001_はじめに2

ふふふ。

やはり、こんなものか。

自分の力不足や過去世(前世、前々世、前々々世、・・・の総称)からの因縁の悪さを、ある程度予想していたことではあるが・・・。

われながら情けないね。

途中からブログの管理機能を知り、アクセス数もわかったので、はてなさん特有のスターマークも合わせて、 ( おぶなより ) の外部的な低い評価はわかってはいたのだが・・・。

自分と比べてはるかにアクセス数(数十倍から数百倍、さらには数千倍、果ては無限大)のある人のブログや、多数のはてなのスターがついている人のブログを見ると、正直、ちょっと萎えた。

言っちゃあ何だが、自分のブログとはそれほどまでの内容の劇的な差があるとは思えなかったから。

スターマークを頂いていて、自分としてはそこそこ書けたかなという記事が、そうしたたくさんのアクセスやスターマークのついた記事と天文学的とも言える質的な差異があるとは思えなかった。

人は自分自身に対しての評価がきわめて甘くなりがちになる事実を割り引いたとしても、そう思えたものがあった。

それとも私の判断がおかしいのかな?

とは言うものの。

まあ、こうした結果から、自分の過去世からの因縁の悪さをも含めて、書き手としての自分の実力のなさを、身の程を、至らなさを、真摯に受け止めなければならない、ということなんだろうな。

で。

自分はアクセスがまったくなかったり、はてなスターのスターマークがまったくつかないのが常です。

特に最近は更新をサボっている(初期仏教をどうしようかいまだに迷っている)こともあってか(?)、または、何か他の理由があるのか、はたまた、単につまらないだけなのかはわからないが、ますます、私にとっての希少だった読者離れを加速させることになったのかもしれないな。

まあ、この世で起きてくる、大半( 8 割方?)のことは、過去世の因縁のこの世での時を経て消えてゆく(=過去世の因縁の解消(=清算)されていく)姿だから、去る者は追わず、来る者は拒まずで、何でもかんでも、一切合切、守護霊さんに感謝すればいいんだけどね。

それに、自分としては、初期仏教も含めて、霊性の開発について、そして、輪廻転生の仕組みとそのあらましについて、一般的には漠然とされている部分も含めて、誰にでも、それこそ小中学生にもわかるように、かなり具体的にわかりやすく、懇切丁寧に書いてきたつもりなので、実は、もうそんなに更新する必要もない、とは思っている(ちょっとあちこちにバラけて書いてしまったので、まとまりがないけれど。輪廻転生とその仕組みのあらましについては、後述する、( 011_気高い - おぶなより2 )、( 162_原理 - おぶなより2 ) などに書いておいた。五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の考えを参考にした輪廻転生についての私独自のまとめ方と解釈ではあるが、一般的な書物やブログでは、漫然または漠然と書かれていたり、ブツ切り的にまとまりのない形で書かれている輪廻転生について、それなりの概略を示すことができたと自負している)。

自分にも容易に理解できるように書いてある文章ならば、よほどの事情(=過去世の生き方の中で(神様の)真善美と愛に悖った想いと行いの業想念がかなり多く、今生だけでも償うべきものがたくさんあるために、神様の分けられたお命を頂いているところから、誰しもが持ちうる通常の理解力や判断力が著しく制限された形で生まれつく場合。端的に言ってしまうと、過去世において散々の悪行三昧をしたために、生まれつきの様々な不利な大変な条件(ハンディキャップ)を背負って生まれてくるなどといった特別な場合)でない限り、自分よりも理解力が上であろう皆さんには、絶対に理解できるはずだ、という信念の下に書いてきたから。

つまり、「南無阿弥陀仏」や「世界人類が平和でありますように」という、手を加えることができない特別な祈り言葉は別として、それ以外の既存の内容をまるごと引用・祖述するのではなく、誰にでもわかりやすい、やさしい言葉や表現に置き換えて、理解をしやすくするように独自にとらえ直したものを書いてきたんです。

そうして、宗教的な内容を形式的に引用・祖述することをあえて避けて、老若男女誰にでも、それこそ小中学生といった子供にも理解できるように、自分の解釈を元にして、咀嚼したものを書いてきた訳です。

なぜ、このように平易な内容に書き直すように試みてきたかと言うと。

一般的な霊性に関して書かれている書物や、これに言及しているブログは、私から見ると、あまりわかりやすくない、かみ砕いていない、もっと言ってしまうと、ご自分の言葉や言い回しで表現していないものが多いために、そうした文章を書いているご本人が本当にやさしく具体的に内容を理解できているのかな? と疑問に思わされるものがほとんどすべてに思えるんですよ(私がここ数年見てきた範囲では)。

