046_矛盾

前回 ( 045_制約 - おぶなより2 ) 、ユーチューブの見出しの羊頭狗肉のような見出しをつけてあるものが多いこと、見る人をつき付けるために、何だ? 何だ? どうしたの?と気を引かせる思わせ振りな見出しが多い(◯◯◯などの伏せ字を使うのもこの思わせぶりで引き込むやり方と言える)ことを書いた。

応用形としては、例えば、日本万歳チャンネル(?)で言うと、普段の主張からすると、それを(主に外国人さんから)真っ向から否定されたような見出しをつけて、嫌でも不安(?)を煽り、確かめに見てみると、まったく別の意味でそうした否定の言葉を用いていて、主張はいつものまま、というものもあった。

要は、いつもチャンネルを見てくれている共鳴者・支持者(シンパサイザー)の日本否定の不安を掻き立て、一体、どんなが言われているんだ、と見るように誘導する形になっている。

しかし、こうした変化球(?)に限らず、動画の見出しと内容の差が著しく激しいと、つまり、ハッタリをかまして中身が伴わないものを出すと、これは誠実とは言えないことになる。

ということは、真善美に悖る想いと行いの業想念になる訳で、これが過去世の因縁のこの世でのあらわれとしてのものでない限りは、すべてなかったように打ち消す形で、行為の当事者としての本人が(霊魂魄として)来世以降に否応なしに償わなければならなくなるのである。

私が、これはマズイなあ、と思うのは、神様の話や、魂の話や、宇宙の話を取り上げる、いわゆる、スピリチュアルを扱う動画の中に、こうした見出しを頻繁に見かけることなんですよ。

こうした霊的なことを扱うなら、肉体人間の想いが、そしてその想いにもとづく行いが、各自の人生にどれだけ影響を及ぼすか、輪廻転生を通していかに影響があるかはわかっていなければならないはずだと思うの。

それにもかかわらず、こうした霊的な内容を扱いながら、上記のような見出しをつけるものがたくさんあり過ぎるように思えてならない。

わかっていながら、あえて客引きというか、釣り(=視聴者のひきつけ)のために行っているのか、それとも、霊的な内容を扱いながらもこうした仕組みを知らずに釣りをしているのかはわからないが、これでは唯物論しか信奉しない、重視しない、霊的なことを扱わない一般的な人達の動画と大差ないことになってしまっていると思うのですよ。

しかも、残念ながら、スピリチュアルを扱い、わかっていながらにして、こうした詐欺的な釣り手法を使うと、かなりまずいことになるんです。

なぜならば。

本来なら、神様と人間の仲立ちを扱う立場にある人やそうした立場に生まれついた人は、神様からそれなりのお役目を期待されている人だ、と思われるからです。

つまり、人間を神性に導く、目覚めさせることを神様から期待されているはずの人が、その逆をやっているんですよ。

一般的な唯物論に染まっている人を、神性に導く、目覚めさせるならば、主張を見て頂くための手段も、神性に悖らないものではならないはずだ、と考えられるからですよ。

なぜ、こんなことをいうのかというと。

霊的なことを扱わず、唯物論のみで、しかも、見出しを誇張していなくても、面白いものがいくつもある。

最近、とても面白くてかなり笑った動画に、デーブ大久保チャンネル 第五話 伊東監督に認められるも、4 日目で松坂の球が捕れずに捕手クビ( GG佐藤 さんとの対談 ) というのがあった。

動画の内容は見出しのままそのものが寸分違わずちゃんと入っていて、おかしくて散々笑ってしまった。

このように、唯物論でも、見出しを思わせぶりにするような小細工をしなくても、きちんと内容が伴った面白いものがちゃんとあるんですよ。

唯物論と思われるチャンネルでも、正々堂々とした中身の直球勝負で、しかも無茶苦茶に面白いものがあるんです。

霊的なことを扱うならば、面白さはともかくとしても、やはり、唯物論の人達にそれなりの見本を示すというか、矜持を保った見出しをつけてほしいんですよ。

客引きをしたい、釣りたい、という誘惑をあえてはねのけて、気高くやってほしいんですよね。

だって、気高くあればこそ、霊性の高さを示すものであり、それであればこそ、神様や、魂や、宇宙に関して語るにふさわしい、スピリチュアルを扱うにふさわしい内容の動画になるはずじゃないですか。

ならば、その内容を端的にあらわすタイトルに釣り要素を絡めるような狡い真似をしてどうするの?

本当にそれでいいの?

霊的なものであればこそ、唯物論とは一線を画したやり方をしなければならないはずではないの?

武士は食わねど高楊枝ではないけれど、本来ならば、やせ我慢をして(?)、模範を示すべき立場の人が、唯物論の人達と一緒になって欲をかいて、欲に振り回されてたんじゃあ、格好がつかないんじゃないですか?

ちょっと、キツかったかな。

まあ、無い物ねだりかも知れませんけど、よく見かけるので、感想を記します。

045_制約

テレビが嫌になり、ほとんど見なくなったところに、ユーチューブの内容の多用さ、視聴時間帯の自由さ(録画予約の必要もない)、視聴の手軽さから、ほぼこちらを見るようになった。(*)

動画の仕上がり具合というか、内容の完成度はテレビの番組制作にかなわないものがあるにしても、選択肢の多用さや、どんな手軽な内容でも息抜き的に見ることができるものもあるなど、(様々な事情もあるだろうが)内容が硬直化してきたテレビとはその自由度は比較にならない。

ただ、残念なことに万能ではないんだな。

やはり、(現段階の)この世であり続けるものとしては、様々な制約は逃れられないから。

これは何も公序良俗に反するものや、過激なエログロナンセンスのことを言っているのではない。

そうではなしに、やはり、表舞台に立つ内容には、制約があるように思われるのだ。

例えば、とある V チューバーの動画では、今まで常識とされていることからすると、それを覆す新たな発見のように扱っていたものがあった。

しかし、そんな話はもう数年前に本で見たよ、知ってたよ、そんなのは古いよ、知っている人にはわかりきっていたよ、という内容だった。

今頃になって、やっとこれを新しげに取り上げてるの? という感じがしたな。

ただ、内容が内容だけに、あまり一般化できないような、既存の常識や権威とはかけ離れたものだったので、決して主流にはなれないものだっただけだ。

それに、その内容の言及についても予想通りというか、中途半端で核心まで至っておらず、例によって(?)、いわゆる「寸止め」のようになっていて、それなりに当たり障りのない無難なものになっていた。

