199_世界平和の祈りの功徳

世界平和の祈りについて、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)の本に出ていた、 2 人のご婦人のエピソード(逸話)を取り上げる。

1 人目の塚本さんのエピソードは、載っていたのがどの本だかわからなくなってしまったので、おぼろげな記憶を頼りにしながら適当に書く。その点はお許し頂きたい。

2 人目の山本さんのエピソードについては、掲載本とその該当箇所から引用する。ただし、読みやすさ(見やすさ)を考え段落分けをしたり、ごくわずかな加筆をするなど、適宜文章を改変する。ご了承を頂きたい(なお、この本には、ありがたいことに一般的な書籍にありがちな引用についてのうるさい縛りは一切書いていなかったので、引用をさせて頂く)。

第 1 。

塚本さんが、神社(かお寺のどちらか)にお参りに行った時のこと。

彼女が参拝を終えると、近くにいた女性の易者さんが声をかけてきた。

その易者さんは、
「あなたの後ろには、ものすごいお光が輝いていた。
あなたはどこの守護神さんをお参りされているのですか?」
と言われたらしい。

その当時の塚本さんは、まだ、世界平和の祈りの祈り人としては、ベテランではなかったらしい。

それでも、五井先生とはまったく関係がない部外者の人にこのように言われて、塚本さんはとても嬉しかったようだ。

次、第 2 。

山本しかさんが、お墓参りをするたびに、ご自分のお墓はもちろん、お隣の無縁さんのお墓にも、
世界人類が平和でありますように
と祈っていた。

そして、守護霊様と守護神様に感謝していた。

ある時、神道系の行者さんが山本さん宅に来て、神棚の前で祈っていたら、(その行者さんの霊の眼には)お墓が見えてきた。

大きなお墓が山本さんのお墓で、それが光輝いていた。その光が、周りの小さなお墓まで差し込んでいって、小さいお墓の人達がみんな喜んでいた。

そして、行者さんは、
「ああ、お宅の信仰は大したものですね」
と言われた。

山本さんが、
「夫のことも拝んで下さい」
と頼むと、

行者さんは、
「いや、あなたの旦那さんは、とっても高くていいところにいらっしゃるから、私が拝むというよりも、向こうからお光(←神様の光のことだと思われる)を頂くようなものだ」
と言われたとのこと。(*1)(*2)

(以下は、大体五井先生の文章の通り)これはどういうことかというと、山本さんが世界平和の祈りをやっていらっしゃるから、旦那さんはもちろん、お墓のそばにあった無縁さんもみんな光っちゃったんです。

