食品に関するかなり気味の悪い内容の発信を見た。(*1)
いわゆる、昆虫食のことだ。
日本人は、真面目で探求心が強く研究熱心だから、他国が発祥であった料理でさえも、上手に昇華させることで素晴らしいものに仕上げる才能があるようだ。
だから、現代の日本は、いわばグルメ天国みたいになっている。
しかも、日本に元からある純粋な和食は、マクガバン報告にあるように、本当に身体にいい健康食でもあるのだ。
それなのに、何で今になってわざわざコオロギを摂取させようとするのか。
ただでさえ、日本の食品には農薬や添加物をはじめとして、様々な問題(省略する)があるというのに。
その上、何が悲しゅうてあれを食さなければならんの。
建前とは明らかに異質な、何かそれなりの特別な意図があるとしか思えない。
だから、前に書いたんだ。
とっくの昔に詰んでるって。
もう詰んでいるんだよ。
ずっと前から。
ゴリ押しが(形を変えても)やまなければ、そういうこと。
どんなに不安材料をあげつらおうが、批判しようが、非難しようが、何をしようが、結局は何にもできやしないし、変わりゃしないんだ。
がなろうが、何しようが、なるようにしかならない。
しかし、これに限らず、こんなのが本当に過去世の因縁の結果としてのこの世へのあらわれなのか、と思わされるひどいことを見せつけられるにつけ、神様不信にもならなくはないけれど・・・。
とにかく、背景となる理由の過去世の因縁がわからない以上、どうにもならないな。
しょうがないよ。
そんな訳で。
信じるとすれば、頼るのだとすれば、残るのは善なる神様しかいない。
善なる神様しかいないんだよ。
そうじゃなきゃ、神様は悪魔的な存在(悪意を持って人間が苦しむのを楽しむ存在である場合までをも含む)か、力不足の不完全な存在にしかならないんだから。
「善と悪の戦い」なんて相対的でしかない、対峙する、たかだか単なる片方の存在としてでしかない、と神様をとらえることは、神様は力不足で不完全な存在として、明確に否定的にとらえているのと同じこと。
だって、「戦い」なんて、勝つか負けるかわからないという表現の仕方をするのは、そう思わざるを得ないからですよ。
だから、善悪二元論は間違っているんだよ(そう思い込まないと救いがない、やりきれない)。
神様なんか絶対にいないんだ(そもそもこんなこを言うこと自体が本音では神様は善なる存在だと暗黙に仮定して望んでいることが読めてしまうんだけどね)、
どうせ、この世の中なんかどんなに悪が栄えようが、デタラメ、無茶苦茶がどんなに蔓延ろうが、カオスに過ぎないんだ、
自分(とごく近しい者)だけが、いい思いができれば、あとはどうなろうと知ったことか、
と言い、
神様にどうしても希望を見いだしたくないならしょうがないけどね(でも、どれだけ果てしない期間がかかっても、こうした人でさえ、いずれは守護の神霊さんが何らかの形でお導きになると思いますよ)。
善悪二元論は間違い(そう思い込まないと救いがない、やりきれない)。
仏教で言うところの善悪不二こそが正しい(と思い込んでいくしかない)。
世の中なんてどうせカオスだ、世の中なんてカオスのままでいいし、神様なんか信じられない、というなら、神様を悪意の存在や不十分で力不足な存在として解釈せざるを得ないのだから。
世の中がいいものになってほしい、世の中を少しでもいい方向に向かわせたい、というなら神様は善なる存在だと信じるしかないのだから。
原因となる過去世の因縁がわからず、神様不信になってもやむを得ない、ひどいことが多々ある世の中に思えても、自棄にならないのであれば、善なる神様を信じ続けるように努めていくしかないのだから。
大難を小難にして下さっているのかもしれないが、それにしても、あまりにも・・・ということがあるので、本当に背景となる過去世の因縁を知りたくなるんですよ。
唯物論の思考にもとらわれているので、妙好人の源左さんや宇右衛門さんみたいに、無条件に神様を信じきることができないからです。
それでも。
不安にさいなまれ、神様を信じられなくなっても、神様を信じたければ、善なるものと思い込んでいくしかない、そう自分に言い聞かせていくしかない。
これでもだめならあきらめるより仕方がない(と個人的に勝手に思っている)。
という訳で。
あなたがいい人なのはよくわかるが、不安になるようなことをきつい感じでとりあげるのはやめてくれ。(*2)
そうしたことをする暇があったら、祈りの一つでもしてくれ。
十年一日の如く、相も変わらず、不安材料の話が多いよね。
発想を切り替えることはできないのかな。
まあ・・・。
最終決戦も何もないよ。
そもそも、勝てっこなんかないんだから。
大体、戦いだの、せめぎあいだの言うのなら、何で海外であんな悲劇が起こるんですか。
おかしいじゃないですか。
あれは、負けなんじゃないんですか?