やっぱり、然もありなんという感じ。

あの動画をはじめて見る人には、新鮮で常識をひっくり返される面も多少はあるかもしれないが、やはり、これが唯物論の思考に縛られた世の中の限界なんだな、と今更ながらに思わされる動画だった。

やはり、真相を知りたい、真実を知りたいという個人的な知識欲(?)を満たすためには、情報の吟味による取捨選択と探求心が必要だな、と改めて思わされた次第。

ネットでも、書籍でも、これぞ決定版と派手に自己申告しているようなものをよく見かけるが、こうしたものを鵜呑みにすることは、とてもできるような時代じゃないな、まだまだだな、とも思わされる。

情報全体の大海が玉石混淆なだけでなく、撹乱情報までをも含めた雑多な情報も多く、真実にまだまだ遠いものが多いような気持ちにさせられた。

あと、これもやむを得ないのかもしれないが、ユーチューブの表題の羊頭狗肉というか、いかにも、何だ?何だ?どうしたの?、と見る者を引き込むための釣り見出しはなんとかなりませんかね。

真っ向勝負、ストレート勝負はダサいのかな。

あまりにも見出しと中身とのギャップが激しいと、どうしても業想念が出てしまうのでね。

まあ、無い物ねだりなんだろうけど。

~~~~~~

(*)とある民間放送のスポーツ娯楽番組で、元プロ野球選手と女子ソフトボール選手の対決ものを見たことがあった。

そこでは制作者が面白いと判断したのかどうか、同じ場面を何回も何回も、これでもか、これでもか、と繰り返し見せつけていた。

とうだ、見たいだろ、オラ、オラ、オラ、とまるでバカにされたように感じた。

この一件で、私は完全にキレて、テレビ視聴をやめる気持ちに完璧に踏ん切りがついた。

いくら、興味をひく場面でも、あんなやり方は、完全に見る人間をバカにしている。

そうとしか思えなかった。

自分としては、ここまでバカにされても見ている訳にはいかなくなってしまったのである。

いくつかの地味な情報番組のしゃべりがどうにもこうにも上手くない女性キャスターや女性アナウンサーにウンザリしてテレビを見るのをやめたのは確かだが、中でもこれが最悪だった。

個人的な感想かもしれないが、私はよくもここまで視聴者をバカにした番組を作れるものだな、と本当に憤慨したのを覚えている。

制約者側にもそれなりの事情や背景があり、多少の慮りはすべきなのかもしれないが、やはり、あそこまでバカにされても、我慢して視聴することはできなかったのである。

044_歩み

ネットを見ると一般的な人の意識はあまり(というか全然)変わっていなあ。

例えば、ユーチューブのハートカフェを見ると、相変わらず同じようなことを言っている。コメントをする人にもいまだに「穴モテ」といった霊性上、輪廻転生上、絶対に使ってはならない最低・最悪の言葉を何の気なしに使っている人が何人もいる(「穴モテ」という言葉が、なぜそのような意味合いを持つことになるのかについては、 ( 011_気高い - おぶなより2 ) を参照されたい)。

30 才までに、女性はそこそこの希望のお相手と無事に結婚できれば勝ち組だのなんのと、相も変わらず唯物論の考え方に縛られたネット記事などが話題にされていたね。

勝ち組かどうかなんてわかりゃしないよ。

目論んだ結婚が成就すれば、後はすべて上りエスカレーターのように順風満帆に行く保証が一体どこにあるの?

結婚成就=勝ち組、ではなくて、結婚成就はこれから築き上げていく生活の出発点にしか過ぎませんよ。

そこで、やっとスタートなの。

勝ち組かどうかがわかるのは、何十年かそこそこ無事に添い遂げて、お孫さんが生まれて、穏やかな家庭が築けていたら、はじめて勝ち組と言えるんじゃないの?(*1)

つまり、今生における結婚の勝ち組とは、太く短く瞬間最大風速の幸せで、後は破綻したりするものではなくて、地道に辛抱強く艱難辛苦をともにしながら、それなりの確固たる絆ができたな、とそれまでの人生をお互いに感謝し合えるような結婚生活を送れることができて、はじめて勝ち組なんじゃないの?

霊性的に見れば、そもそも、だいたいの人が、過去世の悪い因縁を果たすために、修行としてこの世に生まれてきている、肉体という逃れられない厳しい足かせをまといながら、過去世で溜め込んでしまった魂の汚れを落とすために、様々な苦労をして、立派に人格を磨いていくために生まれてきているのだから、既存の一般的な(主に女性が抱く夢見がちな)結婚観が間違っているんですよ。

多分ね。

容姿、学歴、年収、果てはエスコート何のかんのと、大事にして頂戴、楽しませて頂戴、安心させて頂戴、見栄を張らせて頂戴(?)、ばっかりなんだから・・・。

お定まりのフィルターを通した後に、あれして頂戴、これして頂戴、それして頂戴、もっと、もっと、・・・。

ホントに際限ないんだからさ。

人生の本質は、自らの過去世で作った因縁の清算をする、いわば修行なんだから、そんなうまい話がある訳ないでしょ。

どんなにいい条件を目指してうまく世を渡り切ったと唯物論で考えることができたとしても、因縁因果はまた別だし、(原則として)因縁因果を逃れることはできないんですよ。

比較的若いうちに結婚できて、うまい話があったように見えて、無事に結婚できたとしても、その後に何が起きてくるかはわからないんですよ(特別な人以外は)。

DV が起きてくるかもしれない。
夫婦間は仲むつまじくても子宝には恵まれないかもしれない。
子宝には恵まれても子供に反抗されるかもしれない。
家族の誰かしらが病気になるかもしれない。(*2)

一寸先は闇ではないけれど、(ほとんどの人には)未来はわからないんですよ。

ただ、一般的に言って、妊娠・出産(孕む病気の可能性を含む)・子育てを考えると、やはり、物理的には年齢が若い方が何かと有利になりやすいということだけは確かというだけのこと。

30 才までにそこそこの希望の結婚をしなければ、落ちこぼれだと決めつける方がおかしいんですよ。

因縁因果はそれぞれに、その人次第。

千差万別にわかれているから、若くしてうまく結婚できても、離婚したり、苦労ばかりの人生を送る運命が待っているかもしれないし、遅めの結婚でも無事に健康でかけがえのない子供を授かり、家族揃って幸せに暮らせるかもしれない。(*3)

独身で一生を通す定めの人もいるかもしれない。

わからないんですよ。

そんなことは。

みんな過去世はわからないのだし、ということは、(原則として)これからの人生も読めない、わからないんですよ。

過去世といったって、何代前のどんな因縁と、これとはまた別の何代前のどんな因縁が、今生で果たすべき因縁としてあらわれてくるのかなんて、絶対と言っていいほどにわからないのだから。

ただ、わかっているのは、肉体人間としての寿命は有限であり、男女ともにそれなりに異性と協力し合って、世代を引き継がせて、子供を産んで育てていかないと、人類が途絶えてしまう、ということぐらい。

ならば、私達としてすべきことは、まずは、謙虚になって協力して人生を歩んで行けそうなお相手を探して、尊重し合って大事に生きていくことしかありませんね。

神様が最終的に神様の世界をこの世に映し出す、地上天国化をお考えならばなおさらのこと。

こうした考え方から
結婚の前段階としての恋愛を考えると、
ヤリチンも、
ヤリマンも、
ヤリ逃げも、
ワンナイトラブも、
浮気も、
不倫も、
托卵も、
すべてはもっての外、
神様の分けられたお命を本質とする、
私達肉体人間の想いと行いとしては、
最低・最悪で、下の下、
ということになってしまうんですよ。

何にも知らない人(本当はわかっているよね?誰にでも深層には神意識があるのだから。欲望を優先させたくてわかっていながらもごまかしている=知らんぷりしているだけだよね)が唯物論者をはじめとしてずいぶんいるみたいだけど。

しかし、こうしたもっての外の行いをしても、今生で寿命をまっとうするまでに、何のお咎め(ペナルティ)は起きてこないかもしれない。

大丈夫ですよ(?)。

これらが過去世の因縁でない限りは、来世以降にみっちりとこうした行いのツケを払う羽目に否応なしになるのですから。

しかも、そのツケを払う時には、様々な苦しみの原因となる過去世の因縁の記憶は消し去られていているのだから、
何でこんな目に遭うのかがわからずに苦しむ
=魂の汚れを落とすための大変な修行をする羽目に陥る、
ようになるからですよ。

このような仕組みを、ああ、なんてありがたいことか、このような罪悪深重の凡夫の自分でさえも、み仏(神様)はこうして魂を浄めてお救い下さる、と感謝することのできた類い稀にして、敬虔な信仰者さんが、源左さん、才市さん、宇右衛門さんといった妙好人と呼ばれた人達なの。

私はたまたま、病気その他でこの世の不条理に苦しんできた経験から、こういう霊的な仕組みがありますよ、そのままでは来世以降が大変なことになりますよ、と遠巻きに忠告しているに過ぎない。

しかし、いくら遠巻きにこんなお節介をしたところで、ほとんどは徒労にしか過ぎないんだな。

はてなさんのアクセス解析を見れば私のブログはまったくと言っていいほどに読まれていない(ごくまれに読んで下さる奇特なありがたいお方もいる)ことからも、これは明らかだからね。

でも、とりあえずは、はてなさんが、こうして書かせて頂く機会を与えて下さっているから、ここに記しておくんですよ。

万が一、必要に応じて霊性のことや輪廻転生の仕組みを知って生き方を変えるためのヒントを得て下さればありがたいと思いながら。