わかってもわからなくてもいい。

皆さん一人一人が世界平和の祈りをすれば、自分の周囲、親族へ全部(神様の)光が入っていく。

それを山本さんが実証して見せてくれた。

(神様の)光によって照らし出されるということは、この世ばかりでなく、あの世まで、また後々の世までも、ひびきわたるのです。

皆さんは、肉体の人間だけではないんです。内なる神の分霊(わけみたま)が(光明)燦然と輝いているんです。

~~~~~

(*1)「とっても高くていいところにいらっしゃる」というのは、山本しかさんの世界平和の祈り=信仰によって、旦那さんがあの世(または、霊界)の高い地位(階層)に昇られている、といった意味合いに解釈できる。

つまり、山本しかさんの熱心な世界平和の祈りで、旦那さんが高い境地に昇ることになったと思われる。

この話を読むと、世界平和の祈りをすることは、自らにまつわる霊道を浄めるという意味で、ご先祖様の供養にもなるし、従って、親孝行にもなりますね。

(*2)「向こうからお光を頂く」の「向こう」とは、(*1)もあわせて考えると、山本さんのお墓のに既に入られている方々か、山本さんの旦那さんか、のどちらか、それともその両方、と思われる。

さらに、その(神様の光の)大元を辿れば、神様か神界からの光ということになるんでしょうね。

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以上が、世界平和の祈りをしたご婦人のエピソードで、塚本さんに話かけてきた易者さんも、山本さんの家に祈りに来た神道系の行者さんも、霊感があり、世界平和の祈りによる(神様の)光が見える人達だったというお話です。

つまり、世界平和の祈りの関係者ではない外部の第三者である、霊感のある易者さんや神道系の行者さんによって、世界平和の祈りの実践で生じる(神様の)光の存在と、その効果の裏付けが客観的に得られたという話ですね。

五井先生がよく本の中で、世界平和の祈りで得られる神様の光のことを、(確か歴史上でのこの世を救いたいと願う各種の聖者の光を集めた?)「救世の大光明」とお書きになっていたが、神様や目に見えない幽霊(目には見えない霊的な存在)などをまったく信じないゴリゴリの唯物論者の人にしてみれば、「何言ってやんでえ」と思うかもしれないし、唯物論の思考にとらわれながらも、そうした目には見えない神様や幽霊の存在をとりあえず信じている私のような人間からしても、「救世の大光明」はちょっと大袈裟過ぎる表現なんじゃないかな、と最初は思っていたが、こうした体験談を読むと、なるほどな、と納得する話だった。

それが、塚本さんや山本さんの体験談を読んだ時の感想だった。

まあ、(過去世の因縁により)あくまでも目には見えない神様や幽霊を妄想だ、デタラメだ、と絶対に認めないで否定ばかりする人達には、なかなかわからないことだとは思うけどね。

生まれつき、こうした霊感(波動を関知する能力なども含む)があるのもないのも、やはり、守護の神霊様のご判断で、その人その人の輪廻転生のいくつもの人生を通した魂の成長に、過去世の因縁も踏まえて(=睨み合わせて)必要とあれば授けられ、そうでない場合は、授けられていない、ということになるのだろう。

あるいは、その人によっては、時期によって霊感を授けられるべきという時期になったら、後天的に霊感が授けられることになるのだろう。

私は、霊感がほとんどなく、霊的な経験も数えるほどしかないので、こうした光を見たくても見ることはできない。

日頃の想いと行いもよくないし、まあ、仕方ないな。

ただ、逆に言えることは、生まれつきこうした霊感などの素養のある人は、それを自らの人格の向上のため、世のため、人のために使う、すなわち、神様のみ心に適う生き方をしなければならないという、神様から大変な期待をかけられている人であるとも言えることになる。

霊感がない形に生まれつく人が大多数であることに鑑みると、「過去世の因縁も踏まえて、わざわざ霊感があるように生まれつく」ということは、それを活かす形で
「良い生き方をしなさい」
と神様が言われていることと同義だと考えられるからだ。

だから、こうした人達は、その生得的な才能(?)を、
「自らの勝手な唯物論的な価値観にもとづいた私利私欲のために使ったり、他人を損なうために使うことは本来的に許されない」
という、厳しい枷(かせ)をはめられた人達と言うこともできる。

つまり、こうした人達は、特別な能力を授けられている(=いわば、ある種の特権を与えられている)分、霊能力のない私達のような一般人にも増して、神様のみ心に沿って、さらに
「気高く、清廉に生きなければならない人達」
ということになるのだ。

「あなたは特別に生まれついたのだから、その力を正しく活かすように、生きていきなさい」と。

私が悪い予言や予見をする人達に、厳しく批判的なことを書いてきたのは、こうした意味合いもあるんですよ。(*3)

だから、生まれつき霊感の授けられた人達の中には、地味で目立たなくても、神様のご用に役立たせて頂くと意識して、身の引き締まる思いで、立派に生きている人もいるだろう。

もちろん、こうした人ならば、世の人々に不安や恐怖といった悪いを抱かせ、惑わせて、煽動し、世の中を乱し、世を悪くするといった愚かしい真似をすることもないだろう。

ということで、私達は、霊感があってもなくても、それぞれの置かれた立場で、できる限り、神様のみ心に沿って生きていくべきだ、ということになるだろう。

まあ、元々、こうした霊感がない人でも、難行道で悟りを開き、六神通のような超能力を獲得した人(現代ではまず無理だと思うけど)には見えるのだろうが、ただ、好奇心だけで、こうした霊感や霊能力を獲得しようとするのは、好ましくない、否、適切ではないとも言える。

生まれつき霊感や霊能力のない人は、霊感や霊能力がない人なりに、ただただ、純粋に人格の向上だけを目指して生きていけばいい。

何らかの形で霊感が授けられることになれば(その人の過去世の因縁も踏まえて、輪廻転生を通した魂の成長に必要と判断して神様が授けたことになるから)、それはそれで、神様のみ心に照らし合わせながら、できるだけ良い生き方をするようにしていけばいい。(*4)

そういう結論になりますね。

ちょっと厳しい言い方になりますが、霊能力(サイキック能力)は、興味本意や行き当たりばったりで、恣意的に求めるのは、神様のみ心に照らし合わせて考えれば、相応しくないと言えることになります。

そういう霊能力を活かして、人々を導く立場になる人は、守護の神霊様が、いやが上にもそうなるようにお導きになる、と考えられるからですよ(ただし、霊能力が得られたり、それなりの指導的立場についたからといって、決して私利私欲やエゴに走ることのないように、余計に厳しく自らを戒めていかなければならない(=身を引き締めるようにして、気高く、清廉に生きていかなければならない。逆に言えば、こうした常人にはない霊感や霊能力に悩んだり、苦しんだりしている人ならば、ひたすら、世界平和の祈りをして、守護の神霊様に自分が良き霊的な指導者の下に導かれるように祈り続けるしかない。その人の(かなり悪い)過去世の因縁によっては、すぐに正しい霊的な指導者に行き着かず、誤った指導者行き着いたり、誤った宗教に入らざるを得ないこともあるかもしれない。それでも、ひたすらなる世界平和の祈りと守護の神霊様に対する、たゆみなき感謝行の継続により、自らの神性に照らし合わせて(=神様のみ心に照らし合わせて)判断していくしかない)ことになる)。

だから、何事に当たっても、常に、常に、常に、世界平和の祈り(や南無阿弥陀仏)の祈り(唱名)一念で、想いをリセットするつもりで、始めることが望ましいと言えるでしょうね。

