202_仏教異説(八正道・説話・縁起)

( おぶなより ) の ( 723_ひしみー144 - おぶなより ) や ( 724_ひしみー145 - おぶなより ) などで言いたかったことを、より砕けた形でまとめておく。

お釈迦さんが、今から約 2500 年前の昔に、古代インドに新たに興した当時としては新興宗教となる仏教の教えの伝道におもむくまでの過程と、その当時の古代インドの宗教観というか、神様観についての話だ。

あまり、この話ばかりにこだわっていると先に進めなくなってしまうので、より砕けた内容を、この ( おぶなより2 ) に記す(あまり代わり映えしないかもしれないが)。

仏教の通説と思われる内容に対する否定的な解釈のようになってしまうので、心苦しい(だから、しばらくの間、 ( おぶなより ) を更新しなかった。それまで何やかんやと回り道をしながら、これをハッキリと書くことを躊躇していた状態だったから)のだが、気づいた以上は、単なるズブの素人の思いつきであっても、とりあえずは記しておこうと思ったのでね(実は、次項に含まれる中道についてもいろいろと文句がある( ( 569_仏言葉ー100 の補足 - おぶなより )に既述)ので、適当に素通りさせようか、どうしようか、迷っている)。

私が感じたのは、お釈迦さん在世当時のインドの常識、すなわち、悟りを開いた人の身の処し方、つまり、当時の神様観や宗教観に疑対する疑問である。

当時でも悟りを開くには大変な修行が必要で、並大抵のことでは悟りを開くことはできなかったようだ。

現にお釈迦さんのような、過去世で大変な修行を積んできたはずの、当時の新興宗教、すなわち、仏教という教えの開祖となった人でさえも、約 6 年もの歳月を要している。

しかし、いくら悟りを開くのが大変だとしても、悟りを開いたら、即、涅槃に入る、入滅する、というこの身の処し方というのは、肉体人間の本質的なあり方として、ましてや悟りを開いた肉体人間のあり方としては、はなはだ疑問が残るのだ。(*)

悟りを開くとは、簡単に言えば、この世の迷いから解き放たれて、ありとあらゆる物事の真理を悟ること、きわめることだ。

ならば、当然に私達肉体人間とは何か、世界とは何か、いや、そもそも、私達肉体人間を生かしている大自然などの恵みを提供してくれている地球(今まで一般的な科学常識とされてきたものが、必ずしも正しいとは限らない。地球だけでもわからないことがたくさんある。ましてや、地球の衛星の月、そして、他の太陽系の惑星をはじめとした宇宙について一般的に公表されている内容は疑問があり、私達には本当のことを知らされているとは思えない)とは何か、そして、この地球という惑星を含めた太陽系とは何か、さらにはこの太陽系を含んだ天の川銀河とは何か、果ては天の川銀河をはじめとするこの大宇宙とは何か、という内容になるはずだ(現代風に言うならば)。

一般的な仏教では、創造主としての神様は認めていないように見える(中村元さんの「原始仏典」(ちくま学芸文庫)では 2 通り書かれていて、どちらが本当なのか確定した形で書かれていない)。

それにもかかわらず、お釈迦さんが悟りを開いてから、その教えの伝道にいたる過程で、教えに立つことを渋るお釈迦さんを三顧の礼よろしく説得にあたる、世界を創造した神様として、梵天様を登場させている。

しかも、後々には、お釈迦さんは霊魂について無記として答えず、あたかも、神様や霊的な存在を否定するかのような話になっている。

もう、これだけでも、話が入り組んでいるし、矛盾していますよ。

まあ、時代を問わず、洋の東西を問わず、日本の神仏習合に近い現象(?)はあり、その名残というか、影響があらわれている(梵天様が全世界を創造した神様として登場してくるのもその一つ。つまり、旧来からあった土着の神様が次々に融合(?)されてからめとられるようにして、より新しい大きな宗教の神様として位置づけられ、再定義される)のかもしれないが。

話を戻すと。

そもそも、世の中を含めたありとあらゆる物事の真理を悟る、きわめるということは、当然のこととして、肉体人間とは何か、肉体人間とはいかなる存在か、が深く理解できたという内容が含まれている、ということになります。

悟りを開いて、入滅する、涅槃に入る、ということは、言い換えれば、自分さえ悟りを開けば、他の肉体人間は無関係であり、どうなろうと構わないのであり、「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでいる、ということに他なりません。

これはすなわち、たとえ世の中の人々が病争貧苦にあえいでいようとも、われ関せずで、「知ったこっちゃねえよ」ということですよね?

