042_傲慢

傲慢さの起源。

これはやはり、人間は肉体そのものであるとの、人間=肉体人間観に根差しているとしか思えないな。

あるサイトを見た時に、つくづくこんなことを思わされたよ。

それはある男性 2 人の対談を読んでのこと。

女性に縁が深く(=接触する機会が多く)、多少、男性生殖器が大きめに生まれついたとある男性と、もう一人の男性との対談。

おそらく別の人間がこの対談のキャッチコピーをつけたのだろうが、こんなことが書いてあった(人々の耳目をひきつけたいがためにこんな見出しにしたのだろうが、それにしても不適切きわまる表現)。

「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」と。

別の本で見たのだが、この男性は幼少時か生まれついた時かに、母親か親戚か(ちょっとハッキリ思い出せない)に、生殖器が大きめだからこの子は(あなたは?)女にモテるよ、と言われたようなことが書いてあった。

つまり、この人は、自分が女性に常に接する、いわば縁遠くない環境にいて、男性として性的に恵まれたように生まれついているという何らかの自負を持っている人な訳。

このサイトのキャッチコピーにある、
「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」
や、
この男性の別の著書にあるとされていた言葉、
「すべての男性はキモチワルいものである」
を見ると、どうしても自分が恵まれて生まれついたことを笠に着た(もちろん、成功するには本人の努力があるが、笠に着るには、生得的な条件は必須)物言いとしか思えないのよ。

本当に、非モテで苦しんできたことのある人間ならば(その人の人格=輪廻転生を通して溜め込んだ業想念の深さ、にもよるが)、間違ってもこれらのセリフを公の場で口にすることはできない。

この人は、非モテで苦しんできたことのある人間の本当の哀しみや切なさがまるっきりわかっていない。

だからこそ、頭の中で思いついたとしても、絶対に口外すべきではないああした内容を公表できるのではないか。

その対談を一通り読んだが、やはり、彼らの発想の根幹にあるのは、唯物論であり、人間=肉体人間の肉体人間観だった。

セックスも、そのせいぜいのところが男女の愛情の一表現で、より深い霊的な意味や、その本来の気高さを感じさせない内容。

この人達は、私達肉体人間の本質が神様の分け命である分霊(わけみたま)であること、元々は、神様の姿を映した誰もが美しいものであり、なぜに、今の私達がこのような完璧な美しさからある程度離れた容貌に落とされたものになってしまっているのかなどは、全然考えないのだろう。

こうした霊性では、様々な艱難辛苦を味わわないと、生きている、否、生かされていることのありがたさや、その他の周辺にわたるありとあらゆる環境や与えられた肉体に感謝することができていない、とわざわざ宣言していることに他ならないのではないか。

不幸や災難は嫌だよな。

誰だって嫌だ。(*)

私も大嫌いだ。

元々、肉体人間の本質は、神様の分霊だから、真善美に悖らず、完全円満で、美しく愛と勇気に満ちているもので、病争貧苦といった不幸や災難とは無縁なので、嫌うのは当たり前だからだ。

それに、本来的に持っている神様の分霊としての自由自在を束縛されていることにもなってしまうからだ。

病気その他のどうしようもない不可抗力で苦しみにあえいでくると、同じく苦しんでいる人達などに、思いを至す、相手の立場に立つ、相手のことを慮ることができるようになるんですよ(なかなかこうはなれない、業想念の深い深い人もいるかもしれないけれど)。

苦しんでいる人や、体の自由が利(き)かなくなりつつあるお年寄りにやさしくしてあげよう、いたわろう、という気持ちが出てくるんです。

そうした人を見た時に、パッと相手の立場や気持ちを、わがものとして抱くに至り、そうした相手を慮る気持ちになることができるんですよ。

まあ、肉体人間となり、たくさんの輪廻転生を通して溜め込んだ、業想念が払われて、本来の神様の気持ちに近づいている、ということなんですけどね。

つまり、あなたも私も一緒、自他一体感が抱けるようになってくる訳です。

それに反して、先の対談の彼らのような唯物論に縛られた人間=肉体人間観のようなものの見方、考え方は、この自他一体感とはまるっきり逆になるんですよ。

明らかに環境要因や肉体要因を元に、自らを優位な要件をそなえる者として棚に上げ、他の人々を見下している(下品な言い方で申し訳ないのだが、要するにこの人は男としてご立派な一物を持って生まれついたことを笠に着て、思い上がっているとしか思えないんですね)。

こうした言葉は、神様の分霊としては、明らかにふさわしくない、あってはならない、想いと行いなの。

神様の分霊を本質とする以上、肉体をまとい、新たに自己保存の本能を追加付与されても、こうした想いと行いは、ふさわしくないものになるの。

従って、こうした想いと行いを生じさせてしまったら、過去世の因縁ではない限り、輪廻転生を通して、必ず、なかったものとして、その想いと行いの償いを余儀なくされることになる。