何言ってんのか、わかんないよ。
楽観的予想も外れてばっかで、不確かなものばっか。
いつもながら、良いにつけ、悪いにつけ、外した予想に対する何の言及もないのは、一体どういうことなんですかね?
何とも思っていないのでしょうか?
言いっぱなし?
本当にわからないですよ。
やっぱり、占星術は実践的とは言えないな。
万能(オールマイティー)には程遠いと感じざるを得ない。
占星術は、あくまでも、参考止まりに過ぎない。
おそらく、神様はこうした占星術などといった形で、私達に様々な人生の生き方の手がかり(ヒント)をお与えになっているのでしょうね。
ヒントはあくまでもヒント。
ヒント止まり。
占いは、あくまでも参考止まり。
どんな行動をとろうったって、所詮は唯物論の価値判断基準で、周章狼狽して、想いを乱すことは免れないんだ。
だから・・・。
結局は、神様のおはからいにすべてをお任せするしかないんだよ。
神様の善なることを信じる者としては、祈りにすがるより他はない。
今起きている、嫌なことや不幸や災難の原因となる過去世もわからない。
しかも、それでもやはりどうしても神様は善なる存在で、因縁因果の法則は万人(この世に輪廻転生を通してあらわれる霊魂魄)に公平に作用すると信じたければ、よい想いと行いをして、祈りをするより他はないのだから。
よって、どんなに不安や恐怖にさいなまれても、とにかく、想いを乱さないようにすること。
とてもじゃないけど妙好人の宇右衛門さんのような敬虔な信仰者にはなれないから、神様(阿弥陀如来様)を信じ切ることはできないけれど、神様を信じられなくなりながらも、何度も、何度も、何度でも、祈りによっておすがりしていくより他はない。
悪い言い方をすれば、悪魔的な存在を消えてゆく姿と見ることができない場合に、私達が不安や恐怖にさいなまれてしまうことは、まんまと向こうさんの思うつぼにはまってしまうことになる。(*3)
祈りでお浄めを頂くのとは異なり、想いを乱すことは、私達個人個人としても、その集積としての世の中の流れにとっても、百害あって一利なしだからだ。
私達の想いを騒擾のように撹乱して、右往左往させて、乱しに乱す。
不安と恐怖に突き落とす。
不安と恐怖によって不穏な土壌を作り上げ、怒りや裁きといった悪い想いを誘発させる。
こうして生じさせられた不安や恐怖や怒りなどは、すべて真善美に悖る想いと行いの業想念だ。
業想念に振り回されることは、善なる神様を信じる者としては、もっとも憂い、避けるべき事態。
操作されること以前に、まず、私達が想いを乱してしまうことそれ自体が、大問題なのですよ。
だから、不安と恐怖を煽るような内容は、なるべく遠ざけて、祈りによって、徹頭徹尾、排斥するように努め、とらわれないようにする。
最近は、あからさまにおかしなことが、あちこちでちらほらと起こされてくるので、肚を据えることは、きわめて難しい。
それでも。
とにかく、祈るしかないよ。
繰り返すけど、業想念を生じさせずに、輪廻転生を通した個人の運命と、この世をよくしていくのは、「よき想いと行い」と「祈り」しかないのだから。
(無理が生じない範囲で)人のために尽くし、愛を施す。
そして、世界平和の祈りをする。
これしかないな。
しかし・・・。
人間は神の子、完全円満、とは言っても、これは神体(あるいは神界からの光が何の障りもなく、霊界、幽界と貫いて、そっくりそのままこの世に完全に映されきった状態としての肉体)での話だ。
この世に肉体人間としてあらわれている私達は、ちっとも完全円満なんかじゃない。
完全円満には程遠いのが実状だ。
残念ながら、容姿も然り、性格というか人格も然り、健康も然り、生まれもった生活環境すべてが然り、だ。
つまり、私達は決して完全無欠な美男美女ではなく、すなわち、完璧とも言える眉目秀麗な男性と、同じく、完璧とも言える容姿端麗な女性ではなく、病争貧苦が何かしら必ずある、ということ。
それはなぜか。
肉体人間となり、自己保存の本能を与えられて、たくさんの生まれ変わり、死に変わり、すなわち、輪廻転生を繰り返すうちに、神様としてはふさわしくない真善美に悖る想いと行いという業想念を積み重ねてしまって、魂に汚れがついた形となり、この汚れを落とすために不完全な容姿となり、不完全な性格となり、不完全な健康となり、不完全な生まれもった生活環境となってしまうからだ。
魂の汚れを浄めて、立派なものに磨き上げるという修行のために、この世に生を受けることがほとんどになっているからだ。
