103_祈り心5

とりあえず、これまで
( 097_祈り心 - おぶなより2 )、
( 098_祈り心2 - おぶなより2 )、
( 101_祈り心3 - おぶなより2 )、
( 102_祈り心4 - おぶなより2 )、
をざっとまとめて、締めとしたい。

まず、人様のやっていることで行き過ぎだなあ、と思えることがあったとしても、批判したり、非難したり、噛みついたりしないで、黙っていること。

そして、自らの乱れた気持ちを鎮めるために祈り、人様(相手方)の守護の神霊さんにも祈りを捧げること。

特に人様の身体的な特徴といった、当人の自尊心にもかかわる繊細な問題を含む内容については、批判や非難はもちろんのこと、侮蔑や嘲笑は絶対にしてはならない。

ましてや、自分の勝手な価値観を人様に押し付けて、その肉体を改造しろ、などとは間違っても言ってはならない(乳房縮小術の教唆(と言ってもいいだろう。きわめて悪質だから)などがその典型例。もちろん、ツイッターなどに書くのも同じ)。(*1)

人間は、男女ともに、女性の美しさに惹かれやすい。おそらく、神様が様々なお考えのもとにそのようにしたと考えられる。

そして、女性の乳房はすべての人の乳児期の原体験をも含めて、どうしても人目を惹きつけやすい。

乳房(巨乳でも、それ以外の乳房の場合でも)を過度に意識しないようにすることも難しいので、やはり、なるべく意識しないように心がけて、想いが乱れるようならば、祈りと感謝行にすがること。

そして、神様が人類を肉体人間の男女に分けて世代を引き継がせる有性生殖の形をお取りになった以上は、男性は女性にひかれ、女性は男性にひかれるのは必然。

そして、本来ならば、(神様の分霊を本質とする=神様のお命を頂いている神様の子供であるから)お互いに尊重し合い、協力し合い、奉仕し合って、家庭を築き、子孫を残して、次世代に引き継いでいくことが望まれているはず。

男性にしろ、女性にしろ、自らの正当化ばかりに血道を上げて、互いに文句を言い合い、批判し合っていても、双方ともに、批判の実効の実は上がらない。

なぜならば、批判しても、相手方がその想いと行いを改めることは、ほとんどないから。

逆に、想いと行いを乱して悪いものとした分だけ、その悪い想いと行いの業想念により、自らの(今生も含め)来世以降の運命を悪くすることにしかならない。

つまり、攻撃している悪想念による悪い気分の高揚感があるだけなのが関の山で、因縁因果からみると何一ついいことはない。

よって、過去世の因縁のあらわれとして出てくるものがあるから、仕方のない部分もあるが、とにかく、祈りと感謝行で、過去世の悪い因縁のこの世でのあらわれを少しでも減らし、今生以降に向けて、少しでも良い想いと行いを積んで、各自の運命を改善していくこと。