~~~~~

(*1)私達は肉体人間として、五感にまつわる欲望にとらわれ、自己保存の本能から自己中心的な利害にとらわれやすい。

なので、仮にこのような人生がつつがなく送れたとしても、日々ことあるごとに感謝をしてこなかったら、霊的には有意にならない。

これでは過去世から貯めてあった貯金である、良き想いと行いの積み重ねである過去世の良き因縁を使い果たすだけになってしまうから。

この世の人生は、主として修行だから、勝ち組も、負け組もないですよ。

輪廻転生の卒業までの、各々の悲喜こもごもの人生=修行があるだけです。

ただ・・・。

すぐに輪廻転生を普通に(?)重ねることができればまだいい方で、神様なんかいない、神様なんかあるものか、と神様を否定しきっていると、次の輪廻転生までに思いもよらない長い期間が生じる可能性が出てくるようなんですよ。

だから、少しでも早く神性に目覚めてほしいんですよね。

(*2)DV とは、英語の「 domestic violence 」のカタカナ表記の略。ドメスティック・バイオレンス

日本では、配偶者や恋人など親密な関係にある者、またはかつてそうした関係にあった者からふるわれる暴力という意味で使用されることが多い。

(*3)唯物論的に言えば、恋愛ごっこやセックスのことばかり考えている(?)から、いつまでたっても、浮気、不倫、買春、売春などがなくならない。

でも、大体は過去世からの因縁因果なんだけどね。

ただし、これらの因縁因果は、霊性上は良いものとは言えないんです。

だから、こうした因縁をこの世にあらわれる前に浄めて、何とか少しでも実現しないようにすることが望ましい。

ということで、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をして頂きたいんですよね。

043_奪回

アイドル。

字引を見ると
崇拝される人、または物。
あこがれの人。
(用例)アイドル歌手。
とある。

ちなみに、ファンについては、
特定のスポーツ・芸能などの熱心な愛好家。
また、特定の人物・チームの熱心な支持者・後援者。
フアン。
とある。

まあ、アイドルにまったく興味のわかない人もいるかもしれないが。

なぜに、人は、アイドルを好んで、テレビその他などを視聴するのだろうか。

特に異性のアイドルを嗜好するのは、おそらく、恋愛感情の延長線なんだろうな。

いわば、疑似恋愛感情による嗜好だ。

決して直接の恋愛相手になることはできないから、仮想だけで我慢する、妥協する関係だね。

アイドルと呼ばれる人達は、こうしたファンの人達の仮想の疑似恋愛感情を誘因としながら、これを利用することで人気を保ち、視聴を稼いだり、歌や画像や動画などで商売を成り立たせるとともに、自己の抑えがたい自己肯定感や虚栄心を満足させる生き方をしていると言えるだろう。