ゆえに、教義の字面だけをとらえ、この世にあらわれている肉体人間そのままをつかまえて、人間は神の子、完全円満、病気はない、争いはない、貧乏はない、苦労はないなどと言うのは、大間違いなのである。
人間は神の子、完全円満、病気はない、争いはない、貧乏はない、苦労はない、などと心底感得して言えるのは、以下のような人しかいない。
すなわち、人間というものは、本来は肉体ではない、肉体を生かしている、動かしている命そのもの、(神様の)光明波動そのものだとわかっている、いわば、人間の本質がわかった悟りを開いたような人、例えば、お釈迦さんのような人しかいない、ということになってしまうのだ。
神界から流れてくる光がたくさんに分かれ、その一筋、一筋が肉体に宿って、肉体人間として生きている。
私達肉体人間は、この神様の分けられたお命によって生かされているからこそ、こうして生きることができている。
これが真からわかった人は、悟りを開いたような人しかいない、ということだ。
この世で、唯物論的な物事の見方にとらわれている私達とは異なり、人間とは、肉体を生かしている神様の命そのものだ、神霊なる人間こそが人間だと、真からわかっている人にとっては、病気も、争いも、貧乏も、苦労も、本来的にはないものであり、この世に肉体にまつわってあらわれているこのような病争貧苦があるとすれば、それは、過去世の因縁を解消(清算)するためにあらわれている、過去世の因縁のこの世での時間をかけて消えてゆく(=解消されてゆく)姿であり、霊なる人間には、本来的にはあるものではない、とわかっているからだ。
例えば、病気に関して言えば、人間が神様の分けられたお命である分霊そのものであるとすれば、病気という肉体へのあらわれは、分霊という光明体そのものではないのであり、分霊を本体としながらも、この世に肉体としてあらわれた中に、その分霊という霊魂魄自体の過去世において霊魂魄という魂についた汚れを浄める=因縁を解消させる=償うという形であらわれたものが病気ということになる。
つまり、病気になっている肉体人間そのものが、霊なる人間そのものではない、ということになるのである。
こうしたまどろっこしく、まわりくどく、わかりにくい内容を「病気はない」のたった一言で済ませて表現してしまうから、おそらく言っている本人も(?)何を言っているのかわからない、「病気はない」「争いはない」「貧乏はない」「苦労はない」のような形で無意識に連呼してしまっている(?)ように思われるのだ。
だから、悟りを開くこともできやしない、いわば、神体と肉体をごっちゃにしてとらえているような人が、人間は神の子、完全円満、病気はない、争いはない、貧乏はない、苦労はない、などと大上段に振りかざして言うのは、間違っているのである。
般若心経にある「色即是空」も同様にして考えることが可能だ(「空即是色」は違うよ。「色即是空」とは明確に意味合いが異なる。この 2 つを混同してしまう(=この 2 つが同義だと間違えて解釈している)から、ありとあらゆるものが、ナイナイナイの虚無という意味不明な訳のわからない解釈になってしまっている。詳しくは別途書いているので省略する)。
かく言う私も、たまたま、五井先生(日本の宗教家五井昌久さんのこと)の著作に巡り合うことができて、ある程度、本を読み込んだことがあるから、頭の中でこのように形式的に理解できただけであって、感得などできてはいない。
少なくとも、このように、頭の中で形式的に理解できた、というだけの話だ。
従って、お釈迦さんには、まったく及びもつかない、程遠い、程遠すぎる、私達のような一般的な人間が、人間は神の子、完全円満、病気はない、争いはない、貧乏はない、苦労はない、などと大上段に振りかざして言うのは、完全に間違っているということになるのである。
神様の分けられたお命、神様の生命エネルギー(?)を頂いて生きているという意味では、肉体人間の本質は神様であり、間違いなく神様の子供だと言えるけどね。
人間は平等だと言うのは、肉体人間の誰しもが、あくまでもこうした神様の分けられたお命として、神様の子供として、兄弟姉妹の関係にあるから、ということが元になっているからだと考えられる。
だから、過去世の因縁を反映するために、肉体人間としてのこの世へのあらわれの形は、多種多様に異なっていても、その肉体人間の中に、その奥に、神性という神様の分けられたお命を見いだし、それなりに敬意を払うべきだ、尊重すべきだ、ということになるのだ。