~~~~~

(*3)本来なら批判を書きたくなかったし、批判をすべきではなかった(=神様のみ心に適わない真善美と愛に悖る想いと行いだから)のだが、あまりにも世の中に不安と恐怖を煽る情報を発信する人が多いように感じたので書いた( 2023 年 ( 195_信仰について - おぶなより2 ) や ( 196_一択 ー 世界平和の祈り ー - おぶなより2 ) や ( 208_予言について - おぶなより2  )  や ( 210_万教帰一 - おぶなより2 ) など。また、古く( 2022 年 )は ( 138_一択 ー 易行道 ー - おぶなより2 ) や ( 159_一択 - おぶなより2 ) など)。

私のブログは影響力が皆無な(=まったくの力不足で読まれることがない)ためか、こうした人達には悪い予言や予見をすることの弊害をいくら必死に訴えても、気持ちは全然届かなかったようだ。

霊能者だ、宇宙人だ、未来人だ、異星人(過去世が火星人)だ、漫画だ、胎内記憶だ、・・・と本当にどうしようもない。

世界平和の祈りの一つもせずにこんなことばかりやっている(この人達は、おそらく世界平和の祈りをしていないだろう)。

何とも言いようがないね。

2024 年の年頭に、あれだけの大災害があったのに、著しい不安と恐怖を煽る情報発信をする(=不安騒擾の土壌を安易に醸成する)人がいまだに後を絶たず、後から後から、次から次へとわいて出てくるのが現状だから( この (*3) は 2024 年に追記した。従来、(*3) としていたものは、(*4) として移動させた。ご了承下さい) 。

(*3)の追記
なんとも言いようがないと書いたが、強いて言わせてもらえば。

こうした(現段階での)唯物論の科学の範疇を超えた飛び道具さえ使えば、簡単に人を信用させる、操作できると思ったら大間違いだよ。

世の中には、性格がねじれてしまい、まずは裏読みから始める、俺みたいなひねくれ者もいるんだからね。

唯物論でつまびらかにできないからと、神秘的?だからと、なぜ、彼ら(彼女ら)の発言を鵜呑みにすることができるの?

