164_原理2

前々回 ( 162_原理 - おぶなより2 ) 、霊性や輪廻転生についての私的な大まかな理解の概要を書いたつもりだが、あれでもまだ、かなり長いというか、わかりにくいかもしれないので、もっと短くしたものを、書いておこうと思う。

あくまでも、憶測と仮説の域は出ないが、その点は、ご容赦頂きたい。

要するに。

出発点としての原型としてあるのが、
神体をそのままこの世に映し出した、
あるべき予定されるはずの人間像(=神体の肉体身への映した形)。

よって、
完全円満(従って超健康)で、
それぞれに個性を持ちながらも
見目麗しく、愛に満ちた存在。
 
これに、
影響と変化を与えるのが、
輪廻転生を通した、
肉体人間のこの世における想いと行い。

良いものは、良い影響を与える。

結果として、おそらくそのまま変わらないことになる。

すなわち、肉体人間は、完全円満(従って超健康)で、それぞれに個性を持ちながらも見目麗しく、愛に満ちた存在、そのままとなる。

悪いもの、すなわち、真善美に悖(もと)るもの、愛にそむくものは、引き算(マイナス)として作用する。

こうして
良いものと良い影響、
悪いものと悪い影響、
が(原則として)輪廻転生という
生まれ変わりを通して、
あるべき人間像に変更を加え(良いものは結果として不変)、
この世に肉体人間として
この世にあらわれてくることになる。

この悪いものに、
主にかかわるのが、
この世で、
肉体人間として生きていく都合上、
与えられた自己保存の本能のために陥る
利己主義にもとづく、
想いと行い。

つまり、業想念。

それは、
外見となる容姿の水準を下げるものとなったり、
健康を損なうものとなったり(病気)、
争いをもたらすものとなったり(争い)、
貧しさをもたらすものとなったり(貧乏)、
苦労をもたらすものとなったり(苦労)、
する。

つまり、
この世において、
肉体人間の抱く
想い(と行い)のうちの
悪いもの、
真善美に悖り、
愛にそむくものは、
こうして
元の完全円満(従って超健康)で、
見目麗しく、
愛に満ちた
神体を肉体人間に映した理想像を
引き算(マイナス)する形で作用する、
と考えられるのだ。

こうして、
元の完全円満な形としてのあるべき肉体人間から引き算(マイナス)されたものは、
神体をこの世の肉体に映した
あるべき形からは離れたものとなる。

輪廻転生を通した、
その時々の今生の悪い(=真善美に悖り愛にそむく)想いによって生じてしまった理想像との差異を、
その今生から見て、(原則として)来世以降に償い、清算する。

この離れた部分を
あたかも
失地回復のように
取り返すための償いとして、
今生において為したものは、
(原則として)来世以降に
清算するようになっている

つまり、
業想念は、
(原則として)輪廻転生を通して
清算するようになっている
と考えられるのだ。

すなわち、
肉体人間となって、
この世で抱く想い(とそれを形にあらわす行い)が、
すべてを左右していくことになるのである。

要するに、
この世で私達の為(な)すところの、
一挙手一投足が、
すべて意味をもってくることになる
のだ。

結果として
そのうちの悪いものを、
病・争・貧・苦といった様々な形で
肉体をもって償うことで、
魂(霊魂魄)にしみこむような学習をしていく。

ただし、
肉体人間として、この世で生じさせてしまった業想念のすべてを償うのは、
当人にとって負担が大きすぎることになるので、
守護の神霊さんがその裁量の範囲内で、
こうした業想念がこの世で具現化する前に、
浄めて消す形で、
人間を守って下さっている。

そうして、
肉体をまとい、
自己保存の本能を与えられていても、
利己主義に振り回されないような
立派な霊魂魄となるように、
この世で修行していく。

霊魂魄は、
元々は、神様の分けられたお命だから、
真善美に悖らず、完全円満で、
何ら不足することのない、
問題のない、もののはず。

しかも、おそらく、霊光といった、波動や粒としては、限りなく細かいものと考えられる。

だから、自由自在に何でもできると思われる。

瞬時に他所に移動することができるように、自由自在。

しかし、これがこの世の物質としてあらわれてくると、そうはいかない。

例えば、北極から南極への一瞬の移動が、飛行機を使ってもかなりの時間を要するというように。

想いにしてもそう。

アイツ、ぶん殴ってやる、という想いは一瞬。

しかし、これがこの世における肉体世界のこととして現実化するまでには、今生でも、来世以降ならなおさら、大変な時間がかかる。

つまり、波動や粒としては、ものすごく粗い、足かせの多い世界だと考えられるんですね、この世は。

だから、この世において、神様の世界そのままを映し出すこと、
肉体人間ならば、神体のような霊光をそのままにこの世の形として映し出すことは、
容易ではない、
困難をきわめる(不可能?)と思われるんです。

