盗など日本とは比較にならないぐらい、海外では注意を払わなければならず、油断ができない事情もある。

しかし、本来ならば、こうした治安が悪い状態が常態となっていることの方が、おかしいのである。

人間は普通の動物とは違う。

あくまでも、神様の分けられたお命である、分霊を本質としている存在であり、地球さんなら地球さんのあらゆる生きとし生けるものを、取りまとめて調和させていくお役目を授かっているはずの存在なのである。

そのように、本来は気高く生きなければならないはずの人間を、調和・共存をはかるどころか、ただ生きるために食物をはじめとした物質は他の人間から奪えばいい、性欲を満たしたければ、ただ異性(女性)を襲えばいい、ということが人間の本来のあるべき姿であるはずがないではないか。

それに、別段、日本だけが犯罪が皆無な訳でもないし、日本を絶賛する海外の方が、まったくと言っていいほどに知らない日本固有の深刻な問題が、いくつもある。

ただ、これについては書きたくないので、書かない。(*1ー2)

治安の良さも、街の清潔さも、社会の秩序正しさも、様々な要因が(摩訶不思議に)複雑に絡み合って、ここ最近とみにまとまり、高められてきた印象がある(*1ー3)。

日本を大絶賛する海外の方は、おそらく、日本が今現在の状況に至るまでのこうした経緯を知らない。

そうした意味では、日本に生まれたこと、そして今の時代に生まれたことは、それなりにかなりありがたい意味があることは、確かにある。

また、外国人さんは、一時的にはかなり外見で見映えはする時期があるかもしれないが、それだけがすべてではないですよ。

日本人には、霊性が落ちてしまったかもしれないが、日本人なりの固有の良さがあるんです(今は多少変わりつつある過渡期に差しかかっている可能性が出てきているのかも知れないが)。

これについても、書きたくないので、書かない。

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(*1ー2)あえてほんの一例をあげると。

日本に好感を持って下さっている海外の方には申し訳ないが、表面的なお付き合いだけではない、日本に根を下ろして暮らしていくには大変な問題がいろいろある。

個人の価値観にも依る問題であるが、子供を大学に進ませ、卒業させることすら、今や容易ではない状況からしても、長い目で見た場合に、家庭を持ち、家族を持ち、日本で暮らせる、即、天国、安心して優雅(?)な暮らしができる、即ハッピーとはならないからだ。

(*1ー3)街のきれいさの例としては、ゴミのポイ捨て、タバコの吸い殻のポイ捨て、唾(ツバ)の吐き捨てなどが、ほとんどなくなったのは、おそらくここふた昔くらいである。(*1ー4)(*1ー5)

オウム真理教事件に関係したゴミ箱の撤去などもかなり影響していると思われる。

フードコートのテーブルや椅子、床、そしてトイレが、相当きれいになったのも、ここ数年くらいだと感じる(以前は、前の人の食べ残しカスや、こぼれた液体などで、テーブルや場合によっては椅子や床などが、結構汚れたままのことが多かった。私は何回かこうした状態に出くわしてから、ポケットウェットティッシュとポケットティッシュ、そしてビニールも持参して、事後に片付けてきれいにしてから帰るようにしていた(備え付けのフキンが薄いばかりでなく、ビショビショだったり汚れたままのことも多かったので)。

少ししてから、これをしないでもきれいになるようになってきた。

だから、本当にきれいになったのはここ最近(数年?)なのではないか。

なお、ゴミは捨てることができるゴミ箱が見つかればそこへ捨てた。

しかし、可燃物や不燃物などの該当するゴミ箱が見つからない場合には、やむを得ずゴミの持ち帰りをしていた。

ただし、当たり前だが、完璧とまではいかない。

ユーチューブにあがっている典型的な日本バンザイ動画(?)によくあるような、あんな手放しでほめまくるまでには至っていない。

それなりに行儀の悪い人はまだいるからだ。

落書きもある。

街の浄化は、いろいろな事情が絡み合って、少しずつ少しずつ改善されてきた。

引き続き、皆様の想いが浄化され続けることを願う。

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(*1ー4)タバコの吸い殻のポイ捨てがほとんどなくなってきたのは、2002年11月から東京都千代田区から始まった歩きたばこ禁止条例により違反者に対しての過料徴収が広がったことが大きいはずだ。

ポイ捨てもそうだし、以前は通勤時の歩きタバコ副流煙もかなりあった。

私はタバコを吸わないのだが、近しい者に愛煙家がおり、彼らにとってはここ十数年くらいで、どんどん片身が狭くなり、喫煙が容易ではなくなってきている経緯を見てきた。

こうしたこともあって、タバコのポイ捨てがかなり減ったと思われる。

だから、いろいろな摩訶不思議な成り行きと日本人の独自の国民性とが相まって、街の浄化が進んできたと思われるのだ。

(*1ー5)地面への唾の吐き捨ては、個人的に避けて頂くことを強く願う。

ペッと地面(や床)に唾を吐くことは、大地である、地球さんに、唾を吐きかけていることに他ならないからだ。

天に唾すると同じように、地に唾するのもダメなのである。

すべてのありとあらゆるものに感謝すべきことに思いを巡らせば、地に向けて唾を吐くことが、いかに罰当たりで不遜な行為かがわかるようになるからだ。

歩いて、寝て、をはじめとして、私達人間生活のありとあらゆる基盤を提供して下さっている地球さんに唾を吐くことになり、ひいては、すべての創造主の神様に対して唾を吐くことになることに他ならないからだ。

詳しくは書かないが、個人的な経験も踏まえて言うと、大地(や床に)向けての唾の吐き捨てをする行為に対する報いは、かなり重いものとして返ってくると感じるんですよ。

もちろん、他人に対して唾を吐きかけるのも論外中の論外ですよ。

たとえ、その他人が、どのような過去世の因縁によりこの世に悪くあらわれていようとも、その肉体人間としての本質が神様の分けられたお命である以上は、絶対にしてはならない行為となるからです。

なぜならば、過去世の因縁として、今生で起こされたものでない限り、他人に唾することは、神様の分けられたお命を本質とする者=主体としても為(な)してはならない行為であり、唾を吐かれる客体としてもあってはならないことになるからです。

神様の分けられたお命を本質とする以上は、肉体人間は本来気高くあらねばならない所以です。