肉体人間は、神様の分けられたお命が本体。

ということは、神体としては、真善美に悖らない、完全円満な美しい外見を有しているということ。

元は、本質は、美しいんですよ、みんな、誰しも。

これが肉体にそのまま反映されてあらわれていれば、誰しもがその霊魂魄なりの個性を有する、それぞれに美しい外見を備えた肉体人間になるはずだと考えられる。

しかし、それにもかかわらず、この世での現実がそのようにはなってはいなくて、美男美女とされる人達がある程度に限られているのは、やはり、神体から、霊体、幽体、そして、肉体をまとい、肉体人間となり、自己保存の本能を与えられたために、それぞれの輪廻転生を通して、真善美に悖る想いと行いの業想念を積み重ねてしまったために、その業想念が反映されたものとして、元々の美しかった容姿が、徐々に徐々に段階的に落とされていくことになったため、と考えられるのだ。

お釈迦さんのような聖者に、たくさんの過去世があったことからすれば、ほぼすべての人は、肉体=肉体人間観に次第に染められて、縛られるようになり、輪廻転生を通してその容姿を何らかの形で、落としていってしまったと考えるのが自然だ。

お釈迦さんのように悟りを開くのが、たくさんの過去世を必要とするように、一朝一夕にはいかないということは、肉体人間観により、たくさんの輪廻転生を通して、つけてしまった業想念という魂の汚れを浄めてなくす、その神様の分け命としての神性を取り戻すためには、それなりのプラスマイナスで必ずプラスとなる、いわゆる、結果的に収支決算で黒字を出しながら良い輪廻転生を繰り返していくことが必要だ、と解釈できるからだ。

当然にそれに伴う肉体人間の容姿にも影響があり、業想念が浄めてなくされればなくされるほど容姿も上向いていくと思われる。

つまり、元々の神体に近い美しい外見に次第に近づいていく、いってみれば、肉体を得たことにより追加付与された自己保存の本能と輪廻転生を通して積み重ねた業想念により失われた容姿の低下分を、同じく輪廻転生を通して良き想いと行いを積み重ねることによって、本来あった神様の映し身としての美しさに近づけるように、失なわれた容姿の美しさを取り戻していくことになる訳だ。

つまり、奪回。(*1)

このように考えてくると、お釈迦さんは、おそらく相当に見栄えのする人だっただろうと推定できる。

お釈迦さんを美化したいがための伝説や伝記の祭り上げとは別に、このような可能性が考えられる訳だ。

お釈迦さんはそのような容姿奪回の先駆者のお一人だったんだろうね。

私達が美男美女の外見を好ましく思うのは、太古の昔(?)、神様の映し身として肉体人間となった当初は、私達の誰しもが美しかった、肉体人間とは本来は美しいものだったと無意識にもわかっているからだろう。

もちろん、地球上には何十億人もの人がいる訳だし、その因縁因果は無尽蔵に多岐に分かれているから、美男美女が性格その他が容姿に正比例して優れているとは限らず、美男美女でも性質のきわめて悪い人間がいることがあるが、大体の傾向は、上記のようになると考えられる。

従って、この世で美男美女に生まれつくということは、それぞれの過去世で、真善美に悖らない、それなりの良き想いと行いの裏付けがあったということであり、 1 回や 2 回の生まれ変わりだけではなくて、たくさんの輪廻転生を通して、いわば、苦労して失なわれた美しい容姿を少しずつ取り戻してきた積み重ねの実績があるということになる。

つまり、美男美女に生まれついているということは、単なる偶然ではない、決して伊達や酔狂ではない、それなりの裏付けがある、ということになるのだ。

それなのに、ああ、それなのに。

現実の美男美女には、こうしたことはまったく考えないのか、知らないのか、残念なことに、この肉体人間としての優位な条件を笠に着て、ほしいままのデタラメの限りを尽くす人間がいるのである。(*2)

自らが見栄えが良い、有利に生まれついたことをいいことに、さらなる人格の向上、いってみれば霊性の向上に励むべきところを、真逆の方向に走ってしまう人間が少なからずいるのだ。

ヤリモクと呼ばれる好き放題に何股もかけるイケメン男性がこの典型例だ。

せっかくの過去世で積み重ねた良き想いと行いで取り戻してきた、恵まれた容姿を台無しにして余りある行状を積み重ねてしまうのである。

これは想像なのだが、おそらく神様のお考えからすれば、容姿を優れたものにするように輪廻転生を繰り返してきた者に対しては、さらなる、人格の向上、霊性の向上をご期待されるのではないか。

つまり、本来ならば、美男美女ほど霊性を開発して気高く生きなければならない、生きるべきだ、ということが言えるはずだと思うのである。

そうすれば、肉体人間としての良き見本を周りに示すことにもなるし、人類の霊性の全体の水準を少しでも上げることにも寄与できることになるからだ。

つまり、美男美女という外見というか、記号(?)をそなえた者は、気高く生きなければならない使命がある、と考えられる訳なの。

だから、そうした神様のご期待を踏みにじるかのような、デタラメきわまる上記のヤリモクイケメン男性のような行状や、承認欲求だか寂しさだか何だか知らないが相手構わず体を開くヤリマン女性のような行状は、それだけに、輪廻転生を通して来世以降に課されるペナルティは甚大なものになると考えられるのだ。

期待値が大きいだけに、その落差(ギャップ)が激しいと、業想念を清算するための人生の中での償いは、より大きなものになると考えられるためだ。

例えば、宗教家に、それもかなりの地位や境遇に生まれついた人は、本当は神様からそれなりの期待を持たれている人だ、と考えることができる。

過去世を通したそれなりの想いと行いの積み重ねがあったからこそ、こうした地位につけただけではなくて、少なくとも他人の霊性を開発する、導くための貴重な立場に生まれつく訳だから、それなりに神様に期待されるのも当然だからだ。