いわばオウム返しのようにして、書籍などの内容をそのまま祖述してあるように感じられる文章がほとんどすべてであるような気がしていたんですよ。

例えば、A は A だと、そのまま引用して書くのではなくて、自分なりに、この A を老若男女を問わず誰にでも、それこそ、子供にも理解できるようなやさしい理屈の展開であらわすことをしていない文章しかないような気がしていたんですよ。

本当に理解しているならば、自分の言葉で、自分の言い回しで、誰にでも理解できるように、よりやさしく言い換えるなり、表現できるはずなんです。

これをしないで、A は A 、B は B 、C は C とそのまま引用して話を進めていた場合に、本当に読者に書き手の言いたいことが伝わるかどうかは、案外不確かな場合があるようにも思うんですよ。

実は、こうした意味合いもあり、私はやさしく、やさしく、書いていたという思惑もあったんです。

まあ、元にある文章を金科玉条として祖述するのも、元の文章を書いた人に対する敬意をあらわしている側面があることも、わからなくはないのですが、やはり、当初のままで文章を固定してしまうと、理解の程度は読む人次第で、人によってかなりのばらつきが出てしまうのは避けられない、と思うんですよ。

だから、私としては、自分でも軽々と読める程度に、文章の内容を手前に引いてきてわかりやすくすることで、誰にでも、引いては小学生にでもわかるようにとやさしく書いたつもりなんです。

それに、ちまたには、過去世の話をまったく度外視した形で、因縁因果を説いているような斎藤一人さんという方が、実業家とはいえ教祖的な存在となっている場合がある。

あるいは、おそらく著名であろう仏教系のユーチューバーとして講義をされている菊谷隆太さんという方が、同じく過去世をまったく無視した形で因縁因果を説いている。

あれらを聞いただけでは、到底、因縁因果は理解できないはずです。

私はあれでは理解できないと思う。

なぜならば、この世のあらわれてくる大半の現象(結果。因果のこと)の原因となっている過去世(前世、前々世、前々々世・・・)の話をすっ飛ばしているからですよ( ( 285_因果律 - おぶなより ) や ( 314_法話50-9-2 - おぶなより ) などを参照)。

原因となる過去世の因縁を度外視しているんです。

この世だけでの、原因と結果を見た時に、およそ納得なんかできないほどに、デタラメ、メチャクチャなひどいものがあるのは、なぜなのか、についての説明がまったくつかないからです。

この世だけで、因縁因果が完結するのならば、これほどまでに、不条理、不均衡でデタラメなありようはない。

それをなぜ無視されるのか。

話がそれました。

ブログ初心者として始めた ( おぶなより ) でも、まれに、奇特な人がいて、読者になってくれたり、過分な評価をして下さる珍しい人もいたことも、かつてはあるにはあった。

だが、これもはてなさんのブログ特有のお題の募集に応募したのがきっかけとなったものだった。

やはり、はてなさんのユーザー同士の相互支援的なきっかけづくりとなるシステムの助けがなければ、こうした人とは縁を結べなかったということなのだろうな。

かといって、はてなさん以外の他のブログのやり方にあるように、機械で自動巡回して、アクセス数を底上げする方法(?)は、到底、好ましいやり方とは思えない。

やはり、おかしな水増しのない、はてなさんのようなブログのあり方がいいのでしょうね。

だから、自分は、基本的に受け身では、まず検索はされないし、アクセスもほぼゼロ。

こんな状態ではあるが、もしも、自分にそれなりの読みごたえのあるか、または、それなりの内容があるものが書けていたとするならば、やはり、これは自分の過去世からの因縁が悪いか、今生での因縁が悪いかのどちらかか、あるいは、双方なのだろう。

グーグル検索にしても、SEO( Search Engine Optimization の略称で検索エンジン最適化のこと)にしても、何をしたって、結局は過去世からの因縁のしがらみを逃れることはできない(一般的には努力はすべきだとされるのだろうが)。

仕方ないな。

「他人に認められたい」

これは、悟りを得ることができない肉体人間の誰しもが、大なり小なり備える承認欲求だ。

しかし、私が書いてきたのは、不易と流行で言えば、不易に属する内容だ。

だから、内容が自分の思い通りに書けることが何よりも大事で、更新頻度や時流に合わせた内容は、二の次三の次でいい。

無視したってかまわない。

神様のみ心に照らし合わせての、絶対基準で書ければ、それでいい。

それこそが、一番重要なことに違いない。

アクセスがどんなに少なくても、さらにはたとえ長期間アクセスがゼロでも構わない(はてなさんには厄介者としてご迷惑をおかけして申し訳ないけれど・・・。私としては一生懸命書いているのでどうか許して下さい)。