この業想念の輪廻転生を通してなされる清算が、病争貧苦の不幸などとして、この世に、そして、各自の人生にあらわれてくるのだ。

しかも、こうした清算をさせられる時には、原則として、その原因となる過去世でなした想いと行いの記憶を消し去られた状態になっている。

つまり、無実の罪ではないけれど、何で自分はこんな目に遭わなければならないのかが、わからずにそうした想いと行いを打ち消すための経験をすることになるの。

それなのに、こうした霊性や輪廻転生の仕組みがまったくわからないで、肉体人間観にまつわる欲得ばかりに耽っている話。

そして。

倫理観があるにしても、神性に根差さない、その場その場限りのちょっとした勧善懲悪の判断しかない話。

しかも、上記の男性一般に関する 2 つの残念な言葉は、神様のみ心に照らせば、明らかに不適切としかいいようのないもの。

この世がなぜに、このように不平等で不均衡に満ちて、(中途過程とはいえ)神様の世界から遠いものになってしまっているのか、その理由にもまったく思いを至さずに、あのような不適切な言葉を使う。

・・・・・。

要は、こうなんだよ。

下品な言い方で申し訳ないが、
「でかいチンコに生まれついた才覚のある有名人だからって、調子にのらないで下さいよ」
ってことさ。

あなたは、デカチンで才覚のある人間に生まれついたからといって、それを笠に着て、いい気になって世の中の一般男性をかなり見下しているんじゃないか。

そんな邪推をしてしまうんだよ。

お仕事も何かと女性に縁のある内容だからね。

しかし、そんな霊性の程度じゃあ、世の中の男性一般に対してあんなひどいことを言うのも、むべなるかな、と思わされるよ。

逆に考えてもみなよ。

モテるようなチャラい要素もない、

気難しくてわがままな女のご機嫌をうまくとるような器用さもない、

イケメンでもない、

あなたのようなデカチンでもない、

こうした人があなたがのたまった
あれらの文章、

「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」

「すべての男性はキモチワルいものである」

を見たら、一体どんな気持ちを抱くことになるのか、を。

百歩譲って、仮にそれが事実だったとしよう。

それにしても、よくもこんなひどいことが言えるよな。

本当にひどいよ。

ひどすぎるよ。

日本は、こうした地道で真面目な男性によって多くを支えられているのではありませんか?

そう考えると、本当にひどいとしか言いようがない。

対談している相手の男性も、こんなことを聞いて本当に何とも思わないのか?

何も感じないのか?

あんなに、一般的な男性をめちゃくちゃにこき下ろす。

これをみなまできかされても、何も感じないのですか?

おかしいんじゃありませんか?

・・・。

やっぱり、あなたは
有名人であること、
おそらく女性に不自由しなかったこと、
デカチンであること、
を含めて、
明らかに思い上がっている
としか思えないんだよ。

もっと言わせてもらえば、あれでもまだ考察が甘い。

長く生まれつこうが、
太く生まれつこうが、
これを活かしてすぐモテるなんて、
人生は単純にはできちゃいないんだ。

それさえも活かすことができない場合があるんだよ。

世の中の人のあり方は、過去世の因縁がそれぞれに異なるように千差万別で、簡単な類型化なんてできないからさ。

事実は小説より奇なり。

世の中にはそういうことがあるんだ。

一部の男性(性的にそこそこ優秀な(?)、イケメンや金持ちや権力者のことを言っているんだろう)だけが、社会の共有財産になるだって?

何、ふざけたこと言ってるのさ。

私達がこの世にあらわされていること、神様に生かされていることのありがたみがまったくわかっていない(本当はわかっている。誰しもがその意識の深層に神意識があるのだから。調子に乗っているだけだ)と言われても仕方ないよ。

私達は自ら生きようとして生きている訳ではない、
つまり、
五臓六腑をはじめとした身体の器官が自然に働いて、
この肉体を生かしてくれている何かがある、
すなわち、
肉体を肉体たらしめている、
私達を人間として生かしている
何らかの命がある
従って、
私達は他動的に生かされている存在であること。

そして、生まれてこようとして生まれてこれる訳ではないこと。

以上 2 点を踏まえて考えると、私達がこの世にあらわされてきたということは、神様の視点からすると、何らかの意義があるという結論になるんですよ。

どんなに、この世が不平等、不均衡、不幸災難にまみれていようとも。

どんな人でも、
どんなに愚かしく
どうしようもない人間に見えたとしても
それなりの過去世の因縁があって
意義があって生まれてきて、
意義があって生かされている、
となるんですよ。