ところが、これに反して、信者から集まる権力やお金にあかして、人々を救う、人々に尽くす、宗教家としての本分を果たさないどころか、私利私欲に走り、酒池肉林、贅沢三昧、享楽三昧に溺れたりしたら以降の輪廻転生は大変なことになることは、誰にでも容易に想像がつくだろう。

そして、宗教家に限らず、様々な面で恵まれて生まれついた人は、本来ならば、さらに人格的に高みを目指して精進すべきだ、ということになる。

せっかくの美男美女に生まれついても、霊性のことを何も知らずに、あるいは、知ろうともせずに、ただただ、肉体にまつわる各種の欲望だけを満たすことにうつつをぬかすような、この唯物論大全盛の今のこの世を、何とか少しでも好転させるために、人類の霊性の向上がはかられるようにするために、一人でもいいから世界平和の祈りをする祈り人が増えてほしいのである。

~~~~~

(*1)この話は、 ( おぶなより ) の ( 094_吸引力 )でもすでに触れている。

実際の人類の歴史(経緯)はどうなのかは知らないが(これを知っているのは本物の善なる神様しかいないでしょうね。現代の科学、それも公のものがどのようなものであるかを考えると)、このように考えた方が、肉体人間のこの世で生じさせた想いと行いが、輪廻転生を通して肉体人間の容姿に影響を及ぼすことと理屈の上では整合性がとれるからだ。

まあ、私の場合は、唯物論の理屈から攻め寄せて考えてみた次第。

(*2)逆に考えると、美男美女には生まれつかなかったにもかかわらず、デタラメの限りを尽くしてしまうと、以降の輪廻転生(つまり、来世以降)はどのようなことになるか。

これは想像に難くないだろう。

来世以降は想いと行いを正すから、今はちょっとぐらいいいだろう
=来世ではちゃんとします、
などの理屈は通用しないだろうね。

輪廻転生という仕組みには、そんな生易しい屁理屈が通用するものではない、と考えられるからだ。

だから、美男美女には生まれつかなくとも、いや、だからこそ、彼らをしのぐような、社会的・人格的な向上を目指して私達は努力をしていくべきだと言えるだろう。

肉体人間は、あくまでも元々の神体を目指しながら、常に進化・向上していかなければならない存在であるのだから。

042_傲慢

傲慢さの起源。

これはやはり、人間は肉体そのものであるとの、人間=肉体人間観に根差しているとしか思えないな。

あるサイトを見た時に、つくづくこんなことを思わされたよ。

それはある男性 2 人の対談を読んでのこと。

女性に縁が深く(=接触する機会が多く)、多少、男性生殖器が大きめに生まれついたとある男性と、もう一人の男性との対談。

おそらく別の人間がこの対談のキャッチコピーをつけたのだろうが、こんなことが書いてあった(人々の耳目をひきつけたいがためにこんな見出しにしたのだろうが、それにしても不適切きわまる表現)。

「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」と。

別の本で見たのだが、この男性は幼少時か生まれついた時かに、母親か親戚か(ちょっとハッキリ思い出せない)に、生殖器が大きめだからこの子は(あなたは?)女にモテるよ、と言われたようなことが書いてあった。

つまり、この人は、自分が女性に常に接する、いわば縁遠くない環境にいて、男性として性的に恵まれたように生まれついているという何らかの自負を持っている人な訳。

このサイトのキャッチコピーにある、
「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」
や、
この男性の別の著書にあるとされていた言葉、
「すべての男性はキモチワルいものである」
を見ると、どうしても自分が恵まれて生まれついたことを笠に着た(もちろん、成功するには本人の努力があるが、笠に着るには、生得的な条件は必須)物言いとしか思えないのよ。

本当に、非モテで苦しんできたことのある人間ならば(その人の人格=輪廻転生を通して溜め込んだ業想念の深さ、にもよるが)、間違ってもこれらのセリフを公の場で口にすることはできない。

この人は、非モテで苦しんできたことのある人間の本当の哀しみや切なさがまるっきりわかっていない。

だからこそ、頭の中で思いついたとしても、絶対に口外すべきではないああした内容を公表できるのではないか。

その対談を一通り読んだが、やはり、彼らの発想の根幹にあるのは、唯物論であり、人間=肉体人間の肉体人間観だった。

セックスも、そのせいぜいのところが男女の愛情の一表現で、より深い霊的な意味や、その本来の気高さを感じさせない内容。

この人達は、私達肉体人間の本質が神様の分け命である分霊(わけみたま)であること、元々は、神様の姿を映した誰もが美しいものであり、なぜに、今の私達がこのような完璧な美しさからある程度離れた容貌に落とされたものになってしまっているのかなどは、全然考えないのだろう。

こうした霊性では、様々な艱難辛苦を味わわないと、生きている、否、生かされていることのありがたさや、その他の周辺にわたるありとあらゆる環境や与えられた肉体に感謝することができていない、とわざわざ宣言していることに他ならないのではないか。

不幸や災難は嫌だよな。

誰だって嫌だ。(*)

私も大嫌いだ。

元々、肉体人間の本質は、神様の分霊だから、真善美に悖らず、完全円満で、美しく愛と勇気に満ちているもので、病争貧苦といった不幸や災難とは無縁なので、嫌うのは当たり前だからだ。

それに、本来的に持っている神様の分霊としての自由自在を束縛されていることにもなってしまうからだ。

病気その他のどうしようもない不可抗力で苦しみにあえいでくると、同じく苦しんでいる人達などに、思いを至す、相手の立場に立つ、相手のことを慮ることができるようになるんですよ(なかなかこうはなれない、業想念の深い深い人もいるかもしれないけれど)。

苦しんでいる人や、体の自由が利(き)かなくなりつつあるお年寄りにやさしくしてあげよう、いたわろう、という気持ちが出てくるんです。

そうした人を見た時に、パッと相手の立場や気持ちを、わがものとして抱くに至り、そうした相手を慮る気持ちになることができるんですよ。

まあ、肉体人間となり、たくさんの輪廻転生を通して溜め込んだ、業想念が払われて、本来の神様の気持ちに近づいている、ということなんですけどね。

つまり、あなたも私も一緒、自他一体感が抱けるようになってくる訳です。

それに反して、先の対談の彼らのような唯物論に縛られた人間=肉体人間観のようなものの見方、考え方は、この自他一体感とはまるっきり逆になるんですよ。

明らかに環境要因や肉体要因を元に、自らを優位な要件をそなえる者として棚に上げ、他の人々を見下している(下品な言い方で申し訳ないのだが、要するにこの人は男としてご立派な一物を持って生まれついたことを笠に着て、思い上がっているとしか思えないんですね)。

こうした言葉は、神様の分霊としては、明らかにふさわしくない、あってはならない、想いと行いなの。

神様の分霊を本質とする以上、肉体をまとい、新たに自己保存の本能を追加付与されても、こうした想いと行いは、ふさわしくないものになるの。