以上を、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をよりどころに、実践して頂ければ幸いに思う。

~~~~~

(*1) ( おぶなより ) でも触れたし、ここ ( おぶなより2 ) でも、 ( 011_気高い - おぶなより2 ) でおおよそのあらましを書いておいたので、よく読んで頂ければ、ご想像がつくとは思うのだが、傲慢や侮蔑や嘲笑(冷笑含む)やこれに準ずる行為を安易にやってしまうと、これを相殺するような形で清算する、すなわち、それがなかったことにするための償いとして、輪廻転生上は、大変に重い報いがくることになっている。

霊魂なんかあるか、輪廻転生なんか嘘っぱちだ、という人には、まず、何を言っても無駄となるが、一応、ここでも触れておく。

あえて言わせてもらうと、こうした人は、まだ、霊性や輪廻転生を理解する因縁の機が熟していないと言える。

だから、何を言っても、通用しない。

因縁の壁は、祈りと感謝行か、ご本人の償いによってしか、解消されることはないからだ。

ご本人が病気、諍(いさか)い、貧乏、様々な苦労などといった、いわゆる病災貧苦の過去世の悪い因縁を解消するための償い=魂の学習という大変な経験をすることによって、ようやっとのことで、霊性や輪廻転生に思いをいたすことになるものと思われる。(*1ー1)

それを、ほんのわずかでも早めるか、ほんのわずかでも軽く済ませてあげたければ、外部の者が祈りの光を投げかけるより他にない。

説教や説得は、(その説教や説得で過去世の因縁が解消されるという特別な例を除き)因縁の壁を破れない。

だから、ほとんどが無効となる。

過去世の悪い因縁の今生でのあらわれをほんの少しでも減らすこと、そして、また、今生から来世以降にかけてさらなる良い想いと行いの積み重ねをする意味でも、祈りと感謝行は意味がある。

なぜならば、祈りと感謝行がなければ、良い想いと行いは、良い想いと行いとして、悪い想いと行いは、悪い想いと行いとして、それぞれ世を隔てて、(守護の神霊さんが救済してくれるもの以外は)そのまま循環してしまうからだ。

繰り返すが、たかが言葉だろう、たかが仕草だろう、たかが笑いだろう、となめてかかっていると、その言葉や仕草や笑いの中に、他人を蔑み、嘲笑うような悪い想いが込められていた場合には、輪廻転生を通して、まったく想像だにしないような重い報いがくることになっている。(*1ー2)

もっと言えば、私達の想いが今生以降のすべての運命を決定づける以上、一挙手一投足をおろそかにしてはならないのである。

厳し過ぎるようでも、理屈の上ではこのように考えざるを得ない。

ゆえに、罵詈雑言や悪口雑言は、論外中の論外となってしまうのだ。

従って、発する想い(と行い)は良いものだけにして、もしも悪いも想い(と行い)を発してしまったら、世を隔てて受けるか、できれば祈りと感謝行で、ほんの少しでも受ける報いを軽減していくに越したことはない。

~~~~~

(*1ー1)そうしなければ、なかなか自らを生かしてくれるあらゆるもの、自然から、環境から、周囲の人から、何から何まで、もっと突き詰めれば、神様に対して謙虚になれていないと言える。

何事もなく、我が物顔に自由に振る舞えていると、どうしても、唯物論に影響されて、身の回りのものに対する感謝が薄れがちになる。

思い上がってしまうのだ。

俺の力だ、俺の実績だ、何でも俺の欲しいままにして、俺の思い通りにして、何の文句があるんだ、誰にも文句を言われる筋合いはない、といったように。

こうなってしまうと、不可抗力の病気などで、ペシャンコにされないと、なかなか、命のありがたさ、人の情けのありがたさ、自分を生かしてくれる周辺環境のありがたさに目が向かなくなってしまうことが多い。

そうなる前に気づいてほしいんだけどね。

そもそも私達は、お釈迦さんのような、ごく一部の限られた例外を除いて、ほとんどの人が過去世の因縁の解消をするために修行としてこの世に来ている(同時に地球さんの開発も担っている訳だけど)から、気づかない場合が大半だろう。

もしも、転輪聖王のような人が誕生するとすれば、過去世でよほど人様や社会に尽くして、この世に出てくるはずなので、こうした人なら霊格が高いから、謙虚に振る舞えると思うのだが。

(*1ー2) ( おぶなより ) でも、ここ ( おぶなより2 ) でも再三書いてきたが、エドガー・ケイシーについて書かれた、ジナ・サーミナラ著 「転生の秘密」 (たま出版) を読めば、この内容がわかる。

私は、あまりにも重い内容なので、皆さんに不安や恐れといった想いを抱かせるのを避けたくて(輪廻転生に大きく影響する可能性を持つから。今現在のこの世のあり方がたくさんの過去世の肉体人間としての生き方に影響されて作り上げられているように、肉体人間の来世以降には、今現在のこの世の想いと行いが影響を及ぼすから。過去世の因縁のこの世での時を経て消えてゆく姿(=過去世の因縁の清算されてゆく姿)ではないものが、来世以降に影響を及ぼすことになる)、できる限り、読まないでもわかってほしいと書いてきた。

ちなみに、私があれを読んだ時には、本当に大きな衝撃を受けた。まさか、人様を蔑む悪質な笑いとはいえ、たかが笑い一つだけで、あんなにも重い結果をもたらすことになるとは思わなかったからだ。

肉体人間としての、想いと行いは、ゆるがせにはできないものがあると、思い知らされた内容だった。

なので、やはり、あの本を読むことは、おすすめしたくない。

読まないでもわかってほしいのである。