198_信仰について3(介入)

前回 ( 197_信仰について2(はぐれ者) - おぶなより2 ) の続き。

以下は、全部仮定の話なので、間違いが多々あるかもしれないし、話がとっ散らかっているかもしれないが、あらかじめご了承下さい。

前回、白光真宏会の宇宙子波動生命物理学の科学が、仮に波動を用いた科学を含む内容だとすると、例えば、これだけで病気治療をして、病気を治すことの可能な治療器機ができるか、あるいは何らかの治療法ができたとする。

では、もしもそのようにして、病気の治療法が確立され、治癒が可能になったとしても、じゃあ、そもそもその病気の元になった過去世の因縁はどうなるんだ、という問題が残る。

これについて、考えてみたい。

まあ、その前に、そもそも波動そのものについて。

素粒子までいくと話がややこし過ぎるし、俺には何が何だかサッパリわからないので、到底まともな話はできそうもない。

まあ、そういう訳なので、とりあえずは、まず、原子から。

原子核というあたかも惑星の周りをパチンコ玉みたいな電子が回っているといった形が原子だなんて、そんなアンバランスで荒唐無稽なことは、とても実感できないし、信じられないよ。

その目には見えない、果てしなく細かい原子が寄り集まって(折り重なって?)物体となり、この世の肉体なり、物質なりになっているなんて、わかりゃしない。

いくら、電子顕微鏡でみればわかるのかどうか知らないが、普通の人間の感覚では、到底、実感なんかできやしないんだから。

だから、素粒子のすり抜け現象なんて、ピンとこないし、わかりゃしない。

あくまでも、机上の空論のご高説を垂れているだけに思えてしまう。

まあ、仮に壁のすり抜けを考えると、人間ならその身体全体の波動、すなわち、周波数を変えるという空前絶後の特殊技を使うことで、壁という物質波動よりも、はるかに細かい波動に自分全体の体を変化させることで、その間をすり抜けられる、ということなんだろうな。

ましてや、すべてのものは、こうした原子とそれ以下の陽子、中性子、電子、素粒子によってできていて、固有の振動を持って動いている、つまり、波動という波の組み合わせだなんて、チンプンカンプンだよ。

まあ、とにかく。

ありとあらゆるものすべては、粒だという立場と、波であるとする波動だとする 2 つの立場があると思うが、とりあえず、ここではすべては原子や素粒子以下の細かい元となる最小単位=これがおそらく白光真宏会で宇宙子とされるものが、波を打ち、うねることを波動と名づけることにする。

私達がこうして、肉体人間として、この世に生きているのも、その大元は、神様の世界から発している、神霊波動だと考えられる。

肉体人間を動かしている、生かしている、命そのものが、神様の分け御霊である神霊波動のあらわれになっている、と。

その神霊波動そのままに、何の障りもなく、それぞれたくさんの階層がある霊界、幽界(想いの世界)、ときて、現界というこの世まできて、肉体人間となっていれば、真善美に悖らない、愛そのものの神様そのものをあらわした素晴らしい肉体人間となる。

まあ、さしずめ、悟りを開いた覚者がこれに近づいてきている肉体人間ということになるんだろうね。

その神霊波動がこの世に届くまでに、様々な妨げになるもの、いわば、障りが主として過去世の間に抱いてきた悪い想いという、真善美に悖る悪い波動ということになる。

だから、私達が悟りを開けない、ごく普通の人間として、もっと言えば、罪悪深重の凡夫として、眉目秀麗の美男や、容姿端麗の美女からある程度離れた容姿となり、病争貧苦の何かしらをかかえ、この世にあらわれているのは、神霊波動に、過去世の時点で抱いた真善美に悖る想いや愛に悖る想いという、神霊波動に対して障りとなる波動が、混合されている状態、混ぜ合わさっている状態、ということになる。

だから、過去世の因縁というのも、過去世の時点において抱いた想いの波が、神霊波動と混ぜ合わさる、あるいは、障りとなっているから、この世の肉体としては、病気のような形にあらわれると考えられる。

そこで、こうした混ぜ合わさった、病気の元になる波動を消失させる、あるいは、元の神霊波動の障りにならないように同質化させる、純化させる治療があると仮定すると。

そうすると、そうした波動治療を施された人は、病気が治って、元の神霊波動が肉体に映されて反映された形、すなわち、健康体になるはずである。

しかし。

そもそも、この世で病気になるのは、過去世における真善美や、神様の愛に悖る、何らかのよからぬ想い(=以下、これらの想いを誤った想いとする)が反映されて、この世にあらわれた形となっているはずた。

だから、病気を受け入れる、あるいは、受け入れざるを得ないという形で、病気を味わうことによって、はじめて因縁が解消されるようになっていくはずである。

つまり、言い方は悪くなり申し訳ないが、病気で苦しむという、この世での償いを通して、はじめて病気の元となった過去世における誤った想いに対する償いが果たされることになるはずである。

何が言いたいのかというと。

本来は、過去世における誤った想いという因縁と、この世でその誤った想いの報いとしてこの世にあらわれる因果の対応法則として、本来ならば受け入れなければならなかったはずの病気を、まるで横やりをいれるように、または、飛び道具を使うかのようにして、波動治療を用いて病気をなくしてしまってもいいものなのかどうか、という疑問が生じてくることになるのである。