私達は、神様によりつくられたものであり、生かされてもいるんですよ。

従って、私達の肉体人間としての生殺与奪の実権は、神様(おそらく、守護神さん)にあるとしか考えられない。

だから、この世に生まれてきて、生かされているのは、神様の視点から見て、それなりの意味があるとしか考えられないんです。

このように考えてくると、どんなに信じることができなくても、あらゆる個人個人は、神様が何らかの意図を持ってこの世にあらわした(=誕生させた)存在だ、ということになるんですよ。

この世の中のあらゆる個人個人は、そうなるんです。

また、子供として生まれてくる魂が両親を選んで云々という話などもありますが、仮に、霊魂魄自身の意志でこの世に生まれてくるものだとしても、この霊魂魄自身それ自体が、そもそも神様のわけられたお命という、神様の中に含まれている。

それに、こうしたこの世で生きようとする意志は、唯物論的な肉体の五感にまつわる欲望を最大化するものではなく、過去世の中での生き方の(神様のみ心に照らして)足りなかったことや不十分だったこと、そして、真善美に悖る想いと行いの業想念のあがない(=償い)のためのものとなるので、やはり、広い意味では神様のご意志に含まれることになる。

だから、肉体人間は、すべて神様がこの世にあらわしている、誕生させている存在だと言えることになります。

そうした人としての存在を軽視して、身勝手な考え方から、社会から切り捨てられて当たり前のような話をすることは、神様のみ心に反することはなはだしい、と言わざるを得ないんですよ。

とにかく。

あなたの、あの一般男性をおとしめる、きわめてひどい発言が、あなたの過去世の因縁のあらわれではない限り、来世以降のいつの世かに、あなたはそっくりそのまま主客転倒して逆の立場の男性として生まれて、相当に悔しい思いをさせられる人生を歩むはめになるはずだ。

しかも、過去世の記憶は消されて生まれてくるから、何でそんな悔しい思いをさせられるのかは、まったくわからない状態でね。

まあ、とにかく。

このような話を読むと、すべての人がこうではないにしろ、世の中の霊性の水準は、まだまだだなあ、と思わざるを得ませんね。

とにかく、一人で勝手に祈るしかないな。

~~~~~

(*)例外は、古の浄土門妙好人である、源左さん、才市さん、宇右衛門さんといった、心の底から神様(み仏)を信じることができる、きわめて信仰心が篤い人達。

彼らは、この世で起きてくる自らに都合の良いことも、都合の悪いことも、すべてみ仏のおはからいとして感謝することのできる、きわめて稀な人達だから。

念のために言うけど、彼らは決して被虐的な(マゾ的な)人達ではないよ。

この世のすべてのことは、阿弥陀如来様のおはからい、思し召し、お救いであると、素直に信じている、特別に信仰心が深い人達だから、自分達に起きてくることも、身の回りの環境も何もかも、すべて阿弥陀如来様のお陰です、ただ、ただ、ひたすら、ありがたい、ありがたい、ありがとうございます、と深く感謝のできる宗教の達人(彼らはこのことを鼻にかけたりすることは微塵もない、無心な人達)なだけだ。

~~~~~

(追記)
わかる人には、わかると思うが、私は裏読みを含めて、下記の件の 2 文を読んでいる。

「ほとんどの男性は非モテ。性的に優秀な一部の男性だけが社会の共有財産になるかも」

「すべての男性はキモチワルいものである」

実質的な意味は違う、と理屈はいろいろと展開していても、その本音は字面という表層から読みとれる内容にある、こっちこそが本音だ、と解釈したのだ。

だから、苦言を呈した。

私達のほとんどは、人間=肉体人間という肉体人間観に縛られている。

人間=肉体人間だと思って生きているのだ。

この肉体人間観を解脱して、本当の人間はその内なる霊魂魄である、霊なる人間とわかっているのは、お釈迦さんのように悟りを開くことができた人しかいない。

従って、それ以外の圧倒的大多数、つまり、唯物論のものの考え方に支配されてしまう私達のほとんどは、肉体にまつわる五感にかかわる欲望に執着するナルシストなのである。

自意識過剰なんか当たり前だ。

男女の性別を問わない。

ただ、女性の方が、外観に対する執着が強く、おそらくかなり業が深いだけだ。

外観、すなわち、その人の今生の外見は、その人(=霊魂魄)その人なりの、過去世からのそれなりの生き方が反映された結果としてあらわれている。

それが真からわからないから、モテといった上っ面の事象や、外見というこれまた上っ面の表層に振り回され、右往左往することになる。

だから、いくらこうした霊的なことが難しくて理解できなくても、外観はひとまず置いておいて、霊なる人間、人としての最も大切な、人間としての想いと行いを整えることをしなければ、根本的な問題の解決にはならない。

どんなに唯物論の理屈で武装しても、私達の本質が神性であることからは、離れることはできないからだ。

では、より良い精神状態を保つためには、自分自身をどう修めればいいのか。

これは、これを読まれた方への宿題としたい。