あの身の処し方、すなわち、悟りを開いたら、速やかに入滅する、涅槃に入るというのでは、結果的にこのようにとられても仕方がないことになりますよ。

ところで。

世の中を含めたありとあらゆるものは、一体どこから発して、出来上がっているのでしょうか?

縁起?

おかしいですよ、これ。

縁起は、あくまでも、物事の原因と結果という、両端だけはあらかじめあるものと、勝手に決めつけて、あとのありとあらゆる存在や出来事は、この関係性から生じると決めつける、きわめて曖昧模糊とした、いってみれば宙ぶらりんな論理展開にしか見えません。

じゃあ、そもそものその両端の始まり、中でも端緒となる「すべての元となるはじまり」は、一体、どのようにして生じてきたんですか?

これだけは規定値で、自然発生、当たり前にあるものとして、勝手にスルーして黙認ですか?

おかしいじゃありませんか。

例えば、
はっきりとした起点のある因縁と、その結果としての終着点としての因果の対応があるセットの場合と、
起点としての因縁も何もないんだ、ただ因縁因果を結びつける縁起が何となく生じてきて、因果という結果だけが存在する因縁因果の対応があるセットの場合の違いを、
どう説明するんです?

後者の因縁だけについても、なぜ原因としての因縁が生じるかの、その明確な違いを説明できないじゃないですか。

ただ、縁起があるから結果としての因果がある、それから逆算される形で因縁が決まるなんて、時系列を反転させるような理論展開の仕方は、おかしんじゃないですか?

原因と結果、すなわち、因縁と因果には、そもそも、順方向の時系列しかないんじゃないの?

つまり、因果という答えが最初に決まってから、縁起を介して無理矢理因縁を当てはめるなんて、そんな行き当たりばったりで、訳もわからず生じてくる縁起により、勝手に因縁が規定されて、因縁因果が完結するなんていう、こんな不自然で、おかしな話はない。

原因となる因縁がどこからともなく勝手に生じてきて、因果が導かれるようなものだったら、カオスとしか言いようがない。

仏教は、人としての正しい心の持ち方、正しい生活の仕方に指針を与え、この厳しい火宅のこの世に生きる私達の心の拠り所となる教えじゃないの?

それが、こんなカオスな因果と縁起ありきな因縁因果の世界だったら、そもそも、仏教を説く必要がありますか?

原因となる因縁なんか、神出鬼没の縁起に振り回され、いつ生じてくるのかわからないなら、これこれ、こうしたらよいとする、人としての生き方や心の持ち方についての教えすらも、説くこと自体の意義が揺らいでしまうのではありませんか?

創造主としての神様を認めないから、こんな変な話になるんですよ。

また、話を戻すと。

悟りを開いたら、速やかに入滅する、涅槃に入るというあり方から、その人間観を考えると、いまだ悟りにはほど遠い、病争貧苦にあえいでいる人達は、関係ないということですよね?

自分さえ悟りを開ければ、「ハイさよなら」。

それで「おしまい」。

このあり方には、世の中で苦しんでいる他者に対する愛情を感じることはできません。

「われ関せず」で言い方は悪いですが、きわめて自分本位、自分勝手で、愛深くない冷淡な思想だと感じます。

もしも、仮に仏教に創造主としての神様を認めるとすると、神様は絶対者です。

ありとあらゆるものを、創造して、命を与え、愛を施し、その万物を流転させる、絶対なる力を持つ存在のはずです。

そうなると、私達肉体人間も神様のお命を分け与えられたからこそ、生きている存在となります。

私達肉体人間が万物の霊長とされるのは、他の動物などとは異なり、神様のお命を直接に頂いている、神性(仏教なら仏性)をその本質に持っているからだ、ということになります。

そうすると、悟りを開いたということは、私達肉体人間自らが神様(仏様。以下、神仏として神様という名称にまとめて表記する)であることがわかる、その神様としての本質をあらわす、ということです。

神様は、真善美に悖らず、愛そのものの存在だとすれば、そのお命を分け与えられた私達肉体人間も、当然に愛深い存在であるはずです。

ましてや、悟りを開いてその本質をあらわしたのですから、自分以外に苦しんでいる人々がいれば、ほったらかしにはできないはずです。

たとえ、苦しんでいる人々を救うには困難をきわめても、救いきれない人々がたくさん残る結果になったとしても、少しでも救いに立つために、愛を施すために、おもむろに立ち上がる、お釈迦さんで言えば、その教えの伝道におもむくのは当然の帰結ということになります。