彼ら(彼女ら)の話が 100 % 真実だ(=現実化する)という確証が一体どこにあるの?

宇宙人、未来人、地底人、・・・何ですか、これは?

もしもこれらが万が一、宇宙人や未来人や、地底人や、果ては神様や高次元の存在を名乗る者の言葉が、その実、(例えば狐憑きの狐ような)迷った妄念がかかったお告げ(=騙り)だったり、はたまた、何らかの意図を持って故意に創作された話だったりしたらどうするのですか?

あるいは、神様や宇宙から見せられたビジョン?が、こうした妄念のような存在が憑依した仕業ではないという保証が一体どこにあるんですか?

だから、こうした予見や予言をするには、その信用を裏付ける要件として、高潔な人格者であることが必須の要件になるんですよ。

そこそこいい人や、ちょっといい人レベルではないではない、高潔な人格者であり、求道者であることが。

求道者として完全無欠ではなかったとしても、徹頭徹尾、真善美と愛に悖らない神様一筋を貫く人であることが。

例えば、エドガー・ケイシー

彼はたくさんの恐ろしい予言を外しているし、日本人に対する明らかな侮蔑表現を使っている。

予言、それも世の人々にかなりの不安と恐怖を抱(いだ)かせる悪質な予言を外すような人に、それでもなお全幅の信頼が置けますか?

真善美と愛に悖らない神様が、あんなひどい差別用語、侮蔑用語を使いますか?

悪い予言や予見が外れれば、結果オーライで、それまでにどんなことをしたとしても問題はないの?

ああした世の人々を不安と恐怖に陥れる行為は、神様のみ心に適わない行為に他ならないのではありませんか?

悪い予言や予見を外しても、精神世界を説く、おそらくほとんどすべての人が、ご自身が悪い予見や予言をしたことを忘れ果てて、知らぬ顔の半兵衛なのではありませんか?

責めたくないけど、人として、ましてや、本来、人格者を目指さなければならないはずの精神世界を説く人が、こんなあり方でいいんですか?

さらに言えば。

悪い予見や予言が当たったって偉くも何ともない。

本当に目指すべきは、本当に望むべきは、調和の取れた安寧な世界。

もしも万が一、悪いものが実現するのであれば、それを何とかして食い止める、食い止めることができなければ、被害を最小限度にすべきではないの?

やるべきことは、こっちですよ。

ましてや、唯物論では、力の差がありすぎて、どうにもならない相手や、本来の天変地異のような事象は、祈り以外に対処のしようがない。

と、思わざるを得ないんですよ、いつも。

そりゃあ、人のために尽くし(=人のために慈愛を施し)、謙虚で申し分のない人格者、もっと言えば、悟りを開いて六神通や漏尽通を獲得していて、その力を余すところなく発揮できる人ならば、予言をするとすれば、よくよくの事情と考えがあって、あえてすることだから、信用するに足りるだろう。

しかし、こうした人が果たして今の世の中に存在するものなのか?
そして、無事に表舞台に立ち続けることができるのか?
さらには、こうした人がいたとして、周囲に身のまわりの安全を脅かされる近しい人は皆無なのか?

つまり、天涯孤独で、何者にも侵すことのできない絶対的な力を持つ覚者はいるのか?