従って、こうした想いと行いを生じさせてしまったら、過去世の因縁ではない限り、輪廻転生を通して、必ず、なかったものとして、その想いと行いの償いを余儀なくされることになる。

この業想念の輪廻転生を通してなされる清算が、病争貧苦の不幸などとして、この世に、そして、各自の人生にあらわれてくるのだ。

しかも、こうした清算をさせられる時には、原則として、その原因となる過去世でなした想いと行いの記憶を消し去られた状態になっている。

つまり、無実の罪ではないけれど、何で自分はこんな目に遭わなければならないのかが、わからずにそうした想いと行いを打ち消すための経験をすることになるの。

それなのに、こうした霊性や輪廻転生の仕組みがまったくわからないで、肉体人間観にまつわる欲得ばかりに耽っている話。

そして。

倫理観があるにしても、神性に根差さない、その場その場限りのちょっとした勧善懲悪の判断しかない話。

しかも、上記の男性一般に関する 2 つの残念な言葉は、神様のみ心に照らせば、明らかに不適切としかいいようのないもの。

この世がなぜに、このように不平等で不均衡に満ちて、(中途過程とはいえ)神様の世界から遠いものになってしまっているのか、その理由にもまったく思いを至さずに、あのような不適切な言葉を使う。

・・・・・。

要は、こうなんだよ。

下品な言い方で申し訳ないが、
「でかいチンコに生まれついた才覚のある有名人だからって、調子にのらないで下さいよ」
ってことさ。

あなたは、デカチンで才覚のある人間に生まれついたからといって、それを笠に着て、いい気になって世の中の一般男性をかなり見下しているんじゃないか。

そんな邪推をしてしまうんだよ。

お仕事も何かと女性に縁のある内容だからね。

しかし、そんな霊性の程度じゃあ、世の中の男性一般に対してあんなひどいことを言うのも、むべなるかな、と思わされるよ。

逆に考えてもみなよ。

モテるようなチャラい要素もない、

気難しくてわがままな女のご機嫌をうまくとるような器用さもない、

イケメンでもない、

あなたのようなデカチンでもない、

こうした人があなたがのたまった
あれらの文章、

「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」

「すべての男性はキモチワルいものである」

を見たら、一体どんな気持ちを抱くことになるのか、を。

百歩譲って、仮にそれが事実だったとしよう。

それにしても、よくもこんなひどいことが言えるよな。

本当にひどいよ。

ひどすぎるよ。

日本は、こうした地道で真面目な男性によって多くを支えられているのではありませんか?

そう考えると、本当にひどいとしか言いようがない。

対談している相手の男性も、こんなことを聞いて本当に何とも思わないのか?

何も感じないのか?

あんなに、一般的な男性をめちゃくちゃにこき下ろす。

これをみなまできかされても、何も感じないのですか?

おかしいんじゃありませんか?

・・・。

やっぱり、あなたは
有名人であること、
おそらく女性に不自由しなかったこと、
デカチンであること、
を含めて、
明らかに思い上がっている
としか思えないんだよ。

もっと言わせてもらえば、あれでもまだ考察が甘い。

長く生まれつこうが、
太く生まれつこうが、
これを活かしてすぐモテるなんて、
人生は単純にはできちゃいないんだ。

それさえも活かすことができない場合があるんだよ。

世の中の人のあり方は、過去世の因縁がそれぞれに異なるように千差万別で、簡単な類型化なんてできないからさ。

事実は小説より奇なり。

世の中にはそういうことがあるんだ。

一部の男性(性的にそこそこ優秀な(?)、イケメンや金持ちや権力者のことを言っているんだろう)だけが、社会の共有財産になるだって?

何、ふざけたこと言ってるのさ。

私達がこの世にあらわされていること、神様に生かされていることのありがたみがまったくわかっていない(本当はわかっている。誰しもがその意識の深層に神意識があるのだから。調子に乗っているだけだ)と言われても仕方ないよ。

私達は自ら生きようとして生きている訳ではない、
つまり、
五臓六腑をはじめとした身体の器官が自然に働いて、
この肉体を生かしてくれている何かがある、
すなわち、
肉体を肉体たらしめている、
私達を人間として生かしている
何らかの命がある
従って、
私達は他動的に生かされている存在であること。

そして、生まれてこようとして生まれてこれる訳ではないこと。

以上 2 点を踏まえて考えると、私達がこの世にあらわされてきたということは、神様の視点からすると、何らかの意義があるという結論になるんですよ。

どんなに、この世が不平等、不均衡、不幸災難にまみれていようとも。

どんな人でも、
どんなに愚かしく
どうしようもない人間に見えたとしても
それなりの過去世の因縁があって
意義があって生まれてきて、
意義があって生かされている、
となるんですよ。

私達は、神様によりつくられたものであり、生かされてもいるんですよ。

従って、私達の肉体人間としての生殺与奪の実権は、神様(おそらく、守護神さん)にあるとしか考えられない。

だから、この世に生まれてきて、生かされているのは、神様の視点から見て、それなりの意味があるとしか考えられないんです。

このように考えてくると、どんなに信じることができなくても、あらゆる個人個人は、神様が何らかの意図を持ってこの世にあらわした(=誕生させた)存在だ、ということになるんですよ。

この世の中のあらゆる個人個人は、そうなるんです。

また、子供として生まれてくる魂が両親を選んで云々という話などもありますが、仮に、霊魂魄自身の意志でこの世に生まれてくるものだとしても、この霊魂魄自身それ自体が、そもそも神様のわけられたお命という、神様の中に含まれている。

それに、こうしたこの世で生きようとする意志は、唯物論的な肉体の五感にまつわる欲望を最大化するものではなく、過去世の中での生き方の(神様のみ心に照らして)足りなかったことや不十分だったこと、そして、真善美に悖る想いと行いの業想念のあがない(=償い)のためのものとなるので、やはり、広い意味では神様のご意志に含まれることになる。

だから、肉体人間は、すべて神様がこの世にあらわしている、誕生させている存在だと言えることになります。

そうした人としての存在を軽視して、身勝手な考え方から、社会から切り捨てられて当たり前のような話をすることは、神様のみ心に反することはなはだしい、と言わざるを得ないんですよ。

とにかく。

あなたの、あの一般男性をおとしめる、きわめてひどい発言が、あなたの過去世の因縁のあらわれではない限り、来世以降のいつの世かに、あなたはそっくりそのまま主客転倒して逆の立場の男性として生まれて、相当に悔しい思いをさせられる人生を歩むはめになるはずだ。

しかも、過去世の記憶は消されて生まれてくるから、何でそんな悔しい思いをさせられるのかは、まったくわからない状態でね。

まあ、とにかく。

このような話を読むと、すべての人がこうではないにしろ、世の中の霊性の水準は、まだまだだなあ、と思わざるを得ませんね。

とにかく、一人で勝手に祈るしかないな。