つまり、私達肉体人間が神様の本質を持つ万物の霊長ならば、これが当然の成り行きとなるはすだ、としか思えないのですよ。

佐々木閑さんは、お釈迦さんが教えに立ったから、仏教として宗教が自利から利他に変わったかのようにお書きになっていましたが、上記のように考えてくれば、仏教は元から利他の宗教となるはずです。

だから、

お釈迦さんが、世の中は迷っている人ばかりだから教えを施しても理解してもらえないから教えには立たない(何だか言い訳がましく聞こえる)とか、

梵天様の再三にわたる大げさな説得にほだされる形(これも偉い神様に説得されてしぶしぶという感じで言い訳がましく聞こえる)をとった、

とかの仏教の数々の逸話(エピソード)は、仏教に慈悲の思想を付け足すため、愛深い教えに再定義(変節?)し直すために、付け足された話のように思えるのですよ。

もっと言えば、小乗仏教に慈悲という愛深さを付け加え、大乗仏教との整合性を保つために、後世に付け加えられた神話だ、と。

ごく自然に考えてみて下さい。

神様を真善美に悖らない、愛深い存在だとするならば、肉体人間として悟りを開いたら、速やかに世の中の人々の救いに立つために、教えの伝道におもむくのが自然の成り行きのはずです。

否、そうならなければおかしい。

筋が通らない。

という訳で、私はお釈迦さん在世当時のインドの常識に疑問を抱いている、もっと言えば、あの身の処し方から考えられる、神様の本質に疑問を抱かざるを得ないんですよ。

(追記1)
佐々木閑さんは、お釈迦さんが梵天様の懇請を受け入れたことによって、仏教が自利、すなわち、自分のための宗教から、利他、すなわち、人々のための宗教に変貌したかのようにお書きになっていましたが、これを神様観に置き換えて考えれば、神様の本質が変化したと言っていることと同じですよ。

端的に言えば「宗教」とは、「神様」と「肉体人間」との関係を明らかにするものです。

しかも。

頭の中だけで、理屈だけでわかるのではなくて、私達肉体人間が、本当に神様の分けられたお命である、ということを真から体得すること、感得すること、すなわち、私達は神様の子供に他ならないのだから、神様の姿をこの肉体人間の想いと行いにあらわすことこそが、宗教を奉じる意義のはずです。

そのために、難行道や易行道などの行き方がある。

神様という存在を、認識して考察して論じ、行じることができるのは、神様の分けられたお命を直に授かることによって、神様の「知恵」と「創造力」を特別に与えられた私達肉体人間しか適任者がいないからです。

私達肉体人間以外の動物には、こんなことはできません。

想いとしてある程度神様を想うことができたとしても、これを肉体にまつわる五感を通して、きちんと表現して、行じる手段を持たないからです。

そうして、神様を考え、表現することのできる唯一の私達肉体人間の立場から、神様と私達肉体人間のかかわりを明らかにした上で、ありとあらゆる事柄を考えていく。

それが「宗教」なのではありませんか?

だから、自利から利他に変わるなどと言う、宗教のありようが変わるということは、神様と私達肉体人間の関係にも何らかの影響が出る、その双方、または、片方の本質が変わる、と考えざるを得ません。

しかし。

私達肉体人間と神様、中でも神様がその本質を変える?

そんなことないでしょうよ。

ありませんよ、そんなこと。

神様は、はじめっから変わらないはずです。

神様は、はじめっから、真善美に悖らず、愛そのものの存在。

はじめっから、慈愛深き存在。

そう考えると、仏教の神話(?)も、学者さんの解説も、何とか辻褄の合うような経緯を作り上げ、それを追跡(トレース)しながら、支援(フォロー)しているように感じてしまうんですよ。

ひろさちやさんのご本( ひろさちや著 「釈迦」(春秋社))を読む限り、お釈迦さん以前にも仏陀はいた(仏教と同時期にインドに発祥したジャイナ教の開祖のマハーヴィーラブッダあるいはジナと呼ばれていた)し、お釈迦さんがその悟りに至る古道を八正道とした、と書かれているから、後世の高僧や学者さんが、お釈迦さんただ一人その人だけが、従来の宗教を愛深い特別な教えとして発展させた、仏教という新たな新興宗教として興した素晴らしい宗教家だ、と言いたくて、あのような神話が出来上がったように、裏読み・邪推をしてしまうんですよ。