まことに失礼ながら、こうした厳しい条件を満たした人は、今の世の中にはいないと思うよ。

現代は、お釈迦さんが真理を説いて、たくさんの人々を導いた(ある意味単純な)古の時代とは、時代状況(環境)がまったく異なるからだ。

だから、もしこうした覚者がいるとすれば、社会との利害関係を極限まで断ち切って、仙人のようにして、山奥に暮らしていると考えられるんですよ。

よって、それ以外の人で、多少の霊感があったりして、仮に未来のよくないものが見えたり、感じられたとしても、まずは、最低限の警告として、それなりの備えを知らせる以外は、世の人々の不安と恐怖を煽るのは、すぐにでもやめて、今からでも世界平和の祈りをできる限りしてほしいのですよ。

動機のいかんは別にしても、大変だ、大変だと騒ぎ立て、世の人々の恐怖や不安を煽ることが、こうした災難を防ぐために果たして何の効果があるのかと、改めて問いたいですね(逆効果になることは以前から散々述べてきた通り)。

なお、ついでだから予言について付け足しておく。

古くは人類の 3 分の何とかとか、最近では魂の選別がどうとかあるが、私にはこれは脅しになるとしか思えないのだ。

警告と言えば聞こえがいいが、実質は脅しに他ならない、結果的には脅し以外の何物でもない、と。

脅しだよ、脅し。

(悟りを開くことができない)一般的な私達の想いを不安と恐怖で揺さぶる、「悪質な脅し」そのもの。

なぜならば。

私達ほとんどすべての人は、人間とは動物のように五感に感じることのできる、肉体人間こそが本当の人間、真実の人間だと思っているからだ。

本当の人間、真実の人間とは、この肉体人間を有機的生命体として成り立たせて、生かしている、神様の光の一筋、一筋の分かれ、神様の分けられたお命という光明体、霊なる人間=分霊(わけみたま)こそが、本当の人間、真実の人間とはわからないからだ。

そんな肉体人間観を持つ者にとって、この肉体人間としての命を失うことは、恐怖以外の何物でもない。

よほどのこと(説明略)がない限り、この肉体人間として死ぬことは、恐怖でしかないのである。

つまり、通常は、誰だって死にたくないのだ。

自分だけが(肉体人間として)助かるという保証が一体どこにある?

いくらこうすれば大丈夫なんて言われても、そんなことは、漏尽通を駆使できる、本当の高潔な人格者が言わなければ、信用できない。

つまり、(肉体人間として)助かるかどうかなんて、(実質的には)神様にしかわかりゃしないんだ。

すなわち、肉体界(現界=この世)を卒業して、幽界(=あの世)以降の段階に進む正しい時期(=肉体人間の天寿)を知っているのは、神様しかいないのである(一部、霊感などによりこうしたことが読めた場合でも、特別の場合を除き、原則として当人にこうしたことを告げてはならない。こうしたことを言ってしまうと、言われた当人は、(肉体人間として)死ぬまで、恐怖に怯え、苦しむことになってしまうからだ)。

悪い未来をちらつかせて警告をするというのは、こうしなければ、肉体人間としての生命を脅かされるぞ、肉体人間として死んでも構わないのか、酷い目に遭っても構わないのか、と言っているようなものだ。

つまり、あくまでも、肉体人間観を基準にして物を言っているんだ。

しかし、本当の宗教心、神様を本当に信頼する立場から言えば、肉体人間としての病気・争い・貧乏・苦労と生死を越えて、輪廻転生を通して魂が立派になることが大事(五井先生の言う本心の開発)であり、何があっても不安・動揺しない、神様は私達にためになることしかなさらない、と信じ切れる心構えが持てるようになること(=全託)が、究極の目指すべき形のはずだ。

もちろん、肉体人間としては、本来は神様(神体)の映し身となるべきものであるから、不幸や災難がないのが理想ではあるが、こうした唯物論的な肉体の生死や苦痛を盾にとり、脅すようなあり方は、やはり、(神様の世界や悟りを開いた人の視点からすれば)般若心経にいうところの顚倒夢想したものの見方をしているとしか思えないのである。

これと言った絶対的な対策というか、処方箋も示すことができないのに、肉体人間観に訴えて、見る人、読む人を不安に陥らせて、恐怖を抱かせる。

だから、私は思うのだ。

上記のようなことを堂々と公言するのは、一体どういうつもりなのか、と。

仮に、こうした可能性があったとしても、公言はせずにできる限りの対策を講じるために尽力するのが、神様から特別な能力を授かって精神世界を説く者の努めではないのか。

このような脅しを公言するのは、本当に理解に苦しむよ。

(*4)逆に、この人にはもう霊感や霊能力がなくても立派に生きていけるという場合や、あるいは、霊感や霊能力があることで却って正しい生き方をしていない、矯正の見込みがないような場合には、守護の神霊様がそのご判断で霊感や霊能力を取り上げてしまうこともあるかもしれない。