私達生粋の日本人が他人に対して敬意を払う顕在意識ではわからない本当の理由(=無意識にわかっている理由)は、こうした点にあると考えられるのだ(なぜ、わざわざ、「生粋の日本人」と表現したかの理由については、読まれた方のご想像にお任せする)。
別に、気が小さいんじゃない、臆病なんじゃない、世渡りの方便(テクニック?)なんじゃない(多少はこれらの側面もあるかもしれないが・・・)、私達生粋の日本人が他人を尊重する本当の根元的な理由は、
「相対する人の中に無意識に神様を見いだし、それを敬う」
ところから来ている、と考えられるのだ。
だから、ユーチューブなどを見ていると、日本を訪れた外国人の皆さんが、(たとえ形式的にしろ)私達生粋の日本人が、他人に敬意を払い尊重する姿勢、他人に尽くす姿勢に深く感心して称賛していることがよくある。
まあ、同胞の日本人同士ならともかく、相手の外国人さんが、とりあえず、何の利害関係もなく、危害を加えてくるような不穏な雰囲気をかもし出しているのでもない限りは、素直に人として対することにしよう、この人も言葉が通じないことをはじめとして何かとわからないことが多いだろうから、役に立ってあげよう、助けてあげよう、と素直に(=私達生粋の日本人が本来的に持っている地が出て)思うんじゃないのかな。
以上のようにみてくると。
これは、どうしても、
肉体人間に対するものの見方、
もっと深くは、
その肉体人間の本質である神様の分けられたお命に対するものの見方、
すなわち、
神様という存在に対するものの見方、
言い換えれば、
外国人さん達の宗教観と
私達生粋の日本人の宗教観との間に、
根本的な違いがあるためだ、
と感じざるを得ないのだ。
つまり、
外国人さん達と
私達生粋の日本人とを
比べて見てとることができる、
このような対人上での
払う敬意の違い、態度の違いは、
外国人さん達と
私達生粋の日本人の
自然にそなわった宗教観の違いに根差している、
と考えられるのだ。
すなわち、他人に対する態度の中に、
「神様をどの程度見出だして尊重するかというありよう」
を見ることで、
神様に対するものの見方=宗教観がわかる、
ということになるのである。
日本は、元の教え、神道の国であり、神の国であることの意味は、こうした点にこそあるのだ、ということがわかるのである。
肉体人間は、
神様の分けられたお命を、
分霊として頂いて生かされている存在だ
と理解した場合に、
ご託宣でもなく、
予言でもなく、
戒律などの厳しい締めつけでもない、
何気ない自然な振る舞いの中に、
他人を尊重するという形で、
他人にそなわる神様の分けられたお命を無意識に認識して、
自然に尊重する態度がそなわっている、
神様にもっとも近い民族が
生粋の日本人だと思われるのだ。
日本人がありとあらゆる宗教に、分かれて染まっているように見えるのも、神社、仏閣、礼拝堂などがたくさんあるのも、実は、目には見えない奥深くのとところで、神様を求める気持ち、拝む気持ちが、無意識にあるがゆえだ、と考えられるのだ。
神道的な形で。
一見、既存の宗教も、新興宗教(新宗教)も、雑多でまとまりがないように見えて、その意識の深層には、無意識的には、神道的なものが見て取れることになるのである。
神様を求めずにはいられない、という形で。
ゴリゴリのご利益信仰や宗教組織の拡大に狂奔してしまっている新興宗教(新宗教)や、おかしな間違った宗教も元はこうした気持ちが関係していると思われるのである。
マルクス主義でさえも、この変形と見ることが可能だ(ただし、根本的には神様を否定した唯物論だから完全に間違ってはいるけどね)。
何かしら正しい絶対的なもの=神様を求め、これに帰依せずにはいられない、という私達真面目な人が多い生粋の日本人に強くある神聖と思い込むものに対する帰依心の対象がマルクス主義という間違ったものになってしまっているということだ。
これが、この帰依心の対象が、マルクス主義という誤った思想になってしまっているのが、共産主義。
マルクス主義、共産主義の場合は、根本的に各人の神性(仏性)を否定しているから、独裁などといったいびつな形にならざるを得ないのである。
マルクス主義が唯一、まともになることができるとすれば、それは社会を構成する私達すべての個人個人が、悟りを開いた完璧な人格者である場合だけだ。
中央集権が行き過ぎて、汚職、腐敗などが行われないようにするためにこそ、官僚などの組織を構成する各構成員が、悟りを開いて完璧な人格者であることが必要だからだ。
