191_引き寄せ5(神様の予定?)

引き寄せに関する前々回 ( 189_引き寄せ4(ミクロとマクロ) - おぶなより2 ) の続き。

この前は、引き寄せに関して、その意味合いを神様があらかじめ私達各々に授けられていると思われる天命、中でも、幾度も繰り返される生まれ変わり死に変わりである、輪廻転生を通した天命の中の、たった一つである今生の天命との対比という形で書いた。

一般的には、何となく引き寄せという概念を使うことが多いだろうし、実際、巷に流布されている書籍やネットにある引き寄せとされる内容をざっと見た限りでも、長い長い輪廻転生を前提とした神様から授けられるであろう天命やその今生に限った一部分の天命を引き寄せとしてとらえているものはなかった。

だから、引き寄せの意味合いをあのように書いた。

すなわち、あくまでも、今生から見た、主として唯物論的な肉体人間観を元にして抱いた様々な願望を、潜在意識などを使って実現させるための願望実現法が「引き寄せ」と一般的に呼ばれるものに他ならない、と。

では、なぜ輪廻転生を通して神様から授けられている天命、そして、そのほんの一部に過ぎない今生の天命と引き寄せを対比する形で書いたのか?

これはいつも書いている、南無阿弥陀仏祈り一念の信仰や世界平和の祈り一念の信仰が元になっている。

というか、個人的な宗教観としては、宗教とはこういうものだ、ととらえているからである。

まず、私達はそもそもどこから来ているか、と考えてみると。

現代なら、私達は両親からこの世に生を受ける。

その先祖をずーっと遡っていくと、どうなるかは、誰にもわからない。

一般的な科学の常識や、宗教関係の人や、スピリチュアル関係の人が、どんなにこれこそが真実だと、いかなる話をしようとも、万人を完全に納得させることのできる説明はない。

現代でさえ、まともな一次情報が明らかにされることはないというのに、はるか彼方の過去の出来事、それも人類の根元にかかわる事柄など、なおさら明かされることはないとしか考えられないからだ(理由は省く)。(*)

あとは、神話のようにそうした話を信じるか信じないか、で人によって判断が分かれるだけしかないだろう。

ただ、何がしかを創造できる絶対的な存在があって、今の私達やそれを取り巻く周辺環境や、果ては宇宙までもが整えられたのであろう、とは逆算して類推することは可能だ。

となると、やはり、すべてを創造したのは、それなりの絶対的なあらゆる力を持つ万能な存在としか考えられない。

ここでは、その絶対的な存在を神様とする。

私達肉体人間にしても、肉体があればただ生きていられる訳ではない。

やはり、この肉体を有機的な生命体として成り立たせている何らかの(他動的な)力の働きかけがあってこそ、私達は肉体人間として生きていける。

なぜならば、この何らかの力の働きかけが無くなってしまえば、肉体は脱け殻のようになり、有機的な生命体ではなくなってしまうからだ。

肉体人間の生命一つをとってみても、このように現代科学では解明することのできない、摩訶不思議なありようになっているのである。

私達を取り巻く周辺環境も、同じように、やはり、摩訶不思議な力の働きかけがあって出来上がり、その存在がつくられたと考えるのが自然な成り行きとなる。

つまり、神様がありとあらゆるものすべてを作り上げた、と考えられることになる。

では、その神様は、どのような意図の下に、ありとあらゆるものを創造されたのであろうか?

何らかの意図もなく、ただ、行き当たりばったりで、気が向くままに、ありとあらゆるものを適当におつくりになられたのであろうか?

とても、そうとは考えられない。

遺伝子一つをとってみても、あの想像を絶する精緻な仕組みを作り上げることが、勝手気ままで、適当で、行き当たりばったりのカオスのようなやり方の一環としてつくられたとは、およそ考えることはできないからだ(つまり、いい加減な行き当たりばったりのデタラメな設計の下に、あのような超絶精緻な仕組みは作り得ないということ)。

となると、すべてのありとあらゆるものは、神様のそれなりの意図を持って創造され、それなりの何らかの神様の命の息吹を吹き込まれているからこそ、存在しているし、生きている、と考えられるのである。

つまり、万物は、神様によってつくられた、いわば神様の化身であり、それなりの神様の命が宿り、それなりの意思を持っている、と考えられるのである。

固形物でも、気体でも、液体でも、目に見えない粒子でも。

話を戻すと。

遺伝子一つをとってみても、あのようになっているということは、神様としては、万物の創造からその終焉(?)までのすべての過程を、あらかじめ決めてあるのではないか、と考えられるのである。

くだけた言い方をさせてもらうと、遺伝子一つをとってみても、あのような空前絶後の仕組みをお考えになり、お与えになる神様が、「造ったらあとは知らないよ」という、無責任でいい加減なことをするとは思えないのである。

ゆえに、ある程度の自由裁量の余地は与えていても、ありとあらゆるものの大枠の青写真というか見取り図は、あらかじめ神様の中ですでに決めてある、と。

このように考えてくると、神様がそのお命を直接に分け与えられた肉体人間についても、それなりの意図を持ってこの世に送り出している、としか考えられなくなる。

しかも、神様のお命、神霊としての命は永続でも、肉体人間となった場合の命は有限で、しかも、肉体人間として輪廻転生を何回となくさせるということは、やはり、その輪廻転生を通して授けた一つの長い目で見た天命が、あらかじめ定まっている、と考えられるのである。