だから、生まれついた境遇や、持って生まれた能力というものは、その人その人の過去世の因縁も踏まえて、神様がそれなりに(今生での)意味があるものとしてお与え下さったのだから、それを神様のみ心に沿って正しく活かして、この世での人格の向上を含めた、霊魂魄の修養という修行をしていくための大切な要素として、決しておろそかにしてはならない、ということになる。

原則として、私達が元々そなわった肉体を傷つけたり、やたらに粗末にしてはならないのは、こうした理由によると考えられるのだ。

だから、裕福な家に生まれついた人は、世の経済で苦しんでいる人に鑑みて、無理に窮乏生活をしたり、無理に出家する必要もないし、無理に修行に明け暮れる必要はないことになる。

あくまでも、その人その人の置かれた立場はそれなりに生かしつつ、世のため、人のためになるような想いと行いをするように、神様のみ心に沿って、よく考えを巡らせ、工夫をしながら、生きていけばいいことになる。

無理をすれば道理が引っ込むではないが、あくまでも無理をしない範囲で寄付などもすればいい(私利私欲に走るのはもちろん論外である)。

そうした、乱れない安定した最適な判断をするためにも、やはり、平素からの世界平和の祈り(または南無阿弥陀仏の唱名)は必要だと思うのである。

(追記1) ( 2023 年 06 月 26 日)
私達の本質は神様の分けられたお命である分霊(わけみたま)=霊魂魄であるから、悟りを開いた状態、すなわち、過去世の因縁、特に誤った因縁がなく、澄みきった魂の状態であるならば、本質が神様そのものである以上は、潜在的には誰にでも霊能力があり、神通力があるということになる。

つまり、過去世の因縁を度外視すれば、私達には誰にでも、霊能力と神通力という潜在能力あるということ。

ただし、この世に生を受ける私達は、特別な人を除いて、何かしらのこの世で果たすべき(=清算されなければならない)、過去世の誤った想いにもとづく因縁を持っているから、つまり、魂が浄まりきっていないから、この点からしても、霊能力がないほうが、一般的と言える。

ましてや六神通のような神通力を持つ人に至っては、悟りを開いたような人しかいない、つまり、現代ではほぼいないと言えるだろう。

このように、この地球上で、悟りを開いている人はほぼいないと思われるので、逆にその大半の人のうちのごく限られた人達が、それなりに霊能力を授けられていることになるのだろう。

(追記2) ( 2024 年 04 月 )
この文章をお読みになられた方には、途中から内容が表題に示したもの(=世界平和の祈りの功徳)から脱線してしまい、世の中にある人々の不安や恐怖を煽る、悪い予見や予言をする多くの人達に対する批判的な内容が増えてしまったことをお詫び申し上げます。

もちろん、冒頭の部分には、世界平和の祈りの功徳というか効果については書いたのですが、予見や予言について書き足していたらこのようになってしまいました。

もっと煮詰めて、内容を限るか、別に扱うべきだったのかもしれませんが、勝手ながら都合により、このままとさせて頂きます。

ご了承願います。

(追記3) ( 2024 年 04 月 )
・功徳~くどく~仏教語~①現在または将来に良い果報をもたらすような良い行い。
また、善行の結果として、報いられる果報。
(用例)功徳を施す。
②神仏が人間に与える恵み。ご利益(ごりやく)。

・果報~かほう~①(仏教語)前世での行いによって受ける現世での報い。
②幸せ。幸運。
(用例)果報者。

・果報は寝て待て~かほうはねてまて~幸運は人の力ではどうにもならないものだから、、焦らずに時期が来るのを待つしかない。

・ご利益~ごりやく~神仏の恵み。ご利生(ごりしょう)。
(用例)ご利益がある。