096_消去法

これまで書いてきた内容の一部を補足する。

もちろん、重複する話になる。

ただし、きわめて大雑把だ。

大雑把過ぎるほどに大雑把。

わかりにくい言い回しではあるが、お許し頂きたい。

もうすでにとっくの昔に詰んでいる。

おそらく、それが特にきわめられてきたのは、ここ数十年の間。

真綿で首を締めるかのように。

固有に認められているさまざまな緩い規制。

盾となるはずの規制の撤廃。

その他もろもろのどれ一つをとってみても、とっくの昔に詰んでいる。

批判や非難などで何とかなるならば、少なくともいくつかは、とっくによくなっているはず。

それにもかかわらず・・・。

あれはかりそめ。

やり方によっては、見事なまでに中央集権化できる。

もちろん、ないよりはあった方がはるかにありがたいし、確かに恩恵は間違いなくあるのだが、狡猾なやり方によっては、見事なまでに形骸化されてしまうことがある、という話。

生活基盤や生活水準の着実な改善は、地味ながらも、市井の人々の物事に対するひたむきで真摯に取り組んできた姿勢によりもたらされた、恩恵であり賜物。

つまり、決して声高ではない、市井の寡黙な人々の、穏やかさ、忍耐強さ、人柄の良さ、つまり、霊性の高さこそが要因。

どんなに締め付けられても、本当によく耐えてきている。

そして、これに応えようとする政策が、それなりにはあったから。

しかし・・・。

もしも、この世の有り様が、すべて私達の過去世からの因縁因果の反映された結果としてのものが、大半であるとするならば。

神様がおつくりになられた、因縁因果の法則が、まったくの不公平がなく、すべての人々に、輪廻転生を通して公正に、そして平等に作用するものとするならば。

ならば、なすべき最善のことは、派手さはなく、地味でも何でも、社会を構成する各人の因縁因果を地道に改善していくより他にない。

その集積が、この世の流れになるのだから。

従って、それ以外にやりようがない。

飛び道具なんかないはず。

非常に残念なことながら、お釈迦さんが、仮に今現代のこの世に生きていたとしても、元祖魔人ブウのような天涯孤独さ(=同時に身の回りに安全を脅かされる関係者が一人もいない)と、絶対不可侵の力を持ち、なおかつ、不死身な身体を確保しなければ、世の人々を導く(ことや世直しをする)のは、どう考えても不可能(としか思えない)。

いくら、お釈迦さんが神通力のあるすごい人だったとしても、ここまで突き抜けていなければ、あらゆる面で、おそらく結果的に実効力を持ち得ない。

さらには、お釈迦さんとともに、人々を導く周囲の人々がいるとするならば、そして、感化される人々がいるならば、それらの人々の身の安全も絶対に脅かされないほどの力がなければ、実効力を持ち得ない。

だから、どんなに優秀でも、たぐいまれな能力者でも、たった一人の肉体人間を中心に世の中を良くしていく、あるいはみんなで協力し合って世の中を良くしていく(=世直しをする)ことができるほどもはや単純な話ではないということ。

限られた善意の集積で世の中をどうこうするなど、所詮、建前で取り繕われた夢物語としか思えない。

そんな状況なので、強いて言えば、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行が、(善なる)意図的に因縁因果の改善の可能性を残す分、非常に微力ながら、言葉は悪いが飛び道具にあたる。

だから、私は、個人的に因縁因果を悪化させるものでしかないと思われる、美辞麗句で固めて綺麗事を装った、大義名分を盾(または隠れ蓑)にしているところの、巷の攻撃的な言説が大嫌いだ。

罵詈雑言、悪口雑言はその典型。

ディベートも大嫌い。

言いっぱなし、書きっぱなし、で済むのなら、それでいいのかもしれない。

しかし、肉体(を含めて)人間の抱いた想いとその行いが、輪廻転生を通して、因縁因果として巡る以上、言いっぱなし、書きっぱなし、のやりっ放しでは済まないと考えられるのである。

私達肉体人間が、神様のお命を本質としている以上は、その羽目を外したら、どんなに時間をかけてでも(=何世かけてでも、または、地獄の滞在期間が長くなって何百年、何千年、あるいは何万年かけてでも)、矯正を余儀なくされる。

万が一、そうした神様のご愛情にもとづく矯正がなくなる場合があるとすれば、神様が私達のあまりのいたらなさに、私達を見放して、地上天国化をお取り止めになるか、これまでのすべての過程をご破算(=リセット)するとお考えになる場合のみ、ではないだろうか。

方法としての唯物論では、因縁因果に悪影響を及ぼす業想念を生じさせるばかりで、仮に多少の改善はあった場合でも、それを相殺して余りある業想念を生じさせて、因縁因果に悪影響を及ぼすことの可能性の方が遥かに高いと考えられる。

つまり、神様の公平さを信じる限り、あくまでも、各自の因縁因果の地道な改善をして、積み重ねていく以外にやりようがない、と考えられる訳です。

世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をおすすめしてきたのは、こうした理由によるんです。

表題を仮に消去法としましたが、これは唯物論のやり方が、結果的にダメダメになるから、これにしか行き着かない、という意味合いです。

しかし、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行は、上記のように考えてくると、本来法とでも呼ぶべきものと言えます。

表題を「消去法、もとい、本来法」としようとも思いましたが、冗長になると考え、消去法としました。