地球上の何十億人のうちのたった一人でも、易行道の世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行を知ってもらい、唯物論でどうしようもなく行き詰まってしまった時のよすがとしてもらえば、それでいい。

そして、その流れが万が一にも広まり、この、いつまで続くぬかるみぞ、というこの世(先人の信仰の深い方々のお陰でかなり改善されてきた部分もあるとは思うが)の全体の因縁因果に少しでもよい影響を及ぼすことができれば、これに勝る喜びはない。

ならば、無理して更新する必要はないし、マイペースでやればいい。

ブログ初心者でも、ある程度の更新をすれば、内容がそれなりについてくると、自分としてはかなり無理をして書いてはいたが、残念ながら限界に達してしまった。

あとは、ゆっくり、自分の思うまま、 ( おぶなより ) をやっていこうと決めた。

この ( おぶなより2 ) は、生涯このまま言わずにおこうとした私自身にまつわる固有の内容を気ままに書いていくことにする。

( 083_一雫 - おぶなより2 ) や ( 110_心構え - おぶなより2 ) などにも書いたのだが、現在はインターネットの記事が読まれるための書き方( SEO(検索エンジン最適化)対策 )で記事の内容が平準化されてしまい、本来、読みたい(=求める)記事が、そうした読まれるための SEO などの工夫を凝らした大多数(?)の記事のために埋没させられた形になり、探したい情報が見つからない状況のためか、自分と似たような境遇の男性のことを知りたくても、まったくといっていいほどにそのような記事が見つけられなかったこともある。

ならば、(読まれる可能性は限りなく低く、参考にはならないかもしれないが)自分の固有の経験を情報として出していく(=書いていく)しかない、と考え、自分の経験した事実をありのままに書いていくことにした。

もちろん、脚色や創作(捏造?)を徹底的に排して、自分の経験した事実をできるだけ平易に、小中学生にもわかる程度の表現にすることを旨として。

とは言うものの、 ( おぶなより ) に比べては、歯に衣着せぬ、多少はきつめの内容になる程度にしかならないが・・・。

内容によっては、何言ってるんだ、こいつは? と一般的には思われるであろう、おかしな思い上がった内容にとられるかもしれないが、これも一個人の固有の体験や物事に対する感覚や、考え方や、とらえ方の問題なので、ご理解を頂きたい。

世の一般的なブログなら、こうした内容ならば、「ひとりごと」とするのが、常識(?)なのかもしれない。

しかし、私個人としては、「ひとりごと」 と称しながらブログを書くことにはかなりの抵抗というか、違和感がある。

ブログはあくまでも、他人に読んでもらうことを前提としているものだからだ。

私の文章のように、まったくと言っていいほどに他人に読まれる可能性がないブログの文章でも、公開をする以上は、他人から読まれる可能性があることは否定できない。

どんなに極微でも可能性がある。

それゆえ、私はこの ( おぶなより2 ) を ○○のひとりごと のような題名をつけることはしない。

なお、 ( おぶなより ) では、はてなさんのブログの書き方にのっとり、以下のような表記で、できるだけこまめに訂正をしてきたが、この ( おぶなより2 ) ではその一切を省くことにする。

例)追記: 20xx/10/10 10:00 〜訂正内容〜

随時、更新すべき点があれば、勝手にやらせて頂くことにする。

これもご理解を頂きたい。

また、 ( おぶなより ) では、懇切丁寧なふりがなやできる限りの注釈をつけてきたが、これらも一切なしで、やっていくことにする。

これも、ご理解を頂きたい。(*)

自分はブログをはじめてまだ 1 年ちょっとの初心者で、力不足なこともあり、これらの事を含めて、読者の方に対して、とかく何かにつけてへりくだってきた。

これもやめる。

傲慢になるということではありません。

必要以上に気を遣った低姿勢を、今後はやめるという意味です。

だから、ことによると、内容が生意気だと思われる場合も出てくるかもしれない。

これも、ご理解を頂きたい。

ちなみに、 ( おぶなより ) でも、これからは、力不足だの、理解力不足だのの余分な見苦しい枕詞をつけるのは、一切やめる。

これは、内容を読めば、誰にでも自ずとわかることだからね。

考えてみれば、自分が文章表現能力の水準が低いことをわざわざ断るのは、言い訳めいていて見苦しいだけにしかならないし、相対評価はあくまでも他人様が下すものだから。

では、次回からさらに勝手気ままにやっていきます。

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(*)こうは書いたが、やはり、ちょっと読みにくいかな、と思われる漢字には、かなりのふりがなをつけることになってしまった( 2022 年 02 月 現在)。