(追記2)
しかし、俺もお釈迦さんの生誕話をはじめとした数々の仏教の「神話」そして、「縁起」「中道」などをはじめとして、仏教の通説に楯突くようなことばかり書くことになるなんて、 ( おぶなより ) を始めた当初は思いもしなかった。

まあ、これも学の浅い素人の未熟者だから、しゃあないと思ってもらうしかないな。

こういっちゃあ、身も蓋もないが。

宗教の教学もお綺麗事の神話もどうでもいいのよ。

四諦、八正道、十二縁起。

いかにも、綺麗に飾り立ててあるように見える(?)けれど、あのような概念の分類と定義に、本当に意義があると思いますか?

( おぶなより ) に書いたが、八正道だけでも、わざわざあのように肉体人間の想い(と行い)を分けるのには、はなはだ疑問がある。 あのように、あたかも必須知識のように、個々を覚えたところで、どれだけの意義があるんですか? 私達肉体人間が、想いを抱き、行いに移すのは、ほとんどがほんの一瞬でなされるんですよ。

あの八正道を思い出して、いちいち吟味しながら想いを抱き、いちいち吟味しながら行いに移すなんてしていないはずです。

強いて、八正道を活かすとすれば、あの 8 つを何回も何回も、暗記をするように徹底的に頭に叩き込んで、想いと行いに当たって、無意識な形で咄嗟に適用することができるように、練習を繰り返すしかありませんね。

しかも、それらの判断のよりどころとなる「正しい」にしたって、突き詰めて行けば、結局は感覚的なもので、私達肉体人間に元からそなわっている神性(仏教なら仏性)によって判断している。

私達は想いを抱く前に、行いに移す前に、いちいち、「正しい」か否かなんか吟味していないのが普通のはずです。

このように考えてくると、八正道は、何か、普通の肉体人間の想いを抱き、行いをあらわすには、ずいぶん手間がかかっているし、きわめて不自然な教えに感じるんですけどね。

もしかしたら、後年に作られたであろう、こうした仏教の教学は、数秘術(?)に長けた人が、何らかの意図を持って、このように割りきった数の形にまとめ上げたのではないか?とさえ、邪推をしてしまうんですよ。

だから。

単細胞の私から言わせてもらえば、宗教の教学もお綺麗事の神話もどうでもいいんです。

もちろん、好きでやるなら仕方がないし、趣味の範囲で嗜むのは個人の自由だけど。

それよりも何よりも、一番大切なのは、最終的に私達肉体人間の想いと行いが、神様のみ心に適うようになること。

つまり、私達肉体人間が、その本質となる神性(仏性)を、その想いと行いに体現すること。

私達肉体人間が、神様(み仏)の子供としての本来の姿をこの世にあらわすこと。

過去世の悪い因縁のあらわれがあれば、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をすることによって、こうした悪い因縁のあらわれを必要最小限度に済ませて頂けるように、お浄めを頂くこと。

間違っても、世の中の人々の不安と恐怖を煽り立てることではない。

本当は、不安と恐怖を煽り立てる人達には、今すぐそうしたことはやめて、無限億万回の世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行をしてほしいところだが、残念なことに、こうした人達は、世界平和の祈りすら知らないようにしか見えないのが現状。

とにかく、一日も早く、一刻も早く、世界の平和が実現してくれれば。

人々の日々の想いと行いが神様のみこ心に適うように、近づいていていってくれれば。

大事なのは、世界の平和、世の中の安穏。

とにかく。

ただただ、ひたすらの世界平和の祈りをお願いしたい。

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(*)人間とは、宗教的に言うと、神様の分けられたお命そのもの、つまり、神様のお命そのものである霊魂魄、この魂魄となる肉体要素を有機的生命体として成り立たせている、霊なる人間こそが本当の人間となるが、ここでは、私達の五感に認識できる動物と同じように、この世に形をあらわしている者を、一体化している霊なる人間とは区別する意味合いで、肉体人間と記している。

動物の本質は、魂魄だから、動物に当てはめて言えば、五感に認識できる動物は、さしずめ、肉体動物となる。

普通は、動物と言うだけ。