つまり、波動や粒としての環境的にも、自己保存の本能を与えられたという条件的にも、神様の世界のものを、この世にそのまま映し出す、あらわすというのは大変なことになる、というか、不可能と考えられる訳です。

だから、少なくとも、肉体人間として、神様の想いと行いそのままに、神様のみ心のままに、動くことができるようになるだけでも、大変なことになる訳です。

こうなることができた人が、おそらく、厳しい修行をして、肉体人間としての想いをなくして、悟りを開いて、涅槃に至ることができた人。

そして、すべての人がこのようになることができれば、(波動や粒のレベルが違うから)完璧にはいかないかもしれないけれど、周辺の環境も同時並行的に開発されることになって、自ずと整うようになる。

こうした大きな青写真があるんじゃないですかねえ。

以上、個人的な勝手な憶測と仮説でした。

短くといいながら、結局はかなり長くなってしまいました。

すみません。

大変失礼致しました。

なお、こうした肉体人間のこの世で生じさせる想いと行いのとらえ方に、巨視的(マクロ的)な視点と個々の人間同士という微視的(ミクロ的)な視点がある。

これについては、すでに触れている( ( 013_気高い3 - おぶなより2 )  ( 旧 ( 014_気高い4 ) )、( 112_二面性 - おぶなより2 )ので、省略する。

(追記)
なお、上記では、前々回と同様に、話を単純化するために、たくさんの過去世の継承や蓄積(積み重ね)などは省いている。

過去世の因縁を果たすといっても、世代を何代も飛ばしたり、国籍や時代状況が変わることもあるようなので、これも含めて書くと、話がさらにゴチャゴチャとなってしまうからだ。

同様に、魂(霊魂魄)の分割と結合についても細かい話は省いている。

この点は、ご承知置き頂きたい。

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 ( 109_愛とは2 - おぶなより2 ) に原理のさらに元となる概要を書いておいたので、ここにも引用しておきます。

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つまり、こういうことなんです。

神様が私達、肉体人間に施して下さるのは、愛しかない。

すべてのありとあらゆる元をつくり、お与え下さっているのは、神様である。

神様としか考えられない。

その愛は、具体的には、以下のような形にあらわれている。

肉体を生かす、命そのものの神霊も、神様から分け与えられた神様のお命そのものであり、

肉体をはじめとする、魂魄要素を構成するあらゆるものも、神様がお与えになったものであり、

そうした私達、肉体人間を生かしていくための、(守護の神霊さんをも含めた)ありとあらゆる環境は神様がお与えになったものである。

すなわち、あらゆるものは、神様が愛をもって施しているものである。

私達ができることは、こうした神様から与えられているあらゆる要素を生かして(=神様のお命を分け与えられているから一般的な動物や植物とは異なり、知恵と創造力がある)、創意工夫を施し、生きていくこと。

そして、なぜ、こうして生かされているかに、つまり、神様のみ心に思いを馳せて、生きていくことになるんです。

だから、まずは、あらゆることに感謝一念を基底に据えて、生きていくこと。

これが私達の生き方の基本になるはずです。

これを成し遂げることができていた、立派な信仰者の先達が、妙好人、中でも、源左さん、才市さん、宇右衛門さんだと言える訳です。

この世の物質世界、肉体世界を生きていく都合上、自己保存の本能が神霊に追加されて付与されたために、これを克服しながら神様のみ心に沿って生きていくのは、大変な修行にはなるけれど、輪廻転生を通して、魂(霊魂魄)を立派に磨き上げて、そうした神様のみ心に沿えるような、神霊そのものをあらわした肉体人間に近づけるように努力して生きていく。

おそらく、これが神様が私達、肉体人間に望まれていることだと、考えられるのです。

そうした、神様がお望みになると考えられる、人間像が完成に近づけるようになってくれば、同時並行という形で地球環境も開発され、素晴らしいものとして、整えられていく(おそらく、それを支えるために守護の神霊さんが尽力されることになる)。

つまり、神様の世界をこの物質の地球世界に映し出す、地上天国化の成就に向けて近づいていく、と考えられるのです。

輪廻転生、すなわち、過去世も、今生も、来世以降も、すべてはこうした観点からとらえていくべきだ、ということになるんです。

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