~~~~~

(*)例外は、古の浄土門妙好人である、源左さん、才市さん、宇右衛門さんといった、心の底から神様(み仏)を信じることができる、きわめて信仰心が篤い人達。

彼らは、この世で起きてくる自らに都合の良いことも、都合の悪いことも、すべてみ仏のおはからいとして感謝することのできる、きわめて稀な人達だから。

念のために言うけど、彼らは決して被虐的な(マゾ的な)人達ではないよ。

この世のすべてのことは、阿弥陀如来様のおはからい、思し召し、お救いであると、素直に信じている、特別に信仰心が深い人達だから、自分達に起きてくることも、身の回りの環境も何もかも、すべて阿弥陀如来様のお陰です、ただ、ただ、ひたすら、ありがたい、ありがたい、ありがとうございます、と深く感謝のできる宗教の達人(彼らはこのことを鼻にかけたりすることは微塵もない、無心な人達)なだけだ。

~~~~~

(追記)
わかる人には、わかると思うが、私は裏読みを含めて、下記の件の 2 文を読んでいる。

「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」

「すべての男性はキモチワルいものである」

実質的な意味は違う、と理屈はいろいろと展開していても、その本音は字面という表層から読みとれる内容にある、こっちこそが本音だ、と解釈したのだ。

だから、苦言を呈した。

私達のほとんどは、人間=肉体人間という肉体人間観に縛られている。

人間=肉体人間だと思って生きているのだ。

この肉体人間観を解脱して、本当の人間はその内なる霊魂魄である、霊なる人間とわかっているのは、お釈迦さんのように悟りを開くことができた人しかいない。

従って、それ以外の圧倒的大多数、つまり、唯物論のものの考え方に支配されてしまう私達のほとんどは、肉体にまつわる五感にかかわる欲望に執着するナルシストなのである。

自意識過剰なんか当たり前だ。

男女の性別を問わない。

ただ、女性の方が、外観に対する執着が強く、おそらくかなり業が深いだけだ。

外観、すなわち、その人の今生の外見は、その人(=霊魂魄)その人なりの、過去世からのそれなりの生き方が反映された結果としてあらわれている。

それが真からわからないから、モテといった上っ面の事象や、外見というこれまた上っ面の表層に振り回され、右往左往することになる。

だから、いくらこうした霊的なことが難しくて理解できなくても、外観はひとまず置いておいて、霊なる人間、人としての最も大切な、人間としての想いと行いを整えることをしなければ、根本的な問題の解決にはならない。

どんなに唯物論の理屈で武装しても、私達の本質が神性であることからは、離れることはできないからだ。

では、より良い精神状態を保つためには、自分自身をどう修めればいいのか。

これは、これを読まれた方への宿題としたい。

041_願い

ある CD ショップで買い物をした時に、ワゴンセールで数百円で売られていたアイドルグループ(女性)の CD を 1 枚買った。

だいたい、20 才前後くらいの人達かな。

曲はクラシックと違い、相当にぎやか(ちょっとうるさいかもしれない)だけど、やっぱり元気がいいな。

日本語の発音の語尾も現代風に妙なクセをつけて歌っているけれど、とにかく、テンポがはやくて、元気がいい。

やっぱり、若さゆえの勢いが感じられる。

彼女達の歌声を聞いていると、多少なりとも元気をもらえる気がしたな。

歌詞はそれなりだけど、聞いていると、作曲と編曲はかなり大変なんだろうな、と思わされた。

もちろん、振り付けの人達も。

それでも、新品とはいえ、在庫処分の数年前の CD だったから、もうすでに、グループのメンバーも次から次へと、人が卒業して入れかわってしまっているんだろうな。

前に、女優さんや、アイドル歌手さんが、霊性の開発に目覚めるのはいつのことやら、と書いたけれど、あれを聞いたら、あれはあれで、アリだな、彼女達も勝ち上がり、残るのは容易ではないのだから、短い時間に思う存分、自分の可能性を試して、霊性を著しく損なわない範囲で楽しむ(高潔を保つのは至難の技のような環境だから無理だろうけど)のもいいかもしれないな、と思わされた。

若い時は一度しかないし、やるだけやれば、悔いも残りにくいだろうから。

やっぱり、若い異性は何となくまわりに活力を与える力をもっているような気がしたな。

たとえ、芸能界にどんなにドロドロした裏事情があったとしても、それはよく考えれば誰にでもわかること。

それを承知で飛び込んでいくのだから、そこから先は自分の責任。

あらゆることを感謝して、ささやかな幸せを望むか、それとも、霊性(神性)に多大な犠牲を払ってでも、一大勝負に打って出るかは、本人が決めること。

彼女達の先々に幸せがあり、その天命がまっとうされることを、願い、祈っている。

040_いろいろ

女性とナルシストについて。

女性が「自分は美しい」とかなり強く思い込みやすい証拠となるか、何なのか、とにかく、ちょっと変わった体験談(?)を見かけたので、ついでながら書いておく。

あと、ナルシストについても少しだけ。

数ヶ月前に、「男はつらいよ」の第 1 作を見たのだが、これから文字ると、さしづめ「イケメンはつらいよ」となるような話だった。

ネットにあった、とある男性の電車での出来事の目撃談だが、その概要は、おおよそ以下の通り。

イケメンは意外とつらい。何とも思っていない女性が勝手に近づいてくる。それも肉食・草食・老若関係なく近づいてくる。怖いですねー。