でも、これはあり得ないよね。
だって、元から神様(神性、仏性)を否定しているのだから。
こんな形では、仮にどんなにまっすぐな人がいたとしても、周りに流され、押し潰され、排斥されてしまうのである。
だから、マルクス主義、共産主義は、ダメだ、ということになる。
もっとも、社会を構成する私達すべての個人個人が、悟りを開いた完璧な人格者になれば、いわば、神主主義になる訳だから、形式的に、自由主義をとろうが、資本主義をとろうが、共産主義をとろうが、社会主義をとろうが、どれでも問題は起きないことになるけどね。
以上は、あくまでも性善説を前提にした話になるが、非常に残念なことに、これらをすべて承知の上で悪用する、とてつもなく業の深い人間がいることも、また確かなのだ。
また、話がそれた。
しかし、だからといって、日本は偉い、神道は偉い、生粋の日本人は偉い、なんて威張るのは明らかに間違っている。
太田さん(太田龍さん。今は太田竜さんと表記するみたいだ。しかも、これらさえもペンネームで、本名ではないらしい)の本などを読んでいて、一部の外国人の人達が日本を狙っている、生粋の日本人を狙っている、云々というのも、なるほどな、と感じるところがある理由だ。
神様に対するこんな素晴らしい資質と特徴をそなえた日本、そして真面目な生粋の日本人は、彼らにとっては目障りで仕方がないだろうからだ。
詳しくは書けないが、悲しいことに、そう考えると腑に落ちることが、たくさんあるのである。
生粋の日本人は、いかにひどい目に遭わされ続けてきたか、虐げられ続けてきたか、なおかつ、我慢を強いられてきたか、それでもお人好しなのか、無意識の人格者なのか、本当によく耐えてきた民族だな、と(そう考えてくるとバブルなんかは目眩ましで、ちゃんちゃらおかしいものだったとしか思えない。深刻な問題は置き去りにされ、カネに浮かされ、霊性の開発にもほとんど資することがなかったし、まんまと乗せられただけだった。物づくりでは潤沢な投資で高品質な製品を輩出できた代わりに霊的に失ったものも大きい。何事も祈り一念からはじめられたらどんなによかったかと思うと残念でならない)。
こういう理解をするのも、結局は過去世の因縁がわからないからなのだが、それなりの過去世の因縁が仮にあるものだったとしても、本当によく耐えている無意識の人格者だと思えて仕方がないんですよ。
生粋の日本人こそ、無意識の人格者に他ならない、と。
表向き、すなわち、顕在意識ではわからなくても、深層意識ではすべてをわかった上で、それでもなお、すべてを甘んじて受け入けてきた民族でなのではないか、生粋の日本人は、と考えられるからなのですよ。
もしも、善なる神様が確固たるご意志を持って、地上天国化を成就させる、そのために神様に無意識ながらも深い帰依心があり、そこで生粋の日本人が重要な役割を果たすことになるとお考えならば、いかなる人達がどのような手段を使って生粋の日本人を何とかしようと画策しても、守護の神霊さんのお力添えをはじめとしたあらゆる形で、最終的には必ずそれなりにはお守り下さるものと思われる。
逆に言うと、神様のご加護がなければ、唯物論的には、もうすでに詰んでしまっているとしか思えないのである。
しかし、がんじがらめでどうにもならないように思えても、絶望することはできないし、やけになることもできない。
となると、もう神様にしか希望を見いだすしかないですよ。
だから、そのためにも、最低限、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をしてほしいんですよ。
お守り下さるかもしれないといっても、無条件にすべてをということにはならないでしょうから、何としても少しでも可能性を上げるために。
中でも、 3 月は、特にこの 3 月は、私達生粋の日本人の先人の方々のためにも、祈りを捧げてほしいのです( 8 月もそうなのだが、今は 3 月が近いので)。
話がそれた。
威張るなんてそのこと自体が、神様のみ心から外れる真善美に悖る想いと行いの業想念の所業だ。
何気ない、ごくありふれた、自然な振る舞いの中に、他人の中に神様を見て尊重する姿勢が無意識にそなわっている。
この美点は、わざわざ自慢するものじゃない。
ごく自然な、当たり前なこととして、行われることが尊いのだ。
真善美に悖らない、神様のみ心に適う想いと行いは、不言実行で黙ってやればいい。
