045_制約

テレビが嫌になり、ほとんど見なくなったところに、ユーチューブの内容の多用さ、視聴時間帯の自由さ(録画予約の必要もない)、視聴の手軽さから、ほぼこちらを見るようになった。(*)

動画の仕上がり具合というか、内容の完成度はテレビの番組制作にかなわないものがあるにしても、選択肢の多用さや、どんな手軽な内容でも息抜き的に見ることができるものもあるなど、(様々な事情もあるだろうが)内容が硬直化してきたテレビとはその自由度は比較にならない。

ただ、残念なことに万能ではないんだな。

やはり、(現段階の)この世であり続けるものとしては、様々な制約は逃れられないから。

これは何も公序良俗に反するものや、過激なエログロナンセンスのことを言っているのではない。

そうではなしに、やはり、表舞台に立つ内容には、制約があるように思われるのだ。

例えば、とある V チューバーの動画では、今まで常識とされていることからすると、それを覆す新たな発見のように扱っていたものがあった。

しかし、そんな話はもう数年前に本で見たよ、知ってたよ、そんなのは古いよ、知っている人にはわかりきっていたよ、という内容だった。

今頃になって、やっとこれを新しげに取り上げてるの? という感じがしたな。

ただ、内容が内容だけに、あまり一般化できないような、既存の常識や権威とはかけ離れたものだったので、決して主流にはなれないものだっただけだ。

それに、その内容の言及についても予想通りというか、中途半端で核心まで至っておらず、例によって(?)、いわゆる「寸止め」のようになっていて、それなりに当たり障りのない無難なものになっていた。

やっぱり、然もありなんという感じ。

あの動画をはじめて見る人には、新鮮で常識をひっくり返される面も多少はあるかもしれないが、やはり、これが唯物論の思考に縛られた世の中の限界なんだな、と今更ながらに思わされる動画だった。

やはり、真相を知りたい、真実を知りたいという個人的な知識欲(?)を満たすためには、情報の吟味による取捨選択と探求心が必要だな、と改めて思わされた次第。

ネットでも、書籍でも、これぞ決定版と派手に自己申告しているようなものをよく見かけるが、こうしたものを鵜呑みにすることは、とてもできるような時代じゃないな、まだまだだな、とも思わされる。

情報全体の大海が玉石混淆なだけでなく、撹乱情報までをも含めた雑多な情報も多く、真実にまだまだ遠いものが多いような気持ちにさせられた。

あと、これもやむを得ないのかもしれないが、ユーチューブの表題の羊頭狗肉というか、いかにも、何だ?何だ?どうしたの?、と見る者を引き込むための釣り見出しはなんとかなりませんかね。

真っ向勝負、ストレート勝負はダサいのかな。

あまりにも見出しと中身とのギャップが激しいと、どうしても業想念が出てしまうのでね。

まあ、無い物ねだりなんだろうけど。

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(*)とある民間放送のスポーツ娯楽番組で、元プロ野球選手と女子ソフトボール選手の対決ものを見たことがあった。

そこでは制作者が面白いと判断したのかどうか、同じ場面を何回も何回も、これでもか、これでもか、と繰り返し見せつけていた。

とうだ、見たいだろ、オラ、オラ、オラ、とまるでバカにされたように感じた。

この一件で、私は完全にキレて、テレビ視聴をやめる気持ちに完璧に踏ん切りがついた。

いくら、興味をひく場面でも、あんなやり方は、完全に見る人間をバカにしている。

そうとしか思えなかった。

自分としては、ここまでバカにされても見ている訳にはいかなくなってしまったのである。

いくつかの地味な情報番組のしゃべりがどうにもこうにも上手くない女性キャスターや女性アナウンサーにウンザリしてテレビを見るのをやめたのは確かだが、中でもこれが最悪だった。

個人的な感想かもしれないが、私はよくもここまで視聴者をバカにした番組を作れるものだな、と本当に憤慨したのを覚えている。

制約者側にもそれなりの事情や背景があり、多少の慮りはすべきなのかもしれないが、やはり、あそこまでバカにされても、我慢して視聴することはできなかったのである。