つまり、この魂(霊魂魄)には、これこれこうしたたくさんの輪廻転生を経させて、最終的には、このような数々の輪廻転生を通した一つの天命をまっとうさせよう、とあらかじめお決めになっていると考えられるのである。

そうなると、こうした神様のみ心で決められた遠大な天命は、私達が肉体人間観を元にして、そこから描く即物的で卑近な欲望とは、まったく異なるものだとしか考えられないのである。

ましてや、その天命を今生に割り当てられた部分にしても、引き寄せで実現しようとする願望と一致することはあり得ない、と。

そうすると、私達が今生の唯物論的な欲望にもとづく願いを引き寄せで叶えようとするのは、結果として神様のお決めになった天命(今生ならそれに割り当てられた一部分の天命)に、ほんの微々たる規模でも茶々を入れることになりはしないか?妨げをつくることになりはしないか?と思われるのである。

言い換えると。

神様はありとあらゆるすべてのことを意味を持ってなされている。

肉体人間の寿命が限られているのも、

輪廻転生を繰り返すのも、

すべて神様のみ心。

ということは、この世にも、限りがあって意味がある。

ということは、その中で繰り広げられる肉体人間の輪廻転生にも限りがある。

ということは、それぞれに課した、一つの長い目で見た役割が、天命として神様のみ心の中にある。

そして、今生に割り当てられた天命は、その中の限られたごく一部分にしか過ぎない。

私達が一般的に引き寄せで思い描く願望は、こうした今生に割り当てられたごく一部の天命とは異質なのだから、果たしてこれは問題にはならないのか?

と考えた次第。

つまり、演繹的にすべての過程を考え、逆算、逆算、としていくと、個人的には上記のように考えることができた、という訳なの。

今回の遺伝子を例にとって展開した理屈は、
華厳経
「一即一切、一切即一」
の考え方と似た形になっている。

だから、神は細部に宿るじゃないね。

正確には、神様は、ありとあらゆるところに宿り、満ち満ちている、ということになるから。

ついでなので、 以前、 ( おぶなより ) の ( 199_原仏12ー12 - おぶなより ) で取り上げた、スッタニパータの慈悲の経文のいくつかを引いておく(改変あり)。

第一 蛇の章

八、慈しみ

一四五 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。

一四六 いかなる生きもの生類であっても、おびえているものでも強剛なものでも、
ことごとく長いものでも中くらいのものでも短いものでも、
微細なものでも粗大なものでも、

一四七 目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くに住むものでも、近くにすべきものでも、
すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

一四八 何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。
たとえどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの懐(おも)い抱いて、互いに他人に苦痛を与えることを望んではいけない。

一四九 あたかも、母が己(おの)が独(ひと)り子を命を賭けて護(まも)るように、そのためには一切生きとし生けるものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。

一五〇 また全世界に対して無量の慈しみのこころを起こすべし。
上に下に、また横に。
障害なく怨(うら)みなく敵意なき慈しみを行うべし。

一五一 立ちつつも歩みつつも臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみのこころづかいをしっかり持(たも)て。
この世ではこの状態を崇高な境地とよぶ。

第二 小なる章

一、宝

二三六 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〈目ざめた人〉(ブッダ)を礼拝しよう。
幸せであれ。

二三七 われらここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〈教え〉を礼拝しよう。
幸せであれ。

二三八 われらここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〈つどい〉を礼拝しよう。
幸せであれ。

中村元さんは、ここに仏・法・僧の三宝に分けて、それぞれを礼拝し、人間をはじめ、生きとし生けるものが、幸せであれ、と願っているとしているのだが、神様がありとあらゆるところに宿り、満ち満ちている、とすれば、こうした経文は、実は何を隠そう(?)、神様讃歌に他ならない、ということになるね。

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(*)乱暴に言わせてもらえば、人類の起源や、様々な宗教論議や果ては宇宙の起源なんか、どうでもいいんだ。

こんなことばかりにかかずらわっているだけ、時間の無駄だとしか思えないのである。

ましてや、これこそが正しいだの、他人は間違っているだの何だのなんか言っているだけ時間の無駄だ。

なぜか?

こんな業想念だらけで、悟りには程遠い人がほとんどで、争いと不和に満ちた世の中なのに、やっていることが、霊性の開発に逆行していることに他ならないからだ。

一番大事なことは何か?

それは私達の抱く想いが、良い想いであることと、落ち着いて平穏であることた。

それが私達個人個人の、ひいてはその集積としての社会の命運も決定することになるからだ。

研究者としての天命を授けられ、それなりの研究に携わる人はいるだろう。

しかし、それ以外の人々は、あくまでも霊性の開発を第一に、余分なことに引きずり回されるべきではない、と思うのだ。

どうしても研究したければ、個人的な嗜好の範疇にとどめておく。

あとは、すべての成り行きを、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行にお任せする。

あいつが偉い、こいつが間違っているだの何だのなどと、業想念を招く余計なことはしない。

そうすべきだと思うね。