ほめられたならば、無理に否定せずに、軽く「ありがとうございます」と感謝するだけでいい。
ことさら、斜に構えるのも、不自然になるからだ。
あくまでも自然に、何気ない振る舞いとして、良いことをすればいい。
だから、美点を周囲に感化して及ぼしていくことは、自慢したり、声高に主張したり、威張ったりすれば、台無しになってしまう、ということになるのである。
仮に、良いことをして批判されたとしても、言い返さない、反論しない。
黙って言わせておけばいいのである。
神様のみ心に適う行いができていると確信が持てるなら、そうした批判するような人は霊性の開発ができていない人なのだから、相手にしないで言わせておけばいいのである(そんな相手に対してさえもそうした批判は過去世の自らの悪い因縁の消えてゆく姿だと感謝して(=神様がこのような形で自分の過去世で想い行った悪いものを消し去るためにこうして浄めて下さっていると感謝して)心の中で相手に祈ってあげることができるのが理想だけどね)。
良いことは、あくまでも、何気ない、さりげない振る舞いとして、ベタベタしないように気をつけて、「サッ」と済ませるのがいい。
このように考えてくると。
勝手な妄言を言わせてもらえば、「自己保存の本能」が、やっぱり「諸悪の根元」だな。
この世にあらわれている、肉体が人間だ、自分自身だ、と思い、肉体を維持したい、守りたいと思う。
それが進んでくると、自己を脅かす、あるいは、邪魔になるものは、すべて、異端分子だ、攻撃すへきだ、果ては排斥だ、という発想につながってしまうからだ。
従って、「自己保存の本能」があるがゆえに、差別が起き、淘汰が起き、強欲で狡猾な人間による絶対的な恐怖支配が目論まれることになる。
人間=肉体人間という肉体人間観により、自分と他人とはまったくの別物だ、だから、自分とごく近しい者だけの利益を最大化することだけがすべてで、その他はどうなっても構わないという発想になるからだ。
人間は、肉体人間だけではない、肉体人間を有機的生命体たらしめている、命そのもの、すなわち、神様の分けられた命においてみんなはつながっていて、元は一つだとすれば、こうした他人を排斥・処分する発想にはならないからだ。
神様は愛そのものの存在である、その神様のお命において、みんなはつながっている、神様のお命の分かれ分かれだから、すべては神様の子供であり、従ってみんなは兄弟姉妹であり、親様としての神様は一つだとなれば、こうしたエゴむき出しの身勝手な発想にはならない。
なるはずがないではないか。
これに反して、人間=肉体人間であり、他人と自分とはまったくの別物であり、自分を守ろうという強固な考えは、どうしても他者を排斥するエゴイズム(自分勝手な)思想につながってしまうのである。
でも、しょうがないよな。
神様がそのようにして、地球さんを開発して、この世に神様の世界を映し出すために、便宜的に必要だとご判断されてこうなっているのなら、仕方がない。
なんとしてもこれを克服して、昇華させて、みんなで手を取り合って、調和した世界を作り上げなければ、安穏な世界は訪れないのであれば、それに向かって努力をしていくより仕方がない。
だから、自分の肉体にまつわる利益ばっかり考えていたら、いつまでたっても、平和な世界、調和した安穏な世界をつくりあげることができないことになってしまうのである。
私達の元の命、本質が神様のお命である限り、元の命である神様とその分けられた命の私達個人個人の関係を説く教え、すなわち、「神と人間」を説く宗教で何とかしていくより仕方がない。
だから、こうした神様と人間を扱う教えだとして、どのような「宗教」を名乗る教えがあったとしても、肉体人間としての他者を排斥する発想を持つものは、そもそもそれ自体が宗教とは思えないのである。
なぜならば、こんな発想では、仮に安穏な世界が訪れたとしても、それは一部の身勝手な唯物論の思考に縛られた、きわめて独善的かつ排他的な、狭い世界観が支配する頑な硬直した世界になるだけだからだ。
こんな世界が、神様のお望みになる世界なんですか?
だったら、強権政治がすみずみまで行き渡った抑圧的な世界みたいなものですよ。
本来ならば、神様のみ心に悖らない範囲で自由自在で、明るく、柔和で、みんなで調和の取れた世界が、神様のみ心があらわれた世界だと思われるのに、こうした強権的で抑圧的な世界は、あまりにも異質だとしか思えないからですよ。
なぜ、こんなことを言うのかって?
だって、そうでしょう?
神様を善なる存在だとして、愛そのものだとするならば(=これを仮に前提条件と名づける)、その分けられたお命を本体とした肉体人間は、神様のいわば、子供であり、兄弟姉妹であり、最終的にはそのすべてが調和をして安穏な世界が出来上がるべきだと考えられるからですよ。
この前提条件で考える限り、肉体人間としてこの世にあらわれて、寿命のある者は、誰一人として見捨てる訳にはいかなくなるからですよ。
ましてや、気に入らない者を、無理にでも言うことをきかせろ、そうでなければ、排斥せよ、果ては処分せよ、なんて言える訳がないじゃないですか。
だから、この前提条件を仮定する限り、理屈ではこうした帰結になるんです。
この前提条件は違う、と言うのならば、この限りではありませんけどね。
以上を、どのようにお考えになるかは、読まれた方次第です。
話がそれました。
そうした社会や、一部に実権を乗っ取られた社会を、実力行使で、世直しをして、ひっくり返すことができるのは、悪の心をなくした、人類すべての人々の閻魔帳を手にした元祖魔人ブウのような者しかいない(しかも仮にこれが実現してもそれだけでは不十分だ。社会の再構築が容易ではないから。だからすべては神様のおはからいにおお任せするしかないと思われるのだ)。
お釈迦さんが、仮にこの世に生きていたとしても、どんなに神通力をそなえていようが、どうにもできない時代状況だからだ。
それ以外は、私達、個人個人が、悟りを開くほどまでになって、いかなる悪巧みも自ずと跳ね返せるほどの神通力をそなえていないと、どうにもならない。
だから、ダメ元でも、最低限、世界平和の祈りをしてほしいんだ。
異性だ、カネだ、豪奢な生活だ、なんてそんなことばっかりしか考えていないんじゃ、いつまでたっても安穏な世界は実現できないよ。
・・・。
人類が自己保存の本能を克服して、昇華する日は、果たして本当に来るのだろうか。
小心者としては、いつもこのことが気にかかる。
納得し難い不可解なことや不穏なことの気配が見えるたびに、不安にさいなまれ、神様を信じられなくなる。
だから、神様に心底全託できる人は、本当にすごい人なんだよな。
何があっても、神様の思し召し、何があっても神様のおはからい、と思うだけにとどまらず、感謝までできるのだから。
人のために愛を施すことも、ごく自然な何気ない振る舞いとして、当たり前に行える。
こういう人は、悟りを開いた人に、限りなく近い人なんだろうな。
世の中を唯物論で冷徹に分析するには、韓非(韓非子の著者)の思想は、いまだに古いびないけれど、救いがあるかどうかは、また別の話。
やっぱり、神様から始まったのならば、私達のすべての乱れた想いを神様にお返しして、想いを浄めて、行いを良くしていくことしか、救いはないんだろうな。
~~~~~
(*1)例のペロペロ事件のことではない。
SDGs 関連の話だ。
やっぱり、本丸を狙うには、大義名分を用い、綺麗事を並べ立てることで、邪な動機に装飾を施すんだな。
ちなみに。
俗にペロペロ事件と呼ばれているもの。
あれは大事件です。
個人的には大事件だとしか思えない。
誰が言い出したのかは知りませんが、そもそも、あんな大事件をペロペロだなんて、軽佻浮薄な表現すること自体が、不真面目・不適切なのではありませんか。
昔からそんな人間がいた、そうしたケースがあったというのは、筋違いで、話をそらしているとしか思えない。
いわゆる、論点ずらしですね。
大昔の軍隊時代での不条理で意地悪な上官への復讐などに始まって(?)、それからいろいろあった食品汚しとは、内容が根本的に異なる。
なぜならば、摩訶不思議な成り行きとはいえ、人々の地道な努力により、街の浄化や公衆道徳がそれなりに進歩してきているから。
時代状況がほんの少しずつ進化してきているから。
あの行為は、それに水をぶっかける、否、それ以上に泥を塗り、街の浄化と公衆道徳の進歩に、明らかに逆行するきわめて重い行為に他ならないのですよ。
あの行為は、人々の長年にわたって地道に築き上げてきた、尊い信頼関係をぶち壊す行為に他ならないのです。
衛生面の問題、感染症の問題、経済的な問題ももちろんあるとは思いますが、人々の長い慣習で築き上げてきた尊い信頼をぶち壊すという、人間のそなえる神性を著しく損ねる悪質な行為なのです。(*1ー2)
人間の本質である神性を冒涜した行為なのですよ。
あの事件に触発されたと思われる、類似のどうしようもない行為が頻発していることからしても、既存のものが可視化されただけとして片付けてしまうことはできず、それ以上の悪質な行為であるとしか思えません。
だから、ペロペロといった表現で茶化すことができる案件には思えないんですよ。
(*2)今回は占星術を専門とする、とある有名と思われる先生の最近の言動についての感想を述べている。
この先生は、他の占星術から発信する人とは、一線を画し、穏やかでとてもいい人に見えるのだが、やはり、宗教に対する考え方(この人は時々聖書の話をするからキリスト教的に見える)に、唯物論的な限界があるような気がして仕方がない。
(追記)
今、これを追加するのは 2023 年 5 月初頭だが、この人は相変わらず、不安ばかりを感じさせる内容の発信をやめない。
どうしようもないな。
コメント欄も、(この人と同じようにいい人ではあるのだろうが)おそらく祈りも何もしないであろう人達が、「先生ありがとうございます」などとやっている。
変わらないんだろうな、この人達は。
せめて最低限、「世界平和の祈り」だけは必ずするように、少しは変わって欲しいんだけどね。
対処法なんか示せないことなんか、わかりきっているよ。
だから、祈りをして下さいと言っているんだ。
警告だか何だか知らないが、祈りをまったくしもしないで、結果的に不安を煽ることにしかならない発信は、好ましくない(=世の中の因縁因果を悪くすることにしかならない)、と言っているんだ。
悪い想いが因縁因果を巡り、結果として世の中に良いものをもたらさない以上、他人に不安や恐れを抱(いだ)かせることは悪いことなんだ。
いい予想はごとごとく外れ、悪い予想も外れても言いっぱなしで、不安や恐れを抱かせたことに対しての一切の謝罪がない。
いいんですか、こんなことばかり繰り返していて。
・・・。
やれやれ。
(*3)そういう観点からすれば、真善美に悖る「好ましくないと思われる人物(?)」や「受け入れ難い事実」をあえて蔓延らせることによって、私達のこうした神性によって感じられる感性に不快感を抱かせ、想いを掻き乱そうとさせるための「不可解な推し」が、表舞台には見えないきわめて強い力の後押しで起こされてくることにも十分に納得がいくことになる。
不安や恐怖を感じさせることによって、私達の神性からくる善なる感覚を悪い意味で刺激する(私達の神性からくる善なる感覚を傷つける)ことによって、私達の感情をかきむしって、乱そうとするのだ。
なるほどな、と。
伊達や酔狂でこうした不穏な土壌が醸成されている訳ではなかったんだな、と。
場合によっては、私達に絶望感や虚無感や厭世感を抱かせることまでも視野に入れているのかもしれない。
しかし、こうした働きかけ(?)に振り回されて、向こうさんの土俵にのってしまったら、こっちが道を外してしまう。
例えば、何で非を認めないんだ(?)と、やいのやいのと騒ぎ立てば、騒ぎ立てるほど、想いを乱してしまうことになる。
しかし、神性に適わない悪いものを見たり、ヒタヒタと迫りくる不安や恐れにさいなまれると、どうしても、心がざわついて仕方がない。
どうしても神様への不信感がぬぐいきれない。
それでも。
薄氷を踏むような、他に残された不安定きわまる、想いを乱すものでしかない頼りないやり方を考えれば・・・。
本当に避け切れるのか、仮に自分だけが避けられたとしても、他の人はそのままでいいのか・・・。
考え出すときりがない。
煩悶する。
従って。
消去法になるけれど、やっぱり、神様一筋しかない(とてもほめられたたどり着き方ではないけれど・・・)。
世界平和の祈り一辺倒でダメなら仕方がない。
本当は、世界平和の祈りの同士が増えて欲しいけど、どうやらそれもとうてい無理そうだ。
唯物論界(?)の言説、宗教界(?)の言説ともに、そのほとんどが、敵を認め、他者を責め裁き、攻撃する、業想念に満ち満ちたものとなっているからだ。
とにかく。
良い想いと行いには、原則として世を隔てて(=輪廻転生を通して)、良い報いがあり、因縁因果の法則が、すべての人(霊魂魄)に公正に作用すると信じるからには、想いをできるだけ乱さずに、良い想いと行い、そして、良い祈りをしていくより他はない。
それでもダメなら、それも神様のみ心と思うしかない。
よって。
怒りは決して尊い感情などではなく、あくまでも真善美に悖る想いと行いの業想念にしか過ぎない。
神様が愛そのものだとするならば、真善美に悖るものは、すべて、異質だと解釈せざるを得ないからだ。
ゆえに、不穏な想いや怒りは、業想念なのです。
そうしたこの世とあの世を通した基本が理解できないうちは、まだまだなのかもしれないな。
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(*1ー2)昔(百年近く前?)のように、衛生面にさほど気を遣わず、感染症知識も豊富ではなく、粗野で粗暴や振る舞い?が、日常茶飯事?なら、他人が公衆の容器に口をつけて共用することも、わりありふれたことだったのかもしれない(詳しくはわからない)。
しかし、今は違う。
衛生環境から、公衆道徳から、すべて進化して変わってきている。
そうした昔の時代でのあの行為の意味合いと、現代での意味合いは異なるはずである。
しかも、あの男(少年というべきではないと思う)の行為には、他の利用客という一般公衆をないがしろにして、傷つける明確な悪意が感じられる。
ただの軽々しいいたずらだとは、到底思えないんですよ。
そう言われても仕方がないでしょう。
だから、あの行為は、(世の人々の想いも大きく乱した意味も含めて)様々な意味で、世の中に甚大な悪影響を及ぼした、霊的にはきわめて重い意味を持つ行為に思えて仕方がないんですよ(株価を含めての詳しく正確な経済的な影響額は、難しい計算ができないのでよくわからないけれど)。