という見出しの記事。

その人によると、乗り合わせた電車に、芸能人でいうと岡田将生(おかだまさき)のような身長 180 cm ぐらいのモデル体型のスーツ姿に実用性に乏しい小さなブランド物バックを持った男性が、ドアのところに立ち、イヤホンで音楽を聴きながらスマホを見ていたらしい。

はじめは、その人が「なんやえらいイケメンやな。モデルとちゃうか」とうっすら気づいた程度だそう。

しかし、そのまま数駅過ぎると、その人は、ある異変に気づいた。

何と、そのイケメンの周りが女性だらけになってきたらしい。

朝の時間帯でそこそこ混雑していたが、「不自然なぐらい」イケメンの周りに女性が群がっていたそうな。

ドアのすぐ横にイケメンが立ち、イケメン側の扉が開き、新しい乗客(女性)が乗ってくるたびに「イケメンの周りに女性が増えていく」という現象を目の当たりにしたとのこと。

ただイケメンの彼は、そんな周りの様子をまったく見ずにスマホの画面をずっと見ていたらしい。

それらの女性の視線は結構肉食系で、イケメンに気づいた彼女達は「スススッ」と彼に近づいいく。

そうした肉食系の女性は最初眠そうに電車に入って来ても、イケメンを発見すると、そこから急に目が覚めたようにチラチライケメンを見ていくそうな。

このような行動が何度か繰り返され、彼の周りには気づいたら「女性だらけ」になっていたそう。

その人は、よく女性は「おっさんからエロい目で見られる」と言うが、イケメンからすると「それはお前(女性)らも一緒やで」と言うに違いない、としていた。

そしてその人は、「イケメンもつらいな」と感じたそうな。

イケメンが電車に乗っている数十分の間だけでも、イケメンの周りには女性が続々と集まり、しかも明らかにチラチライケメンを見る女性ばかりだったとのこと。

その人は、これではイケメンの彼は疲れて大変だ、彼がスマホ画面を凝視している理由もわかる(女性と視線が合って彼が女性に好意を持ったと勘違いされたくないから、周りの誰(=女性)とも目を合わせないということらしい)、としていた。

ということで、引用が長くなってしまったが、何がいいたかったかというと。

こうした女性達が、もしも、自己肯定感がきわめて低く、自分はこのような超絶イケメン(?)にはふさわしくない、残念だけど、ちょっと釣り合わないわ、と思ったら、近づいてはいかないのではないか、遠慮するのではないか、ということ。

やはり、女性のこうした積極的な行動の原動力を支える背景には、子宮があらゆる指揮命令系統を統括すると思われる傾向に加えて、「私は美しい」という自己肯定感が深くかかわっているんだろうな、と思えた次第。

女性の心理をある程度読める人なら、多分、わかると思うが、女性は「あからさまな言葉」ではきわめて不誠実・不正直なことが多くても(別に、だから悪いというのではない。女性特有の理由があるから仕方がない。しかし、このために男はまったく本音がわからず本当に辟易させられる)、「言葉を伴わない行動」はかなり正直なんだよな。

いやはや、傍観させられる方はたまったもんじゃないね。

やれやれ。

女優さんやアイドルタレントさんや AV 女優さんのようにして、生得的な自らの魅力だけを活かして世に出たがるのも、自分を選んだ男性の社会的な地位でマウントをとりたがる女性がいるのも、すべては、「自分は美しいという魅力が認められたという承認」を「万能」として金科玉条のように思い込むことのなせる女性特有の特徴なんだろうな。

やはり、神様がたまたま、その時々の女性各人の魂の輪廻転生の都合上から、その果たすところの大変なお役目を踏まえた上で、授けて下さった美しさとして、ありがたく頂いて感謝をしながら生きていく、という気持ちには、到底、なれそうもないな、こんな状態では・・・。

下手をすると、あるものは当たり前、もっと、もっと、だからな。

残念だが、感謝のカケラもない。

言い方を悪くすれば、女性は、その誰しもが備えた美しさを、天賦の才能(?)として、しかも、当たり前なものとして「オラオラ、どうじゃーい。見てみんかい、ワレ!」のように押し出して生きるのが本来で、大好きみたいだからな。

なので。

傾国の美女という言葉があるが、女性はその誰しもが、実は女優さんとして生きたいと渇望している存在なのかもしれない。

その点では、男性と女性は、同じく人間でも、かなり違った特性を備えた者として、その性別を分けられていると言えるだろうな。

その注目を集める典型的な例が、女優さんやアイドルタレントさんや AV 女優さんである、と女性一般から認識されているのが、今という時代なのかもしれないな。

傾国の美女はその究極の形。

だから、恋に生きている時は、女性は誰しもがえもいわれぬ不思議な魅力を放つ性なのかもしれない。

そんなふうに思うことがある。

しかし。

こうした女性達が霊性の開発に取り組むのは、一体、いつのことになるのやら・・・。

人は不幸や災難に見舞われなければ、この世の不条理に辛吟しなければ、なかなか、霊性の開発に触れるキッカケは得られないのがごく普通ということなのか・・・。

その人、その人についていらっしゃる守護の神霊さんのお考え次第なんだろうけど・・・。

もちろん、不幸や災難はないに越したことはないけれど、あまりにも霊性の開発に程遠いような、こうした女性達が多いのを見ると、彼女達はどうしたら霊性の開発に向かうことになるのかとつい考えてしまう・・・。

まあ、余計なお世話だし、愚痴っても仕方がないことだが・・・。

まあ、一人で勝手にひたすら祈るしかないな。