本当はふりがなをつけない方が、スッキリしているし、見た目が煩わしくないので、読みやすく、好ましいとは思うのだが、万が一、読みをお知りにならない方がいる場合を考えると、やはり、まったくふりがなをつけずにおくのは、どうしてもためらわれてしまったのでね。

読まれる可能性のある方に、手間をかけさせるのは、あまり、今のご時世にはそぐわない気もするから。

本来ならば、パソコンやネットに一切頼らずに、国語辞典や漢字辞典を傍らに、わからない単語や読みを調べながら文章(たとえ、書籍ではない格式ばらないネットの文章でも)を読むのが、手間もかかり、アナログ的ではあっても、一番いい文章の読み方だと考えます。

ただ、私としては自分の文章の内容の程度のこと(高度ではないという意味)もあるし、とりあえず、読みだけでもお知らせして、あとは意味を調べたい方がお調べになればいいと思うので、読みだけを併記するようにしました(前後の文脈からある程度意味合いが推定できる場合もあるし)。

漢字辞典を引くのは、かなり骨がおれて大変な作業になるので、読み方さえもわからないとなると、本当にイライラさせられることが多かった自らの読書の経験なども踏まえ、少しでも調べやすくすることを心がけてみたつもりです。

まあ、書き手と読み手は、一期一会ということもあるし、現状では、これが最善だと判断した次第です。

いずれ、回を重ねるに従って、ふりがな(ルビ)をなるべく減らしていこうと考えています。

なお、ふりがなのような内容の理解を助ける補足と同様の意図で、 ( おぶなより ) も含めて、仏教の経典の原文訳や参考文献の内容に手を加えて、よりわかりやすく、よりごく普通の読みやすい文章に近づけるように、改変をしている。

例えば、ひらがなにすることが不要と思われる「かれ」を「彼」に直したりのような類いのものは、「彼」に直すというように、不要と思われる平仮名化を廃するような形の改変を施すなどはしている(中村元著_原始仏典_ちくま学芸文庫_にはこうした記述がちらほらとあった)。

とにかく、「独特の不要と思われる平仮名化?」や「参考書独自のもって回った特殊でわかりにくい言い回し?」は、徹底的に廃した上で、平易な文章に直すように変えてある。

つまり、引用部分の意味内容を変えずに、あくまでも、簡易にわかりやすくする変更を改変としている。

あらかじめ、ご了承頂きたい。

なお、普通日本語にある言葉を、あえてカッコ書きでカタカナをつけたものがかなりあるが、これは現代では、こちらの方が慣用として用いる人が多いことに鑑みて加えてあるものです。

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(追記1)
こうやって、いろいろな気遣いをせずに、自分のペースでスパスパ書いていくのは、本当に楽でいいね。

実に、楽だ。

ずいぶんと楽になった。

不特定多数の読者を想定しての緊張感を抱きながら書くことが好きな人には、襟をただしてかしこまるのもいいのかもしれないが、自分には向いていなかった。

ダメだったな。

やっぱり、人間にとっては、自然体が精神衛生上、一番楽なものなのかもしれないな。

ブログではあるが、はてなさんには、自分がよそ行きですましてカッコつけるスタイルが合わないことが、よくわかる経験をさせてもらった。

その点ではありがたいと感謝している。

直の対面の人付き合いじゃないんだから、せめてブログくらいはのびのびとやっていきたいしね。

まあ、なるべく業想念を生じさせないようにすることだけには気をつけて、何とかやっていければ御の字だと考えている。

時々は生じさせてしまうかもしれないが。

とにかく、それだけには気を配ってやっていきたいと思っています。

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(追記2) ( 2024 年 04 月 17 日 )
現段階に至り、仏教の経文以外の普通の文章につけてある、既存のふりがなを少しずつ削除して、最終的にはこの ( おぶなより2 ) のふりがなを、(ごく一部を除き)原則として撤廃することに考えを改めました(今回の文章もすべてふりがなを撤廃しました)。

もしも万が一、小中学生の人がこれを目にしていたら、未知の語句や漢字については、大変な作業になるけど、国語辞典や漢字辞典を引いて調べて下さいね。

ネットで調べるのは現代風で簡潔な作業でありがちなんだろうだけど、国語辞典や漢字辞典を手間隙かけて調べるのも、また別のそれなりの意味があると思うから。

以上、あらかじめ、ご承知置き下さりますようお願い申し上げます。