004_孤独

孤独か。

人間は誰でも一人だけどな。

この世に生まれ出でる時も、この世を去る時も、原則としては一人だ。

ちなみに、字引を引くと。

・孤独~こどく~(孤児と独り者の意から)身寄りや心の通う人もなく、一人ぼっちであること。また、そのさま。
(用例)天涯孤独。孤独な人。

だそうだ。

孤児は大変だけど、独り者はどうかな?

これといった病争貧苦がなければ、かえって、一人の方が気楽だし、せいせいするんじゃないか?

なぜならば、人とかかわると、どうしても気を遣うからだ。

これは家族か否かを問わず、老若男女、あらゆる人間に対して同じだ。

まったく他人に気を遣わなくて済ませることのできる人は、気楽だし、幸せ(?)だよな。

親でも他人でも何でも(?)そうだが、自分とまったく同じ考えの者はこの世の中には存在しない。

何から何まで、逐一同じ考えをする人間はいない。

そんな中で、親などの特別な縁を持ってこの世で生まれ合わせた存在でさえ、明らかに個性は異なっている。

親を含めた他人を損ねるのは論外だとしても、基本的には人間は皆、自分の自由意思を通したいのだ。

なぜならば、肉体をまとわない元々の神体としては、あらゆる(真善美に悖らない)想いと行いは自由自在であったからだ。

肉体を得て、各個人として分かれ分かれとなり、生まれ変わり、死に変わりというたくさんの輪廻転生を繰り返す中で、各自が別々の分かれた個体としての存在だと思い込む癖がついてしまったために、真善美に悖らない、肉体としての他者を損ねない自由自在の意志をあらわすことができないようになってきてしまい、本質の神体としての自由自在の意志が名残のように残された形となってしまっているからだ。

そうした中で、親をも含めた他人に気を遣い、適度なすり合わせをはかりながら、慮っていくのは、やはり、疲れるのだ。

かなりの程度に霊性が開発されて、人のためにも尽くす、あるいは、良くすることが、違和感なく、ごく自然にできるようになるまでには、どうしても作為的な面が免れない。

それなりの固有の意志の発動が、どうしても必要になってしまう。

相手に配慮した、行き届いた心遣いが、それなりに必要になってくるからだ。

それゆえに、無心になれるまで、あるいは、霊性が開発し尽くされるまでは、楽にはならないんだ。

ただし、辛い時やかなり凹んだ時だけは別だな。

辛いことやかなり苦しいことを、一人で受け止めきれない時には、励ましてもらうまでにはいかないまでも、誰かに話を聞いてもらい、理解を示してもらうだけでも、かなりの救いになる。

それでも、最終的には、他人に救いを求めずに、自分で落とし前をつけなければならないけどな。

家族のように、過去世からの縁が深かろうとも、肉体身としてわかれている者に、すべてをおんぶに抱っこというわけにはいかないからさ。

この世は苦か。

本当だな。

幸せなこと、楽なことは、規定値としてもはや当たり前のようにあり、慣れきってしまうと、あまりありがたさを感じなくなるし、わからなくなる。

苦しみというスパイスがあることで、当たり前であることが、当たり前だとばかり思っていたことが、そうではない、有り難いこと、ありがたい、と気づくようにできているんだな。

恋愛の脈アリ?

恋人(男体や女体)ゲット?

そんなものは、薄っぺらだ。

こんなの(本当に失礼だよな。だけど、ブログだから許してほしい)は、自分の渇愛、我欲を満たすためのクレクレチャンだ。

心から他人の身になり、艱難辛苦をともにわかち合い、この世で生まれ合わせた幸せを噛みしめ、支え合うのとは違う。

信頼感に雲泥万里の差があるのだ。

自己本位なクレクレでできた絆は、残念ながら脆い。

飽きたらオシマイ。

ハイ、さようなら。

そんな相手では、苦しみをともにし得ない。

だから、自他一体感を抱ける、本当に信頼できる相手と巡り会えることは幸せだよ。

それがわかるように